2017 年 9 月 24 日

・説教 マルコの福音書1章40-45節「憧れを見い出させる主イエス」

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2017.09.24

鴨下 直樹

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 先週火曜日、私たちの教団で長い間牧師として働いておられた後藤幸男牧師が天に召されました。水曜の夜に前夜式が行われ、木曜の午前中に葬儀が行われました。私は、水曜の前夜式に故人の思い出を語って欲しいと言われて、そこで、後藤先生との思い出を語らせていただきました。後藤先生はこの半年、自宅療養という形で、最後まで家族が寄り添いながら残りの時を過ごされたようです。私にとっては、同盟福音の初期の4人の牧師たち家族は、家族ぐるみのお交わりがあったために、大変親しくさせていただいていました。特に、私は同盟福音で最初の牧師家庭から牧師になったということもあって、後藤先生には、いつも厳しく育てていただいたと思っています。大変厳しい先生でしたので、たびたび叱られました。先日も、後藤先生の子どもたちと話していたのですが、ある兄弟は、「僕より叱られているかもしれんね」と言っていました。これは、別の見方をすれば本当に目をかけていただいていたということで、沢山愛されていたのだと改めて実感しました。

 聖書には沢山の癒しの話が記されています。けれども、前回のマルコの福音書からも明らかなように、主イエスは人の癒されたいという願いをよくご存じでしたが、癒すということにではなくて、主イエスご自身を知って欲しいということを願っておられました。病気が癒されることよりも、主イエスを知ることを大切にしておられました。ですから、大勢の人々が主イエスのところに押し寄せて来ても、主はそこに留まろうとはしないで、別の町に出かけて、ご自分のことをお知らせになりたいと願われたのでした。
 そういう意味で言えば、後藤牧師は本当に主のことをよく知っておられた方です。もちろん、癒しのために祈ったと思いますけれども、それにもまして、この主を知らせるためであれば身を粉にして伝道された方でした。そして、そのために生涯をささげたのだと言っていいのだと思います。

 さて、今日の箇所も3度目の癒しの出来事が記されているところです。お気づきの方も多いと思いますが、新改訳聖書の第三版は、これまで「らい病」と訳したところを、「ツァラアトに冒された」と訳しなおしています。これは、この「らい病」という言葉が差別用語だということが言われるようになって、それではヘブル語をそのまま使おうという一つの翻訳の新しい試みです。興味深いのは新共同訳聖書も同じように、差別用語、不快用語は使わないという基準があります。それで、旧約聖書では「重い皮膚病」と訳しました。これは、これまで「らい病」または「ハンセン氏病」と言われた病とは違って、皮膚病全体をもさす言葉なので、そういう翻訳を試みたわけです。けれども、新共同訳の新約聖書では「らい病」となっているのです。

 もう新共同訳聖書が出て、30年になります。今は、新改訳聖書も、この新共同訳聖書も新しい翻訳の試みをしています。それで、宗教改革500年を記念して、新改訳は新改訳2017という新しい翻訳が間もなく刊行されますし、新共同訳も、標準訳として来年に新しい翻訳のものが出版されることになっています。この新共同訳の翻訳が出されて10年ほどたった時に、ある雑誌で二人の聖書学者の座談会が記録されていました。それは、プロテスタントの代表として選ばれた木田献一という日本を代表する旧約学者と、数年前に出された岩波の聖書翻訳の責任を持たれた新約学者の荒井献という方との対談です。そのなかで、荒井さんが、こんな質問をしています。「どうして旧約では『重い皮膚病』と訳しているのに、新約では『らい病』のままなのか」というものです。そのときの木田さんの返答は「旧約聖書が訳されるのが非常に遅くなったので、訳語として統一できなかったのだ」という少し頼りない返事が書かれていました。ただ、それに対して荒井さんがこう言われました。「『らい病』や『重い皮膚病」と訳される『レプラ』という言葉は、本来、差別用語なのだから、『重い皮膚病』と訳してはメッセージ性が薄れてしまう。差別されていた人間の病を治して家に帰したというところにメッセージがあるのだ、だから岩波の訳ではらい病のままなのだ』。そのように書かれていました。それで、荒井さんは新共同訳聖書に提案として「新共同訳で「重い皮膚病」と訳しても最小限でもいいから短い注くらいはつけるべきだ」と言っています。

 この病に冒されていた人、あえて「らい病人」という言葉を使いますが、この人は、町の中で差別に苦しんでいた人です。人々と一緒に生活することができません。先ほど読みましたレビ記の規定によって、この人は「私は汚れている、汚れている」と叫んで歩かないといけなかったのです。そうしないと、うっかりこの人に触れてしまうと、その人もまた汚れた者として、その日は水できよめて、その日が暮れるまで人と一緒にすごす事ができなくなってしまうのです。ところが、今日の箇所で、この人は突然主イエスの前に現れます。そして、ひざまずいて「お心一つで、私はきよくしていただけます」と言ったのです。この「らい病人」、あるいは「重い皮膚病」に冒されていた人はここで、律法の戒めを破ってしまったのです。

 ここに、この人の切実さが描き出されています。病を患って家族からも引き離され、治るあてもなく、毎日「自分は汚れている」と叫びながら生活しなければならなかったこの人が、どれほど悲しみを抱えていたか分かりません。生きる喜びなど見出すことも困難であったかもしれません。それほどまでに人々から見捨てられた存在です。

 私たちでも、人生の歩みの中で、思わぬ壁にぶつかる時があると思います。後藤牧師のようにガンの再発ということもあるかもしれません。仕事や、家族のトラブル、さまざまな要因があります。自分で何とかできそうなことであれば歯を食いしばって何とか挑戦してみるかもしれません。けれども、どう考えても不可能のような状況に陥るとき、私たちはどうするのでしょうか。壁に向かって進んで行く気持ちが起きなくて、そこから引き返してしまうということがあるのでしょうか。
 
 今月のはじめに、ドイツからアライアンスミッションの代表であるトーマス・シェヒ先生が来日しておられました。この教会でも説教してくださいました。私は教団の役員会でも、また、先日行われた東海宣教会議でもゆっくりとお話する機会を得ることができました。特に、宣教会議の際は、日本の温泉に入ったことがないと言われたので、一緒に入ろうかと誘いまして、他に岐阜教会の川村先生と一緒に温泉につかりながら、2時間くらい様々なテーマで話をすることができました。話をしながら色々なことが分かってきました。このシェヒ先生は今44歳ですけれども、その前に二ヵ所の教会で牧会しておられた方です。ドイツのウェッツラーという小さな地方都市ですが、そこで伝道して150人の教会からはじめて数年間のうちに400人以上が礼拝に出席するほどの教会を作り上げた方でした。2時間温泉につかりながら、そこでお聞きしたのは、どうやって壁を乗り越えて来たのかという話でした。けれども、まずはシェヒ先生の話よりも、聖書が何を語っているかの方に目を向けた方がいいと思います。

今日の箇所の興味深いところは、この「らい病人」と記された人は、まさに、このどうすることもできない絶望の壁をどう乗り越えたのかという出来事だと言っていいと思います。この人は、戒めを破ってでも、主イエスの前に現れて、ひざまずいて言ったのです。

お心一つで、わたしはきよくしていただけます。

 私たちが壁にぶつかるとき、何を考えるかというと、壁がどれほど強固で、自分には乗り越えることはできそうにないと現実の厳しさに目を向けるか、あるいは、その壁に相対する自分をよくよく観察しながら、自分にそういう力があるかどうかを見極めて、自分に力がないと分かると、そこから目をそむけるかがほとんどなのだと思うのです。しかし、この人は違いました。そうではなくて、自分の病の先の生活を思い描き、そして、それを助けることのおできになる主イエスという方を見出したのでした。自分の病がどれほど乗り越えられそうになくても、自分自身にその困難な壁を乗り越える力が無かったとしても、この人は、主イエスのうちに、その壁を乗り越えさせるだけの力があることを見出したのです。

 私が今回シェヒ先生から学んだこともそのことでした。シェヒ先生は、ご自分の教会の現状を厳密に理解しようとしました。どういう人がいて、誰に何ができるのか、どういうことを思い描いているのかを聞いていったそうです。そうして、何ができるのか少し先を描いて見せていくのだそうです。そして、みんなで話し合い、主イエスの御心を求めて祈るのです。そうすると、みんなで祈っているうちに、その先のことが思い描けるようになる。ビジョンを共有するようになっていくのです。その時に、主イエスはその祈りを、現実のものとしてくださる。そういう主イエスに目をとめさせるのです。実に、聖書的なやり方です。そう、まさに、ここで主イエスがしておられるようなやり方なのです。
 「らい病人」は憧れをいだきました。主イエスにはそれがおできになると気づいた。主イエスをそのようなお方だと信じたのです。主はここでこの人にこうなさいました。41節。

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ」。

 主イエスは、このらい病人の描いた憧れを、彼をとりまく圧倒的に厳しい生活環境の先にある生活を、心に留められて、私の心もあなたの心と同じところにあると言われて、この人に手を伸ばして、癒されたのでした。すると、彼のらい病は癒されたのです。

 実は、ここにとんでもないことが書かれています。それは「手をのばして、彼にさわって」という言葉です。汚れている者、病に冒されているものに触れると、その触れたものも汚れた者となってしまいます。この汚れた者となるとレビ記の戒めではその日の夕方まで汚れた者となってしまいます。

 つまり、どういうことかというと、この汚れた者に触れるということは、主イエスは汚れた者となってしまうということを意味します。けれども、ここで大事なことは主イエスの方にはこの人の汚れが残ることになるのですが、この汚れた人はどうなるかというと、主イエスの聖さをいただくということになるのです。ですから、ここで何が起こっているのかというと、汚れたものと、聖いものとが交換されているわけです。主イエスの聖さをいただく代わりに、主イエスは汚れた者となったということなのです。宗教改革者ルターはこれを「喜ばしき交換」(Ⅱコリント8:9)と言いました。

 私たちは、壁にぶつかってしまう時にそんな方法があるなどということは思いつきもしないのです。主イエスご自身の持っておられるものと、自分自身の抱えているものとを交換してくださる方法があるなんて言うことを普通では思い描くことはできないのです。けれども、主イエスにはそれがおできになるということが分かるならば、そして、その主イエスに自分の身を委ねるならば、主はご自分の持っているものと、私たちの抱えているものとを交換してくださることができるのです。
 大切なことは、主イエスのうちには私たちの理解を超えた力があることを受けとめること、そして、そこから与えられた憧れを見失うことなく主を信頼するこができるかどうかなのです。

 さて、聖書はもう少し、この後のことを丁寧にかいています。主イエスはここで癒された人に何をなされたのかというと、

そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい」

と42節、43節に記されています。
 ここで分かるのは、主イエスによって癒されたこの人はまさに祭司の前でみせることができよう、完全にいやされたということです。そして、人に語らないようにということでした。

 なぜ、話してはいけないのでしょうか。こんな素晴らしいことを経験したら、話したくなるに決まっているのです。そして、結果、この人は我慢できずに話してしまうのです。主はなぜ、人に自分の身に起きたことを話すなと言われたのでしょうか。それは、この人が経験したことを理解することが出来ないからです。主イエスと出会った、この方に憧れをみいだしたのだということは、おそらく伝わらないで、起こった現象しか理解できないからです。そうすると、人の欲が刺激されるだけなのです。その本当の理由を人は知りたいとは思わないのです。

 ですから、私たちはここでよく理解する必要があるのです。私たちは結果を求めてしまいます。つい、そこに目が行ってしまうのです。けれども、主イエスは、ご自分を理解して欲しいと考えておられるのです。主を知るとき、私たちはこのお方の中に、私たちの本当の憧れの姿を見出す。主を知ることが大事なのです。そして、主イエスは、そのようなご自分を、ご自身そのものを私たちに与えたいと願っていてくださるのです。私に何かがプラスアルファされることではなく、主ご自身を獲得すること、これこそが私たちに与えられるものなのです。

 人の欲望が増幅する時、主イエスは寂しい所へ追いやられていってしまわれるのです。どんどん、人から離れて行かれてしまうのです。主イエスを悲しませることになってしまうのです。けれども、このらい病人のように、主ご自身を見出し、「お心一つで、わたしはきよくしていただけます」と主ご自身を求めるならば、主は喜んでご自身のいのちそのものをも、私たちに与えてくださるのです。そうです。主を正しく知るときに、私たちの壁は乗り越えていくことができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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