2010 年 5 月 2 日

・説教 「逆境の中にあって」 マタイの福音書5章10-12節

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鴨下直樹

 今日私たちに与えられている御言葉は「迫害されている者は幸いである」という御言葉です。お気づきのように、この幸いを告げる祝福の言葉は、「心の貧しい者は幸いです」から始まって、今日の所まで続いています。ですから、ここが最後の部分にあたるわけです。そして、ここで語られている言葉は次第に厳しいものになってきていることに気づかれているのではないかと思います。

 「迫害」と「幸せ」という言葉ほど相容れないものはありません。「迫害される」というのは厳しいことです。この日本において、これまで様々な迫害の歴史がありました。今日でもキリスト者と呼ばれる人々は少数者です。そして、そのために、さまざまな殉教の歴史が刻まれてきました。特に、このあたりにはキリシタンの史跡と呼ばれる所がいくつもあります。私が神学生の頃のことですけれども、この地域の宣教の歴史を学ぶ「東海宣教学」というこの地域の神学校ならではの授業がありました。この授業の一環で、地域のキリシタンの史跡を訪ねる旅をしたことがあります。この芥見教会でも、同じような旅をかつてしたことがあると聞いていますけれども、例えばお隣の可児市やその隣の御嵩町にマリヤ観音やキリシタンの史跡がいくつも残っておりまして、色々なところを訪ねた最後にそこを訪ねたのです。あまり知られておりませんけれども、この地域には隠れキリシタンの里があったということが最近の研究で知られるようになりました。私たち神学生たちが尋ねたときに、ここを案内して下さった地域の歴史家の方からお聞きした話は、私にとって非常に印象深いものでした。この地域の庄屋さんがキリシタンであった。そして、庄屋さんだけでなく、村の人々もキリシタンとなったのです。しかし、やがてこの村一体がキリシタンだということが役人に見つかってしまいます。それで村中の者が処刑されてしまうことになったのですけれども、この庄屋は自分が犠牲になって処刑される代わりに、村人を逃がしてやってほしいと役人に頼みました。それで、村中の人は助けれらたけれども、この庄屋さんの一家が皆殺しになったという話がつたえられているのです。それで、この家では自分たちの犠牲となった庄屋さんを偲んで、毎年その時期になるとお祭りをするようになり、その祭りの形だけはいまも残っているというのです。このようなキリスト者の迫害の話はこの地域にはいくらでもあります。どこからそれほど多くの人々がキリシタンになったかと言うと、九州は信仰の盛んな地域でしたが、この尾張を中心とした地域の治水工事のために、そのような多くの人々が送られてきていたため、その信仰がこの地域にも広まっていったのです。しかし、こういう迫害の物語りというのはこの地域だけではなくていたるところにあります。例をあげればきりがないほどです。キリスト教会の歴史は迫害の歴史であったと言ってもいいのです。けれども、私は神学生の時、この地域にそのような殉教の歴史があると聞いて、大変興奮しながら聞くとともに、その出来事を誇らしくも思ったことは今でも忘れることができません。今日私たちに与えられている「迫害されている者は幸いである」という御言葉が、そのままこの地で知られるようになっているのです。

 

 

 けれども、私たちはそのような迫害の物語りを聞くと、喜びを覚えると同時に、どこかでそれは昔のことであって、今はそういう時代ではない、それはまるで他人事のように感じているのではないかという気がしてなりません。今年の二月に名古屋で行われた説教塾に参加して、この春特別伝道礼拝で講師としてお呼びしている加藤常昭先生と共に説教の学びをしておりました。その時に、加藤先生と親しくしておられ、加藤先生とともに説教の学びをしてこられたドイツのルドルフ・ボーレン先生が亡くなられました。

 私はこのボーレン先生に一度だけお会いしたことがあります。今から十五年も前にことですけれども、白い立派な髭をたくわえた小さな方でした。この方が名古屋の説教塾の講演に来られた時に、まだ当時牧師になったばかりの私は、書籍で既に知っていた、言ってみれば憧れのボーレン先生にお会い出来るのを楽しみに参加したのです。その講演は私にとって忘れがたい経験となりました。講演の後、質疑応答の時が持たれました。その時に、「先生が、今の若い牧師たちに一番必要だと感じているのは何ですか?」ということに答えてくださいました。本当はこの質問は東京の説教塾で受けた質問であったのですが、あの時ぼんやりしていたので、その質問にここで答えたいと言ってこう答えられたのです。「殉教の覚悟をしてもらいたい」と。 私はこの言葉を聞いて大変ショックを受けました。今の若い牧師に必要なことは「殉教の覚悟」だと、はっきりとボーレン先生の口から聞いたからです。

 それは私が想像するに、ここで主イエスからこの言葉を聞いた人々も、恐らく同じようなあるいはそれ以上の大きなショックを受けてこの言葉を聞いたに違いないのです。「迫害される覚悟で生きて欲しい」と主イエスが、自らの口を通して言われたのです。しかも、この言葉は、もっと明らかな言葉で書かれています。「迫害されている者」という言葉は、いつか迫害されるだろうという言葉ではなくて、「今、迫害を受けているものは」という意味の言葉です。この言葉だけ特別な言葉で書かれているのです。

 私たちは誰だって迫害などされたくないと思います。職場や、学校や、家族の中で、少しでも信仰に生きていることを悪く言われてしまうと、たちどころに小さくなってしまう私たちがあるのです。反社会的な宗教が世を騒がせていると、私たちは自分の信じている信仰はそのようなものではないことを、必死になって説明しようと試みたりします。私たちはこのように信仰に生きることがだんだんと厳しくなってくるとがっかりしてしまいます。なぜ、信仰に生きるということが分かってもらえないのか。なぜ、様々な誤解を招くのか。それは本当に残念なことです。

 だからなおのこと、迫害されて生きることが幸いであるなどというように、簡単に考えることはできません。まして、殉教の覚悟をしてやってもらいたいなどと言われてしまうと、腰が引けてしまうのです。それで、私たちはどこかで、迫害や殉教というのは、自分に求められていることではなくて、どこか立派な信仰者がすることであって、私とは関係ないことだと思いたい、どこか別の世界のことと思おうとするところが私たちの中にあるのではないかと思うのです。事実、私はその時、ボーレン先生の口からこの言葉を聞くときまで、自分が殉教するなどということを考えたことがなかったのです。それだけに、その時受けた衝撃は忘れることができません。そして、今に至るまで、その時語られたことの意味を考え続けさせられているのです。

 

 

 主イエスはこの山の上で、主イエスを慕って集まって来た群衆や弟子たちに、「心の貧しい人は幸いです」と語りかけました。この言葉を聞いて、主の近くにいた人々がどれほど慰めを受けたことでしょう。「悲しむものは幸いです。」との言葉を聞いて、この方と共にあれば慰めを見出すことができると、心を開き始めたことでしょう。そうであるとすると、そのような慰めの言葉と、ここで語られている「迫害されている人は幸い」という言葉は、違う人に向けて語られているのではないかという気さえしてきてしまいます。しかし、私は、ここまでの幸いの言葉、祝福の言葉を聞くところまでは気にいっているけれども、「平和をつくる者は幸いです」からは嫌いだなどと言いながら、選り好みをしながら聞けるものではありません。主イエスは、ここで語られた八つの幸いを告げる言葉を、すべてそこで聞いている人々に、そして、ここで聞いている私たちに語りかけて下さったのです。とすれば、私たちは心の貧しい者は幸いであるという言葉、悲しむものは幸いであるという言葉を慰めの言葉として聞いたのと同じように、この迫害されている者は幸いであるという言葉も喜んで聞くことができるのです。なぜなら、ここでもまた幸いが、神からの祝福が語られているからです。

 

 「義のために迫害されている者」、ここで「義のため」とあります。すでに5節で「義に飢え渇いている者は幸いです」というところで話したように、「義」というのは、神との関係を表す言葉です。神と正しい関係に生きることが義であるとすると、神と共に生きるために迫害をされることがあるということを、主イエスは知っておられるということです。主イエスはそのことを承知の上で、私たちを招き、私たちを祝福しようとしておられるということは、私たちにとって驚きです。

 主イエスを信じる。神を信じて生きるという時に、主イエスはそこには当然のように迫害があるでしょうと語っておられるのです。ですから、11節から12節とこれに続く箇所でもう一度幸いが語られていますが、ここでは、「義のために」という10節の言葉が、「わたしのために」という言葉で置きかえられていることに気づきます。主イエスを信じることが、神との関係を回復すること、つまり、義に生きることなのだとここで主イエスは語っておられるのです。そして、主イエスを信じて生きることは、迫害の道を歩むことになると言っておられるのです。宣言しておられるのです。

 

 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 (5章11節)

 初代のキリスト者たちは、聖餐を信徒だけで祝いました。そのために、聖餐になると会堂から出された人々は、そこで何がなされているのかを想像しました。すると、そこではキリストの血を飲み、体を裂いて食べるというのです。それを耳にした人々は、想像力逞しく、あそこで誰かが殺され、それをキリスト者たちが口にしているのだ、などと言って迫害しはじめた事がありました。そのような誤った理解にもとずく誤解から迫害が生まれることも、主イエスはよく知っておられたのです。

 人は誰でも自分に理解できないことに対して恐怖感を覚えます。知らないということは恐ろしいことだからです。私たちでも同じように、知らないというだけで、理解できないということから、様々な人々をさげすんでしまう弱さを持っています。批判されること、非難されること、理解してもらうことができないことは悲しいことです。辛いことです。けれども、主イエスはそのような辛さを知っていてくださりながら、そこに生きることは幸いなのだと言ってくださるのです。

 

 なぜなのでしょうか。なぜ、それが私たちの幸いとなるのでしょうか。主イエスは私が信仰に生きることから生じる悲しみや苦しみ、困難を承知の上で、それがあなたがたの幸いなのだからと言われるのでしょうか。私たちに簡単に理解できることなのでしょうか。

 この10節にはその理由として「天の御国はその人のものだからです」と語られています。この言葉は、すでに3節で「心の貧しい者は幸いです」というときに既に語られた言葉です。天の御国に私たちを入れてくださるという約束の言葉が、ここで、私たちが迫害されることによって、既に自分のものとされていることを確認することができる、と主イエスは言っておられるのです。あなたが、主イエスを信じるゆえに苦しい思いをしているのだとすれば、その事実がすでに、あなたは神の国に入れられていることのしるしとなるというのです。今あなたは迫害されているのか、けれども、あなたはすでに神の国で生きているではないか、私を信じるがゆえにその苦しみがあるのではないか、あなたがそこでどれほど苦しい思いをしたとしても、わたしがそこにいるのだから安心がするがよい、と主イエスは語っていてくださるのです。

 あの、かつて、御嵩町にいた庄屋さんは、その殉教の死を苦しみながら迎えたのではなかっただろうと思います。自分はもうすでに神のものであるからという平安が支配していたからこそ、村の人々に代わって死ぬことができたのです。そこに、すでに神の支配があったのです。

 11節からの幸いの言葉は、九つ目の幸いの言葉であると言う人もいますけれども。ここは基本的には同じことが別の言い方で言われていると言えます。12節ではこうあります。

 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

 ここでは「天の御国はその人のものだからです」という言葉が言い換えられています。迫害されることは喜ぶべきことなのだと、あなたがたが、今信仰のゆえに苦しみを味わっているのだとすれば、それは預言者たちの苦しみを、今、あなたも生きている、体験しているのだからと。それは、「喜べ」「喜びおどれ」と命じられるほど光栄なことなのだから、と主イエスは言われるのです。

 私がドイツでもっとも楽しい経験は何であったかと聞かれることがあります。それは、牧師としてこう答えるとがっかりされてしまうこともあるかもしれないと思ってあまり話さないのですが、今年、サッカーのワールドカップがアフリカで行われます。4年前はドイツで行われました。日本は予選を勝ち抜けることはできませんでしたけれども、ドイツは3位になりました。ポルトガルとの3位決定戦の試合に勝利したのです。実は、私はあの時友人からのプレゼントで、あの試合をシュトットガルトのスタジアムで見たのです。なぜ、私が今こんな話を突然しているかと言いますと、それは、その空気に触れること、同じ経験をするということは、言い知れない大きな感激がそこにあるということを知ってもらいたいと思うからです。おそらく、皆さんの中にも、様々なそのような経験があると思います。

 あの、預言者たちと同じ経験をするということは、それは言い知れない深い喜びです。それは、サッカーのスタジアムで経験するような興奮とは比べ物にならないような喜びです。あの、主イエス・キリストと同じ信仰に生きていることが、私たちが苦しみに会う時に分かるのです。あのアブラハムと同じ信仰に、あの預言者エリヤと、使徒パウロと、弟子のペテロと同じ信仰に生きていることが分かるというのは、大きな感動です。

 私は、キリスト教美術に触れて感激するのは、自分が信じている信仰と過去の人々が同じ信仰に生きていることが分かる時、言い知れない喜びを覚えます。喜び踊りたい気持ちになります。自分も同じ信仰に生きていることが分かるからです。

 主イエスは、私たちのような者を、旧約に生きたアブラハムやモーセやエリヤのように、あるいは、ペテロやパウロと、あるいは、主イエス御自身とさえ、同じ信仰に生きた者として数えてくださるのです。

 

 なぜ、主イエスはここに来て、幸いの祝福を語る最後で、このような迫害の出来事を語っておられるのでしょうか。それは、後に、主イエスを信じ、従おうとする者を励ますために他なりません。この最後の、第九の幸いを告げる言葉で語られているのは、「天においてあなたがたの報いは大きい」ということです。主イエスは、天の御国を、そして、私たちにそなえられた報いを語ってくださっているのです。私たちは、この世界で意味もなく迫害の状況に置かれているのではないのです。

 先日の29日、東海聖書神学塾が主催するCS教師研修会が名古屋で開かれました。そこで、私たちの神学塾の塾長であり、私が説教を学んだ先生でもある河野勇一先生が講師で「どのようにして、聖書からメッセージを聞き取るか」という講演をしてくださいました。これは、本当に素晴らしい講演となりました。御言葉を聴くということを、福音を聴き取るということを、これほどまでに聴きやすく語ることができる人が他にいるだろうかとさえ思うほどの講演だったのです。その中で、福音を語るということはこういうことではないかと言われて、一つのたとえを話されました。

「今、サッカーが流行っています。日本のワールドカップの監督は岡田監督でしょうか。その岡田監督が、一人の小学生の前に立ちこう言いました。『君はみどころがある。まだ四年後でははやいけれども、八年後のワールドカップの選手として君を選んだから、試合に出てもらいたい』と。この少年は、自分は何万人もいるサッカーをする少年の中から選ばれたのだからと、その日からもう自分は大丈夫だと安心して練習をやめたりするでしょうか?その反対に、その名に恥じないようにもっと練習に打ち込むのではないでしょうか。主イエスが、私たちに語ってくださっているのも、同じことなのではないでしょうか」と、このように話されたのです。

 主がここで、私たちに幸いを語ってくださるのも、私たちのことをそう生きることができると、すでに見ていてくださっているからこそ、私たちを信じて語ってくださっているのです。

 

 使徒パウロの宣教の拠点となったアンテオケという街があります。この町は、最初の異邦人伝道、つまり、ユダヤ人以外の人々に伝道することになった教会として名前を覚えられるようになりました。パウロから少し後の時代、このアンテオケにイグナティウスという指導者が起こされました。この人は紀元35年から107年ころまで生きていたと考えられていますから、パウロと出会っていた可能性もある人です。このイグナティウスの祈りにこういう祈りがあります。

 「今やとうとう私は、弟子になることを学びはじめました。この世の楽しみも支配も、私に何ら益をもたらしません。私にとっては、この世の果てまで治めるよりも、死んでイエス・キリストを得る方が良いのです。光に至るまで、私が全うすることができますように。その時、私は欠けのない者となるのです。私が、主が苦しまれたように、私も苦しむことができますように。」

 この祈りは「殉教者たちの祈り」という小さな本の中におさめられていた祈りです。このように、イグナティウスは、主のように自分の信仰の生涯を全うしたいと願いつつ、最後は、ローマの闘技場で獣と戦いながら殉教の死を遂げたといわれています。

 

 このような信仰者たちと、私のような殉教の覚悟も整わないよう者をも、同じように数えてくださるのであれば、自分に与えられた道を勇気を持って歩んで行きたいと願わされます。

 もう一冊の本を紹介したいと思うのですが、それはトマス・ア・ケンピスが書いたとされる「キリストにならいて」という本です。「イミタティオ・クリスティ」というラテン語のタイトルがつけられた書物です。これは、名古屋の神学校で学ぶ者が、最初の一年に課題図書として読まなければならない本でもあります。神学生として、この信仰を知ってほしいと願っているからです。この本のことを長く説明することはできないのですが、この本は、キリストが生きられたように、私たちも、その生き方にならって生きるように促しているのです。キリストを模範として生きようということです。このことは、神学生だけでなく、すべてのキリストを信じる信仰に生きる人々に知っていただきたいことです。私たちはキリストのように生きるように、主によって招かれているのです。

  考えてみますと、この山上の説教というのは、キリストがこれからどのように生きられるのかをすべて最初に教えてくださっているようなものです。私たちが学ぶべき姿、いや、私たちが生きるべき姿がここに語られているということができます。そして、ここに記された生き方は、一言でいえば「イミタティオ・クリスティ」「キリストをならって生きよう」ということです。それは、私たちにとって大変厳しいと思えることであったとしても、そこには幸が、本当の祝福された生き方があるのです。

 私たちは、どれほど厳しい逆境と思える中にあっても、この主にならって生きるならば、私たちはそこに必ず幸いを見出し、神の祝福の道を歩むことができるのです。

 

 お祈りをいたします。

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