2023 年 4 月 16 日

・説教 ルカの福音書5章33-39節「主イエスとの新しい歩み」

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復活節第二主日「クアジ・モド・ゲニティ」
2023.4.16

鴨下直樹

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 今日は、復活節の第二主日です。教会の暦では「クアジ・モド・ゲニティ」という名前の付いた主の日です。これはこの日に読まれるペテロの手紙第一第2章2節のラテン語から来ています。「今生まれた乳飲み子のように」という意味です。

 よみがえりの主の新しいいのちに生かされる私たちは、よみがえりの信仰によって「乳飲み子」のように、新しい人生を歩み出していくのです。

 そういう意味では、今日の聖書箇所はこの日にぴったりな聖書箇所だと言えると思います。前回の箇所で出てきた、取税人のレビは、まさにこの「生まれたばかりの乳飲み子」のような状態だと言えるからです。

 レビは、主と共に歩むように招かれました。そこで、みんなで美味しくご飯をたべながらお祝いをしていたのです。ところが、それを見ていたパリサイ派と律法学者が主イエスに尋ねました。

 「さきほど、あなたは『わたしは罪人を招いて悔い改めさせるために来た』と言われましたよね? でも、悔い改めているようには見えないのですが?」と問いかけてきたのです。

 このパリサイ人たちの疑問は意地悪な質問というよりは、普通に感じた疑問なのだと思います。今日の33節の冒頭に「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをします。パリサイ人の弟子たちも同じです」とあります。

 こういう習慣は、パリサイ人たちだけではなくて、初代の教会にもあった習慣です。たとえば、ルカが書いた使徒の働きの13章の1節から3節を読むと、アンティオキアの教会からバルナバとパウロを派遣して送り出す時にこう書かれています。「そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。

 教会ははじめの頃から、断食をして祈る習慣をもっていました。これは、食事を食べる時間も忘れるほどに祈りに集中するという習慣を持っていたのです。断食して祈るという習慣があったということは、やはり悔い改めをする時も、断食をして祈ることはごく一般的にとらえられていたのです。

 今日、ドイツから来日しておられるマレーネ先生を囲んで、礼拝の後に食事会をする計画があるようです。初代教会風にいうと、「食卓を囲んで交わりをし、そして、マレーネ先生を送り出した」ということになります。こんな話をすると、「あれ? そんな話をする鴨下先生は、今日は食事をしないで断食するつもりなのか?」と思われる方があるかもしれません。もちろん、喜んで一緒に食事をさせていただきたいと思っています。

 けれども、言葉の印象としてはどうでしょうか? 「断食して祈る」というのと「食卓を囲んで祈る」というのを比べた時に、どういう印象を持つでしょうか?

 別に、意地悪で言っているわけではないのです。なんとなくですけれども、「断食をした」という風に聞いた方が、真面目な雰囲気があるんだと思います。断食と比べられると、楽しく食事をしていることが、悪いことかのような印象になってしまうわけです。

 当時の教会にも断食をするという習慣はありましたので、断食して祈るというのはとても重要なことだということは間違いありません。特に、ここで主イエスが「わたしが来たのは悔い改めさせるため」と言われたものですから、悔い改めというのは、断食するんじゃないの? とパリサイ人たちは当たり前のように思ったのです。ところが、主イエスたちを見てみると、断食するどころか、楽しそうに食事をしているので、パリサイ派の人々は「いやいや、それは悔い改めとは言わないでしょ」と言いたくなったのです。気持ちはよく分かります。

 ところが、そう言われて、主イエスはこう答えられました。34節と35節です。

「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」

 主イエスはここで、弟子になったレビは今花婿と一緒にいるんだから、断食する必要はないのだと答えられたのです。ここで言われている花婿とは、主イエスのことです。レビにとっては、わたしと一緒に歩む結婚の誓いをしたようなものなのだから、今は喜ぶ時であって断食する時ではないのだと言われたのです。 (続きを読む…)

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