2023 年 1 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書4章3-15節「いのちの水?」

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2023.1.22

鴨下愛

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今読んでもらった聖書の箇所から「いのちの水?」という題でお話しします。

 「いのちの水」について、嬉しいお知らせです、いのちの水、今は なんとインターネットで買えるんですって! ほら!(日本某所の実在の水汲み場とオンラインショップの画像を見せる)

 この水は 命の水ですから普通のミネラルウォーターとは違います! すごい水なんです! 普通のペットボトルの水より5倍のお値段は 当然です。

 ただちゃんと注意書きがあります。(小さい字で書いてあります。)
⑴飲んでいれば、病気が治る……事もありますが、もちろん個人差があります。
⑵体調の悪い時はこの水だけで、なく、肉や野菜も十分にとってください。
⑶身体が生まれ変わるように元気になるためには 、飲み続ける必要があります! 
ただし、数に限りがございますから、お早めにお申し込みください。

 どうします? 買う? お友達が教えてくれて、良いらしいけど……今回はやめておくわ~。ほかのお値打ちなお水も試してみてからにしようかな~。 なんて声が聞こえてきそうです。水がどこでも飲める、買える日本ならでは……ですね。

 「いのちの水はいらんかね?」とイエス様が言われても ピンと来ないかもしれませんね。日本名水百選のひとつくらいにしか思えないのだとしたら、とても残念です。

 確かにお水は生きていくのに必要です。お水を飲まないとどうなりますか? 喉が渇きますね。喉が渇くって嫌な感じですね。

 喉からひりひりして、体中が干からびていくようで、美味しいハンバーガーを差し出されたって、「けっこうです! 水、水、水をちょうだい」と、もう水のことしか考えられなくなります。

 それだけじゃなくて、水を飲まず渇いたままでいると、私たちの体は「脱水症」になって本当に死んでしまいます。あつい夏と同じくらい、冬にもたくさんの人が「脱水症」で亡くなっているって知ってますか。

 冬は空気は乾いているし、あまり喉が渇いている感じがしないので、うっかり水を飲まずにいて、「脱水症」になってしまうんですね。

 それと同じように私たちの心も、カラカラに渇いてしまうことがあると聖書は教えています。心の渇きは冬の間の脱水症と同じで、渇いていることに気がつかないのが困った問題です。

 でも、イエス様はそんな私たちに、「あなたは渇いていますよ」と教えるために、そっと近づいて来てくださいました。それが今日のお話です。

  1人のサマリアの女が町の広場の井戸に水を汲みに来ました。太陽は高く昇り 焼けつくような暑い午後、こんな時間の水汲みは 実はおかしな話です。重い桶を運ぶ水汲みは大変な仕事なので、ふつうは朝早く涼しいうちに終わらせるもの。日差しが照りつける午後は誰も井戸には近づきません。そこに女はひとり、そっと辺りを窺うように井戸に近づきました。なぜでしょう? それは誰にも会いたくないからです。人に会えばきっと、彼らはこの女のした数々の悪いことを思い出して言い出すでしょう。あれこれ注意されたり、悪口を言われるのを耐えなければならない。女には誰も 友達はいません。

 サマリアの女は桶をつかみ井戸に投げました。暗い深い井戸でした。汲んでも汲んでも明日にはまた、生きるために水を汲みに来るのでしょう。ふうーと重いため息をつきました。

 「ただ毎日必死に生きているだけなのに」「誰も私を許さない、私は許されない」。身震いし、急いで汲んだ水を一口飲みました。手からこぼれた水が 焼け付く地面にあっという間に吸い取られ、 乾いていくのを見つめていました。

 その時、横から声が掛かったのです。「わたしに水を飲ませてください」

 この人はいつから居たのでしょう。気がつきませんでした。でもこの人を知っています。名前はたしかイエスといって、12人の弟子たちと旅の途中なのだと町の人は顔をしかめて噂をしていました。大嫌いなユダヤ人。それはユダヤ人にとっても同じ、大嫌いなサマリア人のはず。

 それでも水が飲みたいのだと話しかけてきたのだから、汲んであげるのが人の情けです。でも女にはそれが出来ませんでした。イエス様と話しているのを誰かに見られていては、また何を噂される事か。ビクビクと周りを見ました。こんな時でも周りの目を気にして、イライラして思わず言いました。

「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」

 するとイエス様は言いました。「もしわたしが誰なのかを知ったなら、きっとあなたのほうからわたしに「水をください」と頼むでしょうね。そしてわたしはあなたに生ける水を、いのちの水を与えるでしょう」

 女は思わず笑ってしまいました。だって水が飲みたかったのはあなたでしょう? それなのに桶を持っていなくてお困りだったのでしょう? あなたは知らないでしょうけど、この井戸は立派な名のある井戸なんですよ! 偉大な先祖のヤコブが掘り当てたのです。

 イエス様は続けて言いました。

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 そのとおり、汲んでも汲んでも明日には渇いて、また水を汲みにくる毎日なのです。みんなにとっては当たり前の生活です。

 それがこの女には苦しくて仕方がなかった。どうしてだか自分でも分からなかった。本当のところ女にはイエス様の言葉の意味は全くわかりませんでした。イエス様は自己紹介もちゃんとしていないし、この世界に生まれてくださった目的だって、まだ果たされていません。

 それなのにイエス様の言葉に女の心臓はどきんとしたのです。まるで渇ききり止まっていた心臓が力強く動き始め、体の隅々に血が(水が)ゆき巡り始めるように、イエス様の聖霊の力が身体中にゆき巡り、気がつかせたのです。

 ああ、喉や体が渇いていたのではない、本当は心が渇いていたのだ。ああ、心の中に湧き上がるいのちの泉を私は欲しいのだと気付きました、

 まだこの女は、心の後ろめたさや罪を告白していません。この女の問題はまだ何も解決していません。

 しかしもうイエス様にこう言うしかなかったのです。

「主よ。私が渇くことのないように・・・その水を私に下さい。」

 今までサマリアの女は、必死にがんばって生きてきました。

 結婚して夫が死んでしまっても、生きていくためにすぐに結婚して別れて‥を5回繰り返し、今は別の男と結婚せず一緒にいます。なんだか疲れてしまったのです。これがみんなから責められ、許されることなく怯えて暮らすことになっている理由だと、続きの聖書箇所を読むと分かってきます。

 だから私はみんなに許されない。頑張っているのに許されない。どんなにもがいて必死に取り組んでみても、ゆるされない。足らない。みんなのようにはうまく出来ない‥。

 私たちも、毎日がんばっているのです。大人だけではありません。子どもの頃から、叱られないように、周りと違うことをやってしまわないように、ちゃんとできるように、人を怒らせないように、自分がこれ以上傷つかないように。それなのに心に湧き上がってくるのは「許されない、まだ足りない、どうすればいい? 分からない」という思いです。

 ふと立ち止まって大きなため息をつくのはサマリアの女と一緒かもしれません。

 イエス様はそんな私たちに話しかけてくださるのです。

 「あなたは渇いているんだよ。本当に必要なものは、あなたの心の中の渇くことのない泉、いのちの水ですよ」

 いのちの水とは何でしょう。それはイエス様が十字架で血を流し支払ってくださった赦しと、その十字架に込められたあなたへの神様の愛です。

 私たちが神様から離れて、神様なしで生きている時、大切なメッセージを受け取れないで生きているのです。

 「あなたは赦された! だれがなんと言ったって! たとえ死がおとずれても永遠にわたしと生きるものだ! なぜか、それは、ただわたしがあなたを愛しているから!」

 みなさん、渇いていると気がつく人は幸せなのです。それは聖霊の働きだからです。必要以上に自分の弱さや情けなさを嘆かなくていいのです。

 「わたしは神の愛に渇いている」と気がつくために、イエス様は話しかけてくださるのですから。

 この世界に「わたしは渇いている」と気がつかないで生きていく人のなんと多いことでしょう。聖書は言います。「義に飢え渇く者は幸いです」「ちゃんと生きたいのに」と悩んでいる人は幸せです。だって神様の愛が必要だって分かるのですから。

 みなさんはヘレンケラーを知っていますか? 1880年に生まれたヘレンは、1歳の時の高熱で目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、思うように話すこともできませんでした。幼い時はいつもイライラして荒々しく心にまるで平安がありませんでした。今私たちが、自分に何か足りないと思う以上に、ヘレンには足りないのです。どうしたって人の助けが必要で、いつも人に許されないと生きていけないのです。

 そのヘレンケラーが、家庭教師のサリバン先生の信仰の導きによって聖書を読み、心が渇いている事に気がついた時から、すべてが変わっていきました。それは目も耳も閉ざされていたヘレンが子供の頃、最初に水が(ウォーター)という名前があると知ったあの衝撃よりも大きなものでした。神は私を愛している。その神を無視して生きていた私の罪、それをイエス様は一度きり十字架で命の代価を支払い、私たちの罪を赦された。
私は赦されている。愛されている。

 どのような境遇にあっても、「わたしはとても幸福です」ということができました。ヘレンは一生の間、この神様の愛を講演会や本の中で伝えました。

 私たちの命をおびやかす飢えも剣も、苦しみも、迫害も、主イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません、と聖書に書いてあります。神様の愛は、私たちをもう離さないと言って、永遠に尽きることのない泉となって、いのちの水となって、私たちの心を満たします。

 イエス様の与えてくださる水は いのちの水ですから、普通のミネラルウォーターとは違います! 普通のペットボトルの水より高いはずなのに、無償です。イエス様が十字架で命を掛けて代価を支払ってくださいました。

 注意書きもありません。数に限りはありません。永遠です。条件もありません。サマリアの女のように、まだ自分の罪にもがき、渇きに苦しんでいても、「その水を私にください」と手を差し出すことができるのです。

 主イエス様は言われます。

「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 
祈り
「あなたは渇いていませんか?」。私たちに聖霊を通して語りかけてくださる主イエス様、どうか渇いている心に気づかせてください。そして主よ、私にあなたの愛の言葉を、赦しの言葉を泉のように語り聞かせてください。 私たちの生涯に命の水が湧き出ますように。

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