2015 年 3 月 29 日

・説教 ヨハネの福音書11章1-16節 「死で終わらない生」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:52

 

2015.3.29

 鴨下 直樹

 

先ほど洗礼入会式を行いました。先ほど、洗礼式に先立って、今日洗礼を受けられたYさんの証を聞きました。ご存知のように、Yさんのご両親はキリスト者です。その中で、どのように育ったのか、ありのままを話してくださいました。とても勇気のいったことだと思います。ご両親はキリスト者であると言っても、お母さんが洗礼を受けられたのは5年前のことです。先ほどの証の中にもありましたけれども、お酒のために体を壊して、このままでは命までも危ないというところまでいってしまいました。そして、家族の祈りの中で病床で洗礼を受けました。けれども、その後も様々な施設や病院、友人の家を転々として、ついに、洗礼を受けてからこの教会で一緒に礼拝を捧げることはできませんでした。そして、昨年の夏、病のために亡くなりました。亡くなる前のことですけれども、体調がすぐれないと時折電話でお話ししました。そのたびに、Yさんが優しいと涙ぐんで話してくれました。そして、よく電話口で一緒に祈りました。

Yさんが洗礼を希望されて、そのための学びをしている時に、わたしは一つの質問をしました。いつ、洗礼を受けたいと思うようになったのですかと尋ねたのです。すると、「お母さんが洗礼を受けたときから思うようになった」との答えが返って来ました。実は、私はその時、正直驚きました。お母さんのMさんが一番大変な時だったからです。けれども、同時に、Mさんは、自分の人生のもっとも厳しい時に、自分の人生を主イエスに託したから、そのことが心に残ったということだったのかと思い納得しました。

 

今日から、教会の暦で受難節を迎えます。主イエスが十字架にかけられて死なれた一週間を迎えます。そういう意味では私たちは一年の教会の歩みの中で、最も深く死について考える一週間を迎えます。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書10章31-42節 「殺意の中で」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:16

2015.3.22

 鴨下 直樹

 最近、インターネットでもニュースが読めるようになりました。そのようなニュースの中にはその記事に自分の感想を書き込めることができるようになっているものを見かけます。そういったニュースの中で、最近起こった一つの殺人事件の記事を見かけました。あの中学一年生を殺害した18歳の少年の記事です。その記事によると、この18歳の少年は周りの仲間に囃し立てられて歯止めが効かなくなって殺害に及んだという内容でした。すると、それを呼んだ読者の反応が載せられていますが、どれも、この少年を死刑にすべきだという意見を書いていました。そこに、自分もそう思うという同意する意見が何万件と寄せられているのをみて、私はびっくりしてしまいました。

もちろん、この少年の反抗は短絡的なもので、人々が理解できるような同情をさそう要素は何もありません。けれども、そこで、みんなが寄ってたかって未成年の事件は刑が軽いからやはり未成年にも刑事責任を問えるようにする必要があるのではないかとか、成人であれば死刑に相当するから死刑にした方がよいなどと、みんなが裁判官にでもなったかのようにして、この事件に対してそれぞれな思いのままの意見を発信します。そこには、自分の名前が出るわけでもありませんし、また、その意見に対して「同意する」というボタンであれば誰でもその意見に投票できます。

誰もが自分の目の前で起こった不快な事件を、そんな人間はいなくなってしまえばそれで解決として結論をだす。それに対する問いかけもなければ、自分にもそういうことが起こりかねないのではないかなどという洞察もありません。私が心配になるのは、こうやって、人々はこういう自分本位な意見が載せられたニュースばかり読んでいると、どんどん自分で考える力を失っていって、ますます人の顔色を見ながら生きていくようになるのだろうかと気になって仕方がありません。

 

しかし、もちろん、それは今に始まったことではありませんでした。今日の説教題を「殺意の中で」としました。主イエスの業を見て、話を聞いていた人々が、ここでもまた、「主イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた」という言葉から始まっているのです。理由はその前に書かれています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書10章22-30節 「永遠のいのちを与えるお方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:57

2015.3.15

鴨下 直樹

 

先日ある方からこんな電話の相談を受けました。来年から学校で旧約聖書続編付きの聖書を使うので、それを買い求めるように言われたのだけれども、この旧約聖書続編というのはどういったものなのでしょうかというのが、その方の質問でした。この旧約聖書続編というのはいったいどういうものなのか、多くの方も気になっておられるのではないかと思います。

私たちの教会の多くの方は礼拝で新改訳聖書を使っております。中には新共同訳聖書といいますけれども、カトリックとプロテスタントの聖書の専門家が一緒に協力をして翻訳をした聖書ですが、この聖書をお使いの方もおられます。この新共同訳聖書は、今多くのミッションスクールなどで使われております。この聖書はカトリックと一緒に訳したことと関係するのですが、カトリック教会がこの旧約聖書続編と言われているものを正典と同じように扱うために、新共同訳聖書では従来の旧新訳の聖書と、それに続編を付けたものとの二種類が取り扱われています。いわゆる福音派と言われる教会、私達もこれに属しておりますけれども、普段この続編についてはまるっきり取り上げませんので、聞いたことがない方がいても不思議ではありません。

少し説明をしておきますと、旧約聖書はマラキ書で終わっています。そして、新約聖書、特に主イエスの誕生までの間、約400年間、聖書にはこの間の出来事が記されておりません。この旧約聖書の続編と言われるのは、この400年の間、それを「中間時代」といいますが、この間に記されたいくつもの書簡が収められています。特に、何か怪しげな書物が含められているという訳ではありません。この時代の資料としてむしろ非常に重要な記録がいくつもおさめられていますので、もちろん、私たちはこれを他の正典と同じようには扱いませんけれども、読む分には非常に面白いものです。

その中でも、特にマカバイ記というものがありますが、ここには、イスラエルがアレキサンドロスというマケドニアの王の支配の後に、アンティオコス・エピファネスというシリアの王がエルサレムを占拠します。この時のユダヤ人たちの戦いの記録がここに記されています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書 10章7-21節  「わたしは門であり、良き羊飼いであると言われる主」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:06

 

2015.3.8

鴨下 直樹

 

 

受難節ではありますが、今、私たちは大きな喜びを味わっております。と言いますのは、長い間、いままでお借りしていました教会の駐車場の取得のために祈り続けておりましたけれども、この取得のための臨時総会を今日開くことができるまでに、主が導いてくださったからです。今年の1月に教団役員会がありまして、役員の先生から芥見教会の駐車場はどうなりましたかと尋ねられました。私はそのとき、奇跡でも起こらないかぎり教団の三月総会にかけられそうにありません、とお答えました。そして、2月の役員会の時も、その状況は何も変わってはいませんでした。けれども、この二週間の間に、事態は大きく変わりました。そして、今日、この後で行われる臨時総会で承認されれば、今月末に行われる教団総会に間に合わせることができるのです。大げさに、これは奇跡だと騒ぎ立てるつもりはありませんけれども、主のみわざであることに間違いないと思っています。主が、長い私たちの祈りに耳を傾けてくださり、確かに、主は私たちを導いてくださる羊飼いであられることを、私たちは経験しているのです。

今日の聖書の箇所には二つの主イエスの自己紹介がなされています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 1 日

・説教 ヨハネの手紙第Ⅰ 3章13ー14節 「すべては恵みです!」/讃美歌21・296番

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:48

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

2015 年 2 月 22 日

・説教 エペソ人への手紙6章10ー20節 「支配力との格闘」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:40

本日は鴨下彌先生が礼拝説教の奉仕、また、松平兄弟が国内宣教報告をして下さいました。

2015 年 2 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書10章1-6節 「羊飼いであられる主に導かれ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:36

2015.2.15

鴨下 直樹

私事で始めて恐縮なのですが、ドイツにおりました時に最初の一年の間、ヘッセン州のズィーゲンという町のはずれにあります小さな村で生活していました。ドイツ人の友達が私たちのための家を用意してくれたので、その友人のところから始めの一年語学学校に通いました。学校は午前中しかありませんので、午後からは学校で出された宿題をします。最初はそれこそすべての単語を調べなければ分からないという具合でしたから、宿題が終わるのに6時間かかるというような進み具合です。当然、すぐに飽きてしまいます。幸い、家の前には牧場が広がっていて、牧場の周りの森を散歩することができます。私たちは犬を連れていっておりましたので、犬と一緒に単語帳を持って毎日その牧場の間の道を小一時間散歩するというのが日課でした。

色々なところで何度も話していることですけれども、その牧場の手前側は羊が放牧されています。奥の牧場は牛です。牧場と牧場の間に小さな小道があって、散歩をする人たちはその小道を歩きます。動物はその道の方に出てこないように電線が張り巡らされておりまして、そこには常に電気が流れています。牛や羊が外に出てしまわないようになっているのです。ですから、今は羊飼いや牛飼いが一日中面倒をみているということはありません。ただ、数日ごとに、入れられている囲いの草を食べつくしてしまいます。すると、羊飼いが現れまして、羊を隣の囲いに誘導します。といっても、羊飼いは何も大変なことはなくて、羊飼いが歩いて行きますと、羊たちはぞろぞろとその羊飼いの後ろをついていきます。いつも見ていた牧場では牧羊犬もいましたけれど、ほとんど何の役にもたっていないように見えました。面白いことに、牛を移動させるときは反対で、牛飼いは手に棒を持って牛たちの一番最後から声を出して、牛のお尻を軽くその棒でたたきながら移動させます。

はじめて、この羊飼いが羊を導く姿を見たときの感動は忘れることができませんでした。聖書に書いてある通りだと思ったのです。私などが散歩の途中に羊に近寄っていっても、ある距離まで近づきますと逃げていってしまいます。後で知ったのですけれども、いつも見ている家の前の丘の牧場の羊は、友人の父親の羊だとわかったので、時々その友達に羊のことについて色々聞かせてもらうことができました。 (続きを読む…)

2015 年 2 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書9章35-41節 「見えないものを、見る信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:53

2015.02.08

鴨下 直樹

今日の説教題を「見る信仰」と告知しておりましたけれども、週報を作るときに「見えないものを見る信仰」と改めました。「見る信仰」も面白いと思ったのですが、少し言葉が乱暴な気がしたので直しました。けれども、「見えないものを見る」というのも、言葉だけを聞きますとやはり乱暴な言葉です。見えないものを見ることなど普通は出来ません。

みなさんも子どもの頃、理科の実験で顕微鏡を使った時や、反対に望遠鏡で宇宙を見た時などに興奮を味わったことがあることと思います。普段、私たちの肉眼では見えなくても、特別なレンズを通してみると、見えないものを見えるという経験をします。

今ヨハネの福音書の9章を学んでいます。この9章は盲目の人、目の見えなかった人が、目が見えるようになったことを巡っての出来事が記されています。そういう意味では、この目の見えなかった盲目の人は、見えるようになるということに憧れを抱いていたに違いありません。自分の知らない世界がある。まだ、味わったことのない「見える」ということに心惹かれていたに違いないのです。

日本に何度も足を運んでくださったルドルフ・ボーレンというドイツの神学者がおります。芥見教会で何年か前に加藤先生を講師にお招きしたことがありますが、この加藤先生がドイツの神学大学におられた時に、このボーレン先生と一緒に説教学を教えておられたこともあって、私も出席しておりました説教塾という牧師たちの説教の研修の場で、ボーレン先生が講演をされたことがあります。通訳は加藤先生がなさいました。

もう二十年も前になりますが、東京と名古屋でこの講演が行われましたので、私も直接ボーレン先生の講演を聞くことができました。その時になさった講演が後で本になりまして「憧れと福音」というタイトルがつけられました。今でも書店で買うことができます。とても素晴らしい本です。日本をとても愛した人で、何度も日本に足を運ばれました。そのときなさった講演でこんなことを言われました。 (続きを読む…)

2015 年 2 月 1 日

・説教 ヨハネの福音書9章1-34節 「大人の信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:47

2015.02.01

鴨下 直樹

今日の説教題を大人の信仰としました。どういう意味だろうと思われた方があるかもしれません。教会の前を自分で通り、掲示板に掲げられている説教題を見ながら、これを見た町の人はどんなことを考えながらこれを読むのだろうかなどと考えました。

「大人」と言う時の一つの明らかな意味は「自立した」という意味です。自分で自分のしたことの責任がとれるということです。先週礼拝のあとで、Mさんから今イスラム国で拘束されている後藤健二さんのために祈り続けてきました。あれから一週間たちました。今朝、私たちは先ほどの祈りにもありましたけれども、悲しい知らせを聞くことになりました。後藤さんは、ご自分で初めに映像で、自己責任で行くのだと話しておられました。そのために、テレビやインターネットでも初めの頃は自己責任だというようなことがずいぶん言われていました。けれども今回の出来事は自分で考えられる限度を超えております。私たちはそういうなかで、自己責任、大人として行動するということの意味を突き付けられる一週間であったということができると思います。

まさに、今日の聖書の中でも、「大人」という言葉が出てまいります。盲人が主イエスによって目が開かれるようにされました。大勢の人々はこの目の見えない人を街中で見ていたはずです。心を痛めていたはずです。中にはこの人に施しをした人があったかもしれません。しかし、この人が癒されると人々は癒されたことを喜ぶのではなくて、誰が癒したのかという議論になってしまいます。そして、ついには両親まで無理やり引きずり出されて、どうして見えるようになったのかと問いかけられるのです。そして、いわば苦し紛れに言った言葉が23節の言葉です。 (続きを読む…)

2015 年 1 月 25 日

・説教 ヨハネの福音書9章1-9節 「神の業が現れるために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:39

2015.01.25

鴨下 直樹

ヨハネの福音書の9章に入りました。この9章は生まれつきの盲人が主イエスによって癒されたことを巡ってなされた出来事が記されています。冒頭の1節でこう記されています。

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた

何でもないようなことですけれども、この部分にすでに「主イエスはどのような思いでこの生まれつきの盲人を見られたのか」ということを、これを読む私たちにも問いかけています。というのは、続いてこう記されています。

弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

こういう箇所を読みますと私などは少しドキドキしてしまいます。ここで、この会話が目の見えない人の耳に直接聞こえてしまったのではないか。そんな心配を持つのです。目の見えない方というのは、耳の発達がずいぶん違います。以前私が神学生の時に奉仕していた教会で目の見えない方がおりました。当時はまだ礼拝説教をカセットテープで聞いておりましたけれども、この方は高速で再生できる持ち運びのできる特別なカセットプレーヤーを持っておられて、説教のテープを高速で再生して数分で聞いてしまうのです。私はそれを聞かせていただいたときに、まるっきり聞き取れません。私が「この速さでわかるんですか」と聞きますと、「普通でも本を読む時に声を出すスピードでなんか読まないでしょ。目で読む時はずっと早いはずです」と言われて深く納得したものです。目の見えない方は音を聞き取る能力と鼻で匂いをかぐことに優れている方が多いと聞きます。

ですから、もし、この時の会話がこの目の見えない人に聞こえたらさぞかし傷ついたのではないかと考えてしまうのです。それくらい、弟子たちは無神経にこの人を見ていたと思います。

けれども、ここで弟子たちが質問している内容そのものは私たちにも良く分かることです。この人の目が見えないのには何か理由がある。特に、「因果応報」などと言いますけれども、この人の罪のせいでこうなっているのか、あるいは両親や、祖先の罪でこうなっているのでしょうかと、弟子たちは尋ねたのです。みなさんもよくご存じのことだと思いますけれども、聖書にはこの「因果応報」を認めるような記述がいくつか書かれています。 (続きを読む…)

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