2010 年 7 月 11 日

・説教 「祈りの姿」 マタイの福音書6章5-8節、14-15節

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鴨下直樹

 いつも説教の後に、自由祈祷と言いまして、それぞれが自由に御言葉への応答の祈りを捧げます。先日、加藤常昭先生が特別伝道礼拝に来られたときにも、礼拝で自由祈祷をしている教会はちょっと珍しいと言われました。どこの教会でもなされているのではないようです。この自由祈祷というのは、礼拝で主から御言葉を聴きますけれども、それにそれぞれが応えて自由に祈ろうというわけです。説教の後に、みんなの前で大きな声を出して祈るというのは勇気のいることです。また、自分の祈りが説教の応答にならないのではないかと考えて、祈りを躊躇なさる方もあると思います。あるいは、祈りというのは人前で立派な祈りを聴かせることではないはずだから自分は祈らない、と心の中で決めておられる方も中にはあるかもしれません。いずれにしても、人前で祈るというのは難しいことです。おそらく誰もが自由祈祷をする時にいつもいろんな事を考えながら、この祈りと向かい合っておられるのだと思います。

 

 今日、私たちに与えられている聖書は祈りを教える箇所です。そして、特にここでは、人前で祈るということについて主イエス御自身が注意を投げかけておられます。ここで何が語られているかと言いますと、人は祈りの姿において偽善者になると言うのです。そのように主イエスから言われてしまうと余計に人前で祈れないということにもなりかねません。もちろん、主イエスは人前で祈ることを禁じておられるわけではありません。ただ、そのような祈りの中で起こる誘惑に対して注意を投げかけておられるのです。

 

 主イエスはここでこのように語っておられます。

 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。と、5節に記されています。これはどういうことかと言いますと、ある説明の中にこんな事が記されていました。

 当時のユダヤ人たちの中でも敬虔な人々は朝の九時、正午、そして午後三時に祈ることを習慣としていたようです。それで、時間が来たらその場所で祈りをするわけですけれども、それならということで、この祈りの時間か近づいてきますと大通りに出ていきまして、そこで丁度祈りの時間を迎える人がいたのだそうです。そうすると、仕方がないからここで祈るかといって、大通りで祈りを始める。そのような人がこの時代にいたと言うのです。

 大通りに居合わせた人たちからすれば、魂胆は見え見えということなのでしょうけれども、こういうことをしたのは一人や二人ではなかったようです。いたるところで目についたのです。誰かが大通りで祈り始めると、こちらも負けていはいられないと、あちらこちらで敬虔な祈り合戦が繰り広げられる。そうなりますと、滑稽なことですけれども、もう神さまはちょっと横にいていただいて、我こそはという見栄の張り合いということになっていくのです。けれども、祈っている側からすれば、たまたま外にいたのだから仕方がないことだ、と言い分を得ることができたのです。主イエスはそのようなこの時代の人々の祈りの姿を見て心を痛めておられのです。神に向かうはずの祈りが、人間の立派さ、宗教的な敬虔さというものを際立たせるものとして利用されていたからです。

 こんな極端な人は今日ではあまりいないということはできるかもしれません。けれども、ここで主イエスが問われていることは、人は神の前における祈りにおいてでさえ、自分を良く見せようとする、つまり自らの義を示そうとする誘惑を持っているということです。これは、私たち自身、よくよく気をつけなければならないことです。

 ある説教者は、こういうことは教会の祈祷会において大きな危険にさらされると言います。それこそ、礼拝における自由祈祷ということも同じ誘惑が常に付きまとっているということができるかもしれません。教会というのは、人の集まるところです。人が集まる時、そこで何が起こるかといいますと、互いを見るということが起こります。そして、その時に、自分をより立派に見せたいという誘惑が生まれてしまうのです。良い評価を得たいと考えてしまうのです。ですから、そこでは誰もがつねに気をつけていなければならないのです。

 しかし、そう考えると、なおさらのようにやはり祈祷会に行かない方がいいとか、礼拝もお休みしましょうとか、せめて自由祈祷はしないように気をつけようということになるのかどうかということです。この事も、合わせて考える必要があることでしょう。

 

 主イエスはここで、祈りをどのように教えておられるのかよく耳を傾ける必要があります。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」とこの6節で言われています。

 ここにまず、「あなたは、祈るときには」と記されています。ここで記されているのは、「あなたの祈り」です。人のことをあれこれと考えることはまず止めにして、自分の祈りということに集中して考えてみる必要があります。自分が一人で神の御前で祈るにはどうしたらよいかということです。そこで、主イエスが教えてくださっているのは、「密室の祈り」などとよく言われる祈りです。「自分の奥まった部屋」で祈りなさいというのです。しかし、そもそも、当時のユダヤ人たちの家に「自分の部屋」というものがあったのかどうか分かりません。この言葉はもともと「貯蔵庫」などを表す部屋のことです。そして、当時の人々の家ではこの貯蔵庫とされていた部屋だけが戸を唯一閉めることが出来た部屋であっただろうと聖書学者は言います。大抵の部屋に扉などありませんでした。そして、この貯蔵庫というのは、食べ物などを保存しておく部屋ですから、大抵は地下にあります。日本には地下室というはあまりありませんけれども、例えばドイツなどではどの家にも必ず地下室があります。そこにはジャガイモなどが置かれていまして、食べ物をできるだけ新鮮に保つことができる部屋です。言ってみれば、必要がなければ誰も入ってこない部屋です。そのような部屋に行って祈ると良い、と主イエスは言われたのです。

 当時、大通りに出て行って祈りをしていた人々から言わせれば、そんなところで祈ったら祈りの楽しみのほとんどが奪われたようなものだ、と批判の声が上がりそうな部屋です。けれども、主イエスはそのような誰も見ていない所で祈るように言われました。それは、人からの評価されようとする期待を捨てるということです。そこで行われるのは、ただ自分と神が向かい合うことだけです。

 

 祈りというのは、自分と神との間でなされる信仰の行為であって、そこに誰か他の人の評価は必要ありません。まして、自分で自分は良く祈っているとか、祈れないとかいうような評価を自分自身でする必要もないです。しかし、私たちは祈ることができないということで悩むことがあります。この自分は祈れないというこの悩みの中には、実は様々な意味合いがあると思います。

 人前で立派な祈りができないということもその一つでしょう。けれども、もっと深刻なのは祈りの心がつくれないということです。心を神に集中することができないということです。この場合の祈れないという悩みは少々深刻です。祈ろうと思いながら、祈りの時間をつくって祈り始めるのだけれども、祈っている間に、自分の祈りがどこかに行ってしまうという経験は誰にでもあるのだろうと思います。つい、祈っていたはずなのに、祈りの言葉の中から様々な連想が思い浮かんで、気がつくと別のことを考えてしまうのです。神さまに向かっていたはずなのに、いつのまにか他のことを考えてしまう自分が嫌になってしまい、祈ることを諦めてしまう。放棄してしまう。そして、自分は祈ることができないのだと考えてしまうのです。

 けれども、そのように自分の祈りが祈りにもならないというような事があったとしても、それでも祈り続けることが大切です。祈れないから、祈らないということにはならないのです。何度でも、祈りに向かって集中するのです。そうやって、自分の中に、神と向かい合う時の言葉を獲得していくのです。祈りの中に入り込んで行く時に、そこでようやく祈りの道が開けてくるのです。

 そして、その祈りを支えるのがこの「密室の祈り」です。実際に、祈りの部屋を持つなどということはできなくてもいいのです。自分の部屋はないとか、自分の部屋はあってもかえってそこは雑然としていて、自分の日常の場所を祈りの場所としようとすると集中できない、ということもあるかもしれません。場所はどのようにでも工夫して出来ると思います。車の中で、ある方はお風呂に入る時に祈るという方もおられます。神さまと裸の付き合いだからということであるかもしれません。大切なことは、祈りに集中していくということです。祈りに耳を傾けてくださっている神に心を向けていくということです。

 主イエスはここで「隠れた所におられる、あなたの父に祈りなさい」と言われます。祈りを聞いておられる神が隠れた所におられるというのは、主イエスならではの言葉であったということができるかもしれません。私たちの祈りに耳を傾けておられるお方が、「隠れた所におられる父」であるというのは、どういうことでしょうか。なぜこのような言い方になっているかというと、ある牧師はここで「私たちが自分たちに都合のよい神を造り出してしまうからだ」と言っています。見える神というのは、そのようなものになる危険があるというのです。そして、実際私たちの国には八百万(やおよろず)の神々を造り出してしまっているのです。神が隠れたところにおられるというのは、そのように、私たちが神を自分勝手に造り出せるようなお方ではないということがあらわされているのです。そしてそれと同時に、このお方は、私たちのすべてを知っておられるということもこの中で表されています。このお方は、私たちの隠れた生活もすべて知っておられるのです。ここで父と呼ばれている神は、私たちが見せたくないものまで全てご存じなのです。私たちの罪の生活も全てです。けれども主イエスは、このお方、父は、全てを知っておられるのであるから、なおさらこのお方に自分の心の奥底まですべてさらけ出して祈ったら良いのだと言われるのです。

 祈りの世界というのは、このように、まさに自分と神だけで、間に誰も割り込まれることのない安心できる世界です。だからこそ、このお方に心をすべて注ぎ出して祈ることができるのです。そして、そこでこそ祈りの道が開かれていくのです。

 

 その心の奥深くで祈られることの中心を占める一つのことは「罪の赦し」を求める祈りです。誰かに聴かせることなど出来ない祈りであるとも言えます。そのような祈りも、この自分だけの祈りの中で祈ったらよいのです。この祈りについて、主イエスが語られた言葉は主の祈りを挟むようにして語られていますが、主の祈りの後で罪の赦しが語られています。14節と15節です。

 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

 隠れたところでなされる祈りの中心に位置を占めるのはやはり罪の赦しです。私たちのすべてをご存じの神に向かって祈る時に、私たちは自らの罪の悔い改めを祈らざるを得ません。けれども、主イエスがそこで問われるのが、私たちの心の中に同時に抱えている人の罪を赦すことができないという思いです。人を赦すということは、自分が損をしてしまうことだと考えてしまう思いがあるのです。自分の持った怒りをどこかで発散しなければ気がすまないのです。自分の正しさを声高に主張したいのです。けれども、神はそのような思いがあなたの中にあるからこそ、全てをご存じの父なる神に祈ったらいいのだと言われるのです。

 私たちは神に祈る。祈るのであれば、その祈り、自分の思いが神に届くことを求めます。祈りが聞き届けられているかどうか自信がないので、同じ言葉を何度も繰り返して祈る。それこそ、お百度などと言われるような祈りを熱心にすることによって、祈りを何とか聞き届けてもらおうとするのです。けれども、そのような祈りは、神を祈りによって屈服させようとしているのであって、神を信頼しての祈りではありません。

 どうしたら神を信頼して祈ることができるかというと、そこで問題なのが、神の赦しを信じるということなのです。神を信じて祈るのでなければその祈りは空しいものです。それで、主イエスは、私たちの祈りが神に聞き届けられていることを身を持って知るために、まず、あなたが赦しに生きるのだと言われるのです。自分の怒りを捨てる、正しさを捨てる。神に任せるのです。そこで、私たちは自分の中にある凝り固まってしまった気持ちや、悲しみや、怒りから解放されるのです。自由になるのです。そして、その自由の中に生かされる喜びを知る時に、自分の罪もこのように神から赦されていることを知るようになるのです。そうすると、ますます神に心を向けて祈ることができるようにされていくのです。

 間違えてはならないのは、これは決して祈りを聞いてもらうための条件ではないということです。けれども、私たちが人を赦すならば、神も私の祈りを聞き届け赦してくださるにちがいないと確信を持って祈ることができるようになるのです。

 この14節、15節に記されていることは、主の祈りの中で、特に12節で祈られていることです。同じ事をここでもう一度繰り返されているということもできます。それほどに、赦しが祈りの中でも大切な位置を占めていることが分かります。

 

 

 私たちを全て知っていてくださるお方は、私たちが静まって神と語りあい、神からの愛を受けると共に私たちと一緒に生きている人々を愛すること、赦すこと、共に生きていけるようになることを願っていてくださいます。その私たちの生活の土台となるのが祈りなのです。

 けれども、私たちは祈りをする時に、いつも一つの問いの前に立たされます。それは、神は全てのことを知っていてくださるのだから、祈らなくてもいいのではないかという思いです。この問いの答えが自分自身の中で明らかになるまでは、祈りに心が向かないと言ってもいいほど、これは私たちの祈りの生活の中心を占める問いであると言えます。8節にもそのことが記されています。

 「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 先ほども言いましたけれども、この言葉に先立って語られているのはくどくどと祈るということです。自分にとってこれが必要、あれも必要です、どうかお願いしますというそれこそ必死になって祈る。ここで主イエスが語っておられるのは、誤解されることを恐れずに言いますと、そのような願い事を並べたてるような祈りは必要ないと言っておられるのです。ですから、その意味で言えば、祈る必要はないとさえ言えるのです。神は私たちが願う前に、私たちに必要なことを知っていてくださるお方なのです。だから、そのお方に向かって、あれもお願いします、これもお願いします、というような祈りに生きる必要はありません。考えてみれば、そのような祈りは熱心に神に求めているようでありながら、自分の願いを押しつけているだけのことです。確かにそのような祈りがこの世界では一般的な祈りの姿であるということはできます。しかし、ここで主イエスが語っておられるのは、この世界で祈りと呼ばれる行為をとおしてなされる願い事は必要ないとさえ言っておられるのです。私たちがお祈りしてお願いしないと働いてくださらないような神なのでしょうか。私たちが祈ることを待っていてくださる神は、私たちの願い事に応えるための神などではありません。このお方は私たちの思いを遥かに超えて偉大なことをなしてくださるお方なのです。

 

 では、私たちはこのお方に何を祈るのでしょうか。果たして祈る必要があるのかとさえ思えてきます。けれども、祈る必要がなければ、主イエスはここから「主の祈り」を教えたりはなさいませんでした。祈りにおいて私たちは神に近づくことができます。そして、祈りの中で、私たちは自分自身を、私たち自身を知ることになります。そこで神との対話が始まるのです。そこでこそ本当の祈りが生まれて来るし、祈りの言葉が生まれて来るのです。それは、自分自身が裸にされるような経験です。偉大な神の御前に立ちながら、貧しい我が身を知らされるのです。そこで、さまざまな言葉が生まれます。神への賛美が生まれるでしょう。罪の告白の言葉がでてくるでしょう。私たちと一緒に生きている人々を愛する思いが浮き上がり、そこから様々な執り成しの言葉が出てくるのです。

 そのような祈りは、人前に見せるようなものではないでしょう。ただ、神の前で語りあう言葉が出てくるのです。ですから、祈りは神と自分との個人の間でなされる豊かな交わりなのです。

 そして、教会でなされる祈りというのは、神の御前で御言葉を聴いた私たちが、そこでこの私たちの心に語りかけてくださった主に対し、生み出されて来る心からの応答の言葉です。人がどう聞いているかとか、立派な言葉とかいうことは気にする必要もないのです。短くても、長くても、そこで神への応答がなされるのです。対話がなされるのです。そして、共に祈りを捧げる私たちは、その祈りに心を合わせつつ、私も同じ思いなのですという思いで「アーメン」と祈りを共に捧げるのです。

 

 このように、私たちに語りかけてくださる主は、私たちと豊かな言葉の交わりを持ちたいと願っていてくださるお方なのです。ですからぜひこのお方に心を向け、この神の御まで豊かな時間を過ごしていただきたいのです。

 

 お祈りをいたします。

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