2021 年 5 月 9 日

・説教 詩篇119篇161-176節「羊のようにさまよい」

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2021.05.09

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 詩篇119篇も、今日で最後となりました。この詩篇は、ひたすらに、みことばに生きることの幸いを語り続けています。そして、恐らく詩篇のその背後には預言者エレミヤのような存在があると考えられます。他国の支配の中で、信仰に立ち続けようとする幸いを求めているのです。

 この161節から168節の部分は、祈り手がどれほどみ言葉を愛しているか、神の御救いに期待し、戒めを守っているのかが、何度も語られています。そして、みことばを大切にする理由として165節にこう語っています。

あなたのみおしえを愛する者は
豊かな平安があり つまずきがありません。

 みことばを愛して歩むことが、困難な生活の中でも、確かな平安を約束してくれるのだと信じているのです。

 今週からお隣の愛知県では、三度目の緊急事態宣言が出されることが決まりました。岐阜県でも、蔓延防止等重点措置が取られることが報道されています。一年数カ月に及ぶ、このコロナ禍で、多くの人々の生活が脅かされています。平安と言えるには程遠い生活を、多くの人々が強いられています。

あなたのみおしえを愛する者は
豊かな平安があり つまずきがありません。

 このように言えるのは、よほどのことです。では、この詩人は主のみおしえをどのように愛していたのか。それが、その前の164節で記されています。

私は日に七度 あなたをほめたたえます。

 教会は長い歴史の中で、さまざまな礼拝の仕方を作り出してきました。中でも、修道院では一日に七回礼拝をする、「聖務日課」という習慣が生まれました。この聖務日課はミサ、つまり聖餐式ではなくて、みことばに思いを寄せる礼拝が行われました。

 この聖務日課という習慣は6世紀の修道院から生まれたのですが、この聖務日課の根拠となっているのが、この詩篇119篇の164節です。

 まず、「晩課」という一日の仕事の終わりの礼拝があります。そして、就寝前の「終課」、その後は「宵課」(しょうか)または、「夜課」とよばれる深夜に行われる礼拝。そして、夜明けに行われる「賛課」。夜が明けてしばらくすると「一時課」が行われ、午前中にもう一度「三時課」が行われます。正午には「六時課」が、そして、午後には「九時課」が行われて、このように一日に七回礼拝を行う習慣がうまれたのです。実際に数えると8回あるのですが、これは日中に七回と、夜一回という考え方になったようです。

 これは、修道院生活の基本となっています。起きている時間の二、三時間に一度は礼拝をしてみことばを味わう時を持っていたことになります。

 この詩篇の言葉から、主にある平安を求める生活というものを考えて、作り出した一つの生活の姿です。

 それは、まるで浮世離れした生活と思うでしょうか。それとも、主にある平安というものを、そこまで真剣に追い求めた姿と思われるでしょうか。

 カトリック教会の考え方、それも修道院に入るような特別な人のことと考えることも出来るのかもしれません。もちろん、主のみ言葉を愛する生活というのは、そこまでしなければならないということではないと思います。けれども、そこまで主のみ言葉を真剣に求めて信仰の歩みをしている人たちがいる、あるいはいたということに心を寄せることは大切です。

 主と共にある生活の平安というのは、何もしないで与えられるものということではないのです。いつも、主と共に歩むためには、いつも主のみことばを聞きたいという、主への愛なしにはなりたたないのです。

 結びの169節から176節の所では、何度も主への願いの祈りがささげられています。


「私の叫びが御前に近づきますように」
「私に悟りを与えてください。」
「私の切なる願いが/御前に届きますように。」
「私を救い出してください。」
「私の唇に/賛美が湧きあふれるようにしてください。」
「私の舌が/あなたのみことばを歌うようにしてください」

 あげればきりがないほど、願いの祈りが続くのです。このような願い求めの根底にあるのは、この現状を変えて欲しいという切なる祈りです。自分の祈りが主の前に届いていない、自分の叫びが主に聞こえていない。賛美が出てこない。そういう姿が見えてきます。

 この詩篇の祈り手と、今の時代を生きる私たちの間に、どれほどの差があるというのでしょうか。

 祈り手は祈ります。最後の176節です。

私は 滅びる羊のようにさまよっています。
どうかこのしもべを捜してください。
私はあなたの仰せを忘れません。

 まるで、ルカの福音書に出てくる、羊飼いのところから迷い出た羊のようです。群れからはぐれた一匹狼というのは、聞いたことがあっても、一匹羊では格好もつきません。孤高の存在を気取ったとしても、羊ではその先が見えています。

 狼は、自分で狩りをして糧を得ることができますが、羊は目の前の草しか見えません。そして、その草を食べつくしてしまえば、他に移っていくしかないのです。そして、そのためには羊飼いに、緑豊かな牧草地に導いてもらわなければ、生き抜くことはできないのです。
 聖書には神とイスラエルの民を、羊飼いと羊にたとえて語られている箇所はいくつかあります。けれども、自分のことを羊にたとえたのは、恐らく詩篇23篇が最初だと思います。そして、この詩篇の中には、それでも、あまり多くはありませんが、自分は羊のようだと、自分を羊になぞらええて祈る姿が出てくるようになります。

 しかも、この176節の「滅びる羊」という表現はここにだけ表れる言い方です。「迷える羊」、「失われゆく羊」いろんな翻訳があります。この表現を主イエスがそのたとえ話の中で用いたのは、間違いなさそうです。このままではやがて滅んでしまう羊の姿と、私たちの姿が重なると、他のだれでもない主イエスが思われたのです。

 私たちは、主に見出していただかなければ生きていかれない存在です。この祈り手は、自分が羊のように弱い存在なのだということを知っていました。自分の限界を知っていたのです。そして、主が救ってくださる、主のしてくださることが最善だということを知っていました。

 私たちが主に祈る時、このことを知っている、このことが分かっていることが重要なのです。自分は弱く、主は強いお方であると知っている。このことが分かっているならば、その人は主の祝福から遠くはないのです。

 今日は、この後で、礼典部主催で、毎年行われています礼拝の学びをいたします。今年、私に与えられているテーマは「今、集まることの意味」です。

 教会のことを「エクレーシア」と言います、主が呼び集められた者たちの群れのことをエクレーシアと言います。私たちは主の前に集められる民である。すべてはここから始まります。けれども、今、コロナウィルスのために、「集まる」という教会として当たり前のことが、脅かされています。そして、集まらなくても礼拝ができるということを、世界中の教会で試行錯誤しながら行っています。教会に集えない方にはさまざまな理由があります。医療施設で働いている、福祉施設で働いていて、職場から人の出入りする場所への注意が呼びかけられている方々もあります。また、ご自身病を抱えているために、このウィルスに感染しないように警戒しておられる方もあると思います。もちろん、それらはやむを得ないことですから、その考えを改める必要があると言うつもりはありません。

 主は、なぜ人々をご自身の御前に呼び集められるのでしょうか。それは、主を礼拝すること、主を知り、この主が、私たちのすべてであられることを知って欲しいと願っておられるからです。そして、この主に祈り、賛美をささげ、感謝をささげることを主が願っておられるからです。

 私たちの目の前に見えている困難な生活状況におびえるのではなく、主がそのすべての支配者であられることを知って欲しいと、主ご自身が願っておられるのです。

 「私は迷える羊」、そして、「主はわが牧者」。そのように、主を告白することができるために、私たちは共に主の御前に出て、礼拝をささげることを通して、この主の知識をお互いに共有しあっていくのです。

 一人孤独に、一匹羊として歩もうとすることを、私たちの羊飼いであられる主は危ないとよく知っておられるのです。このままでは滅んでしまう。このままでは狼の餌食になってしまう。このままでは谷間に落ち込んでしまうかもしれない。羊飼いであられる主は、弱い存在である私たちを、強め、慰め、励まして、共に手を携え合って歩んでいくことができるように導きたいと願っておられるお方なのです。
 
 このことも、後で話そうと思っていることの一つですが、教会の働きの一つに「牧会」と呼ばれる働きがあります。多くの場合は、それは牧師の仕事のことを指していると考えられてしまうことが沢山あります。牧師がその教会の羊飼いで、その教会に集ってくる人たちのお世話をすること、それが牧会だと考えられることもあります。

 けれども、本当はそうではありません。エクレーシアとコイノーニアという言葉があります。コイノーニアというのは、「交わり」とも言われます。

 このコイノーニアの働きをするのが、牧会です。それは牧師の仕事ではなくて、ここに集められた人たち一人一人に託されている働きです。

 そこでは、礼拝で主のみ言葉を聞くことができるようにお互いが支え合っていく働きです。もし、誰かが何らかの原因があって、主のみ言葉を聞けなくなってしまっていたとしたら、その人がもう一度主のみ言葉を聞けるようにする働きです。

 病気で礼拝に来られないなら、訪問をしたり、あるいは、こうしてオンラインで自宅にいても礼拝をできるようにすることも牧会の働きとも言えます。誰かの話を聞いてあげたり、悩みを分かち合ったりしながら、主のみ言葉を聞けなくなってしまっているその原因を取り除く手助けをするのが、牧会の働きです。そして、そこでうまれる交わりがコイノーニアなのです。

 一人では無力であっても、みんながいることでお互いに励まし合い、支え合うことができるのです。

私は 滅びる羊のようにさまよっています。
どうかこのしもべを捜してください。

 この言葉は、私の主への叫びの言葉でもありますが、私たちお互いに向けられている言葉でもあるのです。孤立してしまって、あるいは孤独になってしまって滅びる羊のようになっている人がいるならば、私たちも一緒になってその人を捜し出していく必要があるのです。そして、一緒に主のみ言葉を聞くのです。

 この詩篇119篇はこのみ言葉で始まりました。1節です。

幸いなことよ
全き道を行く人々
主のみおしえに歩む人々。

 主のみおしえに歩む人々主の全き道を行く人々の上に、主の幸いがあるのです。この主の幸いを、私たちはお互いに分かち合うのです。それが、教会なのであり、主にある交わりなのです。

 私たちの主は、私たちに言葉を通して語りかけ、私たちが幸いに生きることができるようにと、心を配ってくださる羊飼いのようなお方なのです。

お祈りをいたします。

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