・説教 ルカの福音書8章26-39節「レギオン 居場所のない者の救い」
2023.9.10
鴨下直樹
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来週、いよいよ第7回の日本伝道会議が行われます。今回は、岐阜の長良川国際会議場で行われるのですが、会場に近い教会ということもあって、私は最初からこの会議のための準備のメンバーに加わってきました。毎週、何時間にも及ぶ話し合いを続けてきましたので、ようやく伝道会議が始まるといった印象を持っています。
今回の伝道会議は「『おわり』から『はじめる』宣教協力」というテーマが掲げられています。今回は岐阜を会場に行われるのに、「尾張」と掛けているテーマが気に入らないなどという意見もたくさん耳にしました。けれども、全国の人々からすれば尾張も、美濃も、名古屋も、みんな東海地区でしょという印象のようで、それほど気にならないようです。
この「おわり」というのは、この東海地区から宣教協力を始めていこう、あるいは、それぞれの地域から宣教協力を始めていこうという意味が込められているのですが、それ以外にも、これまでの形骸化したやり方を「終わり」にしようという意味合いも込められています。
私たちは、自分たちの居心地の良い生活を続けていくために、嫌なものをどこか隅に追いやって、それこそ「臭いものには蓋」というような生活をしていることがあります。それを「タブー」と呼んだり、「聖域」と呼んだり、「伝統」と呼ぶこともあるのかもしれませんが、そこには触れないで、何とか合理的に解決する道を考えて生活しています。
この蓋をしている聖域に踏み込むことは、タブーです。先日来、大きな芸能事務所のタブーが何十年ぶりかで明るみに出されたというニュースが、連日報道されています。そこに切り込んでいくということは、かなりの犠牲が生まれることになります。
私たちの教会の中にも、気づかない間にそういうものが無いとも言えませんし、職場や、家族の中にも、いつの間にか、この話題はタブーだというようなものがあって、誰もそのことには触れないでおくというようなものが出来てしまっているかもしれません。
今回の伝道会議はまさに、そのようなタブーになっているようなことをも乗り越えて、宣教のために協力していこうということが呼びかけられているのです。
今日の聖書箇所は、主イエスが弟子たちを伴って船で出かけ、嵐を乗り越えて到着した、その先のことが記されています。
新改訳聖書をお持ちの方は、聖書の後ろに地図が付いています。その「地図11」というところを見ていただくと、ガリラヤ湖のすぐ右に「ゲルゲサ」という土地があります。その少し下に「ガダラ」がありまして、その更に下を見ますと「デカポリス」と書かれたこの地域の右側のすぐ下に「ゲラサ」という地名が出て来ます。
今日起こった出来事は、このゲラサでの出来事です。地図を開いているので、ついでに少しお話ししますと、このゲラサからガリラヤ湖までは48kmあるそうです。ここから、豚がガリラヤ湖まで走って落ちたとすると、マラソン並の距離を走らなければなりませんので、実際には「ゲルゲサ」であったのではないかと考えられています。それで聖書の欄外にある注にも、「ゲルゲサ」とか「ガダラ」と書かれていたという別の写本があることが記されています。ルカは、あまりこの辺りの地理に詳しくないのか、「尾張」も「美濃」も同じでしょというような感覚で、ゲルゲサもゲラサもガリラヤ湖の向こう側だからそれほど違いがないでしょと思っていたのかもしれません。
さて、そこでこのゲラサという土地のことを考えてみたいのですが、主イエスはどうしてゲラサにまで足を延ばされたのでしょうか? たとえゲルゲサであったとしても同じことなのですが、ガリラヤ湖の向こう側は主イエスの時代には異邦人の土地でした。そこは神が支配しておられる地域ではないと考えられていました。その土地を訪ねた時に、一人の人が姿を現しました。しかも、この人は27節によれば、「悪霊につかれている男がイエスを迎えた。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。」と書かれています。
その後の29節にあるこの人の人となりはというと、「汚れた霊はこの人を何回も捕らえていた。それで彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた。」と書かれています。
ちょっと関わり合いにはなりたくないような人物が、そのところに住んでいたのです。読めば、かなり狂気じみた人物です。ホラー映画か何かに出て来そうな風体です。
主イエスがガリラヤ湖の向こう側に行かれると、この男が出て来て主イエスを迎えたというのです。
「やばい・・・変な人が出て来た。」
それが、普通の反応だと思います。できれば関わり合いになりたくない人です。この土地の人々もそう考えて、鎖で繋いで縛り付けていたのですが、それを断ち切ってしまって、墓や荒野に住み着いてしまっていたのです。けれども、町の人々は自分たちがそこへ行かなければ、顔も合わせることはないわけですから、お互いにとって居心地のよい場所を見つけて、そこで何事も無く皆が生活できていたわけです。
普通であれば、それが最善の解決策です。この人は墓場にいる。私たちはそこには出かけない。それで日常生活が成り立つのです。けれども、主イエスにとっては、それはそのままにしておくことのできる事態ではなかったのです。臭いものに蓋をして、それで問題解決とはならないのです。なぜなら、まさにこのレギオンと名乗ったこの人そのものが捨てられたままになっているからです。
主イエスが、この人に名前をお尋ねになると、「レギオン」という答えが返って来ました。レギオンというのは、聖書の注に書かれていますが、「ローマ軍隊の一軍団」です。1レギオンは、6000人の軍団だったようです。実際に、この人に6000もの悪霊が働いていたかは分かりませんが、そう名乗るくらいに多くの悪霊が、この人を支配し、苦しめていたことが分かります。
この悪霊どもは主イエスに「底知れぬ所に行けと命じないように」と懇願します。そして代わりに、そこにいたたくさんの豚に入ることを許してほしいと懇願しました。
ここを読むと、どうして悪霊は豚に入るように願ったのだろうかということが気になると思います。ただ、その前にここで私たちが読み取らなければならないのは、豚がこの地域で飼われていたということです。
神の民の土地であったイスラエルの民の土地は、この時代には異国の人々が住み着いていて、ユダヤ人たちが決して口にしない豚を飼うような土地になっていたのです。つまり、汚れた土地であり、そこには汚れた生き物が飼われていて、そこに汚れた霊に支配されている人がいたということが、ここで描かれているわけです。
そういう土地は、イスラエルの人々からすれば、まさに「臭いものに蓋」という土地なのであって、わざわざその土地に足を運んで、その地にいる人を訪ねることはしません。しかも、レギオンと名乗るほどの多くの悪霊に支配された人がいたのです。そういう人と関わることに、何かメリットがあるとは思えません。少なくとも、この時代、イスラエルの人だけではなく、異教の民にとっても、それほどメリットのあると思えない人のところに、主イエスは足を運ばれたということが、ここから分かるのです。
そして、主イエスはこのレギオンという、たくさんの悪霊に支配された者の霊を、この人から追い出されて、豚に入れられたのです。すると、その豚は崖を下ってガリラヤ湖になだれ込んでしまい、豚の大量死という出来事が起こるのです。
この時の場面を映像にして見ることができたとしたら、おそらく、かなりの衝撃映像であったに違いありません。6000頭の豚が湖に入ったかどうかまでは分かりませんが、かなりの数の豚が、一斉に走り出して、47キロ走ったのか、わずか数キロか、数百メートルかどうかは分かりませんけれども、次々に豚が湖に飛び込んで溺れ死んでしまうのです。
皆さんなら、この場面をどのように想像し、ここからどんなことを考えるでしょうか?
34節以降には、この時の豚を飼っていた人たちの反応や、町でこの出来事を聞いた人たちが集まって来たことが記されています。来てみると、鎖で縛り付けられ、それを断ち切って裸で、墓や荒野に住んでいた、あの悪霊につかれた人が、今や正気になって服を着て、主イエスの足元に座っている姿を目の当たりにしたのです。
すると、この人々はこの出来事を見て「恐ろしくなった。」と35節に記されています。また、37節にはこのように記されています。
ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れに取りつかれていたからであった。
この土地の人々は主イエスに出て行ってほしいと願ったのです。
先日の祈祷会で、すでにこの聖書の箇所から丁寧な学びをいたしました。そこに出席された皆さんの意見も、この人々の気持ちが理解できるということでした。一つの理由は、豚を失った人たちからすれば大損害なわけで、こういう力が自分たちに向けられると、自分たちも損をすることになるかも知れないと考えるからということです。他に考えられる理由は、これほどの力を持っている人がいると自分も何かされてしまうのではないかという恐れが浮かんでくるからということです。祈祷会でもそんな意見が出されていました。
しかし、もしそういう部分しか見えないのだとしたら、何のために主イエスは、このゲラサの地にまで足を延ばされたのかが理解できていないままです。私たちがここで気付かなければならないのは、主イエスはこの悪霊の支配する土地、豚を飼っているような土地、人々からのけ者にされている人がいる、そういうタブーの世界に足を運ばれた。そして、そこで悲しんでいる人、そこで困っている人、孤独を抱えている人を救いたいと思っておられる。そういうことに目を留めなければなりません。
主イエスにタブーは無いのです。もし、そこでたった一人でも、誰からも手を差し伸べられず、人々から切り離されて生活している人がいるならば、主イエスは、そこに足を延ばされるのです。それが、主イエスというお方なのです。
その人が普通の人かどうか、その人がユダヤ人かどうか、その人が荒野に住んでいようと、墓場に住んでいようと、服を着ていない裸の人であろうと、主イエスはその人を分け隔てすることなく、その人に愛のみわざを指し示されるのです。
私たちは最近、「差別」という言葉をよく耳にするようになりました。主イエスの愛は、この差別を乗り越える愛のみわざです。そこには建前はありません。タブーはないのです。自分にとってメリットがあるかどうかなどという打算は少しも働いてはいないのです。
主イエスは、この世界で居場所を失っている者に向かって手を差し伸ばされるお方なのです。この人は、主イエスの救いを必要としていたわけではありません。むしろ、主イエスとの関わりを拒絶したいと願っていました。
今日の聖書箇所の中に、何度か「願う」という言葉が出て来ます。ここで描かれている願いは、自分本位な願いばかりです。
初めに出てくる願いは28節です。「私を苦しめないでください。」とあります。その次に出てくる願いは31節と32節、「滅ぼさないように、豚に入れてほしい」という願いです。そして、最後が人々の「ここから出て行ってほしい」という願いです。
けれども、主イエスがなさったみわざは、人々の願いを聞くということよりも、むしろ神の救いのみわざを行われることに、心を注いでおられます。
この神の思いは、この居場所を失っている人の救いです。主イエスがなさるみわざは、言葉に出てくる願いよりもむしろ、その人の心の中にある本当の叫びを聞いておられると言って良いのだと思います。
38節で、癒されたこの人が最後にささやかな願いごとを申し出ます。
「お供をしたいとしきりに願った。」とあります。この願いは、主イエスと共に旅をしたいという願いです。この願いは決して自分本位な願い事ではありませんでした。しかし、主イエスは、この人にこのように声をかけます。39節。
「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」
主イエスはそのように言われたのです。なぜ、主イエスは、この人が一緒に付き従うことを認めなかったのでしょうか?
39節の後半にこう記されています。
それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。
主イエスが、共に付き従うことを拒絶したことによって、この人は自分がこれまで生きてきた土地、自分のことを蔑んできた人たちの住む土地で、自分がどうしてこんなに変わったのか、どのようにして自分が救われたのかを証しする人として用いられるようになったということです。
つまり、この救われた人は、救い出されたことで終わりではなくて、そののちは主に救われたことを証しするという新しい使命に生きるようにされたということです。
主に救われるというのは、その時限りのことではありません。その後からの生涯、その後の人生がまるごと救われるのです。つまり、新しい生き方をするようになるということです。この時、悪霊から解放されたこの人には、主イエスと共に歩んでいくという選択もあり得たはずです。けれども、主イエスは、その道を歩ませるのではなく、その人が自分の生活の場で、新しく歩む道があることを体験することができるようになさったのです。
誰もが、彼を縛り付け、墓へと追いやり、荒野で生活させていれば、自分と関わりが無いから安心できると思っていた、まさにタブーだったその人が、自分たちの生活の中で生きていることを目の当たりにするようになるのです。当然、人々は気になって仕方がないはずです。誰もが何が起こったのか、知りたかったはずです。つまり、そういう場所にこの人を置くことを通して、神の救いの意味を、この人自身が知り、この人の周りの人にまでも伝えることができる道を示されたのです。
私たちの主は、あわれみ深いお方です。居場所を失っている人を救いたいと思っておられるお方です。このお方は、誰の目にも留まらないような、そういう闇の真ん中にまで来てくださって、まさに文字通り、そこに光をもたらしてくださって、救いの光を届けてくださるお方なのです。
私たちの主イエスは、居場所を失った者を救い出したいと願っておられるお方なのです。
お祈りをいたします。