2019 年 10 月 20 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章13-18節「主にある望み」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:18

2019.10.20

鴨下 直樹

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 今、私たちは第一テサロニケ人への手紙からみ言葉を聞いています。このテサロニケ人への手紙の大きな特徴は、「再臨」というテーマが取り上げられていることです。けれども、この「再臨」というテーマを私たちはあまり大きなテーマとしてとらえていないところがあります。というのは、主イエスが再び来られるというこの聖書のメッセージを私たちはどのように受け止めてよいのか、よく分からないところがあるからです。

 けれども、このテーマは親しい人が死を迎える時にどうなるのかということと深く結びついています。そして、ここでパウロはまさに、このテーマを語っているということを、まずしっかりと理解する必要があるのだと思います。

 今日の箇所を読んでいますと、どうも、テサロニケの教会で予想外の出来事が起こったことが読み取れます。それは、まさに再臨がテーマの出来事です。テサロニケの人々もパウロたち最初の教会の人々も、主イエスが来られるという、再臨を待ち望んでいたのですが、テサロニケの教会の仲間の誰かが亡くなったようです。それで、教会の中に動揺が広がっていたようなのです。主イエスがすぐにも来てくださる、まもなく再臨があると考えていたら、その間に教会の中から召される人が出てしまったのです。そのために、いったいこの人はどうなってしまうのだろうかという不安が教会の中に広がったのです。

 今、私たちはこの初代の教会の時代から2000年ほど後の時代に生きていますから、当時の教会の人々のこのような切迫したような感覚というのはなかなか感じられません。けれども、そういうことがあっただろうなということは、想像できると思います。

 10日ほど前のことですが、ある牧師と話をしていましたら、その牧師の前任の牧師は、召された人は今、眠りの状態にあると教会の葬儀で説教しておられたのだそうです。それは、おそらく、このテサロニケの手紙の、まさにこの箇所に書かれていることを受けて、話されたのだろうと言っておられました。ところが、葬儀の時に、そのような話をなされたので、教会の人々や家族の人たちが、そうするとどこに希望があるのか分からないと感じて、とても不安に感じているということでした。

 この話を聞きながら、確かに同盟福音でも死後にどうなるのかということについて、「信仰基準解説書」にもそれほどきちんと書かれているわけでもありませんから、いろんな考えをもっておられる牧師もあるかなと、改めて気づかされました。みなさんの中にも、これまで教えられた先生によって、いろんなことを聞いておられるかもしれません。

 ここに書かれている「眠っている」という表現は、後になってイメージとして死後に一時的な待合所のようなところがあるのではないかという考えが生まれてくるきっかけとなりました。それが、カトリックの「煉獄」という考え方に結びついていったわけです。

 パウロがここで「眠っている」という表現を使ったのは、「イエスにあって眠った人」とあるように、今その人は主イエスのうちに入れられているという理解があるからです。「イエスにあって」というのは「主イエスの中にある」という書き方をします。その人はもう死と区別されているので、「眠っている」という表現を使っているわけです。ですから、本来、ここで語ろうとしているのは、死後の世界に、どこか冷凍室のようなところがあって、そこで氷漬けにされているということではないのです。

 ただ、ヨーロッパなどでもそうですが、教会の地下が家族の墓になっているような古い教会がありますが、そこではそこに肉体と魂とが残っているというようなことが考えられてきました。そして、最後の審判の時に、みなそこからよみがえって天の御国に入れられるのだという考えが出てきたわけです。

 私たちも、ある人たちは肉体と、魂とが分けられて、死んだときには魂だけが先に神の御許に行って、裁きの時になると体が与えられるのだというような、二段階の考え方をなんとなく持っている方があるかもしれません。特に、日本では遺体を火葬にしてしまいますから、「戻る肉体がなくなってしまうから火葬にはしないでほしい」と語った、これまでの宣教師のことなどが語られたりするわけです。

 実際このように、死んだときに私たちの魂や体はどうなるのか、いったい聖書はどう教えているのかという考えは実にいろいろあって、そして、そのどれもがなんとなく分かったような、分からないような気持にさせているというのが、ここからよく分かるのです。

 そこで、私たちがこのことを正しく理解するために、まず理解しておく必要があるのは、このテサロニケの手紙が書かれた当時の教会は、再臨ということの見方もまだ落ち着いていない状況であったということです。そういう中ではじめて教会の中に、死を迎えた人が出たのです。当然、人々は不安になりました。そこで出てきた不安というのは、この人は主の再臨に居合わせることができないという事実です。再臨の主とその時に顔を合わせることができないわけです。そうすると、この人は救われないのではないかとか、神の国に入れてもらえないのではないかというような不安が一気に広がったのです。それで、パウロはそういう不安を抱いている人たちに、もし、私たちが主の来臨の時まで残っているとしても、先に眠った人たちより先になることはないのですと、この15節でまず答えているのです。つまり、再臨の前に死を迎えた人も、かならず私たちと同じように、いや、私達よりも先に、主にお会いすることになるだろうということを、まずパウロはここで語っているわけです。

 そのことは、ここからよく分かると思います。さて、問題はその後の16節以下です。この主との再会をどう果たすかということが、ここで語られています。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 このことを説明する前に、知っている必要があるのは、福音書では主イエスのことを「人の子」という称号を使っているということです。それが、ここで書かれていることを理解するための鍵となっています。「人の子」というのは、ダニエル書7章13節で「人の子のような方が、天の雲とともに来られた」と書かれていて、このお方に「主権と栄誉と国が与えられ」と書かれています。そして、イザヤ書53章に書かれている「苦難のしもべ」と結びついて、それまで理解されていた「メシヤ」というのはヒーローのような救い主のイメージでしたが、福音書では「人の子」として来られ、天の権威をもっておられると同時に苦しめられて、人の傍らにおられるお方としてのメシヤ像が語られています。そして主イエスの弟子たちは、このことが理解できなかったということが、福音書に書かれているわけです。パウロは、このことをよく押さえていて、この「人の子」のイメージとして聖書に書かれている、ダニエル書の「雲に乗ってこられる方」がここで出てきているわけです。

 実際に人の子としてこられた主イエスは、雲に乗ってこられたのではなくて、赤ちゃんとなって、飼い葉おけに寝ておられるお方として、ご自分をお示しになられました。ですから、この雲に乗られるお方というのは、人の子のイメージとしてあるのですけれども、それが実際的に解釈されてはきませんでした。ところが、パウロはここで、この「雲に乗って来られる方」というイメージを再臨と結び付けて語っています。ここで大事なのは、主イエスはよみがえられたお方ですから、この地上の支配者のような王という姿を拒絶してられるので、パウロは、空中の権威を持つお方として、この人の子のイメージを提示したのでした。

 その意図は、実際に、空中で主と出会うということをまず語りたいことなのではなくて、地上の支配者よりも権威のあるお方が、よみがえりの主イエスであるということです。そして、空中で主と出会うという表現をすることで、主イエスのよみがえりの力は、まさにこの全世界を支配しておられるということを示しているわけです。大切なことは、まずここでパウロが語ろうとしている意図をしっかりと聞き取ることです。こまかな描写が確かにあります。「空中携挙」というような言葉が使われたりすることもありますが、その描写が、パウロがここで言おうとしている意図ではないということを理解する必要があると思います。もちろん、実際に最後の時にそういうこともあるかもしれません。それは誰にも分かりません。パウロにも分からないことだと思います。それは、主だけが知っておられることです。

 ただ、主の教会はこの時から2000年にわたって、多くのクリスチャンたちを神の御許に送り続けてきました。二週間前にも、小林牧師の葬儀を行いました。けれども、その時、だれもが、確信をしているのは、信仰を与えられてこの地上の生涯を終えた者は、確かに今、神の御手の中にあるという事実です。今眠ったままの状態であるなどと語る必要もないと思います。私たちの主はよみがえりの主、いのちの主です。

 私たちは、肉体も霊も魂も一つとされた完全な状態で主の前にいるものとされていると信じていいのです。そして、その人は終わりの時の裁きの時まで待たなければならないのではなく、もうすでに完全な神の国の民とされていると信じることができるのです。
パウロはここで語っています。主イエスにあって眠っている人たちは、望みのない人のように悲しまないと。悲しみに支配されることはないのです。

 二週間前に小林牧師の司式をいたしました。望みにあふれた葬儀でした。もちろん、家族には、別れの悲しみはあるでしょう。けれども、小林牧師もまた主にあって眠りについた方なのです。そして、今確かにこの地上ではなく、天の支配のもとで主と再会を果たされたのです。だから、望みをもって歌を歌うのです。ともににこやかに葬儀をすることができるのです。そこには、確かな希望があります。主に与えられた自分の人生を全うしたという喜びがあり、そして、今その勤めを終えて天の御国に神の御前で永遠の喜びの中に招かれているという確信があるのです。なぜなら、聖書がそのように約束しているからです。それは、今日の聖書の表現を使えば雲の上で、主と再会しているという表現になるのかもしれません。

 それは、私たちに見えることでなくてもいいのです。私たちは知っています。私たちのいのちは、もうすでに主のものとされていることを。そして、私たちのいのちは確かに約束されているように、永遠のいのちが与えられていくことを私たちは知っているのです。私たちは、死が私たちに訪れるまで、あるいは、主の再臨のその時まで、私たちに与えられた一日一日を、最後の時まで精いっぱい生ききることができる。それが、主によって私たちに与えられている望みなのです。

お祈りをいたします。

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