2011 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書1章5-38節  「おめでとう。恵まれた方!」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 14:42

 

2011.12.24 

聖夜 燭火礼拝説教

鴨下直樹

 

 

 今から十年前のことになります。ドイツの北の方にハンブルグという美しい港町があります。この町を訪れました。少し時間があったので、礼拝堂を見るのが好きな私は、このハンブルグにあるいくつかの礼拝堂を訪ねました。町の中に、オレンジ色のレンガ色をしたロマネスク様式の古い教会がありました。さっそく中に入って見ますと、外側の古い建物の雰囲気とは対照的な非常に近代的な雰囲気がするのです。といいますのは、礼拝のありとあらゆるところに、3メートル四方もするような大きな写真のパネルが掲げられていたのです。まるで、モダンアートのギャラリーに来たかのようです。写真を一枚一枚よく注意してみますと、すべてが女性の写真です。

 ちょうど、これからクリスマスを迎える季節であったためでしょうか。良く見ていると、一人一人の女性の写真が、マリヤになぞらえられているのだと言うことが分かってきました。写真は子どもや赤ちゃんと一緒に描かれているものがほとんどです。泣いている子どもをあやしている女性、幼子を抱いている姿など色々です。

 

 見ているうちに、これが何を表現しようとしているのか、分かってきました。この礼拝堂に掲げられた一枚一枚の写真は「あなたもマリヤなのだ」というメッセージを伝えてくるのです。

 こういう変わった教会の展示を見ながら、私はすぐにこう考えました。きっとこんなことをやるのはカトリック教会だろうと。変に納得して、教会の外に出てみますと、その入口の隣に宗教改革者ルターの銅像が置かれています。そうです。プロテスタント教会だったのです。

 

 

 クリスマスの時に、私たちがいつも聖書から聞くメッセージは、このマリヤに語りかけられた言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」28節の御言葉です。

 

 マリヤはここで突然「おめでとう!」と声をかけられています。「おめでとう」という言葉は、言われるととても嬉しい気持ちになるものです。私たちが何かをやり遂げた時、自分の力で何かをした時に、おめでとう!と言われるのは誰だって悪い気はしません。

 けれども、何の準備もない時に言われるとどうでしょう。何を言っているのか良く分からないに違いないのです。

 

 私がドイツに住んでいた時のことですけれども、ある日、電話がなりました。電話の向こうにいたのは、トルコ人なまりのドイツ語で、突然「おめでとう!」と語りかけられました。何のことかと聞いてみると、トルコ旅行に当たったのだと言うのです。私は、そんなものに応募した覚えはないと言うと、全国の中からランダムで選んであなたが当選したんだと言うのです。ところが、良く聞いてみますと、ただということではありません。安く行けるということのようなので、申し訳ないけれども、私には必要ないから、他の人に上げてくださいと告げて、電話を切りました。

 こういう例は、きっとみなさんも、それぞれに経験のあることだろうと思います。突然「おめでとう」と言われる時というのは、その内容には特に気をつけて聞いた方が良いのです。

 

 

 

 今、ルカの福音書のクリスマス物語を聞きながら、その物語にまつわる讃美歌を歌ってきました。このクリスマスの物語というのは、実に色々な人々が出て来ます。しかし、まだここには有名な羊飼いや、贈り物を携えてやって来た東の国の博士たちは出てまいりません。

 この物語に出てまいりますのは年寄りのザカリヤとエリサベツという夫婦。そして、天使ガブリエル。そして、おとめマリヤです。

 そして、天使ガブリエルは、ザカリヤにも、マリヤにも、突然語りかけます。

 最初に天使があらわれたのは神殿で祭司の務めを果たしていたザカリヤに対してです。「こわがることはない。ザカリヤ。」13節です。そのように語りかけた御使いは、老夫婦であったザカリヤとエリサベツの間に、ヨハネという子どもが生まれると告げ知らせます。

 

 そして、今度はマリヤにも同じように天使ガブリエルは現れます。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。」30節です。

 

 ザカリヤの場合も、マリヤの場合も、天使は良く分かっています。自分が突然姿を現して、語りかけようものならば、人は恐れを持つということを。ですから、いつも「恐れることはありません」という言葉から始まります。

 けれども、この「おそれることはありません」という言葉は、単なる驚きに対してだけ語られているのではありません。どうも、その内容に対して語られています。

 

 ここで神が、御使いを通して、ザカリヤに語りかけ、マリヤに語りかけられました。年をとり、子どもができないと言われていたエリサベツに子どもができ、結婚していない、まだ男をしらないマリヤにも子どもができると言う知らせなのです。そして、これこそが「おめでとう!」と語りかけられた知らせの内容だったのです。

 

 

 このクリスマスに私たちが聞く知らせと言うのは、このように普通ではありえないこと、不可能なこと。起こりそうもない事が、事実起こったのだと言う知らせがもたらされたのだと耳にするのです。

 

 30節をもう一度見てみますとこのように語られています。

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。」

 

 ここに「あなたは神からの恵みを受けたのです」と語られています。マリヤに語りかけられたのは、「神の恵み」だと言われています。

 それは何かというと、続く31節に語られています。「御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」

 結婚もしていない、男の人もしらないこのマリヤが男の子を産むと言うのです。これは、マリヤが願ったことではありませんでした。いや、むしろ、マリヤにしてみれば迷惑な話です。婚約者のヨセフがいたのです。それなのに突然子どもができたなどということになると、結婚の約束を破って、誰か他の男と関係を持ったということで、この時代、相手が訴えるならば石打ちの刑にされて、殺されてしまうようなことでした。おめでたいことでもなんでもないのです。けれども、この知らせを、天使は「おめでとう」と語り、今度はここで「神の恵み」と言うのです。

 

 「神の恵み」とは何でしょうか。神の恵み、それは、言ってみれば「人間の思いを超えたもの」、「人間の中にはないもの」のことだと言うことができるかもしれません。それは、私たち、人間にとって都合のいいものではどうもないようです。むしろ、神にとって大切なことなのです。

 そして、天使はマリヤに語ります。「神にとって不可能なことは一つもありません」と。37節です。

 

 マリヤは、この神からの突然の知らせをそのまま受け止めました。

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。』」38節。

 

 

 私たちは毎年クリスマスを祝います。そして、クリスマスのたびごとに聞く、聖書の言葉は、神の恵みの御言葉です。つまり、人間の理解を超えた言葉です。そして、私たちはそれを受け入れるかどうかで、クリスマスの出来事が、自分の出来事として受け止めることができるかの鍵になっています。

 

 あのドイツのハンブルグの古い教会に掲げられた写真は、どれも、町の普通の人々の写真でした。あなたもマリヤなのだと、あの写真は訴えかけています。クリスマス。それは、聖書の中の出来事、私と全く関係ない世界。そのように、私たちはあまり気にもとめないで、毎年クリスマスを祝います。

 けれども、あの時のマリヤもそうでした。まさか、自分に、神が語りかけるなど、しかも、想像もできないような言葉を語りかけられるなど、考えてもいませんでした。けれども、マリヤはその言葉を受け入れました。

「おことばどおりにこの身になりますように。」

 

 神の言葉が、私の中にも起こりますようにと、言うことができたのです。そして、その言葉は、私たちにも同じようにこの夜語りかけられているのです。

 

 この時の出来事を受胎告知と言われています。沢山の絵が野殺されています。自分の身に、イエスを受け入れるように天使によって告知されたのです。けれども、この受胎告知は、今でも、すべての人に神は語りかけておられるのです。私にも、あなたにも。そして、あなたが、この言葉を身に受けるならば、この神の言葉は、現実となって私たちの生活を変えるのです。

 

 だから、天使は語るのです。「おめでとう。恵まれた方」と。この天使は、今夜、あなたにもこう語りかけているのです。「おめでとう。恵まれた方!」と。

 

お祈りをいたします。

 

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