2012 年 8 月 19 日

・説教 マタイの福音書7章7-12節 「律法にあらわされた父の心」

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2012819

聖書宣教会2年

舛田友太郎

序章:神の国は約束されている。自分のことばかりではなく、他者を愛しなさい。

1救いは約束されている

2律法にあらわされた父の心とは、私たちに対する愛である

3)律法にあらわされた父の心とは、私たちと愛の交わりを求められることである。

4律法にあらわされた父のこころとは、私たちが神の子どもとしてどのように生きるかである

序章:みなさんおはようございます。私のことを知らない方もおられるようですので、簡単に自己紹介をさせていただきます。私は東京にあります神学校で牧師になるべく学びをしております、舛田友太郎と申します。

よろしくお願い致します。

「律法」、聞き慣れない方もいらっしゃいますでしょうか。「律法」とは簡単に説明しますと、神が私たちに守るよう与えられた教えのことです。律法と聞くと「あ〜しなさい」「こ〜しなさい」「あれをしてはいけない」

「これはしてはいけない」と、神さまがとても厳しい命令を与えているとのイメージを持たれている方が大勢いるのではないでしょうか。大切なのは分かるんだけれども、どうにも苦手であるとの声をよく聞きます。

「律法」を避ける傾向が今日の私たちには見られるのではないでしょうか。「愛」や「恵み」に関する御言葉は好んでポストカードやカレンダーに使われますが、「偶像を造ってはならない」や「盗んではならない」との

御言葉はあまり見かけません。しかしこのような見方こそがイエス・キリストが「わざわいだ偽善の律法学者、パリサイ人」と厳しく非難された原因となるのです。大切なのは律法の心に目を向けることです。

「律法」を与えられたのは神さまです。ですから「律法」には神さまの心があらわれているのです。律法にあらわされているのは、私たちが礼拝する神さまの心です。ですから、避けたりないがしろにはできないはずです。

神の国の約束の確かさ

「求めなさい。そうすれば与えられます」「捜しなさい。そうすれば見つかります。」「たたきなさい。そうすれば開かれます。」。山上の説教の中で語られているとても有名な箇所です。

この箇所を読む多くの方が「欲しいもの、必要なもの、願望」は祈り求めれば神さまは叶えてくださるとの希望を抱くのではないでしょうか。私は混乱しました。あれが欲しいといくら熱心に祈っても叶えられないのですから。

私のように聖書の多くの箇所で誤解して読んでしまうことはたくさんあります。その誤解の多くが、読む範囲を狭くし過ぎることによって生じます。もう少し読む範囲を広げると、この箇所でイエスさまが主題にしていることが分かります。

少しさかのぼって633節を見ますと「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と語られています。マタイの5章から始まる山上の説教を通して、イエスさまは「神の国」に関して語られております。

つまりここでは「神の国」を求める者は与えられ、捜す者は見つけだし、たたく者は開かれますと、誰であっても神の国を求める者には必ず与えられるとの保証のことをイエスさまは語っておられるのです。

「求めよ」「捜せ」「たたけ」と命令しているのです。

イエスさまを信じるなら誰もが救われるとの救いの計画の全貌を聖書を通して知ることができる私たちにとっては、この命令は目新しいものでは無いかもしれません。しかし注意しなければならないのは、

この事が語られた時は誰もイエス・キリストが救い主であり、十字架に架かられることも知らないということです。

「神の国」とは選ばれた民イスラエル人の中の、それも律法を厳格に守り行なう者のみが入ることが出来ると信じられていた社会だったのです。

そのような社会背景にあって、イエスさまは、イスラエル人でなくても、律法学者やパリサイ人でなくても、求める者には「神の国」は与えられるとその「神の国」の約束の保証を明らかにされたのです。

:父なる神

そしてイエスさまは続けて驚くようなことを明らかにされました。それは全知全能の神が、求める者たちの父となって下さるという事実です。711節を見てください。「天におられるあなたがたの父が」とイエスさまは神さまのことをあらわしました。

おそらくこの時点より以前には、神さまが私たちの父であるという概念は存在しなかったのではないでしょうか。少なくとも一般的では無かったでしょう。しかし9節から11節にかけて、父親が子どもには良いものを与えると同様に、

天の父も求める者たちを神の子どもとして扱ってくださるから、良いものを下さると教えられたのです。

旧約の時代から語られてきた創造主が私たちの「父」となってくださる。神の子どもとされるのですから「神の国の相続」の約束は確かなんだと、11節まで明らかにされているのです。

律法にあらわされた父の心とは、私たちに対する愛である

そしてここからが本日の本題です。結論部分である12節を見てみましょう。7節から11節まで「神の国」と「父なる神」について明らかにされました。それを受けてイエスさまはこう結論されました。

12節「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」×2

よく読めば読む程なぜこのように結論されたのか分からなくなります。「ですから、確信をもって神の国を待ち望みなさい」との結論ならすっきりするはずです。しかし一見話の展開が合っていないように見える箇所も、

あることに注目すると、この7節〜12節にかけてイエスさまが語られた大切なメッセージが浮かび上がってきます。それこそが「父の心」です。父の心に焦点をあてて、ここまでを整理するとこうなります。

「あなたがたは、求めるならば必ず神の国は与えられます。その保証は確かなものです。なぜなら天の神があなたの父となられるからです。あなたが神の子どもとされるなら、あなたは父の心に従いなさい。

あなたには「神の国」が与えられるのですから、自分以外の他者のことをかえりみなさい。何事でも、自分が他者からしてもらいたいと望むことを、ほかの人にもしなさい。」と。

そして自分以外のものを自分自身のように愛することこそ、律法と預言者を通して語られて来た「父の心」である。

これが結論です。

父なる神は律法を通し、神を愛すること、そして神に従うこと、そして神を礼拝することを求められている。

冒頭「律法」は神さまの心をあらわしていると述べました。最初の律法で神さまは愛を示し、従うことを求められました。

創世記21617節をお開き下さい。聖書のはじめのほう3ページになります。ここをみなさんでお読みしましょう。

「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取ってたべてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」

これが人に与えられた最初の律法、神さまの教えです。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」とても簡単な命令でした。煩わしさを感じますか?何で神さまはこんな厳しいご命令をされたんだと思われますか?そんなことはないでしょう。

もう一度16節を見てください。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」自由に思うがまま食べよと、神さまはたくさんの自由を与えられました。そして善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと従うことを求められました。

その理由は食べたなら「必ず死ぬ」からでした。いのちを守る為に与えられたのです。律法に込められた神さまの愛を感じないでしょうか。むしろその愛に覆いをかけて、神さまから引き離そうとする蛇の存在こそを私たちは警戒し避けなければならないのです。

蛇 は狡猾でした。彼はエバの視線を神さまから外させ、守らなければならない命令に集中させ、神さまがいかにも理不尽な方であるように思わせたのです。私たち はここから教訓を得ることが出来ます。律法を神さまから切り離してしまうと理不尽さがあらわれてくるのです。律法にある私たちに対する神の愛を見失った 時、律法は私たちを束縛するものでしかなくなります。

ノア、アブラハム、モーセと旧約聖書を代表する人物と律法の心とをあわせて見ていきますと、神さまが私たちに何を望まれているのかが少しずつ明らかにされ ていきます。彼らと神さまはいつも交わりをもっていました。神さまは必ず彼らに直接呼びかけられました。そして従うようにと求められました。決して一方通 行ではない、又機械的に従う主従関係でもない関係が築かれていました。時にモーセは神さまにたてつきました。文句もいいました。それでもよしとされたの は、神さまが私たちに人格的な交わりを求めておられることをあらわしています。

申命記65節では預言者モーセは

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と命じました。同様にマタイの福音書の2237節で主語自身が命じられています

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」

そうです。神さまは私たちとの愛の交わりを求めておられるのです。申命記613節からそのことが明確にあらわされています。「主を忘れないようにしなさい。」「あなたの神、主をおそれなければならない。」「主に仕えなければならない」

「ほかの神々に従ってはならない。」「主が正しい、また良いと見られることをしなさい。」

こ のどの命令の後にも「なぜなら主はわたしたちと愛の交わりを求めておられるからです」とつけると、とてもすっきりしなしいでしょうか。なぜ主が私たちにこ のような命令をされるのかが分かるはずです。「主を忘れないようにしなさい。なぜなら主はわたしたちと愛の交わりを求めておられるからです」「主に仕えな ければならない。なぜなら主はわたしたちと愛の交わりを求めておられるからです」。律法にあらわされている父なる神の心とは「私たちとの愛の交わりを望ま れる父なる神の心」なのです。

3律法にあらわされた父のこころとは、私たちが神の子どもとしてどのように生きるかである

マタイ712節に戻りましょう。父なる神様は神の国が約束されている神の子どもたちががどう生きるべきかを明きらかにされました。

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」×2

これが律法であり、預言者ですと主によって私たちに明らかにされました。この事を再度説明いたします。

「あ なたがたは、求めるならば必ず神の国は与えられます。その保証は確かなものです。なぜなら天の神があなたの父となられるからです。あなたが神の子どもとさ れるなら、あなたは父の心に従いなさい。あなたには「神の国」が与えられるのですから、自分以外の他者のことをかえりみなさい。何事でも、自分が他者から してもらいたいと望むことを、ほかの人にもしなさい。」という意味です。

ではもう一歩前に進めて「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」とはどういうことでしょうか。それは別の箇所でイエス様が語っておられます。(マタイ2239節を皆さんでお読みしましょう)

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マタイ2239-40P46

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいとは一体どのようなことなのでしょうか。私は長い間悩んでおりました。隣人を私自身のように愛するとは一体どういうことなのか。分からずにいました。しかしあることがヒントとなり、

こ の律法が具体的にどのようなことを求めているのかを教えられました。皆さんは「ヤコブの手紙」という映画をご覧になったことはありますでしょうか。たいへ ん良い映画ですので、お奨め致します。その映画の中で、盲目のヤコブ神父と、元死刑囚の女性が登場いたします。あまり詳しくは説明いたしませんが、盲目の 神父の働きを助けるという約束で神父は女性を引き受けました。しかしなかなかの意地の悪い女性でした。とても愛せるような人物ではありません。

ある時、ヤコブ神父が家から離れた教会に置き去りにされました。そして女性は人生に絶望し、首をくくろうとしていました。この二人の間にはまったく愛とか 信頼とかいう関係はありませんでした。しかし、方々の末ヤコブ神父はいま首をつろうとしているその時、自宅に帰ってきました。その時に神父がかけた言葉が 心に突き刺さりました。

「あぁ、まだいてくれたんだ。ありがとう」。神父にとって何の益もない、それどころか害であるその存在を神父は感謝したのです。「君がいてくれて嬉しいよ」と。わたしはこの台詞こそが十字架まで従われたイエス・キリストの愛ではないかと思うのです。

「存在を喜ぶ愛」こそ、主の求められる愛だと私は思います。あなたの隣人の存在を喜びなさい。なぜなら、私もあなたの存在を喜んでいるのだからと、このマタイ2239−40節を読む度に私はイエス様に語りかけられている気が致します。

律法にあらわされた父の心とは「あなたの隣人の存在を喜ぶ生き方をしなさい。」と私たちが愛しあう事を求めることなのです。

結論

本日は駆け足でありましたが、律法にあらわされた父なる神の心を見てまいりました。

1)律法にあらわされた父の心とは、私たちに対する愛である律法と父なる神の心を、決して切り離してはいけない。

2)律法にあらわされた父の心とは、私たちと愛の交わりを求められることである。

それは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」との教えにはっきり書かれている

3)律法にあらわされた父の心とは、私たちが互いに愛し合う生き方を求めて行くことである。

それは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」との教えにはっきりと書かれている。

互いに愛し合うとは、「いてくれてありがとう」とただ存在を喜ぶことである。

律法の求めることは、神様の心を求めることであり、神様に近づくことである。私たちが近づけば神様も私たちに近づいてくださる。その神様の心である律法を 決してないがしろにしたり、煩わしいと避けてはいけない。それは神御自身をないがしろに、煩わしいと避けることになるのです。

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