2021 年 9 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙4章1-8節「アブラハムの場合」

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2021.09.12

鴨下直樹

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 今日からローマ人への手紙の第4章に入ります。パウロは3章までのところで、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」という24節で語られている信仰によって義と認められるのだということを語ってきました。

 一生懸命良い行いをして、徳を積んで、救いに至るという考え方が一般的です。しかし、パウロがここで語っているのは、主イエスを信じるということで、その人がどれほど罪があったとしても、神の救いの中に招かれて、この人は義である、救われているのだと神は宣言してくださるというのです。

 そして、この4章に入ります。ここでは、この福音の知らせを、ユダヤ人たちにとって父とも呼べるアブラハムを例に考えてみようというわけです。聖書が、この場合は旧約聖書ですが、そこでなんと言っているか見てみようというわけです。

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。

 という1節の言葉からはじまります。

 パウロは「アブララハムは何を見出したのか」と語り始めます。この「見出した」という言葉は「得たところ」という意味です。アブラハムは何を得ることができたのというのかと語り始めます。

 このことばは、この4章を理解する手掛かりになる言葉ですので、ぜひ、心に留め続けていただきたいと思います。

 今日の3節ではアブラハムの生涯が記されている創世記15章6節のみ言葉が引用されています。

 私たちは昨年まで創世記から御言葉を聞き続けて来ました。その時に、アブラハムの生涯についても、丁寧に御言葉を聞き続けてきました。

 この創世記の15章に何が書かれているかというと、主がアブラハムを夜空の下に連れ出して、夜空に見える無数の星を見せられながら、あなたの子孫はこの星の数のようになるという約束を語られたところです。その時に、聖書はこう書いています。

アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた

 創世記15章6節です。

 このときのことをパウロはここで引用しているわけです。

 アブラハムにはその前から子孫の約束が与えられていました。けれども、子どもが与えられていませんでした。この創世記15章でも、アブラハムにはもう跡取りがないので、自分のしもべに財産をあたえるのかと、主に文句を言ったのです。そのあとで、主がアブラハムにもう一度この約束をお語りになったのです。

 この主が語られる約束を信じる。そのことで、アブラハムは義と認められたのだと、創世記に記されているのです。 (続きを読む…)

2021 年 9 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙3章27-31節「誇りではなく、信仰によって」

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2021.09.05

鴨下直樹

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 今日のテーマは「誇り」です。私たちがよく耳慣れた言葉で言うと「プライド」ということです。

 今、パラリンピックが開催されております。私は残念ながら見ていないのですが、パラリンピックの男子バスケットが決勝まで進みました。これまでにないことのようです。私は試合を見ていないのですけれども、そのネットニュースを読んでいるだけで、感動して目に涙が溜まって来るのを覚えました。

 こんな文章が私の目に留まりました。「この選手たちはどれだけ練習して、これほどの力を手に入れたのだろうか。きっと本当に厳しい練習を積み重ねながら、この強さを手に入れたのだ」ということが書かれていました。そういう文章に心打たれるわけです。

 そうやって、自分たちの修練の結果として手に入れる力、それは美しいものですし、他の人を惹きつける魅力があります。それは、その人たちの自信となるし、「誇り」としてよいものです。

 「誇り」「プライド」というのは、決して悪いものではないはずです。その人が、自分として、どうありたいか、その目標を掲げて、それに取り組んで、得た力を誇るというのは、誰の心にも感動を与えます。というのは、それは簡単なことではないということが分かるからです。

 そして、宗教というものもそれに似ています。精神をある努力によって鍛えるという考え方があるのです。まさにそのような「行い」を「修める」と書いて、「修行」と言うわけですけれども、行いを徹底して自分のものとして修めていく姿が、人の精神の修練となると考えるわけです。ですから、ほとんどの宗教というのは、どれもそうですけれども、この行いを修めて、あるレベルにまで到達する。そうやって徳を積む、功徳を修める。そうして、精神的に一つ上の世界に上り詰めていくのだという考え方があるのです。

 それは、日本の宗教というだけではなくて、旧約聖書の教え、律法も同じように考えているところがあります。神の民であるイスラエルの人々は、この律法の行いを厳密に行っていくことで、神から義しい者であると認められるような生き方をするべきなのだと考えてきました。これは、人としてはごく自然な流れであったと言っていいと思います。

 ところが、パウロはこの前の21節から26節までのところで、「しかし今や、律法とは関わりなく・・・・神の義が示されました」と語り始めたのです。

 ここで語られているのは、前回話したところですが、神の恵みによってなされたキリストの贖いの業である十字架と復活の出来事、この神の救いの御業が私たちに示されたことを信じて受け入れることで、人は神から義と認められる。そういう、新しい義の道が示されたのだと、ここでパウロは語りました。

 こうすると、すぐに一つの問題が出てきます。それが「誇り」の問題です。それは3章1節ですでに語られた「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか」という言い方と同じような言い方をしています。この27節では、「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と言っています。ユダヤ人たちの持っている、あるいは私たちが持っているこの、修行をして手に入れる精神の向上というような、人としての誇りはどうなるのですかということを、パウロはここですぐに取り上げているわけです。

 私たちの教会ではコロナ感染症の緊急事態宣言を受けて、礼拝と祈祷会以外のすべての集会を休会としています。今日もそういう中での礼拝ですので、礼拝堂に集うのをやめて、自宅からオンラインで礼拝されるという方々が何人かおられます。そんな中で、先週の木曜日の聖書の学び会に、しばらく教会に来られていなかった方が、久々に集われました。その方がその集会で、今日の聖書箇所をみんなで読んだ時に、こんなことを言われました。

 「今、家を出ないような生活をしている。そういうなかで、家に閉じこもっていると本当に自分のような人間はいてもいなくてもいいような存在に思えてくる。教会の礼拝にも、集まりにも出られない。そうやって、考えていくと、どんどん自分がいやになって、自分には信仰が無くなってしまったのではないかと思える。そして自分は、『信仰者としてそれではダメですね』と言ってもらった方が、よっぽど楽になれる。そう思って、今日は教会に来た」とその方が言われました。

 それは、その集まりに出ておられた方みんなに共通する思いであり、皆さんもどこかで同じような思いを持つことがあるのだと思います。その方のその質問は、多くの方の心の言葉を代弁するような言葉だと、私も思いましたし、聞いておられた方々も同じように話しておられました。

 私たちは、教会に集うようになって、聖書の話を聞きながら、あるいは毎日自分でみ言葉を読みながら、信仰の歩みをしていく中で、やはり少しでも自分の信仰を誇ることができるような生き方をしたいと誰もが願うものです。キリスト者として恥ずかしくない立派な信仰者として歩みたい。そう願うのは自然なことだと思うのです。そうして、やはり自分の信仰の修練というか、信仰の成熟というものを誇りとしたいという願いは誰にでもあると思うのです。

 パウロ自身、そういう思いに生きて来たのです。ですから、ユダヤ人たちが、そのような誇りを持っているということはよく理解できました。けれども、パウロはここで、そのような人の持つ「誇り」というものは排除されたと言っているのです。 (続きを読む…)

2021 年 8 月 29 日

・説教 ローマ人への手紙3章21-26節「示される神の義」

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2021.08.29

鴨下直樹

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 今日の箇所から、ようやく光が見えてきます。「しかし今や、」とパウロは語るのです。

 パウロはこの手紙でひたすら罪の悲惨な姿を描き続けてきました。人間の醜い姿と言ってもいいのかもしれません。人と比較し、自分の方が上にいると考えることで満足し、充足感を得ようとする人間の姿をパウロは描き出してきました。

 神学者カール・バルトは1章18節から描き出されるこの部分を「夜」と名づけたという話をしました。この3章20節まで、まさに光を失った人のもがいている姿というのが、語られて来たのです。そして、「義人はいない、一人もいない」という重苦しい宣言のことばまで出て来たのです。
 
 「しかし今や、」とパウロは言うのです。

しかし今や、神の義が示されました。

 もちろん、これまでも神の義が語られていました。これまでのところで語られていた「神の義」とは「律法」のことです。神のみこころが、この神の律法の中に記されていたのです。しかし、その神の義を知っていたユダヤ人たちは、その神の義を掲げて、人を裁く物差しとしてきました。それまでの、神の義というのは、正解はこれであるというものでした。そして、この律法をたずさえて、人をさばくことを人はしてきてしまったのです。

 今、パラリンピックが行われています。本当に選手の方々の能力というのは毎回驚かされます。近年、差別の問題が大きく取り上げられるようになってきました。それは本当に大きなことだと思います。その一方で、障害と言ってもいろいろなものがあるわけですが、なかなか理解が進まないという現実も確かにあります。どうしても、自分と違うということで、人を下に見てしまうという悲しい現実があるのです。

 今、またコロナウィルスの第五波と言われて、緊急事態宣言が出されています。ワクチンを接種したとか、まだしていないとかということでも、いろんな情報が飛び交います。接種を勧める人も良かれと思って勧めますし、接種しないことをお勧めする人も良かれと思ってそれをします。そんな中で、どうしても、出てくるのは自分の判断が最善であるという思いが、見え隠れしてくるわけです。そして、そのことに対して、今全国で、実に多くの方々が苦しんでいます。人間不信になるというようなことまで起こってきています。それぞれに考えがあります。持病があったり、支える必要のある家族がいたりでその考え方が変わってきます。

 どんなテーマにしてもそうですが、いろんなものの見方があって、いろんな立場や状況の違いがあるということが、今の時ほどクローズアップされた時代は過去になかったかもしれません。

 人と比較して、自分を支える。それが人を裁く罪の姿です。そして、このことは、信仰の中でも起こってくるわけです。 (続きを読む…)

2021 年 8 月 22 日

・説教 マルコの福音書15章33-34節「十字架上の7 つの言葉」

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2021.08.22

田中啓介

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2021 年 8 月 15 日

・説教 マタイの福音書11章20-30節「安息に招かれるお方」田村洸太

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2021.08.15

田村洸太神学生

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2021 年 8 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙3章9-20節「人の努力に代わるもの」

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2021.08.08

鴨下 直樹

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 少し前に、オンラインで配信しています「ざっくり学ぶ聖書入門」で、中間時代と呼ばれる頃のことを話しました。

 教会のホームページから見ることが出来るのですが、これがまた驚くほど人気がなくて、その動画を見ている人もほとんどいないようで、残念に思っています。

 聖書の話ではありませんので、興味がないのかもしれません。あるいは、この「中間時代」という言葉そのもののことが分からないのかもしれません。旧約聖書の終わりから、新約聖書までの400年の間、ユダヤ人たちはどのように歩んで来たのかという話です。主に、聖書の外典に記されている話でもあります。

 バビロン捕囚の後、イスラエルの人々はとても、熱心にその信仰に生きようとしてきました。特に、ギリシャから支配されるようになった時、ギリシャは、支配下の国々にギリシャの文化、ギリシャの価値観を宣伝していきます。このギリシャの文化のことを「ヘレニズム」と言います。

 このヘレニズムの価値観が押し寄せてくる中で、ユダヤ人の中でもこれに抵抗して「ハシディム」と呼ばれる人たちが現れます。この人たちは、ユダヤ人の習慣がギリシャの文化の波に飲み込まれないようにするために、必死に聖書の価値観を大切にすることを貫いてきた人たちです。

 そういう働きもあって、時代がどんどんと変わっていく中でも、ユダヤ人たちの信仰や伝統というものが、ギリシャやローマの世界の中でも認められていきます。そして、かえって、ローマにまでユダヤ人たちの価値観を伝える人たちが出てきました。

 その大きな役割を担ったのが、「パリサイ人」たちです。

 私たちは聖書を読んでいますと、パリサイ派と聞くと、主イエスの伝道を邪魔するろくでもない人たちだという認識を持ってしまいます。けれども、この時代の流れの中で、ユダヤ人の文化を残すために、このパリサイ人たちの果たした役割というのは、決して小さくはありませんでした。

 当然、このユダヤ人たちはローマに沢山住んでいました。4万人というユダヤ人が当時のローマにはいたという記録もあるほどです。

 そして、そのユダヤ人たちに対して、真の救い主として来られたのが、主イエス・キリストなのだと教会は伝道をしていきました。

 このユダヤ人たちは自分たちが貫いて来た信仰や、生き方に自負を持っていましたし、自分たちは神に選ばれた特別な民なのだという考えを持っていました。そんな中で、ローマにもキリスト教の教会が出来てきたときに、このユダヤ人の間で長年培われてきた、この自負、プライドというものが、この人たちの支えでもあったわけです。

 ですから、このまじめなユダヤ人たちというのは、まじめに生きることが、神の祝福であり、そのために律法を守って、特に割礼を子どもたちに施して、神の民であろうとしてきた人々だったわけです。

 しかし、ここでパウロは9節でこう言いました。

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

 パウロは、ユダヤ人がどれほどまじめな民族であったとしても、どれほど苦労してきたとしても、だからといって、ユダヤ人に特別すぐれたところがあるということにはならないのだと言ったのです。

 これは、ユダヤ人たちからすれば受け入れがたい言葉に響いたはずです。 (続きを読む…)

2021 年 8 月 1 日

・説教 ローマ人への手紙3章1-8節「みことばをゆだねられた民」

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2021.08.01

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられているみことばは、私たちの良さってどこにあるのかということです。ここで語られているのはユダヤ人のことですが、私たちの問題でもあるのです。

 みなさんの良さはどこにあるでしょうか。他の人と違って優れている点です。以前、どんぐりの背比べの話をしました。しょせん私たちはみんなどんぐりですから、大きさや出来映えの良さを比べてみても、どんぐりはどんぐりです。

 けれども、そんなことを言われてしまうと身も蓋もないわけで、それではあまりにも自分がみじめな気持ちになります。

 私たちは普段、それなりに、自分のいいところを見つけて、それを少しでも伸ばしていきたいと思うし、人から、「あなたのこういうところがいいところですね」と言われようものなら、しばらくは嬉しい気持ちになるものです。

 けれども、聖書ときたら、みんなどうせ罪人だって言うでしょ。そんな罪人が、人と比べて、やっと見つけた自分のいい部分さえも、意味がないかのようなことを言うんだとしたら、それはあまりにも辛いし、そんな神様はいやだなぁ、という気持ちを抱いても仕方がない。そんな気持ちになるのかもしれません。

 今日の説教のタイトルを「みことばをゆだねられた民」としました。今、聖書をお聞きになられて、気づかれたと思うのですが、8節までのところには答えがありません。

 ユダヤ人の優れている点は何かと言いながら、この8節までで書かれているのは、そんなに優れていないぞということです。そして、この後の9節以降から出てくるのは、ユダヤ人だけでなくて、人間はみんな優れてなどいないのだという結論に行きつくわけです。
 けれども、ここでパウロは、はじめに一つのことを挙げています。神のことばがユダヤ人にはゆだねられている。それが、ユダヤ人が他の人たちとは異なる点だと言っているのです。

 すこし、パウロがここで何を言っているのかをもう一度整理してみたいと思います。この前の2章のところで、パウロは律法が与えられていることを語っています。この律法というのが、ここで言う、「神のことば」のことです。この神のことばはユダヤ人たちに与えられていて、神の心、神の思いを、神はユダヤ人たちに託されました。ところが、今度はその律法が与えられていることで、人は誇るようになってしまったというのです。

 人間を自由にして、救うためのことばであったはずなのに、自分を誇る、自慢する道具としてしまったと、2章では語られていました。

 そこからも分かるように、私たちは人よりも自分の方がいいところがあると思うと、そこでどうしても醜くなってしまう。せっかくの自分のいいところが台無しになってしまう。そういう問題が、この2章までで語られていました。
 
 それで、今日の3章に入りました。ここでは、改めて、律法が与えられているユダヤ人とは何かということが言われています。神に期待されて、選ばれたユダヤ人ならば少しくらい何か良いところがあるでしょ? ということです。
 
 私たちはこういう聖書を読む時に、ああ、ここはユダヤ人のことが書かれているので、自分とは関係ない話だと思って読んでしまいがちです。それで、ここに出てくるユダヤ人と、自分たちは違うと、他人事のように聞いてしまうところがあるのではないでしょうか。

 自分の良さって何だろうと考えて、人よりも自分の方が秀でているところを見つけて、自分を誇りたいと思う気持ちというのは、ごくごく普通のことです。それが罪だなどと言われてしまうと、もうどこにも心の持っていき場が無くなってしまいます。

 しかも、ここでのパウロの論調は、だからみんな神の前には罪人なのだという結論に到達するわけです。理屈としては理解できるのです。けれども、それで心がついて来るかどうかは別問題です。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 25 日

・説教 ローマ人への手紙2章17-29節「御霊による心」

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2021.07.25

鴨下 直樹

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 先週金曜日、東京オリンピックの開会式が行われました。ご覧になられた方も沢山おられると思います。先日、岐阜県が発行しました、『岐阜県ゆかりの選手応援ガイドブック』というものを頂きまして、見ておりましたら、この岐阜市からも色んな選手が出るようです。私も知らなかったのですが、今回からの新しい種目で、スケートボードに出る岡本みすぐ選手はこの岐阜市在住で、何と15歳なんだそうです。しかも、世界ランク1位というので、私も楽しみにしています。

 そのパンフレットの中に、岐阜県の色んな市町村が、オリンピックに参加する国のホストタウンとして掲載されているのですが、この近くでは八百津町という町があります。この町は可児教会のクリスチャン・ワイゲル宣教師が、住まいを置きまして、そこで伝道をしている町です。この八百津町はイスラエルのホストタウンになっているということでした。そういうオリンピックへの関わり方もあるのだと改めて知らされております。

 昨年の末から、水曜日の聖書の学びと祈り会の時に、「ざっくり学ぶ聖書入門」の学びを始めました。先日27回目で、旧約聖書の学びを終えました。それで、次回は旧約聖書と新約聖書の間の期間、この期間のことを中間時代というのですが、ここの学びをしようと思っています。

 実は、私が神学生の時は、ちょうど、この講義の担当の先生がいなかったので、私はこの学びをしたことがありません。それで、今、この講義を担当している古知野教会の岩田先生に、何かいい本はないかと聞きましたら、一冊の本を教えてくれました。『マンガ・聖書時代の古代帝国』という、いのちのことば社から出ている本です。

 中間時代というのは400年あるのですが、この本はイスラエル滅亡の頃からの約700年間を、マンガを交えて解説しているものです。この新約に移る前の700年の間に、イスラエルは、国が滅んでしまいます。そして、その後2000年以上にわたって、国土を持たない離散の民になってしまうという経緯があります。

 この中間時代と呼ばれる時代は、聖書には書かれていないのですが、イスラエルがさまざまな近隣の強国に支配されながら、何とか生き抜いていくという大変な時代です。

 その当時、このユダヤ人たちの信仰は、非常に倫理的であり、内容的にもあまりにも良く整えられていたので、ユダヤを支配したギリシャは、このユダヤ人たちの信仰に、とても興味を覚えます。そして、ユダヤ人たちを保護する王が現れる時もあれば、迫害される時代も迎えます。そんな中で、ユダヤ人たちは、パリサイ派とサドカイ派とに分かれていきます。サドカイ派は、ギリシャの思想を取り入れていきますが、パリサイ派は、できる限り聖書に厳密な立場を取ろうとした人々でした。そして、サドカイ派はエリート意識が強い人々でしたが、パリサイ派は庶民も、また異邦人をも巻き込んでいくという形態になっていくわけです。この辺りのことが、とても詳しくこの本の中には書かれています。

 そんな中で、パリサイ派の人々は、律法を大事にすることと、割礼を受けることで、異邦人であっても、ユダヤ人として歓迎していくというやり方で、各地に宣教師と言いましょうか、伝道者を遣わしていったのです。

 今日のパウロの手紙を理解するためには、こういう背景を知っていると、とても理解しやすくなります。つまり、このようなユダヤ人たちの宣教師、もっと言うとユダヤ教宣教師たちは当然、ローマにも沢山入っていたわけです。そして、ローマにいるユダヤ人キリスト者たちは、このユダヤ人宣教師たちの教えを色濃く受けていたので、パウロがこの手紙をローマに書く時には、まず、その人たちに向けて、主イエスの福音とは何かということを、丁寧に説いていく必要があったのでした。

 しかも、パウロもこの人たちを切り捨ててしまう、いわゆる “キリステ教” の立場を取ることもできたのですが、そうしないで、その人たちにも、どうしても、このユダヤ教の考え方と、キリスト教の違いというものを理解してもらわなければならないと考えました。これが、難しいわけです。

 こういうのはダメ、と切り捨てるだけなら簡単ですが、自分の間違いに気づいてもらって、なおかつ、正しい考え方に変わってもらう必要があるので、気を付けた言い方をしなければなりません。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 18 日

・説教 ローマ人への手紙2章12-16節「律法と福音」

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2021.07.18

鴨下 直樹

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 我が家には犬がいます。もうすぐ2歳になります。なかなかやんちゃな犬で、躾が思うように入らなくて悩んでおります。一番困っているのは、留守番をさせる時です。

 少し前までは小さかったこともあって、留守の間はケージの中に入れて、外に出かけるのですが、そろそろもう大丈夫かなと思って、ケージに入れないで、そのまま出しておくことがあります。

 午前中くらいの時間であれば、さほど問題はないのですが、少し長い時間家を空けますと、まず間違いなく事件が起こっています。

 夕方に家に帰りますと、犬は私が戻ってきたことが嬉しくて近寄って来るのですが、その日は出てきません。この時点で何かあったのだということが分かるのですが、部屋に入るととんでもないことになっています。

 テーブルの上に置かれていた、薬の入れ物が散乱していて、娘の机の上にある鉛筆やらボールペンは跡形もないくらいバキバキに壊されています。テーブルのものが全て床に落ちているので、テーブルの上に上がったんだということも分かります。

 私が「何やった!」と少し大きな声をあげます。そうすると、犬はおこられることを察知して、ハウスの中に隠れるわけです。

 聖書はこう言っています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。

12節です。

 律法のない我が家の「さくら」は、「さくら」というのは犬の名前ですが、律法なしで滅びることになります。まず、私の怒りの叫びから始まります。そして、そのまま撫でられることもなく、ハウスの中に入れられてしばらく口もきいてもらえなくなります。部屋をかたづけないといけないので仕方がないのですが、私としてはあれほどむなしい時間はありません。

 こんな犬のしつけの話と同じになるかどうか、疑問があるかもしれません。
 
 パウロがここで言おうとしているのは、異邦人であろうとユダヤ人であろうと弁解の余地なしに、裁かれるのだと言っています。
13節

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。

 「律法」というのは、神の心です。神の願いです。言いつけを知っているということよりも、その心を理解してそれをするかどうかが大事だというのです。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 11 日

・説教 ローマ人への手紙2章1-11節「神の慈しみ深さ」

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2021.07.11

鴨下 直樹

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 今、私たちはパウロの記したローマ人への手紙のみ言葉を聞き続けています。今日から第2章に入ります。パウロは、この手紙の第1章で、罪の闇の濃さと言いましょうか、その闇の深さを語っています。神の義、神の正しさから離れたところにある、私たちの生活の在り方を正しいとする世界が、どれほど闇に覆われているか。それがどれほど醜いか。そして、どれほど神を悲しませているかを語りました。

 そして、今日の第2章の冒頭で、パウロは畳みかけるようにこう述べています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

 ここまでのパウロは、ギリシア人たちの日常生活の悲惨さ、罪の醜さというものを語ってきました。それを聞いた教会の人たちは、「そうだそうだ、こういう罪はよくない」とパウロに同調して聴いていたと思います。ところが、この教会の人たちに対して、パウロは急に向きなおり、「あなたがたも全く同じなんですよ!」と言い出したのです。

 パウロがここで語っているのは、人をさばくということについてです。

 この人はどうしようもない罪人なのだと人のことを断罪することの恐ろしさを語っています。

 先週も私たちは、ある大臣がコロナ対策の休業要請に協力しない飲食店に金融機関から圧力をかけさせるという発言をしたというニュースを耳にしました。そして、その大臣の発言をめぐって、色んなところで叩かれています。

 もちろん、かなり問題の発言ですが、そうしますと、今度は寄って集って、みんなで猛バッシングを行うわけです。

 こんなニュースは毎週、色んな所で起こりますから、すでに慣れっこになっているところもあります。
 一度、この人は悪いと決めつけられると、鬼の首でも取ったかのようにして追いつめていくのです。それが、人を裁く者の姿です。

 これは、もちろん、私たちの日常生活の中でもごく当たり前に繰り返されます。教会の中でも同様ということになると、これはかなり問題で、もはやキリスト教会ではなくて、「キリステ教会」になってしまいます。

 パウロがここで語っているのは、神の慈しみ深さです。
4節

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

 悪の出来事、というか悪いことが私たちの目の前で起こりますと、私たちの目が、どこに向けられるかというと、その人の犯した過ちです。その人の罪の大きさです。これは、とんでもないことをしているぞ!と大騒ぎしてしまいます。

 けれども、パウロが言っているのは、ここで見なければならないのは、その時、神の心はどうだと思うのかということに目を向けるようにということです。 (続きを読む…)

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