・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章9-12節「クリスチャンの品格」
2019.10.13
鴨下 直樹
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先週末からこの土日にかけて過去にないくらいの大型台風が接近しているという報道がされています。各地でもさまざまな甚大な被害が出てしまったようです。これからもっと被害の実情が分かってくるのだと思います。この岐阜はというと、幸いあまり大きな被害は出ませんでした。もちろんそのことはとてもうれしいことなのですが、なんとなく肩透かしをくらったように感じるということもあるのではないでしょうか。
私たちは、勝手なものですけれども、甚大な被害を被ることは避けたいと思っているわけですが、普段の日常生活に、ちょっとしたハラハラやドキドキを求めているところがあるのかもしれません。
それと同じようなことかもしれませんが、信仰も同じように考えてしまうことがあるのかもしれません。何かそれこそ大事件でも自分の身に降りかかってくれば、自分の信仰もそれを機会に劇的な変化を遂げるかもしれないというような幻想を描いてしまうこともあるのです。それくらい、ふつうの毎日ということに飽きてしまうということが起こりうるのです。
先週の火曜日のことです。名古屋教会で牧師をしておられた小林秀臣先生の息子さんから電話がありました。秀臣先生が亡くなられたという知らせでした。秀臣先生は私が以前在職した教会の長老をしておられた方で、仕事を退職されてから名古屋の神学塾で学ばれて牧師になられた方です。牧師を退職されてからは隣の可児教会のメンバーになっておられたのですが、火曜日に亡くなられました。たまたま、可児教会の牧師である脊戸先生が、可児のワイゲル宣教師のドイツでの結婚式に出るためにドイツに行っておられて留守だったために、急遽私が葬儀の司式をすることになったのです。
「秀臣さん」、いつも、そのように呼んでいましたので、そう呼ばせていただきたいと思いますが、昨年ご自分で本を出されました。言ってみれば自伝のようなものです。自分の人生の折々に書き留めて来たものを一つにまとめて本にされたのです。その本には、本当に自然な家族への言葉であったり、家族のことを書き綴った言葉であったり、あるいは長年高校の先生だとか、学校の校長として働いておられたので、その時に書き記してきたものなどが書かれています。その本の名前は「おもしろ人生、おもしろ聖書人生」というタイトルです。
書店にならべたらあまり売れそうにないタイトルかもしれませんが、自分の人生を面白がっている一人のクリスチャンの姿を見ることが出来ます。
今日の聖書、4章1節に、今度出ました協会共同訳では「現に歩んでいるように、これからもますます歩み続けなさい」と書かれています。私たちの持っている新改訳2017では「現にそう歩んでいうるのですから、ますますそうしてください」となっています。
今歩んでいる信仰の歩みをそのまま続けるようにということを、ここでパウロは語っているわけです。
人生にはいろいろなことが起こります。劇的な出来事が起こることもありますが、多くの場合は、それほど劇的ではない日常を歩む場合が多いのだと思います。その時に、自分の人生を、「おもしろ人生」と呼ぶことができるということは、そこに信仰がしっかりと身についた生き方だと思うのです。
この9節からパウロが語っていることは「兄弟愛について」です。これについては特に書き送る必要はないでしょうと書いています。なぜなら、そのことをもうテサロニケの人々はマケドニアの地で実行に移しているからだと言います。今やっていることをそのままやりつづけたらいいと言うのです。
そして11節でこう続きます。
また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。
秀臣さんの書かれた本の中にこんなエピソードが書かれています。名古屋の金山というところで、小林先生は牧師をしておられました。そうすると、駅の近くの教会ですからホームレスの人たちがよく訪ねてくるのだそうです。そういう人たちの教会のイメージはとにかく親切にしてくれるところというイメージをもっている。ところが聖書にこう書かれている。「働きたくない者は食べるな」。この後のテサロニケ人への手紙第二3章の10節のことばです。有名な「働かざる者は、食うべからず」という言葉はここから出ているようです。いろんな事情の人がいるので、名古屋市では、一回は500円を支給する仕組みと、宿泊所を提供して仕事を斡旋してくれる施設があるので、そこを紹介するようにしたのだそうです。ところが彼らは多くの場合、自由に生きたいと考えているようで、かみ合わないケースがあり悩ましい。そんなことが書かれていました。
パウロはここでも、この後の第二テサロニケでもそうですけれども、自分の仕事に励むということを書いています。これは、一方ではもう再臨があるから働かなくても大丈夫と考えてしまうことを、注意するような意味があったかもしれません。それと、同時にここでは「落ち着いた生活をする」ということが書かれています。落ち着いた生活をし、自分の仕事をする。そのことを名誉なことだと思いなさいというのです。
夢見がちな生活をすることを求めるのではなくて、今の生活をしっかりとする。そして、落ち着いた生活をする。そのことに誇りをもって生きるということです。
つづく12節にはこう書かれています。
外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。
最近、本屋さんにいきますと、「なになにの品格」というタイトルの本をよく見かけるようになりました。「男の品格」とか「女性の品格」とか。「親の品格」「会社の品格」「国家の品格」「日本語の品格」「父親の品格」「女の子の品格」調べるとどんどん出てきます。「極道の品格」というのまでありました。
「品がある」という言葉が好きなんだなということがよく分かります。そういう意味でいえば、これはパウロ著「クリスチャンの品格」ということにもなるかもしれません。こんな章立てです。
第二章 自分の仕事をする
第三章 落ち着いた生活
第四章 人に頼らず生きる
そんなふうにまとめることができるのかもしれません。なんだか、こうやって書いているうちに、私にも書けそうな気がしてきます。けれども、こうやって4章まであげていくと、ここでパウロが何を言おうとしているのかということが見えてきます。一言でいうと、自立した歩みということになるでしょうか。以前、後藤喜良先生は、自分で立つのではなくて、神によって立たされているのだから「神立」と言った方がいいかもしれないなどと言われたことがあります。もちろん、お得意のジョークなのだと思いますが、言おうとされていることは大切なことです。神が支えてくださるから、信頼してしっかりと立ちなさいということです。
私たちの歩みを土台から支えてくださるのは、私たちの力ではなく、主ご自身です。主に支えられていることをいつも覚えながら、私たちの歩むべき道を歩むということです。
その歩みの中に、劇的な目立ったことが起こらなくても、自分の歩みをしっかりと歩む。そして、自分に与えられている役割を果たし仕事をする。変化を求めるのではなくて、落ち着いた生活をする。そして、人に依存しない生き方をする。それが、クリスチャンの品格なのだということです。もう説教題もそのように変えた方がいいかもしれません。
そのようにクリスチャンとしての品位を持って生きる時に、私たちはこの9節で語られているように、隣人を愛するということもまた、はっきりとしてくるのです。何か義務的な、いやいやしないといけないから、人を我慢して愛していくというのではなくて、心から周りにいる人たちを支えていこうという思いが、私たちの中から出てくるようになるのです。
それは、この前のところで書かれていた聖なる者としての生き方ということとも深くかかわってくるはずです。品位を持って生きるということは、欲望に生きるということとは相反する生き方です。目先のものに心を奪われる生き方は、隣人を大切にする心をも失ってしまっているのです。そして、そのような身勝手な生き方は聖霊をも外に追いやってしまうような生き方になるのです。
パウロの勧めはとても具体的です。そして、それは外の人から見ても分かるもののはずだということです。
以前の教会にいたときに、小林秀臣さんがよく口癖にされていた言葉があります。それは、「誰に聞かれても大丈夫な話し方をしましょう」という言葉でした。
よく、「内と外」というような分け方を私たちはついしてしまいます。「内々だからこのくらいことは大丈夫」と言って、人の悪口をつい言ってしまう。そういう仕方は、クリスチャンとしてどうなのかということを、よく注意しておられました。信仰を本音と建前でわけてしまうのも、同じことです。いつのまにか、信仰は建前で、本音は別。内と外というようなことをやっていると、気が付くと、信仰が建前になってしまうのです。けれども、そうではないのです。
内も外も同じ言葉が語られること、表と裏を使い分けない生き方。それが、クリスチャンの品位です。それが、聖なる生き方です。それが、聖霊と共にある生き方です。そのように、意識して歩むとき、私たちは聖霊を悲しませることなく、隣人を愛する生き方ができ、クリスチャンの品格が私たちの身につくようになるのです。
お祈りをいたします。