・説教 「断食の心」 マタイの福音書6章16-18節
鴨下直樹
この山上の説教の第6章というのは、主の祈りを中心にして記されています。けれども、この祈りの前後に人前で見せる善行について、善い行いについて、主イエスはいくつかの注意を呼びかけています。もうずっと主の祈りを長い間かけて学び続けていましたので、この祈りの前後に何が書かれているかということを忘れてしまいそうですけれども、施しと、祈り、そして断食という当時の信仰者が大切にしていた信仰の姿を取り上げながら、主イエスはここで真の信仰の姿とは何かということを丁寧に語っておられるのです。
それで、今日語られているのが、この「断食」というところになります。「断食」というのは、今日の教会でそれほど熱心に勧められるということはあまりないように思います。信仰者の姿というよりは、むしろ健康に気をつけている人が食べ過ぎた時は断食がいいとか、体をリセットするために三日ほどの断食をするといいなどという言葉を耳にするほどです。しかし、そうだからといって、キリスト者が断食を全くしないということでもないようです。私の友人も、自分の進路をもう一度考えたいという時に、断食をして祈ったなどと言っておりましたし、牧師をしております私の父も、大事な決断をしようとする時には、断食の祈りをしておりました。私たちはこういう話を聞きますと、「そうか、断食というのは何やら大事なことを決断する時にするものなのか」という思いを描く方もあるかもしれません。断食というのはそもそもどういうものなのかということについて考えてみる必要があります。
少し話が変わるようですけれども、先日名古屋の神学校で講義をしてまいりました。そこでこんな話になりました。大きな決断をするときに、何を根拠に決断するかということです。そこで私が神学生たちに尋ねましたのは、「何か新しい道に進もうとする時に、何か良いことが起こると、神様がこちらに導いてくださっているのではないかと考えたり、あるいは、悪いことが起こると、神様はこの道を喜んでおられないと考えるのではないか」と尋ねました。そして、やはりそのように考えることが多いようです。こういうことは私自身にも経験があります。神学校の講義に間に合いそうになかったので、いつもは駐車場に車を止めるのですが、その日は学校のすぐ近くの空き地に駐車いたしました。この講義が終わって、急いで車を移動しようとして車のところに行ってみると、車に「駐車違反」のステッカーが貼られているのです。そこですぐに私は、神様はなんてひどいことをするんだろうと思いました。それで、考えるわけです。何かこのことから神様が私に教えようとされているのではないかと。もちろん、そこから大切なことが教えられたのですけれども、それは、どんなに急いでいようとも駐車違反はするべきではない、ということです。
私たちは、私たちの身に起こる事柄によって神からのOKサインなのではないか、NOのサインなのではないかなどと判断しようとすることがある。けれども、私たちがよく知っていなければならないのは、そこには、神に対して自らの信仰の決断によって応答しようとする思いはありません。自分で責任をもって神に応えて生きようという思いがないのです。けれども、私たちは身の回りに起こる出来事によって、自分の大切な人生の決断を、神の御心なのではないかと判断してしまうということがあるのです。そして、こういう判断の仕方は、本当に神に対する信仰の応答なのかということをよく考えてみる必要があるのです。こういう話はなかなかする機会がないということもありますけれども、どうもよく分かっていただけません。それほどに、私たちは神の御前に主体的に、自主的に判断して生きるということに慣れていないと言ってもいいのかもしれません。
ですから、断食の祈りをしながら、何かの決断をしようという時にも、間違ってはならないのは、祈りながら何かのサインを求めるようになるのであればやはり、気をつける必要があると思います。
聖書は断食をどのように教えているのかということに目を留めてみますと、今日の教会ではそれほど積極的に勧めることの少ない断食が、かなり多くのところに記されているということに驚きを覚えるほどです。たとえばその一つの姿は、神とお会いするために心を集中するためです。主イエスが宣教を始める前にやはり四十日四十夜の断食をいたしました。食べ物のことに心を向ける間も惜しんで、神に心を集中するというのが、この断食の一つの姿です。
第二サムエル記の12章18節以下のところで、ダビデがウリヤの妻であったバテシェバとの間に子どもができた時、神はそのことをお認めにならなかったために神に打たれ、この子どもが病気になってしまいます。それで、ダビデはこの子どものために断食して祈ります。食事もしないで祈りに集中したのです。けれども、神はこの子どもの命を奪われました。すると、ダビデは体を洗い、油を塗って、着物を着換えて食事をとります。これを見ていた周りの者たちはダビデに尋ねました。「どうして、子どもが生きていた間は、断食していたのに、子どもが亡くなると食事をするのか。」と。子どもが死んだ悲しみで断食するのは分かるということなのでしょう。ダビデは答えます。「子どもがまだ生きている時に私が断食して泣いていたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれないと思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食しなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。」と言っています。
ダビデはここで祈りに集中するために断食をしています。そして、それは、本当に心を神に注ぎだして祈る祈りであったということがよく分かります。ここに、一つの断食の祈りの模範的な姿があると言っていいと思います。
そのほかにも断食を示す色々な聖書の箇所がありますけれども、旧約聖書を見ますと、悔い改めのために断食の祈りをするということが多く載っております。神の御前に自らの罪を悔い改めるのに、食べたり飲んだりすることはできないだろうということです。これもまた大切な姿です。それほどまでに、神の御前に心を注ぎだして、自らの罪を悔い改める祈りの姿です。
先ほどイザヤ書の58章の8節以下の御言葉を読みましたけれども、ここに記されておりますのは、旧約聖書の断食の人々の姿です。そして、もうすでにこの時に、見せかけの断食というものが行われていたことがよく表されています。こんなにも私は熱心に祈っているのに、見てくれていないのですかという人々の叫びが初めにあります。けれども、そう言いながらその心にあるのは悔い改めの祈りではなくて、自分はどんなに立派な信仰者として祈っているかという叫びなのです。悔い改めの祈りをしながら、断食をしているけれども、そこにあるのは神の前に心を集中させた祈りの姿ではなくなってしまっているのです。
主イエスが主の祈りを教えられた後で、すぐに断食のことを語っておられるのは、まさにそのような悔い改めの祈りの中で、すぐに顔をのぞかせてしまうような誘惑に対して注意するようにと語っておられるということができます。先週も説教の中でふれましたけれども、悔い改めということ、ことに赦すということについて、主イエスは非常に心を注いで語っておられます。なぜかというと、それほどまでに、人を赦すということが難しいことだからです。そして、やっと赦すという決断をしたときに、すぐにまた続いて次の誘惑がやってくるのです。
今から十年以上前の作品だと思いますけれども、「ディアボロス」という映画が上映されました。この言葉は「悪魔」という意味のギリシャ語から来ているのですが、この映画は、今まで一度も負けたことのないというアメリカの弁護士の話です。この弁護士は裁判をしながら、自分が弁護を受けた人が次第に正しくないということが明らかになるのですが、もし負ければ自分の経歴に傷がつくということで判断に迷います。結局、最終的に裁判に負けるという決断を選び取って、自分は裁判に敗れるけれども、真実を選びとったというハッピーエンドのように描かれるのです。ところが最後の場面で、真実を知って弁護を降りたということからインタビューを受けて、「あなたは立派な決断をしましたね」とマスコミが駆けつけてくるところで終わるのです。その最後の場面で、もうそこから新しい誘惑が始まっているということが描き出されているのです。それほどきれいな作品ではないのですが、私はこれを見た時に一つの衝撃を受けました。どこからでもサタンは誘惑をすることをできるのだという恐ろしさに気づかされたのです。
ここで主イエスが悔い改めの祈りの時に、断食をするでしょう、けれども気をつけなさいと語っておられるのは、そういう私たちの弱さをよく知っておられる神が、私たちがどれほど誘惑に弱いかを知っておられるがゆえに、語っていてくださるということがよくわかるのです。
私たちが人を赦そうと思う。けれども赦すということは、損をすることです。自分の怒りを捨てなければならない。自分の悲しみを忘れなければならない。こんなに辛い目にあったのに、簡単に赦すことができるか。もったいないではないかという思いが、心のどこかに浮かび上がってくるのです。そうすると、そこで自分がせっかく赦すのであれば、自分がいかに信仰的に敬虔な人物であるか、どうせなら人に見てもらいたいと考える。もちろん、みんながみんなそう考えるわけではないでしょうけれども、その考えはよく分かると思います。何かを手離すのであれば、代わりの代償を受けることによって満足を得ようとするのです。私たちの中にはそのような心が入り込んできてしまうのです。それは本当に、恐ろしいほど簡単に、次の誘惑が待ち構えているのです。そして、主イエスはそういうことをよく知っておられるのです。それで、ここでまさに、赦しなさいということを語った直後に、断食の話をしておられるのです。
大草原の小さな家という物語があります。もともとはインガルスという家族の物語ですけれども、この物語がよくテレビで放映されておりました。最近でもやっているのかよく分かりませんけれども、ご存じの方も多いと思います。この物語はインガルスという家族が主人公で、四人兄弟の真ん中の娘であるローラという少女がでてきます。そして、このローラの物語がたくさんあります。町にはオルソンさんという商店を営んでいる家族がおりまして、ここにも二人の子供がおります。お姉さんの名前はネリーと言います。ローラとネリーは色々なところで喧嘩をしたり、問題を起こすのですが、その時は珍しくローラのほうが悪かったのです。自分が悪かったことを認めたローラはネリーにご免なさいと謝ります。今度はネリーのほうが赦してやる番なのですが、ローラが自分にしたひどいことを本当は赦したくないのです。けれども、周りの大人たちが見ている手前、赦さないわけにもいかない。それで、どうするかというと、腕を上から出しまして握手を求めながら、「あなたはわたしに悪いことをしたけれども、わたし、あなたを赦してあげるわ」と言いながらローラの手を強く握りしめるのです。自分は赦したくないという思いと、赦すなら、自分の優位をしめしたいという気持ちがよく表れているのです。
ここで、主イエスがお語りになっておられるのも、それと似ていると言っていいと思います。断食をするときに、いかにもやつれていますという顔つきをしながら、人によく見られようとする。けれども、そういう行為はそもそも、神に祈ろうという心はどこかにいってしまって、自分が立派だということだけを見せることに心を砕いているだけになってしまって、肝心の心は神に向いてはいないではないかということを注意しておられるのです。
私たちはこのように、人によく見られたいという思いが、私たちの心の奥に潜んでいます。敬虔なキリスト者であるということを示すことに、心を注いでしまうのです。先週も祈祷会が行われましたけれども、先週は加藤常昭先生の詩篇の説教を共に聞きました。その中に、自分が隠れたところで奉仕をしている。そういう姿が誰にも知られていない。牧師にも気づいてもらえない中でやっている、そうするとだんだん心の中で腹が立ったり、悲しくなったりするということが語られておりました。誰も感謝の言葉を述べてくれない。自分一人だけでやっているではないかという思いになるのです。そういう思いというのは、自分が報いられていないという思いから起こってくるものです。だから、誰も報いてくれない、誰もほめてくれない。自分が赦してやったからといってそれでどうなるというのか、ただ、自分が損をするだけではないか。それならば、いっそ自分がどれほど寛容であるかをみんなに少しくらい知ってもらったっていいではないかという思いに囚われるようになる。そうして、立派な信仰者の演技をするということになるのです。
ここに「偽善者」という言葉がでてきます。この偽善者という言葉は、もともとは「役者」という意味の言葉から生まれた言葉です。演じるのです。立派な信仰者だと演じることによって、人から認められようとする。こんなにやっているのだといって、目立とうとする。けれども、それは、演じているだけにすぎないのだということを、主イエスはよくご存じなのです。それは、本当の信仰の姿ではないし、神への心ではないのです。
けれども、主イエスはここで何を語っておられるかというと、報いがあるということです。人を赦すことは損をすることではない。隠れたところで、奉仕をすることは損をすることではない。断食をするというのは、神とお会いしたいがためにそこに集中したいからでしょう。だから、ここで「隠れたところにおられるあなたがたの父」と語っていてくださるのです。父なる神は、そういうことをちゃんと知っていてくださる。見ていてくださるのだというのです。もし、あなたが神にしっかりと向かい合いながら、神に応えて生きようとしているのであれば、誰かから認められなかったとしても、誰も気づいてくれなかったとしても、神はそれをちゃんと見ていてくださるのだ。神が報いてくださるのだよ、とこの天におられる父なる神の報いを語ってくださるのです。むしろ、神はちゃんと報いてくださるお方であるから安心して心を注ぎだして祈ったらいいと語ってくださるのです。
私たちは誰かから、自分のする行いについて、報いを願う必要はないのです。主イエスは報いもなしに、奉仕をしなさい、すべてを犠牲としなさいと言われているのではないのです。そうではなくて、ちゃんと父の報いを語っていてくださる。神が私たちを支えてくださるということなしに、私たちが正しく生きることは難しいということを知っていてくださるのです。
私たちのした良いことが、人に見られていないという悲しみも、あるいは、人を赦すという大きな決断も、それは小さなものではありません。自分にとっては考えられないほど大きな決断であるに違いないのです。けれども、それはどこにも表れないのは残念だ、つまらないと考える必要はないのです。私たちが人前に出ても、いつも喜んでいることができるようにしてくださる。それは決して本当は悲しい気持ちでいっぱいだけれども、人前で演じているようなものなのではなくて、神が知っていてくださるがゆえに平安をもつことができる。そのような報いを与えてくださるから、安心して生きるという報いなのです。
お祈りをいたします。