2011 年 7 月 24 日

説教:マタイの福音書13章44-52節 「天国の専門家として」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:36

2011.7.24

鴨下直樹

先週の日曜日、私はマレーネ先生と一緒に青年キャンプの奉仕に行ってまいりました。青年キャンプのテーマは「旅」です。聖書の中には旅を連想させる言葉がいくつもあります。

今、水曜日と木曜日の祈祷会で創世記をずっと学んでおりまして、現在はヤコブのところをもう少しで終わろうとしています。この祈祷会でアブラハムの生涯から順に学びはじめまして、ヤコブのところまで来たのです。私が、聖書の中から「旅」と聞いて直ぐに思い起こすのは、このアブラハムの生涯です。先日も、祈祷会の時に、少しアブラハムの生涯を振り返ってみたのですけれども、アブラハムの旅というのは、大変なものであったと言っていいと思います。まず、神から約束の地に行きなさいと言われて、約束の地、カナンの地に到着するのですけれども、そこには食べ物がなかったのです。到着したという報告もないままに、聖書は「さて、この地にはききんがあったので」と創世記第十二章十節に書かれています。

みなさんでも、そうでしょうけれども、どこかに旅行に出かけて、ついたホテルに食事がなかったなどということになったら、そんな旅行契約を立てた旅行会社に文句を言いたくなるでしょう。神様が旅を計画してくださるのだから、安心して身を預けたらいいということが記されているかと思うと、そんなことは全くないのです。

主イエスもまた、アブラハムと同様、旅の生涯をおくった人と言っていいと思います。ところが、主イエスもまた、天からこの地にお生まれになった時から、泊る宿さえなかったのだと、このマタイの福音書は記しています。神が私たちに与えてくださるこの人生の旅路というものは、どうも、それほど居心地のよいものではなさそうです。

さて、主イエスに従って行った弟子たちもまた、この旅に加わることになった人々です。彼らは、自分の仕事を捨て、自分のこれまでの生き方を捨てて、この主イエスと共にある旅に加わったのです。

旅には必ず目的地があります。アブラハムが約束の地への旅を目指したように、私たちもまた、約束の地を目指しつつ旅をしています。この約束の地は、主イエスがここで弟子たちに教えてくださったところです。主イエスはここで、旅の目的はどこかと教えておられるかと言うと、「天国」だと言われたのです。そして、この天国については、誰に話しても簡単に分かるものではないからと、たとえ話でお話しなさいました。

特に、三十一節以下のところは、主イエスの弟子たちにだけひそかに語られたものです。

主イエスはここで弟子たちに「天の御国は・・・のようなものです」と何度も続けて語られました。けれども、ここでは弟子たちに語っているわけですから謎としてかたられたのではありませんでした。

ですから、ここで主イエスによって語られた三つのたとえ話はどれもそれほど難しいものではありません。最初の四十四節にはこうあります。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持物を全部売り払ってその畑を買います。」

この時代というのは、ローマに支配されていた時代でしたから、ですから当時の人々は強盗や兵隊の略奪から自分の宝を隠す手段として財産をつぼに入れて土の中に隠しました。けれども、その持ち主が死んでしまったりすると、その宝は忘れ去られたまま、誰かの手に渡ることがあったのです。そういう土地で見つかった宝物は所有者のものです。そのような土地を主人から借りて耕していたところで宝を発見したのです。けれども宝を発見した人は、その土地を何とか手に入れれば、宝を自分のものにできるのですから、何とかして手にいれるために、借金をしてでもお金を作って、「その土地が気に入りましたので譲ってください」とお願いするのです。

四十五節の話も同じようなものです。

「また、天の御国はよい真珠をさがしている商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」

このようなお話を主イエスは続けてなさって、何を言おうとされているのでしょうか。

天の御国とはどのようなものかと言われているかと言うと、それは、非常に価値のあるものだということです。しかし、「だからそのような天の御国は価値があるものだから必死になって見つけなさい」と、ここで主イエスは語ってはおられないのです。何故でしょう。もう、この話を聞いている弟子たちはこの宝を見つけているからです。あなたはもう宝を見つけているのだ、だから、持ち物の全部捨てて、私に従って来たのだろうと主イエスは言われるのです。

確かに弟子たちのことを考えればそうかもしれません。けれども、自分はどうかと考えると少し不安になるような思いがあるかもしれません。いや、別に自分は全財産を捨てたわけではない。自分の持ち物は依然として、自分のものとして持っていると思われるかもしれません。しかし、私たちは私たちのそれまでの生き方、考え方、価値観というものを、主イエスを信じた時から、捨てて、この神の道、主イエスと共にある道を歩みとってきたのではないでしょうか。

ここでもう一度考えていただきたいのは、主イエスはこの話を、主イエスの弟子たちになさったということです。そして、この話の結論はどうなっているかというと、五十一節と五十二節に記されています。

「あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古いものでも取り出す一家の主人のようなものです。」

みなさんもお聞きになって「あれ?」と思われた方があると思います。ここで、主イエスは弟子たちのことを、「天に御国の弟子となった学者はみな」と言われたのです。

弟子たちのことを、学者と言われたのです。私がこの言葉に「あれ?」と気付いたのは、ある聖書学者がこの「学者」という言葉を「律法学者」と訳したのです。それで、あれ?弟子たちは律法学者なのかと気になりました。それで、この言葉の意味を調べてみますと、この言葉は「何かを学んでその知恵を持っている者」というような意味です。ですから、「学者」とか「律法学者」と聞くと、何か仰々しいイメージを持つかもしれません。自分の得た知恵によって生活している者というのは、学者と言ってもいいし、律法学者と言っても差し支えないのかもしれません。

主イエスはここで、ご自身の弟子に向かって、あなたがたは天国の学者にすでになっていると言われたのです。天国についてはすでに専門家だと言われたのです。しかも、それだけではありません。新しい物でも古い物でも何でも取り出せるようになっているとさえいわれたのです。これは、その道の達人になっているということです。もう何でも自由にこの道についてであれば、自分の判断でその知恵を出し入れすることができると言うわけなのです。

先日もある方と俳句の話をしておりました。まだまだ十分というところにはなかなか至らないということを言っておられました。俳句の世界には同人という方がおります。まだ不十分と思っていたとしても、同人になるということは、言ってみればその道の達人になったということでしょう。そのような芸を極める、あるいは道を究めることを、免許皆伝などと昔は言いました。その道は極めたから、もう免許をやろうと師匠が言う時に、それは、もう教えることはないから、あとは自分でその道をさらにはげみなさいということです。そんなことを言われると、俳句の同人の方は、いや、自分はまだそんな域に達してはいないと思われるのかもしれませんけれども、もう後は自分で修練するしかないのです。

それは、牧師も同じことかもしれません。神学校の学びを終えて卒業します。そうして牧師となるわけですけれども、まだ十分ということができるわけではないのですが、あとは本人がしっかりとそこで学んだものを土台にしながら、その後も学ぶ以外にないのです。

何かを学ぶということはそういうところがあります。けれども、そのようにして何かを学びとった、習得した時には、自分が学びとった中から、古い物でも新しいものでも取り出して来て、これはこうことだということができる自由を得るのです。

主イエスはここで、天国についての免許皆伝をこの弟子たちにお与えになられたのです。しかも、ここで言われているのは「天の御国の弟子となった学者はみな」です。「みな」と言われるのです。神の国に生きている者はみな、免許皆伝なのだと言われたのです。もう、天国については、学者だということです。ある牧師は「マスター」という学位があるけれども、まさに、ここで天国についてはもうすでにマスターの資格を得た、学位を得た。あなたがたはそのことをマスターしたのだと言う意味だと言われました。そういうことを、ここで主イエスは語られたのです。

初めに私は、神は私たちを天の御国を求める旅人として私たちを生かしておられるのだと言いました。神は私たちを、天国を求めて旅する旅人としてこの地に遣わしておられます。ところが、私たちはその天国について、良く分からないままに旅をさせられているというのではないのです。

アブラハムにしてもそうです。はじめに神は約束の地に行きなさいと目的を示して下さいました。そして、豊かな約束をくださったのです。それは、星の数ほどの子孫が与えられる、海辺の砂の数ほどの子孫の約束です。けれども、アブラハムはそのような約束の子であるイサクを得るまでに二十五年にわたる長期間の間、待たなければなりませんでした。そして、その期間と言うのは決して楽な年月ではなかったのです。最初から飢饉がありました。一緒に旅したロトとの別れがありました。戦争がありました。妻を妹と偽る過ちのために、妻を奪われることもありましたし、子どもが与えられないと言う不安から女奴隷によって子をもうけますが、今度はサラが、この女奴隷のハガルをいじめて追い出すというような経験もするのです。けれども、そのような厳しいと思える生涯であったとしても、神は、アブラハムに喜びを与え続け、希望を与え続けてくださいました。

そのように、神はアブラハムの生活をあらゆる面で支配してくださったのです。守り支えてくださったのです。そのように、神がその生活を支配してくださるということ、それが、神の御国、天国です。

神と共に歩むことが、天国を学ぶことなのです。ですから、アブラハムも天国の学者であるといえるのです。その道をマスターものと言えるのです。そして、神と共に生きている私たちもまた、そのように呼ぶことができるのです。何よりも主イエスがそのように読んでくださっているのです。

そうすると、一つの不安が浮かんでくるかもしれません。私はこの天国にふさわしいのだろうかという思いです。自分は神の国にふさわしくないのではないかという思いは、なかなか簡単に私たちから離れることはありません。

ですから、主イエスはこのたとえ話の最後のところで、こうお話になったのです。

また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、座り込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそうなります。御使いたちがきて、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

この四十七節から五十節に語られているのは、最後の裁きについての言葉です。そして、私たちはこのような言葉を耳にするとたちどころに不安になるのです。自分は、神に捨てられてしまう側の人間ではないのか。悪い者と言われているのは私のことではないのかと。

主イエスがここで語ろうとしておられるのは、前の毒麦のたとえも同じようなことが語られていましたけれども、明らかなことは最後の裁きはあるということです。そして、それは、神のなさる御業です。けれども、同時にここで主イエスが語ろうとしておられることは、このように話すことによって、自分は大丈夫だろうかという不安を引き起こさせることではありませんでした。

なぜ、そういえるのかというと、もうすでに最初に言いましたように、彼らは天の御国を発見して、主イエスに従って来た者たちだからです。そのように主と共に歩んで来ながら、自分は救われていないのではないかという不安を持つことは、神の救いが不完全であると思っているということです。神は私を救うことはお出来にならないのではないかと考えることは、神に対する罪であることを覚えていなければなりません。この神に対して申し訳のない態度であることを私たちは知らなければなりません。

神は支配してくださるのです。私たちの生活を、です。それが、天の御国です。この厳しい罪の世界の中にあって、私たちが神と共に歩むことができるように、私たちを支配してくださるのです。導いてくださる。私たちと共に生きてくださるのです。それなのに、この神の御業を信じないことは、このお方の前に正しくないのです。

神は私たちの人生の旅路に伴ってくださるお方なのです。そして、私たちのような不完全な者に、あなたは天国の学者であると、すでに卒業認定証すら渡してくださるのです。それが、イエス・キリストを信じたということです。もう、天国のことはマスターしている。理解していると、主イエスの方から、私たちのことを認めていてくださるのです。

ですから、私たちはこの天国を、日ごとの生活の中で味わって行くのです。神はここでも、私のことを支配していてくださる。ここでも、私と共に生きてくださっている。そういう天国を学びながら喜ぶ生活が、私たちの日ごとの祈りの生活です。祈りというのは、そのように天国について学んでいる中から紡ぎだされてくる神との交わりの言葉です。そして、そのような交わりこそが、私たちがすべての財産を投げ売ってでも手にいれる価値のあるものなのです。

お祈りをいたします。

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