2012 年 10 月 14 日

・説教 マタイの福音書28章1-20節 「恐れを乗り越えて新しく生きる」

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2012.10.14

 鴨下 直樹

 

 マタイの福音書をはじめから順に丁寧に聞き続けてまいりました。今朝で、マタイの福音書からの説教の回数は百十四回になります。二年半、いや殆ど三年にわたってマタイの福音書の言葉を聞き続けてきました。ある意味ではもう十分といえるほどマタイの福音書の言葉を聞き続けて来ましたけれども、私の心の中には本当に十分だっただろうかという思いがあります。今日の箇所もそうですけれども、やはりここは一度でなくて二度に分けて語った方が良かったのではないかと昨日の夜まで考えていました。もう少し話したい、話し足りないことが沢山あるという思いがあるのです。けれども、二度にわけることはしませんで、今朝はこのところからマタイの言葉を聞きたいと思っています。

 主イエスが十字架で死んで、墓に葬られました。主イエスの死はさまざまなものをもたらしました。このマタイの福音書の二十八章には三種類の人々が出てきます。主イエスの周りにいた女の弟子たち、主イエスの弟子たち、そして、主イエスを墓に押しやっていた番兵たちと祭司長、民の長老たちです。この人々の反応はまちまちです。しかし、この三種類の人々に共通する思いが描かれています。それが「恐れ」です。マタイは福音書の最後にこの「恐れ」について書き記しました。主イエスの死から、様々な恐れを呼び覚ましたのだということを訴えようとしているのです。死というのは人から希望を奪うものです。最初に描かれているのは墓の番をしていた番兵です。安息日が明け、週の初めの日、日曜の明け方、まだ早い時間です。マグダラのマリヤとほかのマリヤたちが墓にやって来ます。その時に、大きな地震がおこります。「主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわり」と書かれています。三節と四節にこう記されています。

その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 地震がおこり、天の御使いがその墓に訪れます。そして、番兵たちの前にあらわれる。その御使いを前にして、番兵たちは「死人のようになった」と言うのです。主イエスを死の墓に閉じ込めていた番兵たちが死人のようになったというのは、なんという皮肉でしょう。死んでいたのは主イエスの方で、彼らは主イエスを死に追いやった人たちです。ところがその人たちが死人のようになった。突然、天使の輝きにふれて、理解することができず、恐ろしさのあまり死人のようになってしまう。理解することのできない、天の完全な聖さの前に、死を覚えるほどの恐れを生じたというのです。天の輝きがまぶしければまぶしいほど、人は暗い存在なのだということを覚えさせられるのです。そういう恐れがあるのです。自分の闇を突き付けられる恐れです。

 

 しかし、御使いはまるで番兵たちなど目に入っていないかのように、主イエスの墓を訪れたマリヤたちに語りました。「恐れてはいけません」と。番兵たちと同じ恐れをマリヤたちも持つに違いないのです。番兵たちとマリヤたちの間には何の違いもありません。けれども、御使いは「恐れてはいけません」と語りかけます。何故か。神の聖さの前に人は恐れる必要はなくなったからです。本来「恐れ」とは何に根差すのでしょうか。ひとつの例は死です。しかしよく考えてみると、死を恐れるという場合、自分の体験したことのない未知の領域に対する恐れがそこにはあります。この先どうなるのか分からないという不安や、自分のこれまでの生活が死後の世界では決定づけられてしまうのではないかという不安から生じる恐れがあります。けれども御使いは、「あなたがたにもはやそのような恐れは支配しないのだ」と告げます。なぜなら、主イエスがよみがえられたからです。死は人を支配しないのだという事実を語るために、死に支配される、死から連想される恐れに支配される必要はないのだということを告げる必要があるのです。

 考えてみますと、死というのはさまざまなものを人に連想させます。たとえばそれは死後の世界です。人は死んだらその後どうなってしまうのか。天国と地獄というのはその最たるものといえるかもしれません。そして、この死後の世界に華やかなものを連想することが難しいのは、自分の生き方が自分に与えられた命に対して相応しいものであったか自信を持つことができないためです。自分は今までちゃんと生きて来た。だから、自分が死んだ後、確かな御褒美が待っているなどということはほとんど考えられない。それが、自分は死んだ後どうなるのかという不安となって襲ってくるのです。

 けれども、天使は語ります。つづく五節と六節です。

恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

 御使いは語ります。恐れに支配されることはない。見てみなさい。墓には何もない。主はよみがえられました。だから恐れに支配される必要はないのだと。だから続く七節では

ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせない。

と語ります。この素晴らしい知らせを早く弟子たちに伝えるのだと。

 

 

 ここにきてようやく弟子たちのことが語られています。女の弟子たち、マリヤたちが主イエスの墓に行ったのに、男の弟子たちは一体何をしていたというのでしょうか。はっきりしていることは、弟子たちは外に出ることが出来なかったということです。ローマの兵士によって主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑が確定してしまいます。そして、そのまま主イエスは十字架で殺されて、墓に葬られてしまったのです。弟子たちに残されていたのは、虚無感と恐れです。弟子たちは、これから自分たちがどうなるのかという恐れに支配されていました。だから、外に出歩くことすらできなかったのです。なぜかというと、周りの目が恐しいのです。ペテロは身をもってすでに経験しています。人々が自分たちを見つけると、あの裁判の席でしつこくペテロを見て、この人もあの人の弟子でしたと攻め立てた群衆の姿を容易に思い浮かべることができたと思います。これまで活動的であった主イエスの弟子たちは一切活動していません。マタイの福音書の第二十八章というのは、主イエスの弟子たちが主イエスの死後どのような動きをしたのかをほとんど描いていないのです。それほどまでに、主イエスの弟子たちは恐れに支配されていたと言ってよいのです。

 日本にはいろいろな時代劇といわれる物語があります。自分たちの主(あるじ)が何の罪も犯していないのに不当に裁かれて、殺されてしまう。日本の時代劇であれば、その弟子たちは勇んで仇打ちに出かけるところです。少なくとも、この裁判がどれほど不当なもので、間違ったものであったか、必死に資料を集めて、もう一度裁判の間違いを認めさせるというようなことくらいやってもよさそうなものです。そのほうがよほどドラマになったかもしれません。毎年年末になると主イエスとその弟子たちの物語として放送されてもいいようなものですけれども、ここで弟子たちは何もしないのです。そんなに主イエスの弟子は情けないのかとしか言わざるを得ない。まったく何もと言っていいほど、何もできない無力さが弟子たちの姿なのです。

 ひょっとするとペテロなどは周りの目を恐れたということもあったでしょうが、主イエスを裏切ってしまった、あの最後の大祭司の中庭の裁判で、イエスを知らないと三度も口にしたことが負い目となっていたのかもしれません。そういう自分の犯してしまったことに対する責任を感じていたということも言えます。そのような中でまるで墓に閉じ込められているかのように、弟子たちはひっそりとどこかに潜んでいるのです。

 主イエスが死んでしまう。そして、自分も外に出て行くことができないと感じている。そういう恐れに支配されてしまうと、人は将来に目を向けることができなくなります。ただ、見つめるのは過去ばかりです。そこからくるのは後悔の思いと、人に対する憎しみと、希望を持つことのできない恐れの中でなすすべもない自分の姿を見つめるだけです。まさに墓に大きな石が転がっているかのように、絶望という墓の中に閉じ込められてしまい、誰がこの大きな石を動かしてくれなければもう外にもでることができない。そういう当てもない思いに支配されてしまうのです。

 

 男の弟子たちはこうして恐れに支配されているのに対して、女の弟子たちは非常に活動的です。あらゆる聖書解説者たちが口をそろえて言います。女の弟子たちが復活の証言をしたとしても、その証言には何の法的根拠にもならない。裁判においてこの時代、女の人が証言をしてもそれは認められませんでした。それなのになぜ福音書は女の人たちの証言を記しているのか。まさに、それが事実としかいえないことなのだと、誰もが口をそろえて言うのです。

 墓からの帰り道に、女の弟子たちは大喜びで帰ってきます。そしてついに、その墓からの帰り道に復活の主にお会いするのです。九節をお読みします。

すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

 よみがえりの主が「おはよう。」と、挨拶をします。なぜ、よみがえりの朝、主イエスの最初の言葉が「おはよう」なのか。もうちょっと違う言葉があるのではないかと思われる方があるかもしれません。よみがえりの主がお語りになられた言葉にしてはあまりにも平凡すぎる言葉です。この主の言葉は、もともとは「喜びなさい」という命令の意味の言葉です。この言葉を挨拶の言葉として普段から使っていました。この日常使っている「喜びなさい」という挨拶の本当の意味を主は明らかにしてくださいました。

 昨年、この教会の伝道礼拝に松居直先生をお招きしました。最近時間があると、私は松居先生の本を読み返しています。自分の子どもに語るべき言葉を何とかして獲得したいと思うからです。この松居先生の書いた小さな本で「絵本・物語る喜び」というものがあります。その本の中で、松居先生がいつも言っていることですが、絵本は子どもに読んでやる本だと書いています。そのところで、こんなことを言っています。「言葉は、喜びと楽しみの中で聞くときにのみ心に残ります。」そのために、絵本を読んでやることは大事なのだというのです。喜びと楽しみの中で聞くときにだけ言葉は心に残る。

 この本を読みながら、恐れの中に生きていた人たちが一体どのように主の言葉を聞いたのだろうかと考えてみるのです。そうすると、そこで気づかされるのは、絶望と恐れに支配されていたマリヤたちは空になった墓を見せられます。「ごらんなさい、この墓は空だ。」そして、天の輝きに満たされた御使いに出会います。そこで、「恐れるな。主はよみがえられた」との言葉を聞きます。この出来事の中で一体何が起こっているのかをよく理解したに違いないのです。だから、恐ろしくはあったが喜んで帰って行ったのでしょう。この御使いの言葉は、マリヤたちにとって喜びの招きになったに違いないのです。そして、今度はついによみがえられた主イエスにお会いします。そこで、主から「喜びなさい」と告げられたのです。この時にはもう確実に喜びに支配されたに違いありません。これ以上確かなことはないのです。十字架にかかった主イエスが、ほんとうによみがえられた。だから、喜べと言っておられるのだということをここで目の当たりにしているのです。その時に主イエスがお語りになられた言葉は確かに平凡な言葉であったかもしれません。「おはよう。」いつも使っていた言葉です。けれども、そのいつも「おはよう」と使っていたその言葉が、確かな喜びの言葉として心に残った。だから、その言葉がそのまま記録されたのだということだと思うのです。松居先生が言われるように、これ以上に、心に深く残った言葉はないのです。自分の心に刻まれた言葉はない。いつも普段自分たちがあたりまえのようして使っている「おはよう」という言葉、それは「喜べ」という言葉だった。そうだ、私たちは毎朝、太陽が昇るたびに、「喜びなさい」とお互いに語り合うことができるようにされているのではないか。その言葉がそのまま聖書に記録されているということは、実に興味深いことです。朝が来るたびに、おはようと言う度に、このことを思い出したに違いないのです。そうだ、主はよみがえられた。だから喜ぶことができる。この朝、わたしに与えられているこの一日も、よみがえりの主がともにいてくださる。そう言いながらお互い、言葉を掛け合うようになったに違いないのです。

 

 

 そのようにして、喜びの言葉がここに残ったマリヤたちは、今度は弟子たちのところに福音を携えて行きます。「わたしたちの主はよみがえられた」という福音を届けるのです。

 「福音」とは「良い知らせ」です。そうであるなら、絶望の中に閉じこもっている人にとっても、福音は良い知らせ、喜びの知らせとして届くのです。もう一度十節の主の言葉を聞いてみましょう。

「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

 これこそ、墓のような大きな石に閉じ込められた、恐れに閉じ込められていた弟子たちが聞くべき福音です。恐れに支配されている人に向かって、「恐れるな」と語り、今度は「兄弟たち」と呼びかけられています。よみがえりの主とあなたがたは兄弟である、と主ご自身のほうから語りかけられたのです。そして、さらに弟子たちに目標を与えます。「ガリラヤで会える」との目標です。マリヤたちがもたらしたこの福音は、絶望という墓に閉じこもったままの弟子たちに重くのしかかっている石を取り除きます。絶望という石、恐れという石、将来が描けないという重い石を取り除いたのです。それこそが福音です。主イエスはよみがえられた。もう恐れに生きることはない。あなたがたとわたしは兄弟だ。そして、わたしともう一度ガリラヤで会うことができる。こうして、福音を聞いた弟子たちはガリラヤに向かい、そこで主イエスとお会いするのです。

 

 考えてみて頂きたいのです。福音は、恐れという現実、重い絶望という石を取り除きます。しかし、実際に弟子たちの身に降りかかってくる問題や、心配の種が消えたわけではありません。実際には弟子たちの状況は何も変わっていないのです。「恐れるな」と言われても、人々は弟子たちを厳しいまなざしで見るでしょう。ローマの兵隊たちが捕らえにくるかもしれないという危険は何も変わっていないのです。主イエスを信じたからといって、私たちの日常生活のさまざまな問題が急に何でもうまくいくというようなことではないのです。ただ、今まで自分のせいにしたり、周りの状況のせいにしたりしながら将来を描くことができなかくさせていた墓の石は、主のよみがえりによって確かに取り除かれたのです。死んだら終わりだ、自分の力だけでは何もできない、自分はダメな人間だ、周りの環境はひどすぎる、そうしたさまざまな状況に対しても、「主はよみがえられた」という言葉が、「あなたは兄弟だ」と語りかけてくれる言葉が、心の中に湧き上がる喜びが、それらの困難があったとしても向かって行くことができる確かな確信となったのです。

 なぜなら、主は人間の力ではどうすることもできない絶望的な死に対して、完全に主イエスは勝利されたからです。今、墓は空であるという事実がそのことを突き付けるのです。主がわたしとともにいてくださるのだということに気づかせるからです。

 

 ジェームス・ステュワートの書いた「受肉者イエス」というイエス伝があります。これは主イエスについて記したものの中でももっとも素晴らしい本の一つです。その復活の項目のところにこんなことが記されています。少し長いのですが紹介させていただきます。

 

 二つの絵を見てみよう。ひとつは、カルヴァリの後の夜、エルサレムの二階広間、小集団の人々が錠を下ろして閉ざされた戸の背後に震えている。誰の顔にも恐怖が見える。しかし、恐怖以上にさらに著しく、失意が、絶望的な決定的な回復しがたい失意が、誰の顔にも刻まれている。あまりにも痛ましくて悲しみに暮れて、物を言うこともできず、魂は無感覚な祈りさえできずに、茫然自失、途方に暮れ、彼らは黙って座っている。すべては終わった。運命は彼らを打ちのめした。生きる目的は何も残されていない。これが一つの絵である–無残な徹底的な敗北。

 もう一つの絵がある。数週間後のこと、同じ集団の同じ人々。しかし、もはや、閉ざされた戸の背後にこそこそ隠れてはいない。彼らは街頭に出ている。彼らは超自然的な確信に燃え立つ人々である。彼らの言葉は鉄のように鳴り響く。この世が聞かざるを得ない使信を彼らは携えている。彼らは全然恐れを抱かない。圧倒的に幸福であり。彼らは世界征服を企てている。

 最初の絵には望みを打ち砕かれた悲惨があり、他方には勇気溢れる聖徒たちがいる。一方には、手探りをしても何の効果も上がらない少数の残された者たち、他方には前進する戦いの中核がある。–しかも、両者の間には最も短い期間しか存在しない。この驚くべき、ほとんど信じがたいほどの変化は、彼らの生活にどのようにして起こったのか。我々はそれを説明できるだろうか。それは可能である。二つの絵の間に何事かが起こった。–キリストがよみがえられたのである。

 

 少し長い文章ですが、ここで語られている二枚の絵に描かれた大きな変化の間にはただ一つの出来事しかありません。キリストの復活の福音です。そして、あれほど恐れていた弟子たちは、ここで主イエスに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」との命令に従った結果、福音が世界中に宣べ伝えられ、この芥見の地にまでもたらされました。今日世界中に、キリストの教会が立ち、主のよみがえられたこの日曜日に礼拝が行なわれているのです。

 ここで決定的な出来事がおこります。それは全世界をもゆるがすほどの決定的な出来事です。恐れに支配された人々のところに一つの事実が飛び込んできます。それは主イエスがよみがえられたということです。彼らの状況は、その現実は何も変わらないのに、この弱い弟子たちによって世界に大変革をもたらしたのです。

 恐れるな、あなたは孤独ではない。恐れるな、あなたは一人ではない。恐れるな、あなたには将来が開かれている。恐れるな、あなたはわたしが語ったように生きることができる。恐れるな、あなたの罪はわたしがすべて担って死んだのだ、だから罪の問題を乗り越えて生きることができるようになる。あなたは新しく生きることができるのだ。なぜなら、死を打ち破った復活の主があなたと共におり、あなたに新しい人生を与えるからだ。神と和解し平安を与えられ、罪が赦されて死の恐怖から解き放たれ、そして、神の招きに応えて神の使命に生きることができるのだ、と主は言われるのです。

 この時にいた弟子たちも、そして、ここにいる私たちにもです。それゆえに、私たちは恐れに支配されることなく喜んで生きることができるのです。喜びにに支配されて、希望を持って生きることができるのです。わたしたちもこの主イエスとおなじように、「よろこびなさい」という挨拶の言葉をお互いにすることができる者に変えられるのです。

 

 

 お祈りをいたします。

 

 

 復活の主よ。あなたが私たちの心に届く言葉を語ってくださいました。空の墓を見せ、天の輝きを見せ、恐れるなと語り、喜べと語ってくださいました。あらゆるものを恐れる私たちです。過去しか見つめることのできない私たちです。絶望の墓に閉じこもることしかできないような私たちです。けれども、あなたはそれを打ち破ることのおできになるお方です。私たちに重くのしかけられたその墓の石は、あなたが取り除いてくだいました。主よどうか、あなたの「喜べ」との言葉に生きる者とならせてください。あなたの喜びに支配されて生きる者とならせてください。私たちの罪から自由になって、喜びが支配するようになりますように。私たちの悲しみが取りのけられ、私たちの恐れが取り除けられ、あなたの望みに生きることができるようになりますように。主よ。よみがえりの主が、私たちの前にも立って下さり、この言葉を語りかけてくださることに耳を傾けさせてください。そして、あなたの喜びに生きる者とならせてください。私たちの主イエス・キリストによって祈ります。 アーメン。

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