・説教 ルカの福音書1章1-4節「私たちの間で成し遂げられた事」
2022.11.06
鴨下直樹
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今日は信長祭りがこの岐阜市で行われています。朝はそれほどひどい渋滞ではなかったようですが、岐阜駅の近くからこの礼拝に来られた方は大変な渋滞を通って、教会にたどり着いたのではないでしょうか。今回の信長祭りは三年ぶりに行われまして、そこで行われるパレードに俳優の木村拓哉さんが出るのだそうです。かなり大きなニュースになりまして1キロのパレードの観覧者席1万5千人のところに96万人もの応募があったという話です。
来年の1月にどうも織田信長の映画があるのだそうで、その宣伝も兼ねているのだとか。これまで、この織田信長をテーマにした映画や小説は沢山あります。私も歴史小説を読むのが好きなので、何冊も織田信長の小説を読みました。こういった歴史を扱う作品は、それなりに歴史的な事実関係を調べたうえで、そこに小説家の独自の解釈をしながら、信長像を作り出していきます。この解釈に基づいて作家たちはさまざまなエピソードを創作しながら物語の違いを生み出してきます。そういった意味では、今度の織田信長の映画もどんな物語になるのか、とても楽しみです。
さて、何で信長祭りの話を冒頭にしたかといいますと、まさに今日からしばらくの間、共に聞いていきたいと思っているこのルカの福音書の特徴も、このことと関係があるからです。ここに記されているのは、主イエスが言ったこと、行ったことの記録です。「歴史」というのは、実際に起こった事柄ですが、それは書き残された記録によって知ることができます。この歴史の記録というのは、事実を記録していくのですが、その内容にはさまざまな記録があります。信長にはどういう部下がいたとか、兵隊が何人いたとか、石高はどうだったとか、どの地域で反乱がおこったとか、誰が武功を上げたかという記録です。あるいはそこで起こった事件なんかを発見された手紙などから読み取っていきます。
歴史を読み解く人たちは、そのようなさまざまな記録を読み取っていくうちに、そこからおぼろげに見えて来る「信長像」というものを見出していきます。小説家たちは、その自分が掴んだ信長像に、さまざまな物語を付け加えることで、強調点を明確にし、そうであったという説得力を生みだしていくのです。歴史小説の面白さは、そのそれぞれの作家の豊かな想像力によって脚色された信長を楽しむことができるところにあります。
そういう意味では、この聖書も神が働かれた事実を記録した歴史の証言です。特にこのルカの福音書は、歴史家と言われるようになったルカが記したものです。この記録を、現代の説教者たち、牧師たちが、この聖書を読んで解釈して伝える「イエス像」も、また「説教」も、小説家の記す小説に、似ている部分があるかもしれません。
歴史の記録を読んで、解釈して、他の人に伝えるという意味では行う作業は非常に似ています。ただ、小説と、説教が決定的に違うことがあります。神が記録された歴史の書でもある聖書には、神からのメッセージ、使信があって、それを聞き取って、まさに神の名によって宣言することが説教です。ですから、聖書を読むという作業は、歴史書を読み説く作業も当然するのですが、そこから更に、神の言葉を聞き取るという作業が出てきます。そして、そのために牧師たちは神学校で、その方法を学び、身に付けていくのです。そうやって、ただの歴史を解釈するだけではなく、神の言葉を聞き取る訓練をしていくのです。これは、牧師だけでなく、みなさんも同じように神の言葉を聞き取る訓練をすることで聖書の中にある神の言葉を聞き取ることができるようになります。
少し余談になりますが、祈祷会で行っている聖書の学びは、聖書をこうやって読むんですよ、神の言葉をこうやって聞くんですよということをみなさんと毎週、その訓練を積み重ねているということになります。ですから、ぜひ聖書を自分で読めるようになりたいと願われる方は、聖書の学びと祈り会に出ていただきたいと思います。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、このルカの福音書を記したルカという人物について、少し考えてみたいと思います。この福音書は、主イエスと出会ったことのないルカというマケドニア出身の医者が記したというところに特徴があります。
ルカは、パウロの第二次伝道旅行の時に加わった人物で、マケドニアの出身です。ユダヤ人ではなく異邦人です。このルカはパウロの語る福音を聞いてキリスト者になった一人です。当然、主イエスに会ったことはありませんし、自分に福音を伝えてくれたパウロもまた、主イエスと共に歩んだ弟子ではありませんでした。
しかし、このルカという人は、パウロの語る主イエスのことを聞けば聞くほど、ちゃんと調べてまとめてみたいという思いを持ったのでしょう。
出来たばかりの教会には、はじめは主イエスの弟子たちや、復活の証人と呼ばれる人たちがいました。第一コリント人への手紙の15章3節を読みますとこう記されています。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
これは、復活の証人と呼ばれる人たちのリストです。ところが、ここにもありますように、時間が経つにつれて、第一次の復活の証人、目撃者は減っていきます。主イエスは「わたしはすぐに来る」と言われたのですが、なかなか主イエスの再臨はありません。しかも、教会はどんどん大きくなり、信徒の数は増えて行くばかりですが、反対に証言者はどんどん減っていってしまいます。ですから、ルカが働いていた時代というのはいよいよ主イエスのことを知る手立てが必要になっていったのです。
そんな中で、満を持して出て来たのが「マルコの福音書」です。この福音書を書いたマルコはパウロと一緒に第一次の伝道旅行をしたバルナバのいとこでした。ですが、マルコは自分の出身地であるキプロス島での伝道にこだわったために、パウロと一緒に伝道の旅について行くことをやめてしまい、このためにパウロとバルナバは第二次伝道旅行ではバラバラに伝道することになります。マルコはその後に、主イエスの弟子であったペテロと共に伝道しますので、マルコはこのペテロからも主イエスのことを聞いて、福音書をまとめることができました。
と言っても、このマルコの福音書も、今のような印刷機のある時代ではありません。簡単に、個人が手に入れられるものではありません。けれども、ルカはどうにかして、このマルコの福音書を書き写すなどして持っていたのでしょう。このルカの福音書はマルコの福音書をベースにして書いたことが分かっています。
ルカはこのマルコの福音書を喜んで読んだと思うのですが、ルカの所には、このマルコの福音書には記されていない主イエスについての証言や、記録が沢山知らされていたようです。パウロと共に、各地を尋ねた時にさまざまな土地で主イエスの証言者の話を聞いたことでしょう。そうなれば、ルカとしても、主イエスについてマルコの福音書に記録されていない数々のエピソードも是非まとめたいと考えたのでしょう。そして、自分なりにまとめた主イエスの記録を「テオピロ」という人物に伝える必要性もあって、この福音書を記したのです。
このテオピロという人物がどういう人物であったのか、はっきりとしたことは分かりません。名前からすると、「神を愛する者」とか「神の友」という意味の名前です。この名前のうしろに「様」とあります。口語訳聖書なんかでは「閣下」となっていましたが、これは、この言葉が他のところでは「閣下」と訳されている目上の人に対して使われる言葉だからです。このテオピロという人物のことは、ここに記されていることから読み取ることしかできませんが、異邦人で、主イエスについての教えをどこかで聞いたようです。もうキリスト者になっていたのか、まだなのかそれも分かりませんが、このような立場にある人物に主イエスのことを伝えることが大切だとルカは考えて、この福音書を記しました。
結果的に、この時にルカがまとめたこの福音書が後世に読み継がれていって、今も聖書として記録されているわけですから、テオピロという人物がキリスト者になったことは、ほぼ間違いありません。当時、印刷機なんてものはありませんから、捨てられることなく、読み継がれて書き写されたので、今こうして世界中の人が読むことができるようになっているのです。
ルカはこの福音書を記すにあたって「私たちの間で成し遂げられた事柄について」と冒頭で記しています。これは、主語がありませんから、誰が私たちの間で成し遂げられたのか、これだけでは分かりません。ただ、福音書の冒頭に書かれているわけですから、これは当然主イエス・キリストのことだということが分かります。
主イエス・キリストが私たちの間で、成し遂げてくださったことがある。この福音書を読むと、それが分かるのだということです。教会に集まって来る人々が信じている「イエス」という人物とは、いったい何をした人物なのか、そのことをここに記しているのです。
主イエスが成し遂げてくださったこと。そのことが、この次の文章ではこう記されています。
初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
とあります。
これは、すでに記されていたマルコの福音書のことなどを指しているわけですが、大事なのはここに「みことばに仕える者となった人たち」とあります。この「みことば」というのは、その前に書いた、人物である主イエスのことを指しています。主イエスに仕える者は、みことばに仕える者となったと言っているのです。つまり、主イエスという、この福音書で描きだそうとする人物は、みことばによって、何かを成し遂げられたというのです。
歴史というのは、言葉によって記録されます。その場合の言葉は、事実を示すものです。しかし、ここで「みことば」と言われている言葉は、私たちの中で何かを成し遂げるものなのです。
では、その「何か」とは何のことを指しているのか。それは、この福音書を読んでいけば分かりますということになるわけです。
神の言葉は、何事かを成し遂げる言葉なのです。そして、これこそが、教会で語られる言葉と、小説の言葉の大きな違いです。この聖書に記されている言葉は、「神の言葉」として私たちに語られるのです。そこには、牧師の伝えたい意図があるのではありません。神の意図があるのです。神が聞き取って欲しいと願っている言葉、これに仕える者となった人たちが昔も今も、たくさんいるのです。そして、この「みことば」という言葉は、ギリシャ語では定冠詞をつけて「ロゴス」と書かれているのですが、この「みことば」である神の言葉を聞くときに、聖書の時代も、また現代であっても、神が私たちの中で、「何か」を成し遂げてくださるのです。
この「何か」は、いろいろな言い方で表現することができますが、私は「神との出会い」と言いたいと思います。昔は、少し格好良く「神との邂逅」と言いました。ですが、「邂逅」なんて言葉は、今はほとんど誰も使わなくなってしまいました。英語でいうと「エンカウンター」と言います。日本語の辞典だと「思いがけず出会う」とか、「巡り合う」という説明がなされています。
私たちは聖書を読み、神の言葉を教会で聞くときに、衝撃的な神との出会いを経験するようになるのです。そして、この神との出会いを経験すると、人はまさに神が成し遂げようとしておられる出来事を、自分の事として体験するようになるのです。
私たちは、この聖書を通して語り掛けられる神の言葉を聞くときに、私たちは神と出会うことができるのです。この福音書を記したルカ自身、この神との出会いを経験してきました。今まで知らなかった神の隠された働きを、いくつもいくつも発見して、そのことを伝えたくて仕方がなかったのです。
このあと、5節からすぐに本文に入ります。最初にルカが記したのはクリスマスの物語です。マルコの福音書では、バプテスマのヨハネとの出会いから始まりますが、そのバプテスマのヨハネがどのようにして生まれたのかを記すのです。そして、このヨハネを生んだエリサベツと、主イエスの母であるマリアは同じように、天使のみ告げを聞いて子どもを与えられたことを知ったのです。
まだお腹の中にいたバプテスマのヨハネと主イエスは、その時すでに出会っていたんだと知った時のルカの興奮たるやどれほどのものだったかと思います。神は、主イエスを私たちに与えてくださるために、こんな細やかな配慮をしておられたと記すことを通して、神が、このお方をこの世にお遣わしになるために、どれほどの準備をしておられたのかが分かるのです。ここに記されている言葉は、ただの歴史の証言の言葉ではありません。この言葉の背後に、まさに神の意思が、神からのメッセージがあるのです。この神の意思は、私たちのところに届けられて、私たちと出会うことを目的としているのです。
この神のみ言葉を聞くときに、私たちは「みことば」の背後に働いておられる恵み深い、神と出会うことができるのです。そして、この言葉は、この言葉によって示された主イエスを通して、私たちは自分の人生が、神に確かに支えられていることを知るようになるのです。
お祈りをいたしましょう。