・説教 ルカの福音書2章1-20節 「ふたりの王」
2011.12.25
クリスマス礼拝説教
鴨下直樹
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」
毎年、毎年、クリスマスになると読まれる聖書の個所です。皇帝アウグスト。このローマの皇帝の名前ほど今日の世界で名前の知られた皇帝はいないと言えるかもしれません。今日にいたるまで、すべての教会でクリスマスを祝うごとに、この名前が覚えられているからです。
けれども、このアウグストというのは、この王のもともとの名前ではありませんでした。もとの名前はオクタビアヌスと言います。「アウグスト」というのは、「尊敬されるべき者」という意味です。しかし、このアウグストという名前は後にはさらに別の意味を持つようになります。「現に生ける神」。これが、この「アウグスト」という名前の持つ意味だといわれるようになったのです。
この皇帝はローマの初代の皇帝で、後に「パクス・ロマーナ」、「ローマの平和」と呼ばれた平和をこの地にもたらした人物として歴史に名を残します。ローマに長い平和をもたらした偉大な王の名、それがこのアウグストという王でした。アウグストは、ローマの世界人々に平和をもたらし、神とまで讃えられた王だったのです。
そして、このアウグストが自分の力がどれほど大きいかを知るために、住民登録を行ないます。そして、この王の命令には、すべての人々が従わなければなりませんでした。それはユダヤ人も例外ではありません。ヨセフとマリヤもその王の権力の下で、それに従わせられたのだと、聖書はクリスマスの物語を記しているのです。
ところがです。そんなこの世の王のことなど、まるで知らないかのようにクリスマスの夜、神は天使たちを地上に送らせなさいました。そして、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに天使はあらわれてこう告げます。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」 十一節。
ダビデの町で、救い主がお生まれになった。この方が、主キリストだと天使は告げたのです。しかし、その告げた相手は羊飼いです。
歴史を動かしている重要な働きをしているのでもなければ、人々に大きな影響力をもっているのでもない。こう言う言い方をすることがゆるされるならば、一介の羊飼いです。
今、「一介の」と言いましたけれども、一介という言葉は、微小の、小さくて取るに足らないという意味の言葉です。その意味は「芥」からきていると国語辞典にありました。「芥見キリスト教会」の「芥」です。塵芥の芥です。
私は色々なところに出かけまして、芥見キリスト教会の牧師ですと紹介しますと、まず質問されるのが、「芥」というのはどういう字を書きますかと尋ねられます。いつもそこで、何と答えるのか考えます。芥川龍之介の芥と答えるのと、塵芥の芥ですとお答えるのとではずいぶん相手に与える印象が違うのではないかと考えるからです。けれども、たいていは塵芥の芥という字を書きますと説明します。
あまり価値のない、一介の芥のようなものを見るという地名は、このクリスマスの夜に、羊飼いをご覧になっておられた神のことを思い起こす良い名前かなと思っているのです。
神は、まさに、ここで芥にすぎないような者であった羊飼いたちに目をとめられました。そして、彼らに救い主、主キリストの降誕の知らせを告げるのが良いとお考えになられたのです。ここに、クリスマスのドラマがあります。
表舞台で華々しく活躍する王、アウグストがその力をふるっている世界の片隅で、一介の羊飼いに神は、この世界でいつまでも祝われることとなった大事な知らせをお伝えたになられたのです。
そこに、神は天使をお遣わしになり、王宮で皇帝アウグストが聞くこともできないような素晴らしい天からの賛美の歌声を羊飼いたちにお聞かせになりました。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」十四節です。
なぜ、神はそれほどまでの御業をご用意なさったのでしょうか。それは、そこに、この世界の真の王がお生まれになられたからでした。
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのしるしです。」と十二節にあります。
このまことの王は、「布にくるまって、飼い葉おけに寝ておられるみどりご」だと言うのです。軍馬にまたがって、黄金の鎧を身に付けた力強い王ではなく、この王は、飼い葉おけの中におられるみどりごです。
聖書はこうして、このクリスマスに二人の王を対して描いて見せています。一方はすべてのものを手に入れ、自分がどれほど力強いのかを証拠づけるために人口調査をする王です。その一方で、その人口調査のためにベツレヘムに行くことを強いられ、宿屋も見つけることができず、馬小屋でお生まれになられた、何も持たない弱きみどりご。
そして、この真の王である主イエスは、この世の権力によって、みずからを殺されてしまうほどに弱いお方なのです。誰も、王だとすら認めることもなく、人々から嫌われ、さげすまれて十字架にかけられて殺されてしまう王。ただ、その十字架の上に小さく「ユダヤ人の王」と掲げられて死んでいかれたお方。それが、この日、お生まれになられた主イエス・キリストなのです。
「布にくるまれた飼い葉おけ」。ここに、キリストの姿が示されています。そして、ここにクリスマスの不思議があります。この小さく、弱く、貧しいお方こそが、私たちの救い主であると、今日世界は覚えてこのお方を讃えているのです。
そこにあるのは、ただ、神が知っておられるということだけです。この幼子を守られるのは神であり、この幼子を神が認めていてくださる。。これこそが、クリスマスの不思議さなのです。
誰もがこの地上に生まれて来てからというもの、自分は何者かにならなければならないと考えています。何者かになるために、一年間、労苦して働き、家庭を納め、また、子どもを育てます。何度も無力感を味わいながら、このように生きることにどんな意味があるかと考えながら、私たちは生き続けています。自分はそれなりの人生を歩めているのだろうか、自分は王になれただろうか、立派に生きることができただろうかと自問自答しながら、私たちは一年をまもなく終えようとしているのです。
そして、毎年クリスマスを迎えます。そこで、私たちは聞くのです。布にくるまった飼い葉おけに寝ておられるみどりご、この方こそ主キリストですと。
このお方のすべてを神が見ておられるのです。神が守り、導かれる。何も持たないはずのお方が、何という力強い神への信頼をあらわしていることでしょう。そして、ここにまことの王の姿があるのだと神はお語りになるのです。
クリスマスに歌われる讃美歌の中に、讃美歌21の280番に「馬槽のなかに」という由木康の讃美歌があります。「馬槽のなかに、うぶごえあげ、大工の家に、ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。」と歌います。
真の神であられたお方が、人としてお生まれになられた。このお方を見よう。このお方の中に、私たちが本当にみるべき姿があるのだと歌う讃美歌です。
このお方の中に、私たちは、私たちのあるべき姿を見出すことができます。つまり、それは、みどりごのように、すべてを神に信頼して生きるという姿です。
神は、主イエスにそうしてくださったように、私たちにも応えてくださるお方です。他の誰でもない、神ご自身が私たちを見ていてくださいます。そして、私たちに期待し、私たちを信じ、私たちにどう生きたらよいのかを示してくださるのです。
私たちはクリスマスを祝います。このお方こそが、主キリストであると信じて、このお方に礼拝を捧げているのです。その私たちは、このキリストがクリスマスに持ってお生まれになられたものを、クリスマスの不思議と呼ばれる、この方がすべてを神に信頼された姿を通して、同じものを私たちに与えてくださるのです。
わたしたちもこう生きることができる。キリストのように生きることができる。真の王としてお生まれになられたお方のように。それこそが、私たちに与えられて神からのクリスマスの贈り物なのです。
お祈りをいたします。