・説教 ローマ人への手紙8章35-39節「キリストの愛」
2022.11.13 召天者記念礼拝
鴨下直樹
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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
今週、水曜日から金曜日まで掛川で行われました、「CPIカンファレンス」という会議に参加してきました。CPIというのは、「チャーチプランティング・インスティテュート」と呼ばれるもので、日本にいる多くの宣教師たちが集まるカンファレンスです。今回も400名ほどの方々が参加していました。
その中の一つの講演で面白い話を聞きました。それは、人が人生の危機を経験するときに、三つの質問をすることで、問題点が明らかになるというのです。
一つは、「自分が何者であるのか?」という質問です。二つ目の質問は、「自分の目的は何か?」「ゴールはどこか?」です。そして、三つめは、「自分はどこに所属しているか?」というものです。
これはキリスト教の話ではなくて、どのジャンルでも共通することですが、この3つの問いで問題点が明確になるというのです。
そもそも、私たちが人生の危機を迎えるというのは、どういう時でしょうか? よく言われるのは、自分の人生が大きな節目を迎える時です。学校を変わるとか、新しい勤め先に変わるとか、結婚をするとか、退職するとかいうような、人生の大きな節目を迎える時です。
あるいは、仕事の中でトラブルを抱えて、優先順位が分からなくなってしまうというようなこともあるのかもしれません。
自分の存在そのものを問う、自分の目標を問う、そして、自分の関係を明らかする。この三つのことは、自分の身に起っている問題の答えを私たちに与えてくれるといいます。
今日、召天者記念礼拝のために、私たちはここに多くのご家族の方々をお迎えしております。コロナのために、礼拝にお招きすることを控えていたのですが、今年は3年ぶりにご家族のみなさんを礼拝にお招きしました。こうして、多くの方が集ってくださって、天に召された方々の事を心に留め、また私たち自身のいのちの意味を考える時が与えられています。
私たちにとって大きな危機を迎えるのは、何と言っても家族の死です。今まで共に生きて来た最愛の家族を失うということは、大きな喪失感を私たちの心にもたらします。そして、それと同時に、人は死んだらどうなるのだろうか? そもそも、自分は何のために生きているのだろうか? これまで関わって来た人たちとの関係はどうなるのだろうか? そんな思いが浮かび上がってきます。そんな、まさにこの三つの問いを、ご家族を失った時にもいろいろと考えられるのかもしれません。そして、悲しみに暮れる中で、明確な答えが出ないまま、時間が過ぎて行くということも経験するのです。
この3つの問いかけは、その人の年齢や、経験の差によって答えが違ってくるのかもしれません。
たとえば、自分の所属を問うというのは、学生の立場と、会社に勤めている時と、退職した後とでは変わってくるものでしょう。そして、その人生の中で、自分がどこに所属しているのかということの意味を、会社や仲間たちとの関係が変わることで変化していくことを味わっていきます。
たとえば、ずっとスポーツだけをやって来た学生が、大学生になって、就職するようになると、自分の所属しているスポーツの仲間たちというのは、ずっと同じ関係ではいられないということが分かってきます。そうすると、今度は自分がどういう所に所属するのかという不安を感じるようになるわけです。
これは、長年勤めて来た会社を辞める時にも同じようなことが起こります。その時に、自分は何者で、何のために生きているのかという、先の二つのことを改めて考え直す時がくるのかもしれません。
また、学校でも、職場でも、スポーツでもそうですが、自分よりも優秀な人があらわれる時も、私たちは危機を経験します。自分とはいったい何者なのか、自分は必要ないのではないか、そんな問いが浮かんで来ては苦しむことがあるのではないでしょうか。
この3つの問い、自分は何者であるのか? 自分の目標は何か? 自分はどこに所属しているのか? というこの3つの問いの答えは一つではありません。そして、他の人の答えを誰かが否定することもできません。その答えは、一人ひとりの中にあるものです。
ただ、知って欲しいことがあるのです。聖書には、この三つの問いの答えがあるということを。そして、この聖書が語る救いというのも、この3つの事と深く、非常に深く関わっているのです。それは、神が人を創造されたお方であり、神は、人にこの3つの問いに対する明確な答えを持って欲しいと願っておられるお方だからです。
今日、お読みした聖書は「キリストの愛」を語っているところです。ここを読むと、この3つの問いに、聖書がどう応えているかが見えてきます。
自分とは何者なのか? との問いに、この聖書の箇所で与えられている答えは、「あなたはキリストに愛されている者である」ということです。神は、あなたの価値を知っておられ、あなたを大切にして、苦難や苦悩、迫害や飢えから守られる存在であると、ここでパウロは語っています。ここにひとつの慰めがあります。
2つ目の問い、「自分はどこに向かっているのか」、「ゴールはどこか」との問いかけには、「私たちは圧倒的な勝利者です」と37節でパウロは語っています。自分は人生の勝利者、しかも圧倒的な勝利者として、人生の最後まで確信を持って進むことができると宣言しています。自分の存在に自信を持って、この世界で生きる意味を見出し、確信を持って生きることができるのだと言っています。
そして、3番目の問い、「自分の所属はどこか?」との問いには、最後の39節にこうあります。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と言っています。
神の愛の中に、私たちは守られている。神に属する者なのだとパウロはここで語っています。神に所属する者なのだというのです。ここでパウロは、「教会」があなたの所属であると言っていないことにも、大きな意味があります。もちろん、「教会」も、神の愛を感じることのできる交わりの場所であることは間違いありません。教会は、キリストの体とも言いますから、その意味ではキリストに所属することは、教会に集うことということもできます。けれども、目に見える所属ではなくて、私たちは神の愛に、神そのものに結ばれているのです。
今日、この後で3名の方の納骨式をいたします。特に、Hさんは私たちと長い間歩みをしてきてくださった仲間でもあります。Hさんご夫妻は、晩年山形の息子さんご夫妻のもとで過ごされました。そして、こうして芥見教会の仲間の方たちと共に、教会のお墓に葬られることを、今日ご家族が涙を浮かべながら話してくださいました。
私たちはこうして、確かに「教会」という目に見える神の愛の形に所属していることを覚えることができます。
けれども、お墓に入ることよりも大切なことは、目に見えるお墓ではなく、そのいのちは神と共にあるということです。なぜなら、主にある兄弟姉妹の皆さんは、信仰が与えられて神に属するものとなることができたのです。
Tさんのお父さんの納骨も行います。また、今日はこの後、この一年の間に亡くなられた方々の事も思い起こしながら、それぞれのこの地上での歩みを思い起こし、また、召された家族のことを心に刻むときでもあります。
パウロはここでこう言っています。38節以下をお読みします。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
これが、聖書が語る神の愛です。神の愛から引き離されることはない。ここに、キリスト者になった者の慰めがあります。この愛に守られているので、私たちは毎年、この召天者記念礼拝の時を、悲しみの中で行うのではなく、喜びにあふれて行うことができるのです。
死も、いのちも、御使いたちも、この世界にあるあらゆる力、権力、どんなものからも、神の愛は、その人から離れることはないのだからと聖書は宣言するのです。
このキリストの愛の内に留まること。これが、聖書が語る救いです。自分の存在も、目標も、関係も、私たちに必要なものを全て満たしてくださるのが、キリストによって示された神の愛なのです。この愛を頂いているならば、私たちがその人生の中で試練や、困難を経験することがあったとしても、私たちは心を脅かされることなく、平安の中に身を置くことができるのです。
この平安を与えてくださる主イエスのことを、ここに集われたみなさん一人ひとりも、ぜひその心に留めてください。そして、みなさんがこれからもし、試練や艱難を経験することがあったら、あるいは、すでに今そのような困難を経験しているとしたら、ぜひ、この主イエスの愛を知っていただきたいのです。この主イエスを自分の心の中に受け入れてください。その時、私たちは確かな平安を覚えることができるようになるのです。
ここに集われたお一人お一人の上に、主イエス・キリストの恵みと、平安と、愛が豊かにありますように。
お祈りをいたします。