2018 年 12 月 23 日

・説教 テトスへの手紙2章11節「神の恵みがあらわれる時」

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2018.12.23

鴨下 直樹

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 明日は、クリスマス・イブです。教会ではこのイブの夜に燭火礼拝をします。今日は、アドヴェントの第四主日ですので、まだクリスマスではないのですが、今週の火曜に訪れるクリスマスのことを覚えて、クリスマスの礼拝をしようとしています。

 クリスマスというのは、神がなさった約束が実現したことをお祝いする日です。長い間、待ちに待ったものを頂くというのは、とてもうれしいものです。この季節、子どもたちを見ていると、そのことを教えられます。あと何日でクリスマスになるのか、一週間くらい前から毎日子供に質問されています。そして、時々、もうだいぶん待ったので、もうそろそろいいのではないかと交渉を持ちかけてくることもあります。何がそろそろいいのか、親としてはいろいろ考えさせられるわけですが、「まだクリスマスじゃないよ」とだけ答えます。

 きっと何か欲しいものがあるのでしょう。待ち遠しくて仕方がないのです。今日は子どもたちもたくさんこの礼拝に集ってくれています。どこの家でも似たような経験をされているのだと思います。

 「約束」というのは、きちんと果たされるべきものです。ただ、どんな約束でもそうですが、その約束が実現するためには、少し「時間」が必要です。少し待たなくてはなりません。教会ではこの約束と、この待つ時間のことを「すでに」と「未だ」という言葉で表現してきました。

 たとえば結婚の約束をするために、婚約というのをします。結婚することはすでに決まっているわけですが、まだ夫婦になったわけではないわけです。それと似ています。この結婚に備えるまでの期間というのは、とても大切な時間です。ある意味で言えば、一番いい時間を過ごすことができます。けれども、それは同時に準備の時間でもあるわけで、大変な時間でもあるわけです。

 水曜日と木曜日、教会では聖書の学びをする会が行われています。先週は今年最後の聖書の学び会となりました。それでいつもの学びをやめて、参加されているみなさんに、これまでのクリスマスの思い出を話していただきました。いろんな話を聞くことができて、とても楽しい会となりました。参加されている方は比較的年齢の高い方が多いのですが、その中で、クリスマスというと、若草物語の映画に出て来たクリスマスの場面の話や、あるいは、チャールズ・デッケンズの「クリスマス・キャロル」や、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」だとか、アンデルセンの「マッチ売りの少女」だとか、クリスマスの季節をテーマにした文学の話がいくつか出てきました。今から40年前とか50年前とか、そのころに子どもであった方にとっては、クリスマスに大変な憧れがあったということがよくわかりました。今みたいに、商業化される前のことです。みなが、思い思いにクリスマスの祝い方を考えた時代です。

 祈祷会に参加されている方の中でも最年長のOさんは、友達の家にあったもみの木の枝を切ってもらって、その木の枝を家まで引いてきて、そして瓶に土を入れて、挿して立たせて、綿や、手作りの飾りを並べて飾ったというような話を聞かせてくださいました。
 クリスマスまでの4週間のことをアドヴェントといいます。このアドヴェントの期間、蝋燭を毎週ひとつずつともしてクリスマスが来るまでを心待ちにして待つのです。それはとても楽しい期間です。そこにあるのは「約束」を待ち望む心です。この約束を待ち望む心のことを「憧れ」という言葉で表現してもいいかもしれません。

 人は、誰もが幼い時から今の自分ではない何かになりたいという憧れを持っています。男の子はヒーローに憧れを抱き、女の子はプリンセスに憧れをいだきます。もちろん、ちがうものに憧れを持つこともあるでしょう。少し前にどこで聞いたのか、大きくなったら新幹線になりたいと言った男の子もいました。子どもの持つ憧れというのは、時とともに次々変わっていきます。憧れは、希望と結びついています。多くの憧れは単なる夢、希望で終わることが多いのかもしれません。もちろんそれでいいのです。けれども、約束に支えられている憧れというは、そこにさまざまなものを生み出します。待つ心から忍耐する力を得ることができます。その希望から勇気をいただくこともできます。生き甲斐や、喜びをもらいます。

 あるところに、小学3年生の一人の女の子がいました。その女の子は来月誕生日を迎えます。その女の子は、友達にサイクリングに誘われました。でも、まだ自転車を持っていません。でも友達からサイクリングに行く日にちを聞いて、喜んでOKを出しました。サイクリングに行く日は誕生日の一週間後だったのです。この女の子は誕生日に自転車を買ってもらう約束を親としていたのです。約束の自転車はまだもらっていませんが、もう気持ちはそのサイクリングの日に友達と一緒に自転車に乗って遊びに行くときのことを想像していたのです。約束に支えられる憧れは、いろいろなものを生み出すのです。

 聖書には神様からのたくさんの約束が書かれています。私たちとの約束です。その約束はあまりにも素晴らしいので、この約束を知ってほしいと世界中の人たちはこのクリスマスを大切にしているのです。そして、この約束を受け取るなら、それは約束であっても、もうもらったと同じ喜びがそこにはあるのです。

 世界中に残されているクリスマスの名作の話をさきほど少ししました。聖書学び会の時に、ある方がとても良いことに気づかれました。どの物語にしても、クリスマスの物語で協調されているのは、どんなに貧しくてもクリスマスだけはお祝いしようとする心があるということです。

 O・ヘンリーの「賢者の贈り物」という物語は、クリスマスの物語の中で、ひょっとすると、比較的なじみが薄い物語なのかもしれません。知らない方もあると思いますので簡単にお話しすると、あるところに、若い貧しい夫婦がいました。夫はお父さんの形見である金の懐中時計をもっていました。妻には美しい長い髪がとてもよく似合っていました。クリスマスの時に、お互いに相手が喜ぶプレゼントをしようと思うのですがお金がありません。それで、夫は金の懐中時計を売ってしまい、妻の髪を飾るために鼈甲の櫛を買い求めます。妻はというと、夫の金の懐中時計に鎖がないことを気にしていて、その時計に似合う鎖を買うために、自分の長い髪の毛を切り落としてお金を作ります。そして、お互い、プレゼントをするときになって、気が付くのです。妻は夫の時計のために鎖を買い求めますが、肝心の時計はもう売ってしまってありません。夫は妻の髪に似合う鼈甲の櫛を買うのですが、妻にはその素敵な長い髪はもうないのです。

 この物語がなぜ、賢者の贈り物というのか。あまり意味が分からない人もいるようです。愚かな夫婦の贈り物とも言えるこの二人の行為が、なぜこんなにも知られるようになり、賢者の贈り物と言うのか。それは、もっとも大切なことは、自分のことではなく、相手のためにならば、どんな犠牲をも払う、それが愛だということを、この物語は語っています。自分の大事にしている物を失っても、相手の幸せのことを考えることを愛というのです。それこそが、もっとも賢いことだというのです。

 そして、まさに、クリスマスにはそのことが起こったのだということをこの物語は気づかせようとしているのです。

実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。

とテトスへの手紙には書かれています。神は、私たちを愛するために、私たちへの約束を実現するために、神のひとり子である主イエスをこの世に遣わされ、御子は人となって生まれてくださったのです。それは、まさに神からの贈り物、賢者の贈り物であったのです。クリスマスに果たされた神の約束、それは、神が人のことを大切に思っていてくださっていること、愛してくださっていることが、示された時なのです。

 このことを通して、神は人間を見捨ててなどいないことを示してくださいました。そして、神の救いは、高い塀を乗り越えなければならないような、難しい課題を乗り越えなくてはならないのではなくて、どんなに貧しい人であっても、どんなに小さな子どもであっても、条件なく指示されていることを示してくださったのです。

 神はどんなに貧しくても、どれほど暗く悲しい生活をしていても、誰からも覚えられていないような孤独を感じているひとであったとしても、その人が本当にこの世界に生まれてきて良かったと思えるような救いを、届けてくださるのです。

 この神の恵みはもう現されたのです。私たちのところに届けられたのです。私たちは、誰もがこのプレゼントを受け取ることができるのです。だから、このクリスマスの出来事は、いつの時も、時代を超えて語り続けられる、神からの良い知らせとして届けられているのです。それこそが、クリスマスにお生まれになられた主イエス・キリストです。このお方は、私のところに届けられた神からの約束の贈り物、愛のしるしです。ぜひ、この主イエス・キリストを受け取ってください。受け取るならば、主イエスを受け入れるならば、そこから神の愛があふれ出し、私たちの喜びが主イエスを通してあふれだしてくるのです。

 お祈りをいたします。

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