2018 年 12 月 2 日

・説教 マルコの福音書10章17-34節「金持ちとペテロと主イエスと」

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2018.12.02

鴨下 直樹

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 「本音と建て前」という言葉があります。時々、教会では本音で話せないというような発言が出ることもあります。信仰というのは、きれいな世界なので、どうしてもきれいごとを言わないといけないというような気持ちになることがあるのかもしれません。

 カトリックの作家の書かれた「本音と建て前」というタイトルの本があるのですが、ドイツから日本に来る宣教師たちが、日本人をよく理解するためにこの本を読むように勧められるのだそうです。そして、読んでびっくりするのだそうです。人前では建て前でものを言う。けれども、その心の中は全然違うことを考えているのだとしたら、それは「嘘」ではないかと思うのです。人の顔色を見ながら、体裁のいいことを言う。しかし、心の中では何を考えているか分からないのだとすると、もうどうしていいか分からなくなるのです。そういうことから、教会でもきれいごとを言わないで、もっとその心の中のドロドロしたもの、本音を出して話すべきだ、そういう議論が出てくるわけです。

 ここに、素直な一人のお金持ちが出てきます。彼は、小さなときから律法に忠実でした。きっと育ちがいいのでしょう。親がしっかりした人だったのかもしれません。性格も悪くなさそうです。他の福音書には青年と書かれていますから、若さも持っています。若くて、お金を持っていて、性格も良さそうで、両親もちゃんとしている。言ってみれば、大切なものを何でも持っている人です。これ以上、何を求める必要があるのかと思えるような人です。彼は、主イエスにこう尋ねます。

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいのでしょうか。」

 驚くべきことです。この人は、人が望むものをみな持っていても、それで幸せになるのではないということを知っているのです。永遠のいのちを得なければ、この世で何を持っていても、肝心のものが欠けているということを理解しているのです。

 彼は、目先のことだけを求めてはいません。しっかりとした考えを持ち、何が大事なのかを見極めることができているのです。こんなみどころのある青年が、果たしてどれほどいるというのでしょうか。立派な青年です。好青年です。非の打ちどころのない青年と言っても言い過ぎではないと思います。しかも、主イエスのことを「良い先生」と呼びかけるのです。あなたから学べるものがある。あなたは、普通の人ではない。良い先生です。私はあなたから、この大切なもの、今のいのちを豊かにするために必要なものを学びたいのです。必要な永遠のいちのをどうしたら得られるのでしょうと問いかけるのです。しかし、この人に主イエスはこう語りかけるのです。

「なぜ、わたしを、『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」

 これは、なぞなぞのような答えです。どういう意味なのでしょうか。主イエスのことを「良い先生」と呼びかけました。あなたから学ぶべきものがあると。しかし、主は「良い」方は神おひとり、つまり、わたしを見るのではなくて、神を見上げなければ見えてこないと言われたのです。そして、これが、この長いテキストの語っている答えのすべてなのです。

 主はそう言いながら、十戒の後半部分を引用して、この神を知るということは、十戒の後半部分をちゃんと行う心によって示されると言われました。この主イエスの言葉に対して、この青年は、「先生、私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」と答えます。

 この後半の戒めが語っているのは、隣人を愛することと、一言で言い換えることができます。彼は、十戒の戒めをちゃんと行ってきたと答えているのです。隣人を愛してこれまで生きてきたのです。ということです。けれども、主イエスはすぐに、この青年の問題点を指摘されます。ならば、やってみなさいというわけです。それが、

「あなたに欠けているところが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

と言われたのです。

 隣人を愛して来たと言うけれども、そうならばやってみなさいと主イエスは言われたのです。それが、持ち物をすべて売り払って貧しい人に施すということです。つまり、この青年をもってしても、神の国には入れないのだということなのです。人が望むものを持っているように思えたとしても、それはその人を救うものにはならないというのです。神の国とあなたは何の関係もない。永遠のいのちはあなたのところにはもたらされない。この青年がだめなのだとしたら、果たして、誰が神からの救いである神の国や、永遠のいのちを受け取ることができるというのでしょうか。

 お金を全部捧げたら、神の国に入れるのでしょうか。もしそうであれば、宗教改革の時に、免罪符を買うためにお金を払って、神の国のパスポートを手に入れようとしたことと何が違っているというのでしょうか。先ほどの「聖書のおはなし」で出てきた、赤毛のアンの子どもの話がありました。交換条件の祈りです。神様に祈りをかなえてもらう代わりに、自分にも課題をかすのです。そして、その祈りははじめのうちはたまたまうまくいったというのです。こういう考え方は、どこかで合理的に思えます。

 この後出てくる、らくだが針の穴を通るというのも、そのように理解されることがあるのです。エルサレムの城には小さな入口があって、その入口はらくだが荷物を降ろしてひざまずくとちょうど入れるくらいの大きさだといいます。約束のものを手に入れるために、謙虚になる。神の国を手に入れるためにお金をすべて施す。そうやって条件をクリアーすることで、その代わりに約束のものを手に入れられると考えると、やりがいもあるし、分かりやすいのです。

 ここで、主イエスはこの青年に、持ち物をすべて売って、貧しい人に施すように言われた意図は一体なんでしょう。これは、救いの条件なのでしょうか。救われるために、みな持っている全財産をすべてささげないといけないのでしょうか。そうではないような気がします。しかし、確かに主イエスはそのことをここで求めておられるのです。

 主が問われていることは、私たちのする行為ではないはずです。行いによって救われるのではないのです。ならば、なぜでしょう。問題は、18節で語られていた「神が良い方である」ということを知っているのかということです。隣人を愛することを求められたとき、主は隣人を見る前に、十戒の前半部分、神を見上げること、神を愛する心があるのかを問題にしておられるのです。

 神を愛しているなら、神が良い方だと知っているならば、神は貧しい人を憐れまれる主だということを知っているはずだ。この神を愛するように、隣人を愛する愛があるのか、そのことがここで問われているのです。表面上の問題ではないのです。建て前で愛することができても、本音で神を愛していないならば、その愛は見抜かれてしまうのです。心の奥底から、神を愛し、神の愛に生きたいと思う。その信仰がなければ、神の国を得ることはできないのです。だから、主イエスは27節で、

「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

と言われるのです。それはまさに、らくだが針の穴を通るほど、可能性のない話です。人間が努力してなんとかできる問題ではないのです。主イエスのことを知りたい。神の愛に答えて歩みたい。そういう思いは、神が与えてくださるものです。人間の努力で得られるものではないのです。そして、それは信仰の建て前を整えて生きることでもないのです。まさに、キリストに魅せられて、神の愛に応えたくて、気が付いたら、財産をすててもいい、そして、そのお金を貧しい人のために使ってもいいと思える。心の底からそう思えるようになる時に、それはまさに神がその人を信仰に歩ませ、信仰に生きる者へとつくり変えてくださっているのです。

 さて、そこに弟子たちが登場します。ここに出てくるのはシモン・ペテロです。主イエスの言われることを聞きながら、自分は気が付いてみたら、全部捨てて来たではないか。確かに私たちは、全部捨てて主に従っている。ペテロの顔は得意顔になっていたと思います。ここまでしてきたのだから、何か得られるはずだと考えたのです。金持ちの青年にはなかったものが、自分にはある。自分はちゃんと行うことができた。そういう誇りがあったのだと思います。

 これに対して、主イエスは今の世で迫害を受けることもある。けれども、この世で百倍の祝福を受けるのだと言われました。また、永遠のいのちを手にすることになるのだと言われたのです。このお調子者のペテロをいさめたりはなさらなかったのです。

 ところがです。このすぐ後で主イエスは二度目の受難の予告をなさいました。ここまでくると、ここでマルコの福音書が何を語ろうとしているのかが見えてきます。それは、つまり、金持ちの青年は結局何も手に入れられていないのです。そして、主イエスの弟子たちも、自分たちが主の求めていることをできていると思い込んでいるけれども、ここに来て、問題が明らかとなるのです。それは、神の国を得るためにすべてのものを捨てるというのは、主イエスがこののち、十字架にかけられて苦しみを受けられることの中にこそ、示されているということなのです。隣人を愛するというのは、そのために財産だけではない、自分の命さえも捨ててしまうということです。家族や畑、仕事を捨ててそれで充分ということではなくて、結局のところ、何もかもすべて失ってしまう、主イエスこそが、この神の願いに完全に応えることになるのだということをここで語ろうとしておられるわけです。

 わたしは今から死刑に定められる。異邦人には悪口を言われ、嘲りを受け、唾を吐きかけられ、鞭で打たれ、やがては殺されてしまうというのです。こうして、人間にはできないことを主イエスがしてくださったのだということが、すべてなのだということが分かるのです。

 信仰は表面を取り繕うことでなんとかなるようなものではありません。むしろ、キリストと出会うことを通して、自分の本音の部分までか変えられて、神の御心に生きたいと思うように変えられるのです。

 昨日は午後から半日役員会がありまして、この一年を振り返りつつ、新しい一年の歩みについて話し合いました。また、夜は壮年会の夕食会があり、楽しい時間を過ごしました。そのどちらでも、集われた方が、どれほど神様と共に歩むこと、聖書を読むことを大事にしているかということを話してくださいました。それは人に良く見られたくて口に出た言葉ではありませんでした。いろいろな葛藤をしながら、本当に聖書を読むこと、教会にくることが自分の今の生活を支えているという証しでした。もう、それが自分の本音になっているのです。それは、神がしてくださったことです。そして、わたしたちはさらに主と出会いながら、私たち自身がこれからも変えられていくことを期待しているのです。

 今日からアドヴェントを迎えます。いよいよ12月を迎え、私たちはキリストが文字通りすべてを捨ててこの世界に来られたことを心に留めようとしているのです。それは、神の私たちへの愛です。十字架で殺されるために神は主イエスをこの世界に遣わされたのです。この主を知れば知るほど、私たちは変えられていくのです。キリストのように、人を愛するもの、隣人を愛する者へと、変えられていくのです。

お祈りをいたします。

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