2013 年 3 月 3 日

・説教 詩篇25篇 「主よ私の魂はあなたを仰いでいます」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:33

2013.3.3

鴨下 直樹

先日の祈り会でこんな質問がでました。詩篇の祈りというのはかなり正直に祈っていて、こんなことまで祈っていいのかというような祈り、例えば、自分は正しいのだとか、敵を滅ぼしてくださいというような祈りは、祈りとしてどうなのでしょうかと、尋ねられました。これは、詩篇を読む人であれば誰もが一度は心に浮かんでくる問いなのではないかと思います。詩篇の中にある祈りというのはどうも教科書のお手本のようにできるような祈りばかりではないのです。かなり率直に祈っています。こんな祈りをしたら神様はお怒りになられるのではないかと思えるものも少なくないのです。
これは詩篇に限った事ではありませんけれども、聖書は人間の心の片隅に浮かぶような思いも、あるいは、本当は隠しておいたほうがよい罪もそのまま記されています。この聖書にはありのままの人間の姿が描き出されています。ですから、祈りにおいても、いや、祈りにおいてこそ、人間の心の内面がよく表されるということが言えると思います。

この詩篇の二十五篇には表題に「ダビデによる」とありますから、ダビデの手によるものと考えられています。このダビデの祈りとして、冒頭に「私が恥を見ないようにしてください」という祈りが、二節と二十節に出てきます。ダビデだけではありません。人は誰でもそうですが、恥をかかされるということが好きではありません。人前で非難されるとか、辱められたという経験を一度すると、なかなか赦すこともできなくなってしまいます。ですから、人前に出る時にはできるかぎりきちっとした服装をして、身なりを整えて出かけます。この恥というのは、周りの人々の中で面目を保つという意味があります。しかし、この詩篇はこのように始まります。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。

一節と二節です。主を見上げて主に信頼している人が望んでいるのは、自分が恥をかかないことだというわけです。最初の質問に立ちかえるなら、この祈りもまたずいぶん身勝手な祈りということになるかもしれません。
神様を信頼していると言いながら、すぐに自分の面目を保って下さいと祈っているのです。神を信頼しているのか、自分のことをまず第一に考えているのかというような祈り始めです。けれども、この祈りにはそう祈るだけの理由があるようです。 (続きを読む…)

2013 年 2 月 24 日

・説教 詩篇51篇 「清き心をつくり給え」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2013.2.24

鴨下 直樹

 ときどきこんな想像をしてみることがあります。神様は天で人々の祈りの言葉をどのように聞いておられるのだろうかと。私たちの祈りのほとんどは、神への願い求めだろうと想像します。あるいは嘆きの訴えも多いことでしょう。神はいつも天で人々の祈りに耳を傾けながら、その祈りのほとんどは、「こうしてほしいのだ!」という激しい訴えを聞いておられるのではないかと思うのです。

 けれども少し視点を変えて考えてみたいと思うのですが、もし私たちがそういう言葉ばかりを聞き続けていたらどうなるのでしょうか。家族が「こうしてほしい!」と訴え、職場で同じ訴えが繰り返され、教会でも同じ言葉が繰り返される。「ああしてほしいのだ、こうして欲しかったのだ!」と、もし私たちがそのような言葉を聞き続けているならば、当然のことですが、気がめいってしまうに違いないのです。

 神は天で人々の祈りを聴きながら、それそこ毎日膨大な人々の祈りの姿をとった訴えの言葉を聞きながら、このお方はそれをどうなさるのだろうか。そんなことをふと、考えるのです。

 

 キェルケゴールというデンマークの思想家の書いた「神への思い」という小さな祈りの本があります。この本にはキェルケゴールの祈りが納められているのです。私が神学生の時に、祈りについてあれこれと思い悩んでいた時にこの本と出合いまして、私は衝撃をうけました。キェルケゴールという人は神学の学びをした人でしたけれども、牧師にはならずに、著作活動をした人です。常に、神を意識し続けてきた思想家です。心の繊細な人のようですけれども、この本の祈りの中でびっくりするような祈りばかりが書かれていました。例えばこんな祈りがあります。

(続きを読む…)

2013 年 2 月 17 日

・説教 マラキ書3章6ー12節 「主の祝福」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:58

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

2013 年 2 月 10 日

・説教 ガラテヤ人への手紙6章11-18節 「私たちの戦い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2013.2.10

鴨下 直樹

 「戦いの手紙」と呼ばれたガラテヤ人への手紙もここでようやく筆を置くことになります。そして、今日のところでパウロは、自ら筆をとって書いています。ここにパウロがどのような思いで戦っていたのか良く分かります。

 パウロの戦いというのは、相手を飲み込むように威圧して力によって戦うことをしませんでした。自分の持つ力を示すことではなくて、神の愛を、恵みをさし示すことに終始心を注ぐ戦いです。愛がとどくために戦っているのです。

 

 戦いといいますと、私たちは先週横浜で行なわれた全日本製造業コマ大戦の話を聞いたかもしれません。私たちの教会の長老であるYさんの会社がこの大会に優勝しました。新聞にも取り上げられたようで、わたしもさっそくインターネットで調べてその戦いの様子を見させていただきました。決勝戦の様子を見たのですけれども、決勝でYさんのまわすコマが勝った時には思わず目頭に熱いものがこみ上げてきました。

 全国から二百社の応募の中からの優勝ということです。色々なコマがありますけれども、様々なアイデアのなかでいかに堅実に戦うことが大切かということをもう一度考えさせられました。今日の説教題を私たちの戦いとしました。私たちの歩みにも様々な戦いがあります。教会と戦いという言葉はあまり一つに結びつくというイメージがないかもしれませんけれども、信仰の歩みは戦いの歩みです。教会の歩みは戦いの歩みです。しかし、私たちの戦いは力でよって勝利を得る戦いではありません。私たちの業や、私たちが何かをなし得ることで勝利を得るわけでもありません。

 

 パウロはこの手紙の結びの部分でこう言いました。

「割礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

 パウロはここで力に生きるのではなく、大事なのは新しい創造であると語りました。最後にこの手紙を結ぶにあたってそのことはどうしても、自分の手で伝えたいと思ったのです。 (続きを読む…)

2013 年 2 月 3 日

・説教 ガラテヤ人への手紙6章1-10節「兄弟として共に生きる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:20

2013.2.3

鴨下 直樹

 間もなく総会を迎えます。今朝、総会資料が配られておりますので、すでに目を通された方も多いと思います。その時に、ちょうどこの御言葉が与えられております不思議を感じずにはおられません。

 今日の聖書個所の冒頭にこのように記されています。

「兄弟たちよ。もしだれかが過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で正してあげなさい。」

 今朝はこの聖書の言葉を少し考えてみたいと思います。

 

 「もし誰かが過ちに陥ったなら」とパウロは語りかけます。私たちの身近に、日常によく起こることです。私たちの日常の生活の中で、家族が過ちを犯す、兄弟が過ちを犯した時に、私たちはどうするのかということが問われているのです。もちろん、それは家の中のことだけに留まりません。教会でも同じことですし、地域の人との関わりも同じことです。そこで、私たちがよく経験するのは、誰か近しい人が過ちを犯した現場を目撃したら、鬼の首をとったかのように攻撃をしてしまうという場面です。攻撃する側は気持ちがいいのですが、攻撃される方としてみれば大変なことです。人はなかなか人の過ちを簡単に見過ごしにすることができないようです。何故なのでしょうか。

(続きを読む…)

2013 年 1 月 27 日

・説教 ガラテヤ人への手紙5章16-26節 「自由への戦い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:24

2013.1.27

鴨下 直樹

今日の説教題を「自由への戦い」としました。今日の十六節からの聖書箇所には自由という言葉はありませんので、なぜこんな題をと思う方があるかもしれませんが、その前の十三節から自由についてパウロが語っているからです。ですから本当でしたら今日は十三節からにするべきだったかもしれません。
この「自由」という言葉は色々なものを連想させます。自由と言った時に連想するのは、多くの場合、自分の願いが満たされること、自分がまさに自由に、気ままに生きることができる時であろうと思います。けれども、私たちがキリスト者としてこのテーマから連想する自由のイメージは、もしかすると、信仰に生きるために欲望を我慢して不自由を強いられることが信仰的な生き方で、それを聖書は御霊に生きると言っていると理解してしまうことがあるかもしれません。
このような考え方を禁欲主義といいます。禁欲主義などという言葉を使いますと、自分はそんな堅苦しく考えていないと思うかもしれませんが、信仰に生きるというのは、禁欲的な生活を強いられるというイメージを持っている人は意外に多いと思います。今日の箇所は私たちが信仰者としてどのような自由に召されているのかを考えてみたいと思います。

私は今、「自由に召される」と言いました。召されるという言葉は、たとえば牧師になるために神学校にいくように召されたなどという使い方をしますから、何か特別な召命を受けた人のことと考えてしまうかもしれません。しかし、パウロはこの十三節で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」と書いています。召すというのはそのために任命するということです。神は私たちが自由に生きるように任命してくださったのだというのです。

けれども私たちが信仰に生きる時、この自由によって与えられる喜びが失われていることに気づくことがあるのではないかと思います。教会に来始めた頃、聖書の話に興味をもって礼拝に来ていた時は喜んで来ていたのだけれども、信仰に生きるようになって、洗礼を受けていつのまにか、喜びが心の中に感じられなくなってしまって、何となくの義務感や、人付き合いから来る責任感の方が大きくなってきてしまうということがあるようです。これは残念なことです。いくら残念と言っても、簡単に喜びを取り戻すことができなくなっていくと、それは深刻な問題です。
今日の聖書の箇所は私たちが失いそうになってしまいがちな、この信仰の喜びに深く根差す自由はどこから来るのかということを、パウロは教えようとしているのです。

パウロは今朝のところでこう言っています。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 20 日

・説教 ガラテヤ人への手紙5章2ー15節 「愛によって働く信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

2013.1.20

鴨下 直樹

先ほど、詩篇の五十一篇を聞きました。「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」との表題がついています。イスラエルの王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯します。そして、部下のウリヤを戦争のもっとも激しい所に送り出して殺してしまうという出来事が起こりました。今日流の言葉で言えば不倫です。そして、それが殺人事件に発展したのです。しかし、ダビデは王さまです。自分のしたことをうまく隠すこともできれば、それを攻め立てる人もおりません。この出来事の書かれているサムエル記第二の第十一章、十二章を見てみますと、ダビデはその出来事を隠そうとはしていても、悪びれている様子はありません。けれども、預言者ナタンがダビデを訪ねて来て、このダビデの罪を臆することなく指摘します。その時にダビデが悔い改めた祈りが、この詩篇五十一篇です。
ダビデの時代というのは、罪の赦しのために犠牲を捧げることが律法に定められていました。けれども、ダビデはこの詩篇の中で、自分の罪に目をとめながら神は本当は犠牲を捧げることを願っているのではなく、心から悔い改めることを求めているのではないかと気づきます。それが、この詩篇の祈りの中で現れているのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

十節。そして、

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と十六節、十七節にあります。
ダビデはこの詩篇で、自分には母親から生まれた時から罪があるのだとの自覚を告白し、その罪から完全にきよめられるためには全焼のいけにえを捧げることによって罪が赦されるのではなくて、神によって新しい存在にされることだとの結論に達します。パウロの時代から約千年も前の出来事です。

人が罪からきよめられるために必要なことは、律法の規定のとおり全焼のいけにえを捧げることか、それとも、神によってきよめられることか。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 6 日

・説教 ガラテヤ人への手紙4章12-20節  「パウロの願い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:51

2013.1.6

鴨下 直樹

今日の説教の題を「パウロの願い」としました。それは今日の聖書の冒頭の言葉、「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。」という十二節の言葉からとりました。もっと色々な題をつけることができると思います。いつも単純な題しかつけられないのですが、今日の聖書が語っているのは、パウロのこの言葉につきるのです。

お願いです。兄弟たち。私のようになってください。

しかし、よく考えてみますと、私たちは普段そのように誰かに言うことができるでしょうか。たとえば、昨年のクリスマスに洗礼式がありまして、洗礼を受けられた方に教保という人がつきます。新しい信仰の歩みの支えとなるように役員会でよく祈りながら教保をつけるのです。教えを保つと書きます。その教保が新しく教会員となった方に、「なに、心配することはないのです。私のように生きたらよいのです」と言えるかということです。そんなことを言うと、誰かの教保をしておられる方はびっくりしてしまうかもしれません。「私はそんな立派なキリスト者ではない」と言いたくなるのではないかと思うのです。

私たちは、「私のようになってください」などと言えるのは、よほど立派な人間でないと言えることではないとまず考えるのではないでしょうか。実際、そんなに軽々しく言える言葉ではないのです。しかし、パウロはここでそれこそ確信をもって語っています。もちろん口先だけの言葉ではなかったはずです。心からそう願っていたに違いないのです。
私たちが言うことができるとしたらどうでしょう。前任の後藤先生の書かれた『キリスト教Q&A21』という本があります。この本はこれまで洗礼を受ける方のテキストにしてきたということもあって、今もそれを使って洗礼の方の学びをしています。その中にもでてきますけれども、後藤先生自身、洗礼を受けたときに誰かにこう言われたそうです。「人間をみてはいけません。キリストを見ることが大事です。」と。人が何をしたとか、何をしなかったとかそういうところにいつも目を向けていると、腹が立ったりします。けれども、主イエスを見つめていれば、そういうことから回避できるというのです。後藤先生自身、そのアドバイスはとても役にたったと書いておられます。

パウロが、「私のようになってください」と言っているのは、自分は立派なキリスト者で、私を手本にすると良いという意味で言っているのでしょうか。パウロはこのすぐ後で「私もあなたがたのようになったのですから」と言っています。これは、どういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 1 日

・元旦礼拝 ヘブル人への手紙13章14節 「永遠の都を求めて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:32

2013.1.1

鴨下 直樹

<ローズンゲンの年間聖句>

わたしたちはこの地上に永続する都をもっておらず、来るべき都を探し求めているのです。

ヘブライの信徒への手紙13章14節  新共同訳

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

ヘブル人への手紙13章14節 新改訳

2013年を迎え、今朝、私たちは元旦礼拝の時を持っています。そこで、年間聖句から御言葉を聞くことになっています。今年、私たちに与えられているのが、このヘブル人への手紙13章14節のみ言葉です。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」
私たちは、この新しい年に、私たちがもとめているのはこの地上の都ではないのだという、はっきりした否定の言葉を聞いています。私たちが求めているのは、この地上にあるものではないのだとこの御言葉は宣言しています。新年に聞く御言葉としては少し驚くかもしれません。私たちは、この地上での生活が少しでも善くなれば、少しでも幸いな生き方ができればと考えています。けれども、私たちが求めているのは、この地上の生活なのではなくて、この後に来る永遠の都での生き方なのだというのです。

そのことを考えるのに、私たちがまず考えなければならないのは、私たちの生活から考えるのを止めるということです。私たちの生活を土台にして考えるのではなく、まず、イエス・キリストは何をなさったのかということを考えてみることが大事です。 (続きを読む…)

2012 年 12 月 30 日

・説教 ガラテヤ人への手紙4章1-11節 「解放の言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:36

2012.12.30

鴨下 直樹

クリスマスを迎え、今朝は降誕後第一主日です。教会の暦ではクリスマスを覚えて祝う主の日です。私たちは年末ということもあって、もうクリスマスの気持ちはすっかり抜けて、新年を迎えるための準備をしておられる方々も多いかと思います。私も先週三日間のお休みをいただきました。と言ってもどこかに出かけたというわけではなくて、念願の大掃除をいたしました。牧師室などは何年ぶりかで綺麗になりました。これで気持ちよく新年を迎えられるという思いが私にもあります。けれども、教会の暦ではクリスマスです。不思議な気持ちになるかもしれません。それは、クリスマスはもう終わってしまったことと考えてしまうので、今朝の礼拝ではクリスマスのお祝いなのですよ、と言われてもあまりピンとこないのかもしれません。

今、礼拝ではこのガラテヤ人の手紙を順に学んでいます。そして、不思議にも、ちょうどクリスマスの出来事がここにも記されているのです。四節にこうあります。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

神が定められた時、それがクリスマスでした。その神が定めたクリスマスの時に、神はイエス・キリストをこの世に生まれさせ、イエス・キリストもこの世界の律法、つまり法律のもとに生きる者とされましたと書かれています。ここに一つの大切なクリスマスの意味が記されています。クリスマスというのは、天におられた神であられたお方がこの地に来られて、この世界のルールに従う存在となったのが、クリスマスの意味だということができるわけです。
そして、神がなぜそんなことをなさったのかというと、続く五節で、

これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

となっています。大変、興味深い説明をパウロはここでしています。神の御子であられる主イエスがこの世界のルール、きまりに従うのは、私たちがそこから解放されて神の子とされるためだというのです。

先週の礼拝で、クリスマスを祝いながら洗礼式を行ないました。洗礼というのは、キリスト者として新しく生まれるという意味を持っています。主イエスを信じるまでの生き方は、この世の価値観に支配されながら、みんなが考えるように自分も考えて決断するという生き方をしてきました。この世の考え方と言っても色々あります。自分の生活が第一という人もいれば、人のためになることをしたいと思っている人もいます。ですから、それらを簡単に悪いと言いきることはできませんし、それを一口に言い表すことはできないのですが、パウロはここで、「この世の幼稚な教えの下に奴隷になっていました」とはばかることなく主張します。しかも、ここで「私たちも」とパウロ自身、この世の幼稚な教えに支配されていたと言っています。ここで、パウロはそのようなこの世界の価値観を否定しているわけではありません。神の価値観に比べて幼いのだと言っているのです。 洗礼を受ける前の生き方が、この世の幼稚な教えの下で生きて来た、などと言うと、そうとう多くの人が拒否反応を示すのではないかと思います。

あの宗教改革者のルターの改心の出来事を聞いたことがあるでしょうか。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.208 sec. Powered by WordPress ME