2015 年 5 月 3 日

・説教 ヨハネの福音書11章45-57節 「イエスは何故殺されたのか?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:43

 

2014.5.3

鴨下 直樹

 
 今日、私たちはヨハネの福音書11章の最後の部分を、私たちに与えられたみ言葉として聞こうとしています。このヨハネの福音書11章にはラザロの復活の出来事が記されています。そして、ここで、ラザロの復活の出来事の結果、主イエスが殺害されることになったと記されています。
 月間予定表には、「イエスの殺害計画」と今日の説教箇所を書きました。看板にもそのように張り出されています。しかし、説教題を変えまして「イエスは何故殺されたのか?」と改めました。確かに、ここに書かれていることは、イエスの殺害計画についてですが、説教題としてはあまり良い題とはいえません。「イエスは何故殺されたのか?」としても十分ではないかもしれませんけれども、少なくても、イエスがなぜ殺されたのか、その理由であれば知りたいと思う方があるのではないかと考えるからです。

 今日、私たちに与えられている箇所を読みまして、はじめに私が印象として心にとまったのは、ここに書かれているのは、主イエスを殺した人々の側の出来事についてです。そうすると、どうして、そんな内向きの話が、ここでこうやって記録されているのだろうかという疑問がわきます。こういう、ドロドロした話は、できるだけ隠しておこうとするものです。人に知られてはいけない話です。本来、人殺しの計画話などというものは、そこにいた身内の人間が裏切りでもしないかぎり、外に漏れることはないはずです。ということは、こういった内容が、聖書に記録されているということは、最初は主イエス殺害に加わって、この時の内密の話し合いを聞いていた誰かが、やがてキリスト者になって、その時の事情を話したと考える以外に、考えにくいことです。

45節以下にこう記されています。

「そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。」

 とあります。ラザロの復活の出来事を見た人たちが、主イエスを信じました。けれども、その中のあるユダヤ人たちはそのことをパリサイ人たちに報告をします。すると、これはただ事ではないと考えたユダヤ人たちは議会を招集します。公に、イエスに見解を公表しないと、このままでは大変なことになると考えたのです。それが、何が大変になるかといますと、つづいてこう記されています。

「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

47、48節です。

 ここにはとても興味深いことが書かれています。「このまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる」とここにありますが、まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いがあったのでしょうか。「すべての人」と思わず言いたくなるほど、もはや見過ごしにしては置けないほどの人々が主イエスを信じるようになりつつあると思われたのです。そして、面白いのはここからですかけれども、「そうなると、ローマ人がやって来て、我々の土地も国民も奪い取ることになる」と考えたのです。

 これはどういうことかといいますと、イエスのことをメシヤだと信じる人々が集まって、暴動を起こして、ローマに対して反旗を翻すことになる、それはまずいと考えたというのです。ユダヤの議会を招集する人々というのは、当時の宗教指導者たちです。彼らは、メシヤが現れることよりも、ローマの支配の中にあって安寧に暮らすことの方に魅力を感じたということなります。少なくとも、この言葉からはそのように読み取ることができます。

 しかし、この記事はこれで終わりません。49節。

「しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何も分かっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』」

 まるで、後ろにいるボスが出て来たとでもいいたげな書き方で、大祭司カヤパが登場してきます。「あなたがたは全然何も分かっていない」と割り込んできます。何が分かっていないのか、誰が分かっていないのか、そのまま読むとすぐにはわからなくなってしまいそうですが、この議会の集まっている指導者たちに言っているのです。このままイエスをのさばらせておくと、暴動が起こって、ローマからとがめられ滅ぼされてしまうと嘆いている。そのことに対して言っているのですが、「あなたがたは何も分かっていない。これこそチャンス到来なのだ。今ここでイエスを、民を先導し、ローマに敵対させた指導者として殺害してしまえばいいではないか。そうすれば、ローマからとがめられることもなく、目に着くあのイエスも始末できるではないか。」と、その年の大祭司カヤパが言ったと言うのです。

 カヤパが後になって、自分がカーテンの裏側でこっそりと語った言葉が印刷されてしまっていると気づいたら、どれほど腹を立てただろうかと私などは想像してしまうのです。これは、かなりまずいことなのではないかと。しかし、私は今、「カーテンの裏でこっそり語った言葉と、想像力を働かせて言いましたけれども、実は、このカヤパの言葉はそれほどこっそりと内密に隠し立てた言葉でもなかったようです。この後で、これは大祭司として選ばれるのはカヤパの場合、紀元18年から37年までの間という記録がありますので、その間になされたまさに大祭司としての公の発言であったようです。この議会を取り仕切る大祭司の公の意見として発言であったということです。ですからそのことが、このあとの51節と52節で、これは「イエスが国民のために死のうとしている預言」としてカヤパが語らった預言の言葉としてうけとめられることになったのだと説明しているのです。

 もちろん、このカヤパの発言は、自分たちをローマから守るためにイエスに負わせた罪です。けれども、皮肉にも、まさにカヤパが語ったとおり、主イエスの死をとおして、人々は救われることになったのだということをヨハネの福音書は語っているのです。大祭司としての発言ですから、カーテンの裏でひっそりと語られたというよりも、むしろ公然と語ったに違いありませんから、この言葉は、あとで、キリスト者が自分たちの都合の良いように書き換えたということではなかったはずです。「預言の言葉」として聞かれた、カヤパの知恵ある言葉だったと記録されているのですから。しかし、カヤパがここで語ったのは自己保身の言葉です。ローマから自分たちを守るために、その罪を主イエスに負わせたのです。

 ヨハネの福音書は、このところでちょうど真ん中です。分量としてもちょうど真ん中ですが、内容も、ここで主イエスの殺害が決められて、まさにここから坂を転がり落ちるように、主イエスの受難の出来事へと大きく内容が変わっていくのです。そして、その真ん中のところで、このヨハネの福音書は何故主イエスが殺されることになったのか、その理由を明らかにしたのです。つまり、それは、自分を守ろうとする人たちのための犠牲となって、主イエスは殺されたのだということです。

 考えてみてください、もし、私たちが人の罪をかぶらされたらなんと思うか。何を感じるのでしょうか。今週はゴールデンウィークです。大きな会社にお勤めの方は大型連休なのだそうです。けれども、たとえば、介護の仕事をしておられる方であるとか、看護の仕事をしておられる方は、その期間ずっと休むなどということはできません。いつものように、仕事のスケジュールに従ってシフトが入ります。そこで、誰かが、私はこの期間実家に帰省したいので、休みを代わって欲しいと頼まれると、断ることもできずに、仕事をするということが起こります。もちろん、お互い様で助け合っているので気持ちよく引き受けてくれる方もあるでしょうけれども、なかなかそんなに都合よくいかないということだってあると思います。ひょっとすると、この中にも、そうやって仕事を代わってもらったりしている方もあるかもしれません。

 自分が本来しなくてもいいはずの仕事をしなければならないということになりますと、それは、理由が分かっていたとしても面白くない気持ちになることがある。そうであるならば、誰かが自分を守るための責任を押し付けられたとしたら、それはどれほど腹の立つことでしょう。どれほど悲しい思いをすることでしょう。主イエスは、そのように、自分たちを守るためにしている大祭司をはじめとする宗教指導者の自己保身の犠牲となって殺されることになったというのです。

 もちろん、それだけではありません。人々が主イエスを信じるようになっていくことに対する焦りであるとか、妬みもそこにはあります。人間のとても醜い感情の犠牲となって、主イエスを殺すという決定がそこでなされたのです。しかもです。それは、ラザロのいのちを助けたことと直接に結びついているのです。人を生かすために主イエスがなされたことによって、人に殺されることになった。それが、主イエスが殺されることになった理由なのです。

 例年のことですけれども4月29日に私が教えております名古屋の東海聖書神学塾が主催で教会学校教師研修会を開催しております。私はその集まりの責任をもっているのですが、毎年この研修会に150名を超える方々が参加してこられます。今は一日神学校というシリーズで今年は「すっきり分かる教理 救済論」というテーマで神学塾の講師であり、私たち同盟福音の岩倉教会の渡辺睦夫先生を講師に招いて学びの時を持ちました。毎年のことですけれども、多くの教師たちが子どもにどのおように福音を伝えたらよいのかということを学ぶために一日ではありますけれども、朝から午後まで学びをする。それは、とても素晴らしいことだと思います。

 特に今年は救済論を学ぶと言うことをテーマにしました。私たちは普段、教会生活をしている時に「救済論」などという難しい言葉を使うことはありません。神学の言葉です。神学というのは、簡単にいいますと、聖書を通して神が私たちに語ろうとしておられることです。それを、私たちに分かるようにする学びを言います。ですから、救済論というのは、神が聖書を通して救いとは何かをどのように語っているのかを、私たちに分かるようにするということです。そういいますと、私たち、教会で信仰の告白をして洗礼を受けている者は、この救いについて何かをすでに知っている、あるいは体験しているということになるはずです。救いとは何かということです。そのことを、教会で子どもたちにどのように語ることができるかということをみんなで学んだのです。

 その渡辺先生の講演の中で、話されたことですけれども、私たちは「福音派」という流れの教会に属している教会ですが、この福音派の教会は共通して「救いの体験」を強調する教会だと言っておられました。ただ、知識として救いの話を聞かされて納得したから信仰に入ったというのではなくて、まさに、神と出会って救いを味わう経験をしているというのです。私も今回の講演を聞きながら、普段あまり自分が福音派の人間だと言う自覚をもっていないものですから、「ああ、そうだったのか」と改めて気が付かされた気がいたしました。

 最近、あまり教会で聞かなくなりましたけれども、昔よく「ボーンアゲイン」という言葉を使ったのだそうです。これは、おそらく私たちはドイツの流れの教会ということもあって、そういう言葉をあまり使ってこなかったのだと思いますけれども、アメリカの宣教師によって形成された教派の教会ではよく使ったのだそうです。確かに、私も神学生の時に、当時の神学生が証の時によく「ボーンアゲイン」と言っていたのを思い出しました。「ボーン」は英語で「生まれる」です。「アゲイン」は「再び」ですから「再び生まれる」という意味の言葉です。「新生」と言ったりします。「君はボーンアゲインのクリスチャンか?」というように使ったようです。

 以前、まだ福音派の教会が各地で熱心に伝道集会をしていた時のことですけれども、救いの経験を強調する証が、どこででも語られました。私の父は伝道者ですから、子どものころから私は色々な伝道集会にでる経験をしましたし、証も、いやというほど聞かされました。そこでいつも語られていたのは、罪からの回心の証です。ですから、中学生の私は、それを聞きながら「ああ、クリスチャンになるには一度ものすごい悪い人間にならないとクリスチャンになれないのか」と真剣に考えたほどです。けれども、私が主イエスを信じたのはとても静かな経験でした、それは、毎晩していた父との家庭礼拝の中でのことでした。その日は今考えると、父は決心していたのだと思いますけれども、次から次へとそれらしい聖書の言葉を開きました。ローマ人への手紙10章10節「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」続いてまだ聖書を読みます。「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」と第一ヨハネの4章15節。そのうち、「あっそうか」と分かった。一度罪を犯してそこから百八十度変わるのが救いなのではなくて、主イエスのことを、自分を救ってくださる方だと告白することができるということ。その時に、もう主はその人のうちにおられる。ならば、私のうちにもおられるのだと分かったのです。そして、静かに心の中に感動が広がってきました。私は主イエスを告白する。この私は主に救われているのだということはそれ以来動かく事のできない事実となったのです。

 ボーンアゲインという言葉がその後、あまり使われなくなったのには理由があります。人は一度救われたらそれでいいとはいかないからです。日ごとに救われ続けていかなければなりません。すぐに完全にされるわけではないからです。毎日毎日罪と戦うのです。
 というのは、私たちには、ここで語られているように、自分を守るためにそれを人に擦り付けてしまうようなところがある。人を犠牲にして自分の生活がなりたつような生き方をしているのです。それは、私たちが完全な者ではないからです。主イエスの死は、確かに私たちの罪のための犠牲としての死でした。しかし、それはものすごい悪い生き方をしていたということも、また、私たちが毎日毎日おこる罪、自分の弱さから出る罪、自分を守りたいと思う弱さ、そのようなあらゆる罪の犠牲となって、主イエスは殺害されることとなったのだということを、私たちは心にとめる必要があります。一度赦されれば、完全な人間になれるということではないのです。

 今日のヨハネの福音書の最後のところでは殺害計画を知って主イエスは弟子たちと共にエフライムという町に滞在されました。そして、続いて「さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た」と55節に書かれています。これは、ヨハネの福音書だけが詳しく書いていることですけれども、過越しの祭りはあユダヤ人にとってとても大切な祭りです。出エジプトの時に小羊を犠牲にして、救いを得たことを思い起こす祭りです。そのために、人々はその前からエルサレムに入って、身を清める必要があったというのです。人々が自分の犯した罪を心にとどめている時だった。その時に、一方では人々の中に、主イエスがエルサレムに来られるのを楽しみにしている人々がおり、もう一方では主イエスをつかまえる為に知っている者は届け出るようにと命令を出したというのです。

 今日の箇所は皮肉ばかりが目につくところです。主イエスと出会った人々は、自分を守るために主イエスを殺す計画を立て、その一方で自分の罪を清めようとしている。そういう人々の中で、主イエスを捕える計画だけが進んでいったのだと記しているのです。
 罪を自覚しつつ、罪が分かっていない。神の救いを求めつつ、神の救いが分かっていない。それが人間の姿なのです。しかも、ここで語られているのはそれこそ、できるだけ正しくいきたいと願っている人間であってもそうなのだということです。けれども、その中でもくもくと主イエスは十字架の道を歩んで行かれる。私たちの罪を赦すために、私たちが本当のあるべき姿を発見するために、主イエスは私たちの方へと向かってきてくださるのです。

 お祈りをいたします。

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