2022 年 2 月 13 日

・説教 ローマ人への手紙9章6-13節「私たちのための神の計画」

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2022.02.13

鴨下直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日は、いつもと礼拝の様子がかなり違っています。いつもですと、目の前にみなさんが座っていて、皆さんの顔を見ながら説教をするのですが、今日は私の目の前に誰もいません。

 今回、急遽この礼拝をオンラインだけで行うということにしました。詳しいことはお話しませんけれども、新型コロナウィルスの影響で、今日はそうした方がよいと判断したからです。

 昨日の時点でそう決めておりました。いつも礼拝堂に来られている方は、自分の部屋でモニターを見ながらする礼拝というのに違和感を覚える方もあるかもしれません。あるいは、いつもオンラインの礼拝の参加の方は、zoomの画面に沢山の顔が並んでいるのを嬉しく思われるかもしれません。

 ただ、不思議なものですけれども、昨日今日の礼拝の準備をしながら、誰も教会に来ないのかと思うと、説教の準備になかなか力が入りません。説教を聞く、みなさんの顔を思い浮かべることができないというのは、こういうことなのかと、今さらながら感じています。

 パウロはこの手紙を書くのに、手紙を受け取る人たちの顔を知らないで書いているはずです。そう思うと、私も変な言い訳はできないなと思います。誰が聞いているかも、分からないのに、これだけの内容の手紙を書くことができるというのは、改めて凄いことだと感心します。

 特に、この9章から11章というのは、ユダヤ人たちの救いについて語っているところです。ローマの人たちにあてた手紙で、パウロが自分の同胞であるユダヤ人たちも、神から忘れられているわけではないと語る。どんな思いだったのだろうと考えます。ローマの人たちがどんな顔をして聞くことを想像したのだろうかと思うのです。

 8章までで、パウロは情熱的な思いで神の愛について高らかに宣言しました。この神の愛は、ユダヤ人に対しても、今も向けられ続けているのだということを知らせたい思いがあるのです。それを聞いたローマの人がどう思うかということよりも、神がどのようなお方であるのかを伝えることの方を、重要視したのではないか、と個人的に思います。神は、不従順なユダヤ人であっても捨てられる事はないのだと伝えることが、結果的に神を信じるということの意味を明らかにするからです。

 パウロはここでこれまでユダヤ人と書いてきた言葉を、この9章に入って「イスラエル」と言い換えています。イスラエルというのは、バビロン捕囚までの神の民を指します。捕囚の後は、捕囚の前にすでに北イスラエルと南ユダに分かれますが、帰還の後は北イスラエルは神の歴史からは姿を消していきます。そこからはもっぱらユダヤ人という言い方がなされます。けれども、パウロはここで、わざわざ「イスラエル」という言葉を使って、神の約束の民のことを、もう一度語ろうとしているのです。

 そこでまず、パウロは、「神のことばは無効になったわけではありません」と6節で語っています。神に対して不従順であったイスラエルに与えた約束を、神は無効にしたわけではないのだというのです。

 その後に続く言葉が「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです」と記されているのです。

 パウロがここで語ろうとしているのは、少し説明するのに苦しいところがあります。一方で、イスラエルは神の約束の民なので、イスラエルは神の救いにあずかるということを語りたいわけです。けれども、パウロは先の4章でも語っていますが、アブラハムの子孫だからという理由で救われるのではなくて、「信仰による義」と語っています。

 大切なのは信仰だというパウロの主張は、初めから貫かれているのです。そうすると、その信仰と不信仰との違いは何かということを明確に説明する必要が出てきます。

 そこで、ここでまず語っているのが、「イスラエルから出た者が、みなイスラエルではない」ということです。大きな意味での血族としてのイスラエル人だからという理由で、救われるのではないということを、パウロはまずここで語り出します。

 続いて出てくるのが7節です。

アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。

 ここで創世記21章12節の言葉が引用されています。イスラエル以前に与えられた神の約束は、アブラハムに与えられた神の約束の言葉からはじまります。けれども、アブラハムの子どもが祝福となるというこの神の約束がありますが、アブラハムの子どものイシュマエルは数えられていないことを明らかにしています。8節では「約束の子どもが子孫と認められるのです」と言っています。

 大切なのは、神の約束があるかどうかだというのです。では、その神の約束とはどうかというと、続く9節でこう続きます。

約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています」

 神は、一方的にこの約束を宣言しました。以前アブラハムの説教をしたので、覚えておられる方も多いと思いますが、サラはこの言葉を受け止めることが出来ないで、笑ってしまいました。約束の子を宿すサラには、神の約束を受け止める信仰があったわけではありませんでした。サラの信仰にかかわりなく、神の約束のことばは、そのまま果たされたのです。

 そこで私たちは考えさせられます。神の言葉を信じる信仰が大切なことはよく分かるわけです。ちゃんと信じた方がいいに決まっているわけです。神の約束を信じるということを、当然神はお喜びになるのです。それは間違いありません。けれども同時に、信じることのできないサラを神はお用いになられるということも、そこで知ることになるのです。

 この後、イサクとリベカの子どものことになるともっと複雑です。イサクとリベカの場合は、双子が生まれます。しかも、聖書は、父イサクの方は長男のエサウを祝福したいと考えていたと記されていて、妻のリベカはヤコブに祝福をと考えています。それでどうなるかというと、弟のヤコブは兄と年老いた父イサクをだまして、長子の権利を奪い、その後逃亡を企てるのです。

 パウロがここでこのことを書いている11節と12節ではこう書かれています。

その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。

 創世記25章に記されている出来事ですが、リベカはお腹の中に双子が宿っていることを知った時に神に祈ります。その時に神からこのように告げられたと、パウロは語っています。

 その後、子どもであるヤコブが祝福を受けるという出来事の前に、神の選びが働いているというのです。

 ここは少し気をつける必要があります。よく、ここを理解するときに、神には、そのあとエサウとヤコブがどういう子になるか、あらかじめ分かっていたから、こういう選びがなされたのだという理解をする場合があります。教会ができたばかりの時代の古代教父にもそういう説明をした人たちがいます。けれども、それだと神の選びは、結局行いによるという理解になってしまいます。ここで、パウロが語ろうとしているのは、愛される根拠もないのに、神はヤコブを愛したのだということです。

 この後に出てくる13節の言葉は、私たちを不安にさせる言葉なのだと思います。

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。

 こういう言葉を私たちはあまり好きではありません。というのは、神様は、ヤコブを愛されるけれども、エサウは憎まれるわけで、神から愛される側ならいいけれど、自分が愛されるとは思えないので、神様に憎まれるエサウのようになるのではないかという不安をどこかで抱え得てしまうからです。

 私たちは、この神の選びということを聞くときに、神に選ばれる側の人ならいいわけですが、選ばれない側の立場で考えるといたたまれない思いになるのです。その理由は、神に選ばれるような側に自分がなれるとも思えないところから、自分は選ばれないのではないかという不安が出てくるのです。

 子どもの頃、よく土曜日になりますと学校のグラウンドに集まって野球をして遊びました。そうすると、決まって、野球のうまい子の二人が、じゃんけんをして、2チームに分けていきます。野球のうまい子から順番に取られていくので、野球があまりうまくない子には、もう野球をはじめる前からその心が痛めつけられることになります。

 自分の名前がなかなか呼ばれないあの悲しさを経験します。期待されているのは自分じゃないという経験は、子どものころからずっと続いていきます。きっとそれは誰もが知っている思いだと思います。

 そういう中で、聖書が、「私たちが決めることではなくて、神様がお決めになることです。それが、神の主権です」と言われると、頭では理解できますが、私たちの心の不安は一層広がってしまうのではないでしょうか。

 パウロは、それまで自分はユダヤ人で、ベニヤミン族出身で、パリサイ人で、ガマリエルの門下で学んで・・・と、自分はどう考えても選ばれる側にいると思っていました。ところが、パウロは主イエスと出会います。そして、神は異邦人をも救おうと思っておられることを知るのです。

 それは、この後の15節に続いていくわけですが、神の思いは、パウロの考えているような基準ではないのだ、ということを知っていくようになるのです。

 神は、人が見るようには見ないのです。何ができるか、出来ないかで判断なさるのではない。それこそ、神の選びは天から見ると、はじめからあの人は光って見えて、あの人は最初から黒いままでというような運命論的なものでもないのです。

 神の愛は、選ばれる根拠のあるなしにかかわらず、その人も愛するというところにあるのです。
 
 そして、もう一つこういうこともできます。神の約束は、神のことばは、すべて主イエス・キリストに集中しています。神の選びは、アブラハム、イサク、ヤコブと続いて、ユダに、ダビデにと続いて、そして主イエス・キリストに集約されていきます。神が選ばれたのは、主イエスです。そして、この神の御子であられる主イエスを信じる者を、神は神の子どもとして義と認めてくださる。主イエスに結びつくものはみな、神の選びの民として数えられるのです。それらは、すべて神の約束のみことばに記されていることです。

 私は、神に選ばれないかもしれないなどと不安に思う必要はないのです。神は、神の選びの御子である主イエスを通して、主にあるものをみな、神の約束の子どもとして数えてくださるのです。

 そこにあるのは、ひとえに神のあわれみです。続く15節にこうあります。

「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」

 主イエスを私たちの救いのために遣わしてくださった神は、あわれみ深い方であり、いつくしみ深い方です。この主のあわれみといつくしみは、変わることのない神の眼差しとして私たちに注がれているのです。その背後には、神の約束のことばがあるのです。

 神は、私たちがどういうものであるか関係なく、私たちを愛してくださいます。そして、主イエスに対する信仰を通して、私たちを神の選びの民としてくださるのです。

 神は、私たちにそのことを聖書の約束のことばを通して、示してくださいました。神の約束のことばが根拠です。神の言葉が、私たちを愛し、あわれみ、いつくしんでくださる保証です。

 変わることのない神の約束を、私たちが受け取るときに、私たちは大きな神の御手の中で平安に抱かれることができるのです。

お祈りをいたします。

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