2014 年 3 月 2 日

・説教 出エジプト記20章17節 「むさぼりの心からの自由」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:55

 

2014.3.2

鴨下 直樹

 

 十戒を学びはじめましてようやく今日で最後の戒めの部分を学びます。順にこのように十戒の意味を学んでいきますと、私たちを導いてくださる主が、私たちにどのように生きることを願っておられるかが少しづつ見えてきたのではないかと期待しています。私たちの主が願っておられるのは、主によって支えられていることを覚えながら、お互いをも支え合って生きていくことができる生活を語っていると言っていいと思います。そのように考えてみますと、この十戒の最後の部分、この「あなたがたの隣人の家を欲しがってはならない」という第十の戒めの意味も、もうすでに何を語ろうとしているのか分かってきます。人のものを欲しがらなくても、安心して生きることができる喜びを知ってほしいと主が願っておられるということです。

 「欲しがってはならない」。この言葉だけをそのまま考えてみますと、もうこの戒めを守ることは不可能に思えてきます。子どもが生まれてから最初にする能動的な行為は、この欲しがるという行為です。ミルクが欲しい。もっと欲しいと切実な嘆きと共に訴えかけられると、親としてはどうしたって与えたくなります。ミルクを卒業して色々なものを食べるようになりますが、それでも、またもっと欲しいと訴えかけます。説教の時に、私は出来るかぎり自分の子どものことを話さないようにと思うのですけれども、最近、祈祷会でもそうですが、たとえで話すのはほとんど子どもの事ばかりになりつつあるので、だいぶ反省しています。それでも今日もお話しするのをお許しいただきたいと思いますが、先日も幼稚園の先生が園での様子を書いてくれる手帳の中に「お昼御飯は一回おかわりをしましたが、まだ足りない様子でした」と書かれていました。本当に、食べたがります。どうやって欲しがるのをやめさせたらよいのだろうかと毎日考えていますから、今日の聖書の箇所を読みながら、もうほとんど絶望的な気持ちになるのです。

 人間は小さい時からずっと、欲しい、欲しいと訴え続けて大人になっていくものです。考えてみれば、私たちの生活の大部分が何かを手に入れることで成り立つ社会の中で生きているのです。そして、その中から豊かさというものを味わって生きていくのです。子どもを見ていてもそうです。子ども同士で自分の持ち物を取りあう、兄弟と奪い合う、そうして、自分の所有権を主張しながら争いをつづけて、大人になっていくのです。

 

 第八の戒めであった「盗んではならない」を学んだ時に、物を盗むことは第十の戒めで考えられていて、第八の戒めは、何よりも人を盗むことが戒められていて、物に対して戒められているのがこの第十戒だとすでに説明しました。ところが、この聖書の言葉を読んでいきますとこう記されています。 (続きを読む…)

2014 年 2 月 23 日

・説教 ヨハネの福音書13章15節 「模範を示す主イエスキリスト」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:15

 

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

2014 年 2 月 16 日

・説教 主エジプト記20章16節 「偽りの心を捨てて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:04

 

2014.2.16

 鴨下 直樹

 

 十戒を学び始めてようやく第九戒まできました。最初にこの十戒を学ぶことは自由の道標となるという、ロッホマンという人の言葉を紹介しました。私たちはこれこれをしなければならないという戒めを聞くと、それをまもならければならないなら、それは自分の自由を奪われることになってしまうとすぐに考えてしまうものです。実際、戒めに従う生活ということだけに心を向けていきますと、不自由を感じると思います。しかし、すでにここまで十戒の戒めを学んできて、この戒めの背後に神がどれほど深い愛をもってこの戒めを与えてくださったか。神はこの世界でどのように生きることを願ってこの戒めを与えられたのかが少しづつお分かりいただけたのではないかと期待しています。

 神に支えられて生きる歩み、そして、私たちと一緒に生きている人々と共にどうしたら豊かに生きることができるか。そのためにこの十戒を心にとめることによって、私たちは神が私たちを本当に自由に生きることができるようになることを望んでおられることを知ることができるのです。

 

 今日も、この後で教会総会を行ないます。みんなで話し合いながら昨年の教会の報告を聞き、また、新しい一年の計画を立てます。そして、その背景には同盟福音基督教会の教会憲法や教会規則にのっとって話し合いが進められます。普段、あまり教会憲法とか教会規則というものにふれる機会がありませんから、こういう時に、私たちはこういう制度をもっている教会なのだということを改めて感じるかもしれません。先日も、舛田神学生が教団の補教師試験を受けました。この補教師試験というのは、教団の規則集をあらかじめ渡しておきまして、さまざまな教団の規則がどのようになっているのかを質問して、それに答えていきます。そうすることによって、この教会の規則を正しく理解してもらうわけです。こういう規則だとか憲法というもののうえに教会は建て上げられて行きます。おなじようにこの十戒は、人として最も基本的なことを教えている、生きていく上での大切な使信だということができると思います。

 

 今から学ぼうとしているこの第九戒は「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」という戒めです。 (続きを読む…)

2014 年 2 月 9 日

・説教 出エジプト記20章15節  「盗む心から与える心へ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:12

 

 

2014.2.9

鴨下 直樹

 

 「盗んではならない」とあります。二歳になった娘の慈乃が、週に数回ですが幼稚園に通っています。ご覧になった方も多いと思いますけれども、とても食べるのが好きな子です。幼稚園の給食の時間も人一倍食べ終わるのが早いようで、どうも聞いていますと、隣のまだ食べている子どものお皿に手を伸ばしてしまうことがあるようです。私たちがまだ食べていても、私たちのお皿に手を伸ばしてきますから、そういうこともあるだろうと思うのです。いくら「それは盗みである」と教えても、「まだ食べたいんだから何が悪い」と言わんばかりに泣いて抗議します。もちろん、少しづつ学んでいくことですからそれほど心配しておりません。むしろ、そんなに食べて大丈夫かということのほうが心配なくらいです。しかし、いつかは学ばなくてはなりません。人のものを取ることがどれほど悪い事なのか。自分もそうされてみて気づいていくのでしょうか。

 そのことを考えてみてもそうですけれども、「盗んではならない」という戒めを正しく理解するために必要なことは、想像力を持つことです。奪われた相手がそのことでどれほど悲しい思いをし、悔しい思いをするか、自分に当てはめてみればすぐに分かることです。ところが、なかなかいつまでたっても、新聞やニュースから盗むという事件が姿を消すことがないのです。

 

 「盗み」と一言でいっても、そこには様々なものがあります。 (続きを読む…)

2014 年 2 月 2 日

・説教 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:48

 

本日は舛田友太郞神学生が説教奉仕をしてくださいました。

2014 年 1 月 26 日

・説教 出エジプト記20章15節 「姦淫の罪とは」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:31

 

2014.1.26

鴨下 直樹

 

姦淫してはならない。

これが今朝私たちに与えられている十戒の第七の戒めの言葉です。この短い戒めですけれども、この戒めを通して私たちが本当に考えなければならない問題が、ここにはたくさん潜んでいると言っていいと思います。

 まだ、若い時にこの戒めをめぐってずいぶん悩みました。私たち同盟福音基督教会という教会は、敬虔主義の流れを持っています。敬虔主義の「敬虔」という字は、よく「敬虔なクリスチャン」と言う時に使われる言葉です。信仰の歩みは実生活に証されるべきであるという考え方が、この敬虔主義の考え方の根底に流れています。ですから、たとえば「聖日厳守」とか「禁酒禁煙」というような標語が教会でも掲げられてきました。私の父も牧師をしておりましたけれども、非常に厳格な敬虔な牧師です。毎朝早天祈祷をし、大きな祈りの課題があれば断食をし、暇があればトラクトを配るか、車の上にスピーカーを載せて町に伝道に出かけるという生活です。そういう両親に育てられましたので、聖書の戒めについては厳格に守るように子どもの頃から教えられてきました。そのことについては、私は今となっては本当に感謝しています。そのように教えられなければ、本当に神さまに従うことについて考えてこなかったと思うからです。

 先ほどもお読みしましたけれども、マタイの福音書の山上の説教の中で、主イエスがこの「姦淫してはならない」という戒めをこのように教えられました。五章の二十七節です。

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。

と続きます。以前すでにここから説教しましたので丁寧に解説する時間はありませんが、ここでは「すでに心の中で姦淫を犯した」と言われています。そのために、本当に自分はどうしたらいいんだろうかと思うほどに、毎日のようにこの聖書の言葉に苦しめられました。しかし、今考えても、あのように御言葉に苦しめられるという経験は、本当に聖書を理解していくうえで非常に大事なことだと思います。

 

 少しつづこの戒めについて考えてみたいと思います。 (続きを読む…)

2014 年 1 月 19 日

・説教 マタイ18章20節 「病から学ぶ祈りと御言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:49

 

本日は赤塚尚武兄が礼拝説教で証をして下さいました。

2014 年 1 月 12 日

・説教 出エジプト記20章13節 「共に生きるために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:40

 

2014.1.12

 鴨下 直樹

 

 「殺してはならない」これが第六の戒めです。非常に短い戒めで、ここで言っていることはとても単純なことです。殺してはいけないのです。しかし、誰にでも分かるこの戒めも、角度を変えてもう一度問い直してみると、なかなか単純とはいきません。自分のいのちを断つ自殺、胎児のいのちを奪う中絶、国家が国の利権を守るために行なわれる戦争も、公の殺戮です。また殺人犯などに対する死刑、環境破壊からくる第三国の飢餓死、あげ始めるときりがありません。誰もが人を殺すことはよくないことなのだと分かっているのにも関わらず、私たちの生活の中には実に様々な形で人を殺す行為が行なわれてしまっています。

 

 この説教の準備のためにルターの書いた「大教理問答」を読んでおりました。すると、 (続きを読む…)

2014 年 1 月 5 日

・説教 出エジプト記20章12節 「長く生きるために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:23

 

2013.1.5

 鴨下 直樹

 

 新しい年を迎えました。今年は詩篇七十三篇二十八節の「わたしは、神に近くあることを幸いとします。」(新共同訳)がローズンゲンによる年間聖句として与えられています。元旦礼拝でも、「来る一年にこれからどのようなことがあったとしても、主の近くいる幸いを覚える一年となるように祈ります」と説教いたしました。

 二日の日ですが、私の両親を訪ねました。ところが、まだ兄弟たちが集まる前に、娘の慈乃が膝の上で絵本を読んでやっていますと急に様子がおかしくなってしまいまして、ひきつけているのです。もう二回目のことですので、少しすれば治るはずなのですが、収まるようすもありません。お正月から自分で医者を探すことも難しいので救急車を呼びました。救急車が来てもまだひきつけがおさまりません。20分から30分ほどたったでしょうか、救急車の中で、一度意識が戻って少しほっとしたのですが、病院に到着してからもまたひきつけをおこしてしまいました。しかも、今度は意識が回復しません。入院して様子を見るということになったのですが、お医者さんのはなしでは「脳症」という診断でした。詳しい事はよく分かりませんけれども、最初のひきつけの時間が長すぎたために、脳の機能が回復しないのです。検査をして分かったのは小さな子どもがかかりやすい最近流行しているRSウィルスという菌が原因ということでした。二歳以下の子どもは非常にかかりやすく、特に効く薬もないんだそうです。病院で、様子を見ながら回復を待つということでしたが、五時間たった夕方に、ようやく意識を回復しました。

 私たちの会話が聞こえていたのか、「慈乃、意識、ないないした」と言って看護師さんたちを驚かせました。今は、だいぶ回復しておりますが、まだ何だかぼーっとした状態でいます。もう、何度も何度もひたすらに、「主よ、どうか癒してください、助けてやってください」という祈りとも言えないような叫びを繰り返すだけでした。

 けれども、前日、ここで御言葉を語ったように、本当に、「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあせなのです。」という新改訳の言葉がそのまま私の頭を何度もよぎりました。本当に、親として目の前で病に苦しんでいる娘に対して祈ることしかできないのです。けれども、何もしてやれないのですけれども、祈ることができる。いのちの主にいのることができるということは、何という幸いなことなのだろうかと思わずにはいられませんでした。どうなったとしても、この主がいてくださるのだから大丈夫だという確信があるのです。私自身、今年与えられている御言葉を改めて味わうことのできる時となりました。 (続きを読む…)

2013 年 12 月 29 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-18節 「恵みとまことを実現させるお方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:06

 

2013.12.29

 

 鴨下 直樹

 毎年この季節になると感じることですけれども、お店にまいりますと、もうどこもクリスマスの飾りはかたずけられてすっかり正月の飾りつけに様変わりします。二十五日に買い物に出かけますと、もうすでにクリスマスはいつのことだったのかというほどに、隅に片づけられているのをみて寂しい気持ちになります。

 私たちは今年の年間聖句としてヘブル人への手紙十三章十四節の御言葉をあたえられました。新共同訳聖書では「私たちはこの地上に永続する都を持ってはおらず、来るべき都を探し求めているのです。」となっています。私たちが探し求めているのは、この世で今の一時を楽しむのではなくて、主がもたらしてくださる御国を求めているのだという言葉です。年末になると、本当に、この世が求めているのはいかに、今の幸せを長く感じられるかということに価値を見出していることに驚きます。もちろんそれはお店のことにとどまりません。テレビを見ていてもそうです。政治のあり方もそうです。この世の中の考え方そのものが、今にしか価値を見出していません。それと、同時に、こんなにも目まぐるしく次々に代わっていくさまざまなものを目にしながら、本当の今の世で、人は少しでも長く幸せを感じていたいと思っているのだろうかという矛盾を感じずにはいられません。それほどに、私たちの生活は安定というものとは矛盾するかのように、次々と新しい商品、最先端のファッション、流行りの考え方などを誰よりも先に手にいれることにつきあわされている気がしてなりません。そういう新しいものに追われる毎日の生活の中で、私たちは何が人にとって本当に大切なことなのかを考えないようにさせてしまっているのではないかと考えざるを得ません。そして、人々もまた大切なことを考えることを避けるかのように、次々とでてくる新しいものに身をまかせることに安心を得てしまっているのかもしれません。

 

 ヨハネの福音書を今私たちは学び始めています。今日で、四回目になります。ヨハネはここで、私たちにいのちを与え、わたしたちの光となることばを紹介することで、この福音書を書きはじめました。今日は特に、十四節から十八節を中心にみていきたいと思いますが、ヨハネはこのヨハネの福音書を書きはじめるにあたって、私たちにもっとも必要なものは何かということを書いています。私たちにとってかけがえのないほどに大切なもの、それは、 (続きを読む…)

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