2018 年 3 月 18 日

・説教 ルカの福音書23章33-43節「十字架の意味」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:34

2018.03.18

鴨下 直樹

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 今日は、ファミリー礼拝ということで多くのご家族の方々が子どもと一緒に礼拝に集ってきておられて嬉しく思っています。今、教会の暦ではレントという主イエスの十字架の来住を偲ぶ季節を迎えています。そして、4月1日にはイースター、主の復活をお祝いする日を迎えるわけです。

 今日は、「十字架の意味」という題で少しの間お話をしたいと思っています。教会には十字架がかけられています。私たちの教会も、三角錐のかたちをしている建物ですが、その頂点のところに十字架が掲げられています。今でこそ、十字架はアクセサリーになっていたりすることもあって、あまりネガティブな印象がなくなっていますが。もともとは死刑の方法です。

 先日のニュースで、何年も前に大きな社会問題になったある宗教団体のリーダーたちが、刑の執行のために場所を移されたということが報道されていました。人が処刑にされるという話は、あまり嬉しい知らせではありません。けれども、教会では主イエスの処刑の出来事をこうして教会で語り、主イエスの十字架の死とは、一体何だったのかということについて語りつづけているわけです。それは、私たちにとって、この世界の人々にとって、とても大きな意味をもつ出来事であったことを語りつづけているのです。

 特に今日、先ほど司式者の方が読んでくださったルカの福音書の出来事は、三本の十字架の出来事です。主イエスの他に、二人の犯罪人が十字架にはりつけにされていたことが記されています。

 特に、この34節に十字架の上で主イエスが祈った祈りが記されています。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

主イエスがそのように祈ったということがここで記されています。

 新しい聖書翻訳の2017年訳をお持ちの方は注のところに少し詳しい説明が書いてあります。そこには「多くの有力な写本にはこの部分を欠いている」と書かれています。今日は、ここでこのことを詳しく説明する時間はありませんが、おそらくこの祈りの言葉はもともとはなかったのではないかと、今は考えられているわけです。けれども、これまでの聖書にはこの言葉は記されてきました。確かな伝承としてこの祈りは記録されているので、この祈りを鉤かっこで括ったり、削除しないで、このまま残されているのです。それは、それだけ、この主イエスの祈りが大きな意味をもつことを認めているからです。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 11 日

・説教 マルコの福音書6章33-40節「見るべきところ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:37

2018.03.11

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられている聖書の箇所は五つのパンと二匹の魚で男の人だけで五千人の人々がお腹いっぱいになったというところです。五千人の給食などと言われるところで、聖書の四つの福音書のすべてに書かれている出来事です。どの福音書にも書かれているということは、それだけこの出来事が人々の心を捉えたということでしょう。

 聖書にはたくさんの奇跡の出来事が記されています。けれども、聖書の描く奇跡というのは、主イエスがこんなにすごいことができるということを強調するために記されてはいません。これまでの奇跡の記述も、奇跡は起こったが分かったのは癒された当の本人か、弟子たちだけに限られていました。けれども、ここでは一度に五千人以上の人たちがこの出来事を目の当たりにしたのです。ところが、このマルコの福音書は、この出来事の記述を後半に描きながら、とても簡潔な報告でまとめています。むしろ、他にテーマがあると言っているかのようです。

 マルコの福音書はここで派遣された十二弟子たちが戻って来て、それぞれの伝道の結果を報告するところから記しています。そして、31節にこう記されています。

そこで、イエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。

 今週の火曜日のことです。この教会で教団役員会を行いました。朝9時から始まりまして、昼食に1時間休憩がありますが、夜の9時すぎまで話し合いをしました。その日、ある方が電話をしてくださっていたのですが、結局折り返しの電話をできたのは夜10時過ぎてからです。芥見が会場だったので、私はすぐに家に帰れるわけですが、他の先生方は家に着くのは12時近くです。みなさんでも、働いておられる方は、残業で夜遅くになってようやく家に帰り着く方も少なくないと思います。そういう時に、この箇所を読みますと、少し慰められる気がするのではないでしょうか。

「さあ、あなたがたで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」この主イエスの言葉を聞くだけでも、ああ、この方は分かってくださっているなぁという気になるわけです。主イエスはここで働いてきた弟子たちを労わってくださろうとしておられます。他の誰でもない、主が私のことを気にかけてくださっているのかと考えるだけで、充分という気持ちになるのかもしれません。しかしこの出来事は、これがすべてのきっかけとなっています。つづいて、こう書かれています。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 4 日

・説教 マルコの福音書6章14-29節「神の言葉の確かさ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:39

2018.03.04

鴨下 直樹

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 今日のところには色々な人の名前がでてまいります。ヘロデ、そして、ヘロデの妻ヘロデヤ、そして踊りを踊ったヘロデヤの娘、バプテスマのヨハネ。出て来る四人に共通しているのは、ここに出てくる人たちの不幸がここで語られているということです。誰一人として喜んでいる人はいないのです。この箇所は初めから終わりまで重たい空気が漂っています。

 ヘロデ王がここで登場します。聖書の中には色々なヘロデが出て来ますので少し整理してみたいと思います。ここで「ヘロデ王」と書かれていますけれども、正確には王ではなくて、日本で言うと知事のような立場で、その地方の領主です。正式の名前はヘロデ・アンティパスと言います。ベツレヘムで嬰児虐殺をしたのは彼の父、ヘロデ大王です。ヘロデ・アンティパスの息子ヘロデ・アグリッパは使徒の働き12章でキリスト教会に迫害を加える人となる。罪にまみれた家族と言ってもいいわけです。親子三代にわたって聖書に登場しながら、このヘロデ一族がしたのは「神のことばを抹殺しようとした」と言っていいと思います。

 バプテスマのヨハネはヘロデに悔い改めを語りました。というのは、ヘロデは自分の兄弟であるピリポの妻をとりあげて、自分の妻としていたのです。姦淫の罪を公然と行い、自分の権力で周りの声を押し殺して来たのです。けれども、バプテスマのヨハネは恐れることなく、誤りは神の前に認められないのだと悔い改めを求めたのです。ヨハネはヘロデの権力を恐れませんでした。そして、自分の語るべきことをしっかりと語ったのです。

 今日の箇所の前のところでは、主イエスが弟子たちを遣わしたということが書かれていました。主イエスの弟子たちが語るのも悔い改めです。神の思いに逆らって、自分を正当化して生きることは間違っているのだということを語るよう、主イエスに遣わされたのです。そして、ここでは、まさに主イエスの弟子たちからしてみれば先輩であるヨハネは、そのために殺されることになったということが書かれているわけです。そして、今日のところでは、そのようにして主イエスが働き始めた時に、主イエスの働きはまるでバプテスマのヨハネのようであるという噂がたったということが記されているのです。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章6節-13節「主に遣わされて」

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2018.02.25

鴨下 直樹

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 今、私たちは「レント」と呼ばれている、主イエスの十字架の苦しみを受けられた期間を覚える季節を迎えています。主イエスはどのような苦しみを受けられたのか、そこのことを覚えようというわけです。けれども、私たちが主イエスの受けられた苦しみを理解しようと思っても、それは簡単なことではありません。不当な裁判を受けたり、鞭で打たれたり、十字架刑にされるということは、話では理解できたとしても、どこかで自分とは関係のない出来事だと考えてしまいます。私たちはあまり、そのような極端な試練を経験するということはないのです。けれども、聖書を読む時に、主イエスがその歩みの中で受けられた困難というのがどういうものであったのかを知ることはできます。

 今日、私たちに与えられている箇所は十二弟子の派遣と言われるところです。主イエスは御自分の弟子たちを二人ずつ組みにして、伝道に遣わされました。その際、弟子たちを送り出す時に心がけることは何かということが記されています。

 まず、7節から分かることは「ふたりずつ」ということと、「権威をお与えになった」ということです。二人ずつというのは、一人で行くなということです。一人で出かけて行って挫けてしまうと、もうそれで働くことができなくなってしまいますから、支えてくれる人が必要なのだというわけです。そして、「権威をお与えになった」とあります。どんな権威かというと、「汚れた霊を追い出す権威」と書かれています。私たちは、汚れた霊などという言葉を聞くと、どんなことかといろいろ考えてしまいます。昔の人は悪霊につかれた人が今よりも沢山いたのだろうかという考えも浮かんでくるかもしれません。

 けれども、以前、汚れた霊に支配されていたレギオンの時にも話しましたが、レギオンのような極端な場合もありますが、神の霊に支配されていない人、つまり罪人は誰もがこの汚れた霊の支配のもとに生きているわけです。クリスチャンになっても、私たちがこの罪と決別するということは簡単なことではありません。主イエスは、ご自分の遣わされた弟子たちに、人をこの罪から、汚れた霊から、自由にするための権威を与えて遣わされたということなのです。主イエスの弟子は、人を罪から解放するためにキリストの権威を与えられて遣わされるのです。というのは、主イエスの弟子であったとしても、罪と無関係ではありません。その罪人が、人の罪のことをとやかく言えるのかということになると、もう何もできません。けれども、そのような力のない、弱さを持っている弟子たちに、主イエスは御自分の権威を与えられて、私の権威によって語りなさい、人と向かい合いなさい、と言われたのです。

 宗教改革者ルターが説教をする前にした祈りというのがあります。その祈りは、まず、自分の罪を赦してください。自分の罪が妨げとなって神に近づくことができなくならないようにと祈りました。自分も罪を犯す弱さがある。そういうものが人に悔い改めを勧めるのだとすると、まず、そのまえに自分の罪を、自分の汚れを清くしていただかなくてはならないと考えてそのように祈ったのです。悔い改めていない者が、悔い改めについて語ることはできないので、祈ったのです。ルターは説教を語る前に常にそのように祈ったのです。このルターの祈りは、それ以来すべてのみ言葉を語る者の祈りとなりました。

 私自身、まだ神学生として学んでいた時のことです。イギリスの大説教者と呼ばれているロイドジョンズの本を読んだ時に、そこにこんな言葉が書かれていました。「望むと望まないとに関わらず、いつでも私たちの生活ぶりが、まず最初の説教者の発言者となる。私たちの唇が私たちの生活以上のことを語っても、それは無益である」。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 11 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「心の痛みに寄り添って」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:33

2018.02.11

鴨下 直樹

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 マルコの福音書を順に読み進めております。このマルコの福音書は主イエスがガリラヤ湖のほとりのナザレの出身であるということを第一章のはじめに記して、ここまでの間、ガリラヤ湖からはあまり遠く離れたところには行かないで、この近隣を巡りながら伝道を続けているように記してきました。

 今日のところは、「イエスはそこを去って、郷里に行かれた」と記しています。広い意味で言えば、ここまでの間、主イエス一行はずっと郷里であるガリラヤ湖のあちら側、こちら側という具合で進んできましたから、ここで「郷里に行かれた」とわざわざ説明しているのも少し違和感を覚えるほどです。けれども、今日のところは、郷里周辺ということではなくて、まさしく、ご自分の郷里に行かれたということです。自分の郷里に行くというのは、どんな気持ちだったのだろうかと思います。

 皆さんの中には、もう何年も郷里を離れて岐阜に住んでおられるという方が何人もあると思います。そういう場合、久々に故郷に里帰りするということになると、色々な懐かしさや、あるいは苦い思い出を抱えながら郷里に赴くということになるのだと思います。主イエスの場合、伝道しておられた期間は全部で3年程度と考えられています。しかも、まだこの6章の時点で考えてみますと、郷里を離れてからもう何年もたっていたとは考えにくく、長くても1年とか、数カ月、そのような期間だったと思うのです。

 ただ、今と違って、この時代というのは少し違った地方に移るということでも、すでに大変なことだったわけです。今、NHKの大河ドラマで西郷隆盛をやっています。今からわずか数百年前の時代であっても、隣の藩にまで行くというだけで、脱藩ということになって大きな問題となるわけです。今の感覚からすると、何百年か違うだけでも理解を超えているわけです。ですから、主イエスの時代、今から二千年も前の時代に、自分の住んでいるところを離れて、わずか数カ月であったとしても、さまざまな場所に出かけて行って、数カ月ぶりに戻って来るということも、大変なことであったに違いないのです。しかも、主イエスの働きはあっという間に有名になって、一度は悪い噂まで立てられて家族が迎えに来たという出来事も3章の20節以下で記されていますから、そういう主イエスが何カ月ぶりかに郷里に足を向けるということは、きっと秘めたる思いがあったと考えて間違いないのです。

 その秘めたる思いとは何かというと、郷里の人にも神の国の福音を伝えたいという思いです。それは、郷里の人々への愛と言ってもいいものです。問題は、主イエスの心のうちにはそのような郷里の人々に対する思い、愛があるのにも関わらず、それが伝わらないというもどかしさです。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 4 日

・説教 マルコの福音書5章21-43節「新しく生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:21

2018.02.04

鴨下 直樹

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 いつの時代もそうですが、親というのは自分の子どもが病気にかかると必死でなんとかしたいと思うものです。今日の聖書を読むと、それは時代を超えてそうだのだという思いをいだきます。子どものつらそうな姿を見ると何とかしてやりたいと思うのです。

 先週から、娘の通っている幼稚園でインフルエンザが流行っているという知らせを聞いていました。幸い、木曜までは元気だったのですが、この日の夕方から微熱が出始めました。翌日には高い熱が出たのですが、その日幼稚園の子どもたちも同時にお休みした子どもたちがいたようで、Y君も、Tちゃんもインフルエンザなのだそうです。私もあまり他の方と接触しないほうがいいということですから、できるだけおとなしくしていたいとは思っております。昨日もこの説教の準備をしている時に、妻から子どもの熱が40度になったと知らせを聞いて、手をとめて祈りました。何とか子どもを癒してやって欲しいと願うのです。そこには、立派な信仰などというものはありません。ただただ、切実な親の思いがあるだけです。

 こういう病の癒しという聖書の物語を読む時に、おそらく誰もが頭の片隅によぎる思いがあると思います。それは、どうしたらこの願いは聞き届けられるのかということです。真剣に祈ったらいいのか、長い時間かけたらよいのか。疑いを持たないで祈ったらよいのでしょうか。昔から、お百度参りという祈りの習慣があります。百回、宮参りをして祈る。百回、冷たい明け方に水浴びをしながら祈る。そういう熱心さが、熱意が届くのだと考えてきたのです。それは、キリスト教であろうが、他の宗教であろうが、共通する思い。つまり、何とか祈りを聞いてほしいという思いがそのような形になってあらわれるというのです。

 けれども、同時に私たちは祈っても聞かれないということを経験することがあります。聖書に出て来る使徒パウロであっても、自分の病のために祈りましたが、その祈りはかなえられませんでした。私たちは、自分の祈りはかなえられると信じたい、という思いがあります。それは誰だってそうでしょう。こうやって祈ったらうまくいくというようなコツがあるのであれば、誰だって知りたいと願うのです。

 今日の聖書は、二つの癒しの物語です。そして、単純に読んだ印象ということで言えば、主イエスに信頼するものは癒されるということになると思います。けれども、ことはそんな単純なことではありません。今日の聖書は何を語っているのか、注意深く見ていきたいと思います。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 28 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「心の底から変えられて」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:58

2018.01.28

鴨下 直樹

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 今日は少し長い聖書の箇所です。特にこの箇所には、「汚れた霊につかれた人」が出て来ます。しかも、その人は墓場に住んでいるというのです。墓場というのは、今日でいう霊園のような墓石が並んでいるところを想像しますが、そうではありません。横穴の洞窟です。そういう穴蔵に当時の人々は亡骸を収めて墓としていたのです。この人はそういうところを住処としていたというのです。ちょっと普通ではないなという気がします。

 ここに記されている「汚れた霊につかれる」あるいは、「悪霊につかれる」などいう言葉を耳にすると、ちょっとおどろおどろしいものを想像してしまいます。けれども、この「汚れた霊につかれる」というのはどういう状態にある人なのでしょうか。何か特別な精神的な状態に置かれているということなのでしょうか。

 実は、この箇所には幾つかの、日本の牧師のした説教があります。それを読みながら、全く対照的な考察をしているものを見つけました。一人の牧師は、この人は社会から締め出されてしまって墓場に追いやられてしまったというように、この人のことを理解しようとします。社会が、周りの人々が、この人を墓場まで追い込んだのではないかと考えるのです。

 また、もう一人の説教者は正反対のことを考えます。この人は仕事に失敗し、住む家を失った。けれども、プライドだけはあったので、惨めな自分の姿を人前にさらすことのないように墓場に住み着いたのだろうと考えるのです。いずれにしてもこういうことは、墓場に行くことはなくても、私たちにも理解できる部分があるのではないかと思います。私たちでも、もう人に疲れて誰も知らない世界に抜け出したいというような望みを持つことがあるのです。現実逃避などと言われるけれども、そうしなければやっていられないような気持ちになることがある。そこまではいかなくても、追い詰められるとどこかで気楽に息抜きをしたいという思いに至ることは、誰にだってあるのだと思うのです。この聖書の時代というのは車のない時代です。他の民族のところに出かけると命が危ない。そういう中で、誰も普段は来ることのない墓場で生活するというようなことは、この時代に生きた人の選択肢となりえたのではないかということは、想像するに難しいことではない気がするのです。

 この二つの説教が語るように、周りの人がこの人を追い込んだということも考えられるでしょう。あるいは、自分が人を避けて墓場に住むことを選んだ。どちらもありそうなことです。けれども、回りの人の眼差しが優しくなったら、社会が変わったら、こういうことはなくなるのでしょうか。あるいは、自分がプライドさえ捨てればそれで問題は解決するのでしょうか。事柄はそんなに簡単ではないと思うのです。というのは、私たちが生きている世界というのは、悪の支配、悪い支配と言った方がイメージしやすいかもしれません。そういうものがいたるところにあるのです。この聖書に出て来る「汚れた霊につかれた人」というのは、何か特別な問題を抱えている人というよりも、「悪の支配」、悪い習慣、悪い人の支配、そういったもののもとで生きる人の姿と言ってもいいわけです。つまり、神に支配されないで生きる生活というのは、いつも、この汚れた霊に支配される生活と結びついているのです。

 1節にこう記されています。

こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。

湖の向こうのゲラサ人の地というのは、「他民族の土地」ということです。「異教の神の地」、つまり、イスラエルの神の支配の外にある世界ということです。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 21 日

・説教 創世記1章26-28節「神のかたちに」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:08

2018.01.21

鴨下 直樹

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 今日は、ファミリー礼拝です。毎月第三週に、ファミリー礼拝を行うことにしています。いつも続きで聞いている福音書から離れまして、このときは、できるだけ分かりやすく聖書の話しをしたいと思っています。それで今朝は、聖書は人間のことを、あるいは夫婦のことをどのように記しているのかということをお話したいと思っています。今朝は創世記の天地創造のところから、お話をしたいと思います。先ほど、子どもたちといっしょに天地創造の物語を聞きました。そして、神がこの世界や動物、そして人間をどのようにお造りになられたのかを聞きました。聖書は、神が世界をお造りになられたと書いています。これが、聖書の最初のメッセージです。これは、この世界にあるものは、すべて神に造られ、神はそのお造りになられたひとつひとつに、大切な意味や役割を持たせておられるということです。

 聖書のお話をする前に少しだけ大事なことをお話しておきたいと思います。実は、今日お話する聖書の言葉は、同じ新改訳聖書をお持ちの方でも、以前の第二版と少し前に出されました第三版では大きく異なっています。教会に置いてある聖書もこの第二版と第三版があります。また、昨年改定された新改訳2017も、翻訳が多少異なっています。ですから、私がここでお読みする聖書とみなさんのお持ちの聖書の言葉が少し違っているかもしれませんが、どの聖書をお持ちでも、大きく内容が異なっているわけではありませんので、安心してお聞きください。

 私は第二版という一番古い翻訳の聖書を使っていますので、第二版で読んでいきます。少し違っている方もあると思いますが、意味は同じですのでそのままお聞きくださればと思います。26節にこう記されています。

そして、神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」

 そのように記されています。
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2018 年 1 月 14 日

・説教 マルコの福音書4章35節―41節「なぜ私だけ苦しむのか」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:15

2018.01.14

鴨下 直樹

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 今日の説教題はひと月も前に自分でつけたものです。まだ、聖書を丁寧に読んだわけでもないのに、説教題をつけるというのは時々無理があると感じているのですが、どうしてこういう題をその時付けたのだろうかと考えさせられています。

 自分のことを話して恐縮なのですが、この一週間は私にとって心苦しい一週間を過ごしました。大きな岩が私の頭の上にのしかかっていて取れそうもないのです。水曜日の祈祷会のまえにSさんが、「仕事に行く時に気が重くなる時がある」と話してくださいました。「とても気持ちが重たくなって眠れなくなったとしても、私たちはお祈りすることができるので、そういう時はお祈りして、神様に委ねて出かけるようにしています。」その言葉を私自身に言われている言葉のように聞きながら、そういう時いつも祈る祈りの言葉を呟きます。

 「マイゴット、マイオール」「わが神、わが全てよ」。アッシジの修道士フランチェスコの祈りです。まるで念仏を唱えるかのように、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返します。「わが神、わが全てよ。わが神、わが全てよ。私の神、主よ、あなたは私の全てです。私のすべてのあなたのものですから、あなたに委ねます。」心からそう祈ることができるようになるまで、何度も、何度も祈ります。

 「なぜ、私だけが苦しむのか」。私たちはこのように叫びたくなる思いを持つことがあります。何故こんなことが起こるのか。主はこのことをおゆるしになっている。残念ながら、私たちは毎日平和で、安全が保障されているところで生きることができるわけではありません。

 今日の聖書の箇所はまさに、そのような弟子たちの叫びが記されています。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 7 日

・説教 マルコの福音書4章26-34節「寝ている間に働かれる主」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:31

2018.01.07

鴨下 直樹

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 新しい年を迎えました。新年というのは不思議なもので、何か新しいことを一年の間やり通そうと決意したい気持ちになります。今年こそは、こうありたい。私たちはそのように考えて生きています。それは、こう言い換えることもできます。成長したいと願っているのだと。

 さて、お正月に実家に行きましたら、10年前、ドイツから日本に帰って来た時の写真を見せられました。ドイツにいる間に体重が8キロほど増えて帰ってきたのですが、今と比べるとずいぶん痩せているのです。どうも、この10年の間にさらに8キロほど増えたようです。それで、今年は少し体重を落とそうと決意しました。すでに一週間がたちましたが、体重はさらに少し・・・

 今日の聖書は、主イエスがなさったたとえばなしです。いろいろなたとえ話をなさった最後の二つです。26節から29節の部分のたとえ話はひとりでに成長する種のたとえばなしと言われています。私のお腹と同じように、ひとりでに成長するわけです。

 ここに面白い表現があります。27節です。

夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

 この冒頭に「夜は寝て、朝は起き」と記されています。今度の2017年訳ではこう訳されました。

夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちます。

 私たちは、朝晩…という表現や、朝昼…という言い方をすると思いますが、聖書は反対です。夜に日が暮れると一日が始まったと考えるので、こういう書き方が出てくるわけです。これは、ただ、言葉の順番が入れ替わっているということだけではないと思います。私たちは夜になると今日一日起こった出来事を思いながら、眠ることによってリセットして、朝、新しい一日を迎えると考えて生活すると思います。ですから、夜眠られないということが起こったりするわけです。ところが、聖書の時代の人々の生活はそうではないのです。一日が終わって、新しい一日が始まったと考えながら眠りにつく。眠りから一日が始まるのです。ここの部分は、聖書が特にそれを強調しているのではなくて、ごく当然のことのように「夜は寝て、朝は起き」という書き方をしているのです。 (続きを読む…)

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