2023 年 5 月 14 日

・説教 ルカの福音書6章17-26節「幸いを告げる主の言葉」

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復活節第6主日
2023.5.14

鴨下直樹

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 何度聞いても驚くような言葉がここには記されています。

 「貧しい人たちは幸いだ」、「今飢えている人たちは幸いだ」、「今泣いている人たちは幸いだ」、「人々があなたがたを憎む時・・・排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いだ」 そのように記されています。

 私たちの心が、魂が揺り動かされるような力強い言葉がここにはあります。私たちが生きている世界では決して聞こえて来ないような力強い言葉です。主イエスの語られたこの言葉を耳にした時、誰もが不思議に思います。一体、主イエスはどういう意味で語られているのだろうと思うのです。心が惹きつけられます。もっと聞きたいと思います。それが、主イエスの言葉、主イエスの説教です。

 説教とはこういうものだというまさにお手本のようお説教です。人の心に言葉が届くというのは、こういうことなのだと教えられます。

「福音」というのはこれまで聞いたことのないような良い知らせ、すばらしい知らせのことです。

「貧しい」とか「飢える」「泣いている」「人々から憎まれる」というような、ここで主イエスが語られたことというのは、私たちが普段恐れていることばかりです。

 貧しい時というのは、周りの人々から自分が蔑まれてしまうのではないかと感じるものです。飢える時、これほど惨めさを感じることはありません。涙を流す時、悲しみを抱える時というのは、そこから何とか抜け出したいと誰もが考えるのだと思うのです。

 私たちにとって、このような困難な状況、悲しい現実が突きつけられるような事態が訪れる時、主イエスは言われるのです。そういう時こそ、あなたがたは幸せなのだと。

 主イエスは誰よりも、私たちのことをよく知っていてくださるお方です。分かってくださるお方です。そして、ただ、理解してくださる、分かってくださるだけではなくて、そういう私たちに幸せを与えたいと願っていてくださるというのです。

 ここに挙げられている状況に陥ることは、決して幸いなことだとは思えない事柄ばかりです。しかし、主イエスは「貧しさ」も「飢え」も「泣くこと」も、「憎まれること」の中にも「幸い」を見ていてくださるのです。なぜなら、そこでこそ神と出会うことができるからだと言われます。

 教会にはじめて来られた方に、私は時々「何か悩みや困っていることがありますか?」と尋ねることがあります。そう聞かれた方は、この牧師はいきなりなんて失礼な質問をしてくるのだろうと思われるかもしれません。けれども、まさに、そのような悩みや困ったことを抱えているところで、人は神と出会うということがあるので、そのように尋ねるのです。

 主イエスは高い山から平地へ降りて来られました。少しでも神に近いところで、人は神と出会うことができるというのではなくて、まさに、人々の生活するその只中に、主イエスは足を踏み入れてくださって、そこでこそ、人は神と出会うことができるのだとみておられるのです。

 17節から19節のところで、主イエスは平らなところにお立ちになられました。そこには、「ユダヤの全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々がそこにいた」と記されています。

 「平らなところ」と17節にあります。この主イエスが降りられた平らなところ、平地には、大勢の人々が生活しています。主イエスが平地で人々の中に足を踏み入れますと、さっそく主イエスのところに、さまざまな困難な事情を抱えている人々が集まって来ます。

 19節にこう書かれています。「群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた」と。

 なぜ、人々は主イエスに触りたがるのでしょうか? それは、主イエスに触ると、癒されるからです。これが、平地に住む人々のリアルな姿です。普段はそうは見えなくても、実に多くの人が病を抱えて生きていたのだということが、こうして明らかになっているのです。

 この世の中の人々を見ていると、それほど問題を抱えているように見えません。みんな幸せそうに生きているように見えるのです。けれども、主イエスがその中に入られると、みんな、主イエスの前では恥ずかしさを隠すこともなく、主のみ前に出るようになるのです。主イエスは人を癒すことがおできになる方だからです。

 主イエスの前に出る時に、人は表面上を取り繕うことができなくなります。それほどに困窮しているのです。人とはそういうものです。そういう、苦しみの現実の中に生きる人々に主イエスは語りかけられるのです。

「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」

と。

 ルカはマタイのように「心の貧しい人」と語りません。ルカがここで語っているのは「貧しさ」です。すぐ思い浮かぶのは、精神の上での貧しさではなくて、経済的な貧しさです。お金がなければ生きていくことができません。綺麗事では生きていけないのです。そんな経済的な貧しさを抱えている人に向かって、あなたがたは幸せです。神の国はあなたがたのものだからと主イエスは語られたのです。

 「神の国」というのは、「神の支配」です。神が支配してくださるというのは、神が一緒にいてくださる世界ということです。

 貧しい人と共に、神は歩んでくださって、神があなたを支配してくださると主イエスは語られました。自分のことを自分で心配しなければならないのではなくて、神が心配してくださるというのです。だから、貧しい時に会って幸せなのだと主イエスはここで語られるのです。貧しさの中にあって、神に支えられる幸いを見つけ出すことができるのだと言われるのです。

 貧しいあなた、飢えているあなた、今泣いているあなた。憎まれ、排除され、ののしられて、人々があしざまにあなたをけなしたとしても、あなたは幸いだ。神の国があなたのものだから、神があなたの生活を支配し、一緒に歩んでくださるから。まさにそのような困窮の中でこそ、神が共にいてくださることを知ることができるようになる。そこに、あなたがたの幸せはあるのだと主は言われます。困難な中であなたは満ち足り、笑うようになり、躍り上がって喜ぶようになると主は言われるのです。

 神によって満たされることを知るのです。主の慰めによって笑うようになるのです。喜び、踊りたくなるような幸せを経験すると言われるのです。

 23節にこうあります。

その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。

 主イエスは、私たちに躍り上がって喜ぶことのできるような、幸いを与えようと言われます。主が与えてくださる幸いは、この世にとどまらず、天においても報いがあるほどの幸いなのだと語られています。幸いというのは、私たちが死んだらなくなってしまうような、一時的なものではないのです。

 私たちは幸いというのは、長続きしないものだとどこかで諦めてしまっているのかもしれません。しかし、主が与えてくださる幸いは違います。天においても、報われるものだというのです。主が私たちに備えてくださる幸い、神の国、神の御支配というのは、ずっと続くものなのです。死を通されたとしても、幸いは続いていくのです。

 主イエスはこの説教の中で、四つの幸いの言葉を告げたあとで、四つの不幸にも言及なさいました。ただ、新改訳2017では「不幸」という言葉ではなくて「哀れ」という言葉で訳されています。この言葉はこれまで「災い」とか「不幸」と訳されて来た言葉です。ギリシャ語で「ウーアイ」という言葉で、聖書の中でも何度も出て来る言葉です。この言葉をなぜ「哀れ」と訳したのかは、私には少し理解できません。やがて、解説書が出されるまで待つ必要があるのかもしれません。

 ここで「不幸」とか「災い」「哀れ」と言われているのは、私たちの日常の生活でいえば喜びたいことばかりです。「富んでいる時」「満腹している時」「笑っている時」そして「人々が私たちを褒める時」。それこそ、私たちはそんな時こそ、飛び上がって喜びたくなるのだと思います。

 ここで挙げられている一つ一つのことは、私たちが普段から願い求めていることでしょう。お金持ちになること、腹一杯食べること、笑っていられること、人から褒められること。これらの一体何が悪いことなのかと思ってしまいます。

 なぜ、主イエスはここでこんな突拍子もないと思えるようなことを言われたのでしょうか? みなさんはどう思われるでしょうか?

 ここで主イエスが災いだ、哀れだと言われていることは、災いとか、哀れなことなのでしょうか。

 主イエスがこう言われたのは、自分の思い通りに事柄が進んでいることを言われているのです。自分の願うように自分の人生が進んでいくということは、ある意味では理想です。喜ばしいことです。「成功した」とさえ言えると思います。けれども、それでは、まるで自分の人生を自分でコントロールできていると錯覚してしまいかねません。自分の人生の主人は自分なのであって、他の誰かの支配やコントロールを受けたくない。これこそが、天地創造の時、アダムとエバが求めたことでした。神に支配されることよりも、自分の人生を自分の思い描いた通りに進めることを願ったのです。そして、聖書はこれを「罪」と呼んでいるのです。

 どんなに自分の人生を、自分の思うように描くことができたとしても、その人生に神の入りこむ隙がないのだとしたら、それは災いだ、とてもかわいそうなことだと主イエスは言われたのです。

 主イエスが災いを告げるのもまた、私たちへの警告なのであって、それは、私たちのことを神のものだと思っておられるからです。これも、神からの私たちへの働きかけなのです。

 ここで語られている、災いとされている、お金持ちになるこも、満腹することも、永遠には続かない一時的なことばかりです。しかし、主の語られる幸いは永遠に続くものなのだと語られているのです。

 あるドイツの説教者はこういいました。

「私たちが喜びたいところで『災いだ』と言われ、私たちが泣くところで『幸いだ』と言われる。神は、私たちが手の中に受け取る存在なのではなく、私たちを御手のうちに受け取ってくださる主なのです」と。

 私たちは、神を自分の手の中に握りしめて持つことができるのではないのです。神が、私たちをご自身の御手の中に置いてくださるのです。主が与えてくださる幸いは、私たちの想いを超えて遥かに大きいものです。豊かなものです。私たちの手の中に収まるものではありません。

 主の告げる幸いは、とてつもなく大きなものです。主が語る幸いは、自分の中へ中へと閉じ込めて置けるものではなく、外へ外へと人の方へと向けられていくのです。こうして、主はもっと多くの人々を、その御手の中に収めようとしておられるのです。

 昨日、私はYouTubeでマルチン・ルーサー・キング牧師の I have a dream という説教を聞きました。今から60年前のワシントンで行われた講演の時の説教です。キング牧師は黒人差別問題のために立ち上がり、イザヤ書40章に語られた主の幻を夢見ながら、白人も黒人も、ユダヤ人も異教徒も、カトリックもプロテスタントも、すべての者が手を取り合って、昔からの歌を歌うようになると語りました。

 最後に、その映像は、会場に集まってキング牧師の説教を聞いていた何万人という黒人たちと白人たちが手を取り合って賛美の歌を歌う姿が映し出されて終わりました。その姿を見て、自然と涙が溢れました。

 山が削られ、谷が埋められて、その平地で、ともに主の栄光をみるのだとイザヤは語っています。私は、キング牧師のこの説教を知る時まで、「山や丘が低くなり、谷は引き上げられる」の意味がよく分かっていませんでした。

 平地というのは、上に立つ者も、下にいる者もいない土地です。みな、主の前に同じところに立たされているのです。そこでは、誰もが同じところにいるのです。主はそのようなところで、私たち一人ひとりに、あなたを幸いに歩ませたいのだと語っておられるのです。

 これが、主イエスが語られる幸いの説教です。それは、まさにキング牧師が思い描いた姿でした。差別される者、低くされる者のいない土地で、ただ、神の子である主イエスだけが、低いところまで降りて来られているのです。

 ここに、神の愛のお姿が示されています。神と共にある幸いな者の姿が示されているのです。

 主の与える幸いは、誰かを人の上に立たせることではありません。誰かを特別扱いすることもでもありません。みなが、互いに手を取り合いながら、愛し合い、受け入れ合う世界の中に、その世界の真ん中に神が居られて、神の支配があって、はじめてこの世界に幸せが訪れるのだと語っておられるのです。

 この幸いを、どうか知ってください。そして、この幸いな生活の中に、人々を招き入れていきたいのです。こうして、この神の国、神の愛の世界は、外へ外へとますます大きなものへとなっていくのです。

 お祈りをいたします。

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