2020 年 1 月 5 日

・説教 創世記14章1-24節「天と地を造られた方、主に誓う」

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2020.01.05

鴨下 直樹

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 新しい年を迎えて、私たちはまた創世記からみ言葉を聴こうとしています。この創世記第14章というのは、創世記の中でも最も難解な個所と言っていいと思います。ところが、興味深いことに、日本の歴史小説が好きな牧師たちはこの箇所を、まるで新年からはじまるNHKの大河ドラマのように、アブラハムの時代小説さながらに説教する人も少なくありません。というのは、ここでのテーマは戦争です。聖書の中にでてくる最初の戦争の出来事がここに記されているわけです。そして、それゆえに、この箇所は「聖書は戦争をどうとらえているのか」ということを考えるきっかけになるものと言えるかもしれません。

 朝日選書から『キリスト教は戦争好きか』というタイトルの本が出ているようで、こういうタイトルに多くの方が関心を寄せているようです。確かに、この箇所もそうですが、戦争そのものをテーマにしている聖書箇所はいくつもあります。そして、この箇所もアブラムが、結果的には戦争に自ら加わり、甥のロト救出作戦を決行しているわけです。こういう箇所を私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。

 そのために、まず、この背景を理解するところからはじめてみましょう。いろいろなカタカナの地名や王様の名前が次々にでてきますので、その時点でもう理解するのを放棄したくなりますが、まず、理解するために大事なのは「ケドルラオメル」というこの時代に非常に力を持っていた王がいたと言うことをまず理解してくださるだけで、ずいぶん、すっきりしてきます。このケドルラオメルは、簡単に言うとチグリスやユーフラテスの地域、つまりメソポタミアの地域の王様で、どんどんと勢力を拡大していました。そして、アブラハムの時代には、アブラハム、この時はまだ名前はアブラムですが、アブラムの住んでいたアモリ人の地や、甥のロトが移り住んでいったソドムとか、ゴモラと言った地方までも支配していたのです。ところが、ある時、このソドムとゴモラの王たちが反旗を翻したわけです。このクーデターは成功すれば良かったわけですが、旗色が悪くなるだけでなくて、ソドムの王などは、土地の利があるはずなのに、自分の方が、シディムの谷の瀝青(れきせい・アスファルト)の穴に落ちてしまうていたらくです。そして、他の王様たちも逃げ出してしまいます。

 この出来事がアブラハムにとってどんな意味をもったのかというと、続く12節を読むと、「また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った」と書かれています。この知らせがアブラムにもたらされたのでした。

 さて、そこでアブラムはどうするかということが問題になるわけです。創世記の9章6節にはすでにこういう言葉が記されています。

人の血を流すものは、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。

 ここを読むと、神は戦争や、人の血を流すことを戒めておられることは明らかです。しかし、前回の13章の13節には「ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった」とも書かれています。

 そして、さらにアブラムはその地に移り住んで行ったロトのしもべたちといさかいを起こして、別々に住むことになったわけですから、考えようによっては「ほら見たことか。神様がロトをお裁きになったに違いない。だから助けにいく必要なんてない」という結論をだしても、何の不思議でもありません。

 原則的に考えても、アブラムがこの戦争に首をつっこむ理由はないのは明らかです。そして、このまま「ロトたちはこのようにして滅ぼされてしまいました」と書かれている方が、聖書を読む者としてはよほどすっきりと理解できるに違いないのです。

 ところが、アブラムは次の14節によると、「彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した」と書かれていますから、彼らと戦ったということが分かります。

 相手は広大な土地を占領し、今も、戦争をしてこの地域の5人の王たちを打ち負かしたばかりの相手です。それに対して、318人とはあまりにも無力です。もちろん、アブラムと一緒に行動を映した他の部族もいたようですから、もう少しの数にはなったのでしょう。それにしても、数で考えれば相手になる戦力ではなかったはずです。

 そうすると、そこでできる作戦は奇襲、しかも夜、恐らく戦いに勝利して浮かれている彼らの陣営を襲ったということなのでしょう。こういうところが、どうも歴史小説好きな人たちの心を刺激するようです。このアブラムのロト救出作戦は成功します。戦いに勝利して浮かれていたであろうメソポタミアの軍勢は、夜襲を受けた時、捕虜を連れては逃げられませんから、捕虜も戦利品も放棄して、逃げ出したのです。こうしてアブラムはこの戦いに勝利したことがここに記されています。

 興味深いのは、この戦争が何をもたらしたのかということを聖書が書こうとしているのかということです。瀝青の穴に落ちただけでほとんど何の役にもたっていないソドムの王は、ここで、アブラムを迎え入れます。けれども、聖書はこのアブラムとソドムの王との会話の前に、突然「サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。」と書いて、サレムの王との出来事をその前にさしはさみました。

 「サレム」とは「平和」という意味です。これに神を意味する「エル」という言葉をつけると「エルサレム」という名前になります。おそらく、ここにでてくるメルキゼデクというのは、このカナンの地のエルサレムの王であったと考えられます。このサレムの王メルキゼデクがここで登場してきます。この王は「いと高き神の祭司であった」と書いています。このメルキゼデクは王でありながら祭司としての働きもしている人で、いと高き神に仕えていたということがここで書かれています。そのメルキゼデクがアブラムを祝福してこう言います。19節と20節です。

「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」

 聖書はここで、アブラムがサレムの王メルキゼデクと出会い、アブラムを導いて来られたいと高き神が「天と地を造られた方」であるという信仰告白の言葉を耳にするのです。戦争の是非よりも、こちらの方が大事であるというような書き方です。

 そして、メルキゼデクは、この戦いにアブラムが勝利できたのは、「この天と地を造られたお方が、あなたの敵をあなたの手に渡されたからだ」と言いに来るのです。大軍勢に勝利して興奮さめやらぬアブラムに、メルキゼデクは、それはあなたの力で勝利したのではないのだということを、わざわざ言いに来るのです。

 みなさんならば、これを聞いてどう思うでしょうか。いろいろとここから考えさせられるのです。まず、「あんた誰や?」と言いたくなるかもしれません。「頑張って働いて、勝利をしたのは、俺たちだ」と言いたくはならないでしょうか。

 このメルキゼデクの名前は旧約聖書にはもう一か所だけ登場します。それは詩篇110篇です。これは、王の即位の詩篇の一つです。ここでは、メルキゼデクのことを「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である」と書かれています。

 ここでは、メルキゼデクはどこかしら神的な響きをもって語られ、永遠の祭司であるという取り上げ方がされています。そして、新約聖書のへブル書の5章にこの言葉が取り上げられていて8節から10節にこう記されています。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

 新約聖書のへブル書になると、このメルキゼデクはキリストのひな型であるという理解になってあらわれます。それほどに、ここに出て来たメルキゼデクという人は神秘のベールに包まれた人物でとして理解されていったということが分かると思います。そして、アブラムはここでこのメルキゼデクに戦利品の中からなのでしょう。十分の一のものをメルキゼデクに与えたということがここに書かれています。

 そして、ここではこのメルキゼデクとの会話の後で、ソドムの王との会話を挿入されています。ソドムの王はアブラムにこう言います。21節です。

「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」

 「どの口がそのセリフを言うのか!」と言いたくなるところです。中国の三国志なら劉備玄徳の家臣の関羽や張飛が、言ったかもしれません。今年の大河ドラマで言えば、織田信長の家臣の明智光秀がそのように口にしたと出て来てもおかしくないかもしれません。いずれにしても、ソドムの王は何もしていないのですから、そんな言葉も言えるはずはないのです。

 ということは、ここでアブラハムはとてつもない誘惑の前に立たされていることになります。この地域の人々を自分の僕として、まさにカナンの国々の王となるという道がここで開けて来たと言うこともできるはずなのです。三国志に出て来た玄徳に仕えた天才軍師、諸葛孔明であっても、そうアドバイスしてもおかしくないのです。

 自分が苦労して手にしたものを自分のものにするのは正当である。そもそも攻撃してきたのはケドルラオメル王等のメソポタミアの連合軍です。こちらは少数精鋭、しかも知略を用いて勝利を得たのであって、この戦利品は、すべて自分のものであるとして、すべての富と、しもべを手に入れるには千載一遇のチャンスです。しかも、誰からも何も言われない、誰も傷つけることもない正当な報酬。そのように言うこともできるはずなのです。

 だいたい、この世界の戦争というのは、莫大な富を手に入れるために行うものです。そして、それをいろんな理由で正当化しながら、それを神聖視して行うのです。

 この国の経済のために、海の向こうはこちらを攻撃しようと虎視眈々と狙っている。こちらは正当防衛なのであって、私利私欲はない。いろんな綺麗な言葉を並べたてながら、正当化して、隣国の富を奪うのが戦争の目的です。

 けれども、ここでアブラムはこう答えます。

「私は、いと高き神、天と地を造られた方、主に誓う。糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。ただ、若い者たちが食べた物と、私と一緒に行動した人たちの取り分は別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの取り分を取らせるように。」

 最近の若い人の言葉を借りるとすれば、「アブラムかっけー」と言うところでしょうか。今、メルキゼデクから聞いたばかりの主の名を、アブラハムがここで受け入れていることが分かります。十分の一の捧げものをすることを通して、自分は、この主に従うものであることを示し、実際に戦いの中で、食べてしまったものは別として、自分はこの財産には何も手につけないと、ソドムの王の前で宣言したのです。

 聖書はたしかにここで、戦争について書いています。アブラハムも戦争に身を投じてしまっています。それも戦わなくても済んだともいえる状況でです。

 けれども、アブラハムはただ、甥のロトを助けたい。心にあったのはそれだけなのだということです。そして、してしまったことを正当化することもなく、それはそれとして、それ以上の利益をそこから得ようとはしなかった。それが、アブラハムなのだということをここで書いているのです。ですから、聖書にこういう戦争の記事があるから、だからこの神は戦争好きな神なのだということにはならないのです。人がこういう箇所を、自らの戦争を正当化するために用いようとするならば、それは誤りであると言わなければならないのです。

 この箇所は明らかに、戦争について何かを言おうとしているのではないことは明らかです。関心はそこにはないのです。関心があるのは、アブラハムがここで大祭司メルキゼデクに出会い、そこで自分が信じている主なる神は、天と地を造られたお方なのだということです。

 戦争の勝利に酔いしれるよりも、この神と出会ったことの方がもっと重要なことなのです。戦利品から自分の富を増やすことよりも、戦利品からしもべを得ることよりも、この天と地を造られた方が、この戦いに勝利を与えてくださったということを知ったことの方が、より意味があるのです。

 それを通して、アブラハムは何も得たものはありません。目に見えて豊かになったわけでもない。ロトはアブラムに救い出されたその後も、ソドムにとどまり続けています。子どもも得られず、ただあるのは、メソポタミアの王がまたいつか攻めてくるかもしれないという不安感が残っただけなのかもしれないのです。けれども、目に見えて成果がなかったとしても、自分が信じている神がどういうお方なのかを知ることは、アブラハムがここで放棄したすべてのものよりも勝るものを得たことになるのです。

 これが、信仰の不思議なところです。聖書は不思議な書物です。この出来事が、歴史小説であれば決定的な大躍進の転機となり得るような出来事さえ、そんなことは何でもないかのように物語は進んでいくのです。これが、私たちの信じるいと高き神、この天と地を造られた主なのです。その主の前で生きること、その主に誓って、人からは何もいただかないというアブラハムのこの信仰こそが、主が私たちにお求めになられている信仰なのです。

お祈りをいたします。

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