2022 年 2 月 27 日

・説教 ローマ人への手紙9章24-33節「私たちを造られた主」

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2022.02.27

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 
 東海聖書神学塾が、すでに牧師となった人のための継続教育のための場としてアドヴァンスコースという学びを主催しているのですが、私は昨年の4月から、今年の3月までの一年間、この講師として教えることになっています。

 今は8名ほどの牧師たちが、この講座を受けておられます。そこで、牧師たちと一緒に、説教について一緒に学んでいるのですが、先週の月曜日のことです。

 この月一回の月曜のアドヴァンスコースの昼休みの時間に一人の牧師がこんな話をしました。教会に来られる方は、一週間仕事で疲れて教会にやって来る。多くの人たちが聞きたいと思っているメッセージは、信仰を持って歩んで行けば、神様が支えてくださってうまくいくから安心しなさいというメッセージだと言うのです。でも、そんな安易なことを聖書は語っていないわけで、教会の人が聞きたいと願っていることとは違うことを語らざるを得ない。そこに葛藤があるという話をしました。

 そうすると、そこにいる牧師たちが「分かる―その気持ち」と何人かの牧師たちがその葛藤について話しておられました。
「あなたのやっていること、考えていることで間違いない。神様はあなたの思う様にしてくださる」そういうメッセージをみな聞きたがっていると言うのです。

 みなさんも、この話に同意されるかもしれません。如何でしょうか。

 そういうことでいえば、パウロの手紙ももっと簡単な手紙ですんだのかもしれません。ユダヤ人も救われるし、異邦人もみんなまとめて救っていただけるから、安心してくださいと書くことができれば、こんなに回りくどい手紙は必要ないのです。

 今日、私たちに与えられている聖書は、さまざまな旧約聖書からの引用がなされているところです。この9章で、パウロは創世記から、アブラハムのこと、またその子孫であるヤコブとエサウのことを語ってきました。今度は、ホセア書とイザヤ書を引用しています。

 旧約聖書全体で語っている内容が、イスラエル人だというそれだけの理由で神の選びの民になるわけではないのだと知らせていることを論証しようとしているのです。

 こういういろんなところから、み言葉を取り出してくるというのは、やはり思い違いをしてはいけないので、わざわざ、いろんな箇所からみ言葉を持って来て、あそこにもこう書いてある、ここにもこう書いてあると論証しようということです。

 残念なことですが、なかなか単純な話には、ならないのです。

 今日は、9章24節からはじめました。前回の聖書箇所の最後の部分です。パウロは陶器師の話をしながら、陶器師である神は、自分の作る陶器を、特別なことのために使う陶器にも、普段使いのための陶器にも用いることができ、あまり出来が良くないので壊してしまうこともできる陶器をも、その愛といつくしみのゆえに、壊すことをしないで、大事にしてくださる。それが、あわれみ深い神のなさり方だと語りました。

 その神のあわれみのお姿を、今度はホセア書を引用しながら、語ろうというのです。

 ホセア書というのは、旧約聖書の最後に収められている12ある小預言書のはじめの書です。「ホセア」というのは「救わせた」という意味の名前です。

 このホセアは預言者として、北イスラエルの末期の時代に活躍した預言者です。ホセアは、主から姦淫の女ゴメルを妻に娶るように命じられます。かなり衝撃的なことです。姦淫の女を妻にしろと言うのです。この妻から3人の子どもをもうけます。一人目は「イズレエル」です。日本語の響きからしても「いずれ何かを得る?」という気がしますが、イズレエルというのは地名です。しかも、この後滅ぶことになる北イスラエルの地名を子どもの名前にするように言われるわけで、こうなると「いずれ得る」どころか、もう可能性がないという意味になってしまいます。

 その次に女の子が生まれます。この子ども名前は「ロ・ルハマ」という名前にするよう言われます。今度はなかなか可愛い名前の響きですが、意味は「ルハマ」というのは2章1節にあるように「あわれまれる者」という意味です。その前に「ロ」という言葉がつきます。この「ロ」というのは「否定」という意味で、「あわれまれない者」という意味になります。神にあわれまれることのない者という名前を子どもにつけるというのも、親からすればかなり残念なことです。けれども、ホセアは主の言われるままに、名前をつけます。

 その次にまた男の子が生まれます。今度の子どもは「ロ・アンミ」という名前です。「アンミ」は「わが民、わが身内」という意味ですから、ロがつくと「我が民ではない」「わが身内ではない」という意味になります。

 主は預言者ホセアに自分の子どもにこういう名前をつけることによって、神に背を向け続ける北イスラエルに対して、あなたがたは「あわれまれない者」、「わが民ではない」と呼ばれるということを語らせたのです。

 その時、主がホセアに語られたのが、今日の25節と26節に引用されている箇所です。

わたしは、わたしの民でない者を
わたしの民と呼び、
愛されない者を愛される者と呼ぶ。
あなたがたはわたしの民ではない、
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子らと呼ばれる。

 イスラエルの血を引いているからという理由だけで、神の選びの民とされるわけではないことが、この北イスラエルの歴史からも明らかなことです。北イスラエルはこの後、滅んでしまうのです。けれども、そのような時にも、主はホセアを通して、そのような捨てられた民でさえ、わたしは、その者をあわれんで、神の子と呼ぶ日が来るという約束を、この時すでに神は語っておられたことを思い起こすようにとパウロはここで語ったのです。

 聖書の語る神の知らせは、一貫しているとパウロは知らせたいのです。

 続く27節、28節はイザヤ書からの引用です。続く29節もイザヤ書からの引用です。

 ここではこう記されています。

たとえ、イスラエルの子らの数が
海の砂のようであっても、
残りの者だけが救われる。
主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、
地の上で行おうとしておられる。

 イザヤが語ることも同じことです。イスラエルの民が皆救われるというのではなくて、「残りの者だけが救われる」とイザヤも語っているのです。

 これも、イザヤの子どもの名前が関係しているのですが、イザヤの子どもはイザヤ書7章3節には「シェアル・ヤシュブ」という名前です。これは、「シェアル」は「残りの者」という意味で「ヤシュブ」は「帰って来る」という意味です。

 この「残りの者が帰って来る」というイザヤの子どもの名前の通りに、神の民の中でも、残りの民とされた者が、やがて捕囚を終えて、約束の地に戻って来るということが告げられていたのです。

 イスラエルの民は、度重なる捕囚という経験から、その民の多くは捕囚として連れ去られていった地で、国に帰る希望、神の民であることを捨てて、その土地に住むようになってしまったという、過去の姿がこうして思い返されているのです。

 この29節の「残りの者」だけが神の選びの器になったということを、歴史を振り返りながらパウロは語っているのです。

 先週の24日、ロシアはウクライナの東の地域の独立を一方的に認めて、この地域の民を守るという大義名分のもとに、ウクライナに侵攻しました。オリンピック、パラリンピックの間は停戦協定というものがなされているのですが、それを無視した格好です。

 しかも先週の21日、ロシアが一方的にウクライナの東部のロシア派の独立宣言を認めたその日は、国連が定めた「国際平和デー」の日でした。

 世界が平和を考えて、スポーツを通して世界の平和を考えようという時に、戦争が起こったのです。しかも、先日は今回のオリンピックを主催している中国が9機の戦闘機で台湾の防空識別圏を突破したというニュースまで流れました。

 オリンピック、パラリンピックの主催国が、その主催期間中に軍事行為を起こすというようなことは考えられないことです。

 戦争が起こると、あっという間に人々の考え方は変わっていきます。戦争は良くないという、誰もが分かっていることが建前になってしまうのです。実際に、そういう歴史を経験してきたイスラエルの民は、その中で神のあわれみの眼差しに留まることができませんでした。自分の身は自分で守らざるを得ないとして、神から離れていったのです。

 いつもそうですが、人は神の御心を知っていながら、それを破るときの理由を仕方がないのだ、相手がそうさせたのだ、自分たちは自分たちで守らなければならないのだという主張です。結局、力がすべてだという理屈にすべてが呑み込まれていくのです。

 ではそれで、神の約束の民はどうなったのでしょうか。パウロは語ります。30節です。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。

 神の義、神の正しさはどこで働くのか。それは主を信じる信仰の中で働く。その信仰は、ユダヤ人の中ではなく、異邦人の中にその信仰が生まれたのだとパウロは言ったのです。

イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

と31節にあります。続く32節に理由が語られています。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。

 パウロはこれまで、何度も律法は良いものだということを語ってきました。律法の中には、神からの愛のメッセージがぎっしりと詰まっているのです。ところが、この律法に込められた神のあわれみの心を知ろうとしないで、それをかえって自分たちの誇りとしてしまった。正しいことをしていれば、それで大丈夫なのだと思い込んでしまった。それが、ユダヤ人の間違いなのだとパウロはここで語ったのです。その結果、神の求めた義、正しい生き方、神に喜ばれる生き方というものを、ユダヤ人は失ってしまったのだとパウロは言うのです。

 自分の訴えの正しさ、そこしか見えなくなる時に、神の義から遠く離れてしまうのです。

 それは、戦争も、人間同士のトラブルでも基本は同じでしょう。義が、自己正義になるときに、神の義は失われるのです。人と争い、人を力で支配しようとするところに生まれる正義は、ただの武力にすぎません。行いによる義を求める。それは、力を求めるということです。そして、神の義は、神の御心はそのような人の持つ力とはもっとも遠いところにあるものです。そのことを、神の御子主イエス・キリストは身をもって示されたのでした。

 主イエスがその生涯を通して貫かれたのは徹底的に愛することです。力を放棄することです。相手を思いやることです。この主イエスこそが、土台の岩となるべきものでした。

 しかし、土台である岩なる主イエスは、同時に躓きの岩でもあったのです。神により頼むという愛に生きる姿は、力を持って自分の正しさを証明しようとする者にとっては、つまずき以外のなにものでもありませんでした。

 行いによる証明、力の堅持というのは、神の喜ばれるものではないのです。神が求められたのは、信仰です。主により頼むこと、力を放棄し、愛することです。

 ここに「つまずいた」という言葉があります。信仰の歩みをしていると、何度となく耳にするようになる言葉です。キリスト教に救いを求めて来た、道がここにあると思って聖書に耳を傾けて来たけれども、自分が願っていることでなかった。このことを「つまずいた」という言葉で表現するのです。

 この説教の冒頭でもお話ししたのですが、聖書は私たちが聞きたいことが書いてある読み物ではありません。むしろその逆です。つまずきの石がごろごろしています。しかも、主イエスご自身が、そのつまずきの石そのものなのです。

 自分の努力で、自分の力で自分が正しいことをちゃんと行うことができれば問題ありません。そう、多くの人は考えたいのですが、聖書はそうは語らないのです。それは、力のあるものが正義であるという理屈に繋がっていくからです。

 神の御心は、愛の中にあります。神のあわれみの愛の心を知って、このお方と出会って、信じる。そこに神が働かれる道が示されていくのです。

 しかし、神の民であるイスラエルは、このことが分からなくなってしまったのです。それで、神の選びの民ではなくなってしまいました。神は、ご自分の語ってきたこと、示してきたもの以外の道を、あり方を選ぶことができないのです。

 神の選びは、すべて主イエス・キリストの中に示されているのです。主イエスの中にあるもの、それは愛することです。敵をも愛することです。私たちが知る必要があるのは、この主イエスを知ること。そして、このお方を遣わした神ご自身を信じること。そこに、神の願いがあるのです。

 神は、ご自身の愛を、あわれみの心を知って欲しいと願って、ご自分の民を、私たちを造ってくださったのです。神は、力による世界を求めていません。あわれみの神は、私たちがお互いに周りの人を大切に思い、親切にする、そういう愛の業を、私たちを通して、この世界に示されるために、この世界を創造し、私たちを造ってくださったのです。

 お祈りをいたします。

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