2023 年 9 月 17 日

・説教 ルカの福音書8章40-56節「信仰」

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2023.9.17

鴨下直樹

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 聖路加国際病院で長い間院長として働いておられた日野原重明さんという方がおられます。この方は2017年、105歳で召されたのですが、まさに生涯現役で働かれたキリスト者の医者です。この日野原さんが89歳の時だったと思いますが、『いのちの器』という本を出されました。この『いのちの器』というのは、日野原さんの取り組まれた一つの働きで、こんなことを言っています。

「命は私に与えられた時間です。このいのちを何のために使うか、自分たちの生き方がこれから生きる子どもたちの手本になる」

 そのように言われて、全国の小学校などを訪ねては講演活動をしておられました。

 この『いのちの器』という本が出版された時の本の帯にこんなことばが書かれていました。

私たちのからだは、いのちを容れる器である。その器は聖書にあるように、土の器である。土の器である限り、使っているうちに器はその一部が欠けたり、もろくなったりする。
動脈硬化になった心臓や脳の血管は、硬くなり、もろくなった土の器の姿である。人間のからだは、年とともに古くなり、光沢がなくなっていくかもしれないが、土の器で形づくられる空間の中に、人間は自らの魂を満たすことができる。
人間一人一人は、このやがては必ず朽ちてゆく土の器に、この有限な器の中に、無限に通じるいのちを宿したものである。

 信仰の医者らしい言葉です。私たちは土の器なのだ。器である以上、欠けているところがあるし、病に侵されることがある。しかし、大切なのは聖書が言っているように、この土の器の中に、無限に通じるいのちを宿すことと言っています。

 そして、この福音書を記したルカも、医者として生きた人です。ルカ自身、パウロがコリント人に宛てて書いた時に使った、この「土の器」というメッセージを耳にしていたに違いありません。

 この医者であったルカは、この8章の21節で、「わたしの兄弟とは神のことばを聞いて行う人たちのこと」という主イエスの言葉を取り上げて語りました。これはそのまま「信仰とは神の言葉を聞いて行うこと」と言い換えることもできると思います。

 そして、ルカはこの言葉に続いて3つの主イエスの奇跡の御業を語りました。まず、嵐の出来事を通して、信仰を与えてくださる主イエスとともにいることが、どんな恐れの中にあっても確かな平安を与えるのだということを明らかにしました。

 そして、続く悪霊に支配された人を、悪霊から自由にすることを通して、主は忘れられた人を訪ねて、その人にも救いを与えてくださるのだという、主イエスの心を明らかにしてくださいました。

 そして、今日の箇所では、治らない病と、死という、絶望的な状況の中で信仰が与えられることを、ルカはここで医者として語ろうとしているのです。

 医者として直面する死の絶対的な力、医者の手ではどうすることもできない病を目の当たりにしながら、そこに表れる人の絶望的な姿を目の前にして、主イエスは何をなさったのかを、ルカはここで描き出すのです。

 主イエスは異邦人の土地から戻ってきました。すると、ガリラヤの人々は喜んで主イエスを迎え入れます。そこで主イエスを待ち構えていたのは、病に苦しんでいる人々でした。

 その中に、ヤイロという会堂司がいました。主イエスは安息日には会堂で話されていましたから、顔見知りの人物だったのかもしれません。その地域の人々からの信頼も厚い人物であったに違いありません。このヤイロは主イエスをみると、

彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。

と41節と42節に書かれています。

 主イエスはこのヤイロの願いを聞かれてヤイロの家に向かうのですが、その途中に、もう一つの出来事が起こります。それが、続く43節と44節に記されています。

そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。

 ここに「医者たちに財産すべてを費やしたのに」という文章があります。これは、以前の第二版や第三版の聖書をお持ちの方は、「あれ? そんな文章ないぞ?」と思われたのではないかと思います。この聖書の部分に、脚注がついています。そこには、「異本にこの部分を欠くものがある」と記されています。この文章は一部の有力な写本には書かれていないのです。けれども、マルコの福音書には書かれています。それで、これまでの新改訳の理解は、この部分はルカが省いていたけれども、後でマルコの福音書に書かれているので、その文章を補ったものが写本として出回るようになった、と考えられていました。ですから、本文には入れていなかったと理解したのです。

 少し難しい話になって恐縮なのですが、この言葉をもともとルカは書いていなかったのかどうかという議論は、私は五分五分だと思っています。ルカは医者です。そういうルカが、医者たちが彼女の財産を費やすようなやり方をしていたという書き方を受け入れなかったので、この部分を意図的に削ったということは、あり得ると思うのです。新しく出された岩波訳も、この部分は削除しています。けれども、新共同訳聖書や、その前の口語訳も、今の協会共同訳も、そして、今度の新改訳2017も、この部分を加えています。流れとしては、マルコの福音書と同じように書かれていただろうという考えが主流になりつつあるということなのだと思います。

 ルカは医者です。この長血の女の人は、先ほどお読みしたレビ記15章19節以下に書かれているように、毎月の出血がある状態は「汚れている」ということで、「夕方まで汚れる」となっていますから、人前に出ていくことができません。まして、長血ということは、常に汚れている状態になってしまいますので、この人は人前に出ていくことができないような生活を12年間強いられていたことになります。ルカはそういう病に苦しんだ女性が、密かに救いを求めたことを描きます。ですから、私としては「医者たちにすべて財産を費やした」という文章は省いたのではないかと思います。

 この12年の間長血に苦しんだ人が、主イエスの「衣の房に触れると、ただちに出血が止まった」とあります。自分の病が癒やされたことを知って、この人はどんな思いだったのだろうかと思います。そして、そのことを、主イエスが尋ねた時も、この人は、はじめすぐに自分だとは言い出すことができませんでした。

 ここで「信仰」ということで考えてみると少し分からなくなってしまいます。この12年の間、長血を患っていた人に、どんな信仰があったのだろうかと思うのです。きっと、主イエスに触れれば癒やされるかもしれないという思いはあったと思うのです。けれども、それを明るみに出すことはできません。というのは、汚れている人が人の中に入って行って、自分から他の人に触れたということが明らかになれば、律法違反をしていることが明らかになってしまうからです。それまで12年間、人から隔離された生活をしていて、癒やされても、それを明らかにできないとなれば自信を持つことができなくても当然なのかもしれません。

 けれども、主イエスは46節で「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出ていくのを感じました。」と言われ、47節では「彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。」と記されています。

 この人がこのままでは隠しきれないと思ったのでしょう。主イエスの前にひれ伏します。どれほど勇気を振り絞って主イエスの御前に出たのかがよく分かります。しかし、この女の人のどこに信仰があるかと問われると、人前でこれが信仰の姿と語れるような信仰の姿はここで描き出されているとは言えません。

 けれども、主イエスは48節で驚くようなことを言われました。

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 主イエスはここで、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。けれども、私たちはこの言葉を聞くと、この長血の娘の信仰がどんな信仰だったのかよく分かりません。あえて、言えるとすれば、「主イエスは自分の病を癒すことがおできになるかもしれない」と考えた、信じた、ということです。

 この後のヤイロの娘の出来事はもっと分からなくなってしまいます。このヤイロの家に行く途中で、長血の女の癒しの出来事が割り込んでくるかのようにして起こりました。そして、残念ながら、このやり取りの間に、ヤイロの娘の方は死んでしまうのです。ヤイロは娘の死の知らせがもたらされた時、どんな思いだったのだろうかと思います。

 実は、水曜日の祈祷会でこの箇所をみんなで学ぶために準備をしていたところに、この芥見教会で牧会してくださっていた脊戸先生の娘さんの、Nさんが召されたという知らせが入ってきました。

 私たちは、Nさんの癒しのために祈ってきましたから、この残念な知らせを聞いた時に、私自身とても複雑な思いになりました。聖書には癒やされた出来事が記されているわけです。しかも、このヤイロの娘は死んだ後で、主イエスが手を取って語りかけられると、この12歳の娘は生き返ります。

 けれども、実際にNさんは生き返ることはないのです。いったい、どこに違いがあるのだろう。そこには、どんな信仰の違いがあるのだろうかと、私たちは考えてしまうのではないでしょうか。

 会堂司のヤイロの信仰はここでは少しも記されていませんし、娘は死んでいますから娘の信仰もここには描き出されてはいません。そうなると、ここで語っている「信仰とはいったいなにか?」という思いが出てきても仕方がないと思います。

 ヤイロの娘が亡くなったという知らせが来た時に、主イエスは50節でこう言われています。

「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」

 「ただ信じなさい」と主イエスは言われます。けれども、信じて祈ってきたはずなのです。それでも、癒やされないことはあるし、死んでしまうことがあるのです。だとすると、この癒やされた場合と、癒やされない場合の違いは何かという、この違いに私たちは苦しむことになります。

 私たちはこのように考える時に、どうしても「信仰とは病気がなおると信じること、信じ切ること」と考えてしまいます。そして、この「信じきる」ということが難しいことなので、余計に、難しいことなのだと考えてしまうのではないでしょうか。

 信仰というのは、何かが起こるために信じるのでしょうか? そうなると、癒やされるために信じるということになってしまいます。つまり、癒やされることの方が、信じることよりも大事なことになってしまうわけです。

 しかし、そうではないのです。

 信仰とはこちら側のことではありません。わたし側の、信じる熱量のことではないのです。信仰とはあちら側のこと、主イエスの側の出来事です。信仰の主権のすべては神の側にあるのです。信仰とは、神が与えてくださるもの以外の何ものでもないのです。

 最初に言いましたように、私たちは「土の器」に過ぎないのです。私たちには欠けもあるし、割れてしまう部分もある不完全なものが私たちです。けれども、この土の器である私たちの中に、神が永遠のいのちをもたらしてくださるので、私たちは生きたものとなるのです。

 土の器である私たちに、主イエスが入ってきてくださる、いのちを与えてくださるから、信仰を与えてくださるから、私たちは主の御前に生きたものとなるのです。私たちが願うことは、主イエスよ、私の中に入ってくださいと求めることです。そして、それを私たちの信仰と呼んでくださるのです。

 長血の女の求めに対して主イエスが入ってくださったので、この人は癒されました。ヤイロの娘の中に主イエスが入ってくださったので、彼女は生きるものとなったのです。そして、脊戸先生の娘さんのうちにも主イエスが入ってくださるならば、それで良いのです。それは、主イエスが判断なさることです。

 昨年の5月に脊戸先生と、Nさんご家族が芥見教会の礼拝に来てくださいました。この時、わたしは知らなかったのですが、食事の席で、Nさんの心の中に主イエスが入ってくださって、今喜んで教会に行っているという話をしておられたのだそうです。わたしはそのことを、この木曜の祈祷会でお聞きして、本当に嬉しく思いました。

 脊戸先生や、ご主人や子どもさんは今、本当に大きな悲しみの中におられると思います。けれども、主は信仰を与えてくださるお方として、覚えることができることは大きな慰めです。

 八木重吉というキリスト者の詩人がおります。この方は若くして結核で亡くなったのですが、病床にあってたくさんの詩を書きました。その中に「信仰」という詩があります。この八木重吉の詩を紹介したいと思います。

―― 信仰 ――
 
基督を信じて
救われるのだとおもい
ほかのことは
何もかも忘れてしまおう

 キリストがすべてのすべてなのだという詩です。八木重吉は病の淵にあって、死がいつも頭をよぎるのだと思います。そういう中にあって、キリストにあることですべてを忘れてしまえるのだという告白の詩です。
 
 他にも八木重吉の詩にこういう詩もあります。

―― キリスト ――
 
病気して
いろいろ自分の体が不安でたまらなくなると
どうしても怖ろしくて寝つかれない
しかししまいに
キリストが枕元にたって
じっとわたしを見ていてくださるとおもうたので
やっと落ちついて眠りについた

 キリストがすべてなのです。このお方がいてくださるのであれば、病の中にあっても平安を得ることができるのです。

 医者でもあったルカが、この物語で伝えているのは、病や、死がどれほどの力を持っていたとしても、キリストがそれを引き受けてくださるということです。

 たとえ死んだとしても、病におかされたとしても、わたしを信じたらよい。主イエスに委ねたらよいのです。信仰とはすべてをキリストに託してしまうことです。丸投げすることです。その時、キリストが、すべてのことをその御手の中で成し遂げてくださるのです。私たちはそこで安心していたらよいのです。

 主イエスが、神ご自身が、私たちに信仰を与えてくださるのです。恵みを注いでくださるのです。主イエスのもとに、すべてのものがあって、私たちにそれを与えることができるのです。私たちの信じる度合いを問題にして不安になるのではなくて、すべてを主に委ねて、主に託したのであれば、あとは主がしてくださることに任せたらよいのです。それが、私たちの願っているようではなかったとしても、そこには主の最善があるのです。

 私たちの主、イエスは確かなお方です。そして、主は私たちに平安を与えることのできるお方なのです。

 お祈りをいたします。

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