2020 年 4 月 19 日

・説教 創世記22章20節-23章20節「見えるものと見えないものの狭間で」

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2020.04.19

鴨下 直樹

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 今日のところは、言ってみればアブラハムの生涯の結びの部分です。アブラハムはまだ生きていますが、次のところからはイサクの物語へと視点が移っていきます。これまで、神はアブラハムの生涯に常に介入され続けてこられましたが、ここでは主は出てきません。まるで、アブラハム一人が勝手に行動しているかのような印象さえ受けます。

 ここに書かれているのは、22章の終わりの部分は、イサクの妻となるリベカの家族のことと、アブラハムが妻サラのためにお墓を購入したという出来事が記されています。ここでは特に神が介入されてはいないわけですから、こういう箇所から福音を聞き取るというのは、いったいどうしたら良いのだろうかと、普段聖書を読んでいる方は思うかもしれません。

 先週の金曜日から、私が教えております東海聖書神学塾の講義が始まりました。と言いましても、この新型コロナウィルスのための緊急事態宣言が今度は全国に出されることになり、そのために、神学塾の講義は当面の間オンライン講義になりました。実は一週間前に急遽そのように決めたのですが、講師の先生方には高齢の方もおられますし、塾生もみなすぐにオンライン講義に対応できるとは限りません。それで、先週の金曜日に一度だけ名古屋の塾に集まっていただき、一人ずつ丁寧にやり方を説明しまして、さっそくオンライン講義を行うことになりました。

 私が教えているのは、今年は「聖書解釈学」という講義です。先週の金曜日の講義には8名が受講したのですが、半分の塾生は教室に来て、窓を全部開け、ひとりずつ離れたところに座り、マスクを着けての受講です。ところが、残りの半分の4人はすでにオンラインでやりたいということで、私はパソコンを前に置き、半分はパソコンに向かって話し、半分は目の前の受講生に向かってお話しするというちょっとこれまでに経験のない講義をいたしました。目の前の人がした発言は、少し遠いためにパソコンのマイクで音を拾えません。それで、私がもう一度通訳のように言い換えまして、パソコンの前に座っている人に聞こえるように話しなおして、そして、その質問に答えるというちょっと面倒な講義をいたしました。

 今回は、そういう状態でまだ自宅にいる人には私が用意した講義のテキストも届いていませんから、とりあえずある個所の聖書を一緒に読み、ここをどう読むかという話をいたしました。その箇所は、マルコの福音書の主イエスがご自分の郷里に行かれたけれども、みな不信仰で何もできなかったという箇所です。そこも、今日の聖書箇所と同様に、特に明らかに福音的な言葉が語られているわけではありません。そういう箇所からどう福音を聞き取るのかという話をいたしました。その講義の時にも、お話ししたのですが、私たちは聖書を読むときに、どうしても自分の心に訴えてきそうな聖書の言葉を探して、何か自分にいい教訓のようなものはないだろうかと考えて読んでしまうことが多いように思うのです。

 けれども、そうやって読んでいきますと聖書の大切なメッセージを聴き取り損ねることになりかねません。そういう時に気を付けなければならないのは、聖書がこの出来事から何を伝えたいのかということをしっかりと聞き取ることです。そのためには、その前後の文脈を理解しなければなりませんし、ここで言えばアブラハムの人生の結びの記事として、今日のこの箇所はどういう意味をもっているのかということを、ちゃんと聞き取ることが重要になってくるわけです。

 といっても、これは神学校の講義ではありませんので、できるだけ難しい話はしないで、聖書に耳を傾けていきたいと思います。

 たとえば、今日の22章の20節から24節のところですが、これは、前回のイサクを犠牲としてささげるという出来事の後に、この話が書かれているということが大事で、神はアブラハムの信仰をご覧になってイサクを守られたという出来事と、まったく別のところではイサクの妻となるリベカのことを神はちゃんと備えられているということが記されています。何でもない出来事のようなことですけれども、神の配慮と、神の計画というはこのように進められていくのだということが、ここから語られているわけです。

 そして、この23章のサラのお墓のこともそうです。「サラが生きた年数は127年であった」と1節に記されています。そのうち、アブラハムと共に生きたのは、アブラハムがハランを出たのが75歳で、その時にはもうサラは妻となっていますから、結婚生活が何年だったのかということは、聖書の中に書かれていませんから分かりませんが、アブラハムとサラとは10歳年が離れていますので、サラは65歳から127歳まで、ほとんど人生の半分の年月が、アブラハムと共にカナンの地のあたりでの遊牧生活であったことが分かるわけです。今でいえば、定年退職を迎えてから、その後、一緒に旅をして暮らしてきたと考えてもいいかもしれません。それは、もう一つの人生であったと言うことができるのかもしれません。

 その間には、いろんな苦労がありました。たくさんの悲しみを経験してきた夫婦です。アブラハムからしてみれば、本当に自分の苦しみを共に分かち合ってきたわけです。そういう妻サラが死を迎える。この妻との別れというのは、どれほど悲しい出来事であったか分かりません。しかも、その愛する妻を葬る土地さえもアブラハムはまだ手にしてはいないのです。そのことが、アブラハムにとって更なる悲しみになったことは想像にかたくありません。

 アブラハムは遊牧生活です。聖書の言葉でいえば、寄留者です。前回のところで、ベエル・シェバの井戸の使用権は手に入れますが、土地自体を自分のものとして勝手に使うことはできませんでした。

 そのために、この土地をサラの墓地とするために購入しようとしたのです。その時のやり取りがここに書かれていますが、その方法は特に重要ではありません。土地を購入したかったアブラハムに対して、使用許可とか、差し上げるとかという申し出がなされるのですが、それではいつか時が来たら、奪い取られてしまう可能性があるので、アブラハムはあくまでも購入したいのだという意思を貫きます。そうしたら銀400シェケルという金額を提示されて、その金額で購入したことが書かれています。この金額についは、具体的な価値はわかりませんが、そうとうに法外な値段であるということは間違いないようです。けれども、そのようなお金をだしてでも、アブラハムはここでお墓を手に入れることに成功し、そこを妻サラのお墓とします。

 この土地にお墓を建てたいという思いを持つのは、その土地が大好きだからです。それは私たちにもよく分かると思います。人によっては、自分の家族にもその土地に住んでほしいというメッセージがある場合もあるかもしれません。

 今日、お読みしましたもう一か所の聖書箇所はヘブル人への手紙11章13節から16節です。

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのための都を用意されたのです。

 私のことをお話しして恐縮ですが、私たちがドイツにおりました3年半、私は何度かホームシックにかかりました。今でも忘れることができないのですが、まだドイツに行ったばかりのころです。毎日語学学校に行って、帰って来ては宿題をするという日々でした。その宿題をするのに膨大な時間がかかりました。なにせ、ほとんどすべての単語が分からないので、すべての単語の意味を辞書を引いて、宿題をするのに、昼までの講義で、家に昼過ぎに帰って来てから夜までたっぷり時間がかかります。夜になると、こんなことで大丈夫だろうかと心配になって眠れなくなったこともあります。そんな時に、たぶん夜中の1時とか2時とかそんな時間に、なんとなくテレビをつけると、日本のアニメが放送されていました。もちろん、ドイツ語ですからほとんど何を言っているのか分かりません。そのアニメは「おじゃまんが山田君」という映画だったのですが、日本にいた時は見たこともなかった映画ですけれども、そのテレビの画面に映っている日本の景色や日本の生活ぶりを見るわけです。ところが言葉は全部ドイツ語で、その何ともいえないもどかしさに、私は急に日本に帰りたいという気持ちがあふれてしまって、余計に眠れなくなってしまったことがあります。

 長い間別の土地に生活すると、故郷に帰りたいという気持ちを抱くのは、ごく当たり前のことだと思うのです。ところが、このヘブル人への手紙は、「出て来た故郷なら、帰る機会はあったでしょう。」と言います。実際にアブラハムにしても、もちろんかなりの距離はあるわけですが、帰ろうとはしませんでした。そして、その理由を「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。」とここに書かれています。

 アブラハムが見ていたのは、過去の生活ではなく、もっと先にあるもの、つまり、天の故郷なのだとヘブル人の手紙は言っているのです。そして、「この地上では寄留者なのだと告白していた」と言うのです。

 私たちは見ているもの、目の前にある、見えているものにどうしても縛られてしまいます。見えていないと不安になるわけです。今回の新型コロナのことでもそういうところがあるのかもしれません。先日も、妻がこんな話をしていました。今、このウィルスに感染してしまった人が悪者のようにとらえられていて、その感染者をだした病院だとか、施設が報道され、またSNSでもすぐに、あそこには近づかない方やいいというニュースが流れてきます。本当は病気が怖いのに、それは見えないので可視化しよう、「見える化」しようとしていると言うのです。そうやって、見えているものを攻撃することで不安を紛らわそうとしているのはとても怖いという話をしていました。

 どこどこのお店では出たから、近づかない。あの病院で働いている人は危ないので、その子どもは幼稚園では預からない。そうやって、誰か標的を作って、それで、自分を守って安心しようとする心が私たちにはあるわけです。見えないものに対する恐怖に対して、自分たちを守るために私たちはそういう方法を取らざるを得ないわけです。

 けれども、アブラハムは見えているものに重点をおくのではなくて、見えていないもの、見えない神の約束に心を向けることを知っていたと、ここで言っているのです。

 もちろん、妻のお墓を持ちたいというのは、自分たちが生きて来たことを可視化しようとすることです。そして、そのことについて、この創世記には何の評価もくだされてはいません。実は、この見えていることと、見えていないこと、この二つのことがこの箇所のテーマとなっているのです。

 森有正という、キリスト者の哲学者がおりました。この人はアブラハムの生涯の中にとても多くの学ぶべきことを見出した人です。それで、『アブラハムの生涯』という本を出しています。

 その中で、森有正は、アブラハムは外国に住むようになっていたので、その人が何を求めているのかよく分かるようになったのではないかと言っています。たとえば、ここで、ヒッタイト人のエフロンが土地のための代金はいらないと言っているのに、アブラハムが「払います」と言ったのは人間の本当の姿が見えるようになっていたからではないかと言います。エフロンがお金を欲していることを見抜いていたのではないかというわけです。そして森有正は、そのようにしてアブラハムが土地を得ることができたのには大きな意味があると考えています。それは、この本の結びとして書かれているのですが、それは、神の約束に生きるという部分と、自分の人生を生きるという部分があるのではないかと言うのです。この土地を購入したのは、アブラハムにとって、自分がこの土地に生きたしるしを残したのだと言います。ここで、土地を手に入れるということは、神からの約束でもなんでもないので、ここで神は何もおっしゃってはいない。そして、アブラハムはそのために祈ることもしていないと書いています。そして、森有正はそのことを「霊と肉」という言葉で表現しました。信仰の生活と、自分の生活、そのどちらにも責任を負っているのだと言うのです。

 もちろん、これは森有正の一つのものの見方ということはできると思います。けれども、この箇所を見ると、まさにそのことがここで言われているのだということが分かるのです。そして、そのアブラハムの人間的な部分といったらいいでしょうか、自分の目の前にある生活、この土地に生きた証しとしてお墓を持ちたいという部分を、神は見守っておられるわけです。そのことを否定してはおられないわけです。

 私たちは、何でもかんでも信仰的に、神様の御心のままにということだけでは生きていかれない部分があります。もちろん、神様の思いに反するような生き方をしてもいいということではないのです。けれども、私たちがこの世界でどう生きたのかということも、とても大事なことなのです。

 アブラハムが一緒に生きた妻のために墓を作ってやりたいと思ったのは、信仰的なことというよりは、ごく自然な生活の一部分です。昨年私は教会のみなさんの家庭訪問をさせていただいて、できるだけご家族そろって、あるいは夫婦そろって、葬儀についてどう考えておられますか、と聞く機会を持つことができました。その時に、クリスチャンではないご主人方のほとんどが、一緒のお墓に入りたいので教会のお墓にはいることを考えたいと言われました。それは、私にとってとても嬉しい驚きでした。

 それは、考えてみれば当然のことなのかもしれません。それぞれの家庭にはそれぞれの歴史があります。そして、一緒に歩んできたということを子どもたちに、形として残したいと願われるのはとても素晴らしいことだと思うのです。いろいろなことを一緒に経験してきた、その証として一緒にお墓に入る。それはとても素敵なことだと思うのです。

 アブラハム、確かにこれまでの人生の中で何度もサラを悲しませ、最後の最後までハラハラさせることの連続でした。そういう妻が亡くなったことをとても悲しみました。
2節にこう記されています。

サラはカナンの地キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために悲しみ、泣いた。

 ここに、妻の死を前にしたアブラハムの大きな悲しみがあります。ああ、アブラハムは妻のために泣いたのだと、ごく短く書かれています。そして、ここにアブラハムとサラの生涯の共にある歩みが凝縮されていると思うのです。それは、信仰の歩み、見えないものを求める歩みということとはまた違うことです。目の前の自分たちの生活のことです。

 私たちの毎日の生活のほとんどは信仰の決断ではなくて、ごく日常の小さな決断の毎日です。そのことに、神様はほとんど介入なさいません。私たちに託されている部分です。確かに、この世界では寄留者として、旅人として生きています。でも、その旅は決して意味のない旅ではないし、豊かな彩(いろどり)を持ってはならないという旅ではありません。そこに私たちの豊かさがあるのです。その毎日の生活を、どう生きるのか。そのことは、私たちに託されているそれぞれの責任です。

 アブラハムはそういう生き方をしてきたので、ヒッタイトの人たちがアブラハムにこう言いました。

「あなたは、私たちの間にあって、神のつかさです。」

と。6節です。

 アブラハムはまるで、神が私たちに遣わされたリーダーのようですと、周りの人々が言ったのです。私たちの日常の歩みが、そのように周りに影響を与え、夫婦や家族に影響を与え、そうやって、私たちの毎日の生活はつくられているのです。そのように、私たちは、自分に与えられている日常の歩みを、誠実に歩んでいくこと。そのことが、私たちの毎日を作り出していくのです。そして、そのことをここで神は見守っていてくださるのです。これこそが、私たちの人生の旅路の姿なのです。

お祈りをいたします。

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