・説教 ローマ人への手紙9章14-24節「あわれみの神」
2022.02.20
鴨下直樹
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今、ローマ人への手紙を順番に説いていく、いわゆる講解説教をしています。そこで、難しいのは、ずっと順番に話を進めていくわけですが、毎回どこかで話を区切らなくてはなりません。時間の関係もありますので、一度の説教で扱える分量を考えながら、切り分けていきます。けれども、そうしますと、魚の切り身でもそうですが、その切り取った部分だけを見ていると、それがどんな魚の、どの部分なのかということが分からなくなってしまうということが起こります。
しかも、文章の全体で何を言っているのか分かるというものを細かく細かく切り分けてしまうと、いったいこの話はこの前はどんな話で、この後どう繋がるのかということも見えません。
私も含めて、みなさんもそうだと思うのですが、前回の説教をちゃんと覚えている方はそれほど多くはない気がします。しかも、もう30回以上ローマ書を説いているわけですから、最初の頃のことなど、もうすっかり忘れてしまうというのが普通です。
全体の話の流れから外れないように意識しながら、毎回短い箇所を選んで、パウロの話の進め方を思い起こしながら、今日の箇所では何が語られているかと分かるようにするというのは、なかなか至難の業と言えます。
パウロはここで、神に対して不服従であるユダヤ人たちのことを、神はどう見ておられるのか、ユダヤ人は救われるのかどうかということを、語っています。その時に忘れてはならないのは、「人は信仰によって義と認められる」というこの手紙のパウロの主張する中心的な内容と、信仰があるようには思えないユダヤ人のことを、神は選んでいるというが、それは一体どういうことかという、この二つの理屈をここで解き明かそうとしているということです。
そこで、ユダヤ人、アブラハムの子孫であるというだけで良いのかという問題に対して、神は自動的にオールOKにしているわけではありませんよということを、まず語っています。神からの約束が神の民には与えられています。この神の約束を受け取るという「信仰」の部分があるということをまず解き明かしているのです。
そうすると次の問題が出てきます。神様は「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という部分が記されているのです。「神の選びには選ぶ神の側に主権というものがあります」ということを、この前のところでは語ったのです。ここまでが前回までの確認です。
その続きが今日のテーマになるわけですが14節でこう言っています。
それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。
簡単に言うと、「えこひいきがあるのではないか?」ということです。ヤコブのことを愛して、エサウは憎まれる。これは、旧約聖書を読むと、同じテーマが繰り返されます。アダムとエバの子であるカインとアベルからはじまります。イスラエルの十二人の息子、父親のヤコブ、あとで名前がイスラエルと変わりますが、イスラエルも、ヨセフという末の息子を可愛がりました。ここは不思議なことですけれども、神はこのヨセフをお用いになりますが、神が選ばれたのはヨセフや12番目の息子ベニヤミンではなくて、ユダだったわけです。
こういう神のえこひいきとしか言えないような一方的な神の主権による選びのことを、この14節では「不正」と言っているわけです。選ぶ神の側に「不正があるのではないか?」と考える人があるかもしれない、それに対して答えようというのです。
それに対して、パウロはモーセに対して語られた言葉を引用して答えます。15節です。
神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」
この引用を読むと、パウロは14節で「決してそんなことはありません」と答えていますが、この答えを聞くと「あれ?これ、えこひいきはあるってことだよね?」ということになるのではないかと思います。 (続きを読む…)