2014 年 6 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書4章27-42節 「収穫の喜び」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:12

2014.6.15

鴨下 直樹

先週の金曜日からサッカーのワールドカップが始まりました。しかも今ちょうどこの礼拝の時間に、日本の初戦で、コートジボワールとの試合が行われています。私は時間を見たときに、今朝の7時からだと勘違いしておりまして、ほっとしていたのですけれども、先週、礼拝中が試合時間だということに気づきまして、かなりがっかりしました。みなさんがご存じかどうかわかりませんが、私は大のサッカー好きです。今週も説教の準備をしながら、なかなか聖書に集中出来ませんでした。そもそも、礼拝に来る人はいるのだろうかと思ったくらいです。もちろん、みんながサッカー好きとは限りませんし、礼拝を大事にしておられるので、数名は来られていない方があるかもしれませんが、今日もこうしてともに礼拝をしております。

そこで、ひとつお願いがあります。礼拝中は携帯電話などで、試合の途中経過を見ないようにしてください。もちろん、神様に心を向けてほしいからですけれども、誰かが少しでも礼拝中にニヤリとしたり、あるいは、絶望的な顔をしている方がありますと、私も気になって仕方がなくなってしまいますので、よろしくお願いします。そして、礼拝が終わっても、私に結果を教えないでください。後で録画を見る楽しみがなくなりますので。やはり、ひとづてに試合結果を聞くよりも、自分でどきどきしながら見たほうが面白いと思うのです。まず、このことを話しておくと、私も安心してみ言葉に集中することができます。

さて、今日の聖書は、先週から続いておりますサマリヤの女と主イエスとの対話の残りの部分です。今日のところも、内容は前回のところの続きですから、その流れを少し頭に覚えておいていただくと、今日の部分がより理解しやすいと思います。

主イエスは、当時ユダヤ人たちが関わることを避けていたサマリヤ人の女に、水を飲ませてくださいと対話を始められました。そして、この女性の心の渇きに気付かさせられました。昼間に、誰にも会わないように井戸に出てきたこの人は、主イエスとの対話の中で、自分が本当に求めていたものに気付かされました。つまり、自分のことを本当に理解してくださるお方であるお方、主イエス・キリストとお会いしたのです。

今日のところは、その後の出来事です。前回のところで、主イエスはなぜおひとりでサマリヤを旅しておられたのだろうか。弟子たちはどこに行ってしまったのだろうかという謎がここで解けます。どうも、弟子たちは主イエスのために食べ物を買いに町に行っていたのです。戻ってきてみると、主イエスは女の人と話をしておられたのです。ところが、27節を見ますと、

このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言わなかった。

とあります。弟子たちは、主イエスがサマリヤの女に話しかけていることにそれほど関心をしめさなかったようです。そして、その理由は、そのすぐ後に書かれていますけれども、弟子たちの関心は喉の渇きを覚え、お腹が空いていた主イエスに食べ物をわたすことにあったようです。

今日のこの箇所はサマリヤの女が物語の中心であったところから、視点が弟子たちにうつっていることが良く分かります。サマリヤの女を見てみますと、この時に、

女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

と28、29節に書かれています。今まで、人々に顔を合わせたくないと思って、昼間の誰も来ない時間、しかも町はずれの井戸まで水を汲みに来ていたこの人は、ここで、町に入って行って、町の人々に声をかけるようになった。そして、私が出会った方こそがキリストではないのか。私たちが心待ちにしてきたお方なのではないか。私はその方にお会いしたのだと高らかに宣言することができるようになっているのです。もうこの女性は、ここのところでは、心渇いて人の顔を恐れている女性ではなくなっているのです。

それに比べて主イエスの弟子たちはというと、主イエスの目の前で起こっていることに関心がありません。あるのは、早く空腹を満たしたい。主イエスに食べ物を渡さなければと考えているのです。それで、このヨハネの福音書は、先ほどまでサマリヤの女としていた「渇くことのない水」の話同様に、弟子たちに「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と語りかけます。もうここで、この食べ物についての説明は必要ないと思います。主イエスだってもちろん、お腹が空いていたはずです。喉が渇いていたはずです。けれども、私が何によって生きているのかと言えば、それは、

「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

と34節で答えておられます。自分の生きる糧は、主の御心を行うことにあると言われたのです。

今日、この時間に、ワールドカップの試合が行われています。日本の対戦相手の国、コートジボアールという国は、アフリカのさまざまな民族が一つになった国です。何年も前から紛争が続いていて、前回のワールドカップの時には、まだ国としてまとまっていなかったのだそうです。このチームにドログバという中心的な選手がいます。この国は内戦状態のままで2005年にワールドカップの出場を決めました。その時のインタビューでこう言ったそうです。

「コートジボワール国民の皆さん、今日ワールドカップ出場という共通の目標のもと、コートジボワールの様々な民族が共存してプレーできることが証明されました。歓喜によって人々は団結できます。今ここでひざまずいてお願いします…どうかお願いです!お願いです!豊かなコートジボワールで内戦が起きるのは許されません。武器を捨ててください。そして選挙をしましょう。それですべて良くなるはずです。」

そして、その一週間後内戦が終わり、国はひとつになっていきました。こういう話を聞きますとなんとなくコートジボアールという国にも頑張ってほしい気持ちになります。人はただ食べ物のためだけに生きているのではありません。サッカーの選手もまた自分のすべきことを知っています。ましてそれが、主イエスなのです。自分の人生の喜びは、食べていくことではないことは明らかです。そして、主イエスとともに生きる弟子たちにも、同じように主の御心に答えて生きる喜びがあることを知って欲しいと思われたのです。

先週の木曜日、教団の泉会の集会が稲沢教会で行われました。泉会といいますのは、この同盟福音教会の高齢者のための交わりの場として年に一度、交わりの時をもうけておりました。ところが、最近は若い方々もずいぶん出席するようになり、先日の集まりには130名を超える方々の出席があったのだそうで、私も大変驚きました。そこで、お話をされたのが、岐阜教会の川村真示先生です。スイスの心理学者ポール・トゥルニエの書いた「人生の四季」をもとにして、「人生の四季-どの季節も輝いて生きる-」という講演をしてくださいました。人生を春、夏、秋、冬に例えながら、それぞれの世代の特徴や、考えるべき課題などを整理してお話しくださいました。とても興味深い話でした。実は同じテーマで昨年の北地区の女性会でも川村先生がお話しくださったようですけれども、昨年も出席された方は、ずいぶん内容が洗練されていて、今回も新鮮に聞くことができたということでした。すぐ隣の教会ですし、同じ町の教会ですから、芥見でも一度お招きしてお話いただいてもいいのではないかと思いました。

これは、先日川村先生もお話されましたけれども、いわゆる人生の夏の時代、20代から40代半ばまで色々なことをチャレンジしてみたらよい。そして、40代の半ばから人生の秋を迎えるのだそうで、そのころには、収穫を得るために剪定をする必要があるように、これまで広げてきた働きを、少しづつ整理しながら、自分の人生にもたらされるものを見極めていく必要があるのだそうです。そして、その準備が、晩年を迎え、さまざまなものを失っていく季節への備えになるということでした。

主イエスもここで収穫の話をしておられます。35節から記されております。ここで、主イエスは弟子たちに語りかけておられるのですけれども、「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか」と。まだ収穫の季節ではないと思って油断してしまっている。まだまだ収穫はないと思っているのです。だから、安心して食べ物を買いに出かけたのです。ところが、主イエスの目には、まさにその時こそが刈り入れの時だったのでした。そして、それを示すように、サマリヤの女の人が、大勢のサマリヤ人を呼び集めてきて、この時、多くの人々は主イエスを信じたのです。

ここに、食べ物のために働いている者と、お腹が空いていてものどが渇いていても、この時こそ神がお喜びになられると分かって伝道する者との違いが明らかになっているのです。その差は何かというと、自分を遣わされた方のために生きる。自分を本当に生かしてくださるお方、つまり、私たちの神、主のために生きることこそが、私たちを本当に生かすことになるのだと、主イエスはここで弟子たちに気付かせようとしておられるのです。

これまで、このヨハネの福音書では何度も主イエスを信じた人々が出てまいりました。今回の場合はこのように記されています。39節以下にでてきます。はじめ、サマリヤの人々は「その女のことばによってイエスを信じた」と書かれています。しかし、自分たちのところに滞在してくださるよう願って、41節、

そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

と記されています。そして、そこで信じた人々は女に言います。42節。

「もう私たちは、あなたがたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに救い主だと知っているのです。」

自分の目で主イエスを見て、自分で聞いて、主イエスと出会ったのです。主イエスと直接出会うこと、それを通して、このお方が自分たちに向けて語りかけてくださっていることを知ったのです。このお方は、サマリヤ人だからという理由で、人を分け隔てなさらない方だと知るのです。あるいは、その人の心の底にある思いを引き出してくださって、自分の本当の必要を気付かせて下さる方だと知ったのです。このお方と共にいることが、このお方の語られる神は、自分を生かそうとして下さる方であることを知ることができたのです。

このサマリヤの人々の生きる者となった姿を、ここで、主イエスの弟子たちは目の当たりにすることになったのです。そして、主イエスは、もっとも身近なところにいる弟子たちに語りかけておられるのです。あなたを生かすものはなにか。あなたが自分の人生の喜びとすることのできるものとは何なのか。あなたにとって、もっとも必要なことは何なのか。それは、主イエスとともにいること、神の御心に生きること、神との礼拝の交わりに生きること、これこそが、人に必要な生ける水なのであり、必要な糧なのだと、主イエスはここで気付かせておられるのです。

今日の午後、楽しいキリスト教美術講座が行われます。岐阜県美術館の館長をしておられる古川長老がお話ししてくださることになっております。今回はかなり大勢の方々の申し込みをいただいているのだそうです。テーマは最近色々と話題になっております、レオナルド・ダ・ヴィンチの「『最後の晩餐』の秘密」です。以前古川さんからお聞きしたことがあるのですが、今から30年ほど前になるのでしょうか、この最後の晩餐の修復をしたときに、古川さんは日本から派遣されまして、この修復に立ち会い、その報告が認められて今のような働きをすることになったのだそうです。古川さんはいつもカラスウリをテーマにして絵を描かれます。ちょうど古川さんの家の玄関のところに掛けてあるのですけれども、先日家庭集会でお邪魔した時に、その絵は、この最後の晩餐をモチーフにして書かれたと聞きました。コンクリートの壁の上に、食べることもできず、何の価値もないカラスウリを並べただけの絵なのです。けれども、確かにその説明を聞きながらその絵を見ていますと、ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵のように見えてきます。そうして、はたと気付かされるのです。主イエスの弟子たちもこのカラスウリと同じなのだと。ただ、そこに生きているだけでは何の価値も見出すこともできないような者たちの集まりなのです。そのような弟子たちの真ん中に主イエスがいてくださる。まさに、そのようにそこに光が当てられるときに、何の価値もないようなものが、何者かのように見えてくるのです。主の光が当てられるならば、それだけで、その存在が美しいものに見えてくるのです。

主イエスと出会うこと、主イエスの言葉を自分で聞きとること、それが、人をそれほどまでに美しくするのです。ぜひ、一度古川家の家庭集会に来てくださってその絵をみてください。あるいは今日、ひょっとすると、ご自分で紹介してくださるのかもしれませんけれども。

私たちは、私たちを生かしてくださる方とお会いすることによって、このお方の言葉を聞くこと、このお方に礼拝をささげることによって、私たちは本当に生きた者とされるのです。

お祈りをいたします。

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