2023 年 4 月 2 日

・説教 ルカの福音書5章27-32節 「罪人を招かれるお方」

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棕櫚の主日礼拝
2023.4.2

鴨下直樹

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 今週は教会の暦で「棕櫚の主日」と言います。主イエスがエルサレムに入られて、十字架にかけられるまでの一週間の期間を過ごすことになります。この一週間のことを「受難週」とか「レント」と呼びます。

 この時、私たちは自分自身の罪と向かい合いながら、主イエスの十字架の意味を心に刻むのです。この受難週に私たちはこの「罪」に心を向けます。

 そこで、今日の箇所では、まさにこの時代だれからも「罪人」と思われた「取税人のレビ」が登場してきます。

 私はこの説教のためにある本を読んでいた時「彼はこの世の人間の屑でした」と書かれている文章を見つけて衝撃を受けました。聖書の解説の中で、そんな言葉を目にするとは思ってもいなかったのです。

 「人間の屑」というのは、なかなか厳しい言葉です。人に向かって使ってはいけない言葉です。けれども、この言葉には、レビの同胞であったユダヤ人たちからしてみれば、そういう思いがあったのかもしれません。同胞のユダヤ人からお金を取って、自分たちを支配しているローマのためにお金を納めるのです。当然疎ましく思われたはずです。

 先日の祈祷会で、みなさんに質問してみました。「このレビは同胞から疎まれても、それでも逞しくこの取税人という仕事に就いていられたのは、どういうモチベーションがあったと考えられますか?」という質問です。

 色んな答えが返ってきました。一番多かったのは「お金が手に入ることで、満足感を得たり、優越感に浸れたのではないか」という意見でした。他にも、こんな意見がありました。「ローマ人に仕えることができるというのは、他のユダヤ人たちとは違う特権を持っていたはずなので、それは誇りになり得たのではないか」という意見です。

 少しレビのことを想像してみたいと思います。レビは毎日、一体どんな気持ちで収税所に座っていたのでしょう。もちろん、取税人という仕事は誰かがやらなければいけない働きです。ローマからの特権もたくさんあったのでしょう。けれども、妬みや憎しみの目を向けられることも事実です。このレビは、他の福音書を読むと「マタイ」という名前で登場しています。マタイの福音書はこの人が書いたと考えられています。マタイの福音書を読むと、旧約聖書に精通している人物だということが分かります。

 レビは、どうやったのか分かりませんが取税人という仕事を得ました。その仕事が自分を支えていたに違いありません。

 それは、私たちも同じだと思うのです。人は自分の得たもの、手にしたもので、生きていかなければなりません。自分が手に入れて来たもので自分自身を支えているのだと思うのです。

 お金があるから大丈夫。そう考えて、お金によって自分のプライドやアイデンティティーを支えているということはあると思います。あるいは仕事のやりがいや、仕事の楽しさが自分を支えていることもあるでしょう。自分がこれまで培ってきた能力や、技能や、人脈や、知識や、経験といったさまざまなものが、私たちの毎日の生活を支えています。それは、間違いのないことですし、それは私たち自身にとって、とても大切なものでもあります。

 レビにしてみれば、少なくともこれまでは、それでいいと考えていたはずです。ところが、そんなレビに唐突に次のような言葉が語り掛けられます。

 主イエスはレビに語り掛けられました。「わたしについて来なさい」と。

 主イエスは町でレビに目を留められて、収税所にいたその男に突然語り掛けたのです。主イエスというお方は本当に不思議なお方です。それこそ、私たちの判断基準の一つでもある「損か得か」という基準で考えると、「人間の屑です」と言われているような取税人に声をかけて、自分の弟子にするということに何のメリットがあるのかと思うのです。ところが、主イエスは「わたしにはあなたが必要なのだ」と声をかけられるのです。

 びっくりしたのは、レビの方だったはずです。

 それまで、自分にはお金がある。あるいは、自分にはローマから与えられた特権がある。同胞からどんなに嫌われようと、自分はこのお金とローマを後ろ盾に持つという立場さえあれば、やっていけると考えていたのに、予想外の言葉が突然聞こえて来たのです。

 私たちにとって大切な言葉、私たちを生かす言葉は、いつも外から来る言葉です。自分の中にある言葉ではありません。自分で自分を納得させる言葉。自分で自分に言い聞かせる言葉というのは、「確かに自分はユダヤ人から見れば『人間の屑』なのかもしれない。けれども、俺には金がある、ローマという後ろ盾がある。だから大丈夫」という言葉だったはずです。

 けれども、外からの言葉は、神から語り掛けられる言葉は、私たちの予想や想定を超えて、私たちに向けられて語り掛けられるのです。それが、この「わたしについて来なさい」という主のお言葉だったのです。

 レビはこの言葉を聞いた時に、自分の存在に触れる言葉を耳にしました。そして、新しい歩みをここから始めてみようと思わせる言葉を聞いたのです。それで、レビは全てを捨てて主イエスに従っていくことを決めたのです。

 この主イエスの言葉には、敵をも愛する主イエスの愛の心があります。無価値な者に価値を見出しておられる主イエスの眼差しがあります。そして、自分のこれからの人生についての可能性が開かれる、そんな新しさが、この主の言葉にはあったのです。

 イタリアで活躍した画家のカラヴァッジョが、「マタイの召命」という絵を描いています。先日の祈祷会で古川さんに、この絵の話をしました。すると、その時古川さんが「隣の人が指を差している絵」という言い方をされました。私はこれまでずっと自分自身を指差していると思っていたので、まさか隣の人を指差しているという考えがあるとは思いもしませんでした。隣の人というのは、お金を数えて下を向いている男です。

 この絵は対になっていまして、教会の壁に架けられているこの「マタイの召命」の絵の正面に、「マタイの殉教」という絵が描かれています。そしてその間に「マタイと天使」という絵があります。マタイが福音書を記している絵です。それらの絵には、マタイは髭が長い人物として描かれていますから、指を差している人物がマタイなのではないかと、個人的には思っています。どうも、どっちがマタイなのかという議論があるようなので、詳しいことは私には分かりません。ただ、私としては、やはりこの髭の男の方がマタイなのではないかと思うのです。

 この絵を見ると主イエスに招かれて「自分のようなものが? 信じられない」という顔をしているのがよく分かります。

 このカラヴァッジョの絵は、油絵がローマの教会で初めて飾られるようになった大変意味深い絵だと言われています。カラヴァッジョがマタイの三部作として「マタイの召命」の前に配置したのが「マタイの殉教」でした。この画家のカラヴァッジョは、マタイ自身がこの時主イエスに招かれて、死ぬまで主に従い続けたということを描き出そうとしたのです。

 「屑のような人間」と思われていた人物が、生涯をかけて主に従っていったことを、この3枚の絵は物語っているのです。

 私たちも思うのです。「私のような者を主イエスは招かれるのか」と。自分のような者になんの価値があるかとか、私のようなものはダメですと思うのかもしれません。しかし、私たちの主イエスは、人が見るようには見ていないのです。隣の人と比較して私たちを見ておられるのではないのです。私たちの主は、私たちの存在そのものに価値を見出しておられます。そして、その一人ひとりにふさわしい意味を、主ご自身が見ておられるのです。ここに、私たちは主の恵みを見るのです。

 28節にこう記されています。「するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った」と。レビは、この主の招きが嬉しくて、自分の人生を大きく変える決断をこの時をしたのでした。そして29節では、このレビが人々を自分の家に招いて主イエスを盛大にもてなしたと記されています。

 このところで聖書を読むと、私たちはもう一つのものの見方があることに気づかされます。それは、主イエスの視点ではなく、人々の視点です。

 私たちの世界では主イエスが人を見るようには残念ながら見ることができません。どうしても、損得で考えてしまうのです。そして、まさに、そのように見てしまう人の代表としてパリサイ人と律法学者が描き出されています。彼らは、主イエスがレビとともに食事をしている姿を目にします。すると、彼らは主イエスの弟子たちに向かってこう言うのです。30節の後半です。

「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」

 パリサイ人や律法学者たちというのは、人の顔色を見ている人たちなのだということがここからよく分かります。これは、私たちのありのままの姿が描き出されているということなのかもしれません。私たちは、どうしても人からどう見られるかを考えて生活します。立派な人と一緒にいれば、自分にとってメリットがあるし、悪い人、嫌われている人と一緒にいると、自分も悪く見られてしまうと思うのです。ですから、パリサイ人や律法学者たちは、主イエスが罪人と呼ばれる人と一緒に楽しそうに食事をしていることが理解できないのです。

 そういう人と仲良くするのは賢くない、自分の評価を下げることになる。そう考えるのです。けれども、主はそのようには考えません。ここで、パリサイ人たちに主はこう言われました。31節と32節です。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

 ここで、主イエスは自分が何のために、この世に来られたのかという自分の使命、自分の考え方の土台になっているものを明らかにされました。

 主は、私たちの本当の価値を見出しておられるお方です。他の誰かにとってメリットがあるとか、その人といると嬉しくなるとか、そこには価値を見出してはおられないのです。もちろん、誰かが自分と一緒にいることを喜んでくれるとすればそれは嬉しいことです。もし、誰かが私たちの人生に価値を見出してくれるのだとしたら、それはとても嬉しいこと、素晴らしいことです。

 けれども、そこに価値を見出してしまうと私たちは人の顔色を恐れながら生きることになるのだと思うのです。主は、私たちの悪い部分や、人に知られたくないような部分も含めて、それでも、あなたと共に歩みたいのだと言ってくださるお方なのです。私たちは自分の醜さや、罪の部分をこの主のみまえにさらけ出すことができるのです。

 そこで、主は言われているのです。「わたしが来たのは罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。

 私たちの悪い部分、醜い部分が変わらなくて良いというのではありません。私たちが変わることを主は前提としておられます。

 今、私たちの周りでも、差別とか偏見という問題に取り組む社会にしようとしています。それは、とても大切なことです。けれども、その人をそのまま受け入れて安心して生活できるような社会をと言うのですが、そこにはどうしても限界があります。人には罪があるからです。罪をそのまま野放しにして、許容される世界は平安も安心もありません。

 主がここで言われるのは、「罪人は変わる必要がある」ということです。レビも変わることを期待されているのです。主イエスはその存在そのものを受け入れてくださいますが、そこから新しい人になるのだと主は言っておられるのです。神を知って、人のことを知るなら、当然変わらざるを得ないのです。神を愛して、人を愛することができるような人に変えられ、社会がそう変えられていくことで、私たちは安心して生きることのできる世界を手にいれることができます。この世界を、「神の国」というのです。主は、この世界にこの「神の国」をもたらすために来られたのです。

 レビ(マタイ)は、自分のような者を主は招かれるのかと驚きました。そして、主に従っていくことを通して、レビは全く新しい人生を手に入れるようになったのです。伝説では最後は殺されてしまうのです。殉教するのです。けれども、その死は人を大切にし、神の思いを大切にした結果の死でした。

 そして、私たちは知っています。私たちは死ですべてが終わらないということを。死んでしまっては無意味ではないかと思う人はいると思います。けれども、主にある人生は、死に支配されることのない人生です。死の先に、神のみもとで完全な愛の国に招かれることを私たちは知っています。完全な神の国に生きることになるのです。

 私たちの主イエスは罪人である私たちを主のみもとに招き、共に歩もうと語り掛けてくださるのです。この主とともに歩む時、私たちはこの主イエスとともに、新しい生き方を見出していくことになるのです。

 お祈りをいたします。

 

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