・説教 ルカの福音書2章22-40節「主よ、今こそ」
2023.1.15
鴨下直樹
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今日、私たちは、この与えられたみ言葉の中に、とても美しい一人の年老いた信仰者の姿を見ることが出来ます。キリスト者であれば誰もが、こんな老人になりたいと思える人です。名前をシメオンと言います。新約聖書の外典によれば、シメオンはこの時112歳であったと記されています。
実際に112歳だったかまでは分かりませんが、かなりの年齢であったようです。シメオンは自分の人生の終わりの時に至るまで望みに生きた人でした。
25節で、このシメオンのことをこう記しています。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
シメオンはイスラエルが慰められることを望み続けていたことがここに記されています。この「イスラエルが慰められること」というのはどういうことでしょうか? 預言者イザヤは何度もこの「イスラエルの慰め」について語りました。イザヤが語る「慰め」というのは、バビロン捕囚が終わりを迎えることです。国を追われたイスラエルの人々が、本来いるべき地に戻ってくることができるようになることです。
このシメオンが生きた時代には、すでにバビロン捕囚は終わっていました。けれども、シメオンはまだこの慰めが与えられていないと感じていたのです。シメオンはその時代にあってどんな宗教家たちにも増して、望みに生きることを知っていた人でした。この時代を代表する宗教家を、新約聖書では3種類の人々で描いています。まず、パリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちがいました。この人たちは信仰を職業化させていった人たちです。外面的に良く見えるような生き方に心を砕いた人たちです。こうなると信仰は無味乾燥なものとなってしまいます。
その次にサドカイ派と呼ばれる人たちがいました。これは信仰を世俗化させていった宗教となりました。信仰を人々が受け入れやすくしました。そう聞くと良さそうに聞こえますが、自分たちに都合のいいように変えたということです。神様の心ではなくて、自分たちにとって便利なことを優先させていったのです。
もう一つゼロテ党とかゼロタイ派と呼ばれる人たちがいます。この人たちは打倒ローマを打ち立てて民族としてのイスラエルの再興を声高く主張しました。民族主義的信仰と言えます。
律法学者のような職業化した信仰、サドカイ派にみられる世俗化した宗教、ゼロテ党の民族主義的宗教とさまざまな人々がいたのですが、神様はこのような宗教家たちではなく、シメオンをお選びになっておられました。シメオンは、26節によれば「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」のでした。
このシメオンは、神の民が慰められることを求めていました。神の思いがそこにあることを知っていて、神のみ心を望み続けて生きたのです。ここに、信仰者としての美しい姿が示されています。
シメオンは、神殿を訪れた赤ちゃんの主イエスを見てすぐに分かったようです。どうしてかは分かりません。不思議としか言えません。主イエスの両親が生まれて8日目の割礼を授け、ささげ物をするために神殿にやって来ました。この時赤ちゃんの主イエスを見て、シメオンはこのお方こそ救い主、キリストであることが分かったのです。
そして、「主よ、今こそ」とここに記されている賛美の歌を歌いました。このシメオンの賛美は、ラテン語でこの冒頭の言葉をとって「ヌンク・ディミティス」と呼ばれ、また「シメオンの賛歌」と呼ばれるようになりました。そして、ここで歌ったシメオンの賛歌の中に、自分たちの幸いが歌われていると知るようになったのでした。
主よ。今こそあなたは、おことばどおり、
しもべを安らかに去らせてくださいます。
私はこれで安心して死ぬことができる。自分の人生を生ききることが出来た。もう何も思い残すことはないとシメオンは言うことができたのです。シメオンはこれまでも、キリストにお会いすることを望み続けて来ました。過去に生きてはいなかったのです。昔は良かったと、自分の人生を振り返りながら過去に縛られて生きるのではなくて、常に将来に希望を見出していました。老人になっても、112歳かどうかは分かりませんが、自分の人生の晩年にも、主なる神様に思いを寄せて生きていたのです。何歳になろうとも、いつまでも将来を見据えて生きることができるほど、信仰者として美しい姿はありません。現状を嘆いてはいません。悲観してもいません。主に期待し続けることのできる人生を、もう十分ですと言うことができるようにして生きたのでした。
このシメオンに見られる信仰の姿のことを「再臨信仰」と言います。主がいつ来られるかは分かりません。けれども、主を望み続けて生きる生き方、主が再びこの世界に臨在されることを望む生き方です。私たちは今もこの信仰に生かされています。もう一度来てくださるとの約束を頂いて、主が来られる日を心待ちにする、この再臨の信仰に私たちは生かされているのです。
そして、36節以降ではもう一人、女預言者のアンナという人も近づいて来てシメオンと同様の言葉を語ったことが記されています。このアンナは84歳であったと記されています。この二人の老人たちは、ともに来るべき将来を期待し続けて、神の神殿に集い、この希望に生きたのです。
それでは、もう一度改めてシメオンが何を歌ったのか、その内容を見てみましょう。29節と30節で、私の人生は十分ですと語った後、31節と32節では
あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光を。
と歌いました。
シメオンはここで当時の宗教家が思いつきもしなかったことを歌いました。それは、異邦人とかユダヤ人とか、そういう民族の違いを超えて、主はすべての民に救いをもたらそうとしておられると歌ったのでした。
シメオンもアンナも、神殿で主に仕えた人たちでした。言ってみれば無名の人たちです。けれども、この無名でありながらも長い愛をもって神に寄り沿って生きた信徒たちによって、神のみ心がしっかりと受け止められていたという事実を、ルカはここで知らせようとしているのです。
私たちは先ほど主の祈りを祈りました。
み国が来ますように。み心が天で行われるように 地でも行われますように。
この祈りは、将来に期待する祈りです。再臨を求める祈りとも言えます。神のみ心がこの地を支配しますようにという祈りは、私たちの祈りの中心にある思いです。
シメオンとアンナは再臨の主イエスと出会います。そして、神のみ心がここに実現したことを知って、主を褒めたたえているのです。
神のみ心は行われた。キリストがこの世においでになった。これで、確かにこの世界はユダヤ人も異邦人も慰めを受けることができるようになったのです。
「主よ。今こそ私は安らかに死を迎えることができます。」
私たちは、シメオンやアンナと共に、この歌を私たちの歌として歌うことができるのです。「もう大丈夫です。キリストがおいでになられたのだから、もう安心です。神の国がこの世界にもたらされるからです。天で行われている神のみ心が、この地にももたらされるのです。良かったです。だからもう私も安心して死を迎えることが出来ます。」と、そのように私たちも言うことが出来るのです。
1月の3日、私は突然喉が痛くなりまして、4日に調べますとコロナになっているということが分かりました。この検査をするために予約をしていたのにも関わらず、3時間車の中で待たされるというほどで、沢山の人がこの日、コロナにかかっていたようです。検査の結果「陽性」ということが分かりました。ところが不思議なもので「陽性」と分かると少しどこかほっとしました。
私は基礎疾患があるので薬を処方してもらうことができました。家に戻ってすぐ薬を飲んで、寝る前にもう一度薬を飲みます。この薬がまたいかにも外国製の薬で、毒々しい赤色の大きなカプセルを1回4錠も飲まなくてはなりません。本当にこれで効くのかと思いながら薬を飲みました。しかし、これもまた不思議なものですけれども、薬を飲んだ途端、もう大丈夫とどこかで思うのです。結果として熱が下がって、体のだるさや痛みがとれたのは5日たってからです。まだ薬が効いていなくても、薬を飲んだだけでどこか安心するところがあるのです。
主イエスが来られた。キリストがこの世界に来られたというのもこれに似ているのかもしれません。まだ世界は暗闇のままです。自分の生活が目に見えて改善しているわけではないのかもしれないのです。けれども「キリストがこの世界に来られた」という神からのメッセージがある。この出来事はシメオンにとって、もう大丈夫と思わせるのに十分な理由となったのです。そして、これはシメオンやアンナだけではない、暗闇の世界に生きる私たちすべての者に対して示された神からの処方箋なのです。
もう大丈夫、もうここから良くなる。み心が天で行われているように、この地にも行われる。私たちはキリストのみ力のゆえにそう確信することができるのです。
それほどに、神のみ心が行われることが大事なのだということをシメオンがよく理解していたことが記されているのです。
シメオンや、その後に出て来るアンナはいつも主なる神様に依り頼んで歩んだ人物です。長い人生の中で、いつも主に心を寄せて歩む。主に希望を持って歩む。ここに、幸いな歩みの姿が示されています。自分の願っていることが叶うことや、親子の絆を超えてもっと大切なものがある。それは、神を見上げて、主に信頼して生きることなのだということをここでルカは語っているのです。
私たちも、ここに出て来るシメオンやアンナのように、主にある希望を知っています。また、主が信頼できるお方であることも知っています。私たちも、この二人に倣って、主を見上げ続ける一年を、この新しい年も歩んでまいりましょう。
お祈りをいたします。