2022 年 4 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙11章25-32節「賜物と召命」

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2022.04.10

鴨下直樹

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 今日から受難週に入ります。七本立てられております蠟燭も、ついにこの一本だけになりました。このレントの期間、私たちは主イエスがご自分のいのちを少しずつ削るようにして、私たちにご自身のいのちを与え尽くしてくださったことを見続けてきました。この蝋燭は主のいのちの尽きていく姿を見える形で表現しているのです。

 そして、まさにこの受難週を迎える今日、私たちはローマ書11章の結びの箇所のみ言葉を聴こうとしています。ここに記されているのは、信仰の奥義だとパウロは言っています。
25節。

兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。

 パウロはここで、ユダヤ人の救いのことを語り続けています。それが、9章から11章まで続いています。ユダヤ人が救われるのかどうか。ユダヤ人は神に逆らい続けたために、神の福音は、ユダヤ人から異邦人へと向けられて、その結果、異邦人たちが信仰に入れられるようになったという現実がありました。ユダヤ人たちが神に不従順であったために、外国人である私たちが、神の救いに与かることができるようになったのです。

 そして、パウロは実はここに、神の奥義が隠されていると言っているのです。

 ここで問われているのは、神に対して不従順な者に対して、神がどうなさるのかということです。普通に考えていけば、神に不従順な者は、神から捨てられて裁かれる。裁きを受けると考えるのが普通です。神様の見ておられるところで悪いことをすれば罰が当たる。これが世の常です。お天道様は見ておられるというわけです。

 ところがパウロは、ここで、ユダヤ人が神に不従順であったために、異邦人が神のあわれみの眼差しにとまって、異邦人が救われるようになった。けれども、神のユダヤ人に対する選びはなくなったのではないのだと語っています。

 それで、29節。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。

と宣言するのです。

 神の「プランA」はユダヤ人を救って、このユダヤ人をモデルにして、世界中に神様のことが分かるようにさせようという計画でした。しかし、この「プランA」はダメになりました。ユダヤ人が神の期待を裏切ったのです。そこで、「プランB」に変更されました。それが、今度は異邦人を救いに導いて、神の人間に対する愛を、世界中に知らせようというものです。普通は、そうなったら、「プランA」はもう破棄されたものと考えるのですが、「神の賜物と召命は取り消されることがない」とここでパウロは言うのです。「プランA」は無くなったわけではないというのです。

 もう少し先を見てみましょう。パウロは30節と31節でこう言っています。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

 ここで言う、「あなたがた」というのは、私たち異邦人のことです。私たちは神に不従順であった。そこからいえば神の目にとまるはずもない存在なのですが、「彼ら」、ユダヤ人が不従順であったために、神のあわれみを受けるようになった。

 ここに「不従順」という言葉と「あわれみ」という言葉が出てきます。実は、この二つの言葉が、パウロが奥義と語っている神の深いお考えの中身の正体なのです。

 「不従順な者をあわれむ」。この言葉は、私たちの日常の生活の中で、まず起こり得ない感情であり、現状です。

 願っていることを行わない。期待に応えてくれない。そこから生まれる私たちの気持ちは一体何でしょう。自分を信頼してくれないのです。自分の思いに応えてくれない。何かを頼んでもやってくれない。期待するだけ無駄。信頼するほど悲しくなるのです。そこで起こるのは、怒り、苛立ち、敵意、あるいは悲しみや、諦めです。

 ところが、神はその時に「あわれむ」というのです。 (続きを読む…)

2022 年 4 月 3 日

・説教 ローマ人への手紙11章13-24節「神の慈しみと厳しさ」

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2022.04.03

鴨下直樹

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 最近、色々なところで「次世代」という言葉を耳にします。その前によく耳にしたのは「ポスト」ということばです。「ポストモダン」とか「ポスト安倍」というように、「その後」という意味で使う言葉です。

 若い人を育てないといけないという、社会の焦りが、そういう言葉の中に見え隠れしています。

 ここからは私の個人的な感覚なのですが、「次世代」という言葉を使いながら、次のリーダーを育てようという時に、私が感じるのは「本当に次世代に育って欲しいと願っているのかな」という疑問です。自分よりも若い人が、自分を追い抜いてリーダーになっていくことを受け入れる土台があるとは、あまり思えないのです。

 今、ニュースで私たちはウクライナの大統領や、他の政府責任者が非常に若いことに驚きを覚えます。あるいは、もっと身近なところでいうと、ドイツのアライアンスミッションの代表になるような人たちも30代や40代で抜擢されることが珍しくありません。

 自分たちよりも優秀な人が頭角を顕して来た時に、どうしてもそれを潰して、自分たちが残るということを、特にこの日本では、やっているのではないかという気がするのです。

 それは政治家だけでなく、企業でも、教会でも同じような体質が多いという印象を、私は持っているのですがいかがでしょうか。

 新しく良いものが出て来ても、それを受け入れていくにはまず周りを見て、様子をうかがって、みんなが受け入れているようなら、そろそろうちでも取り入れようかと検討を始める。追い越されていく方は気が気ではないのです。

 ユダヤ人たちにとって、キリスト教とはまさにそういう相手でした。だから、パウロが異邦人に福音を宣べ伝えはじめて、勢いが増すにつれて、ユダヤ人たちはこの教会の勢いを何とか止めたいと思ったのは、よく理解できるのです。

 その意味でパウロは、ユダヤ人たちの特質や、ものの考え方、伝統ということをよく知っていました。その上で、主イエスが語る福音の新しさを知り、その魅力にいち早く気付き、それを導入して次世代のリーダーとなった人物に違いないわけです。

 しかし、パウロは同時に、自分もユダヤ人であり、ユダヤ人としてのアイデンティティー、誇りも持っていました。神のユダヤ人に対する変わらない愛の眼差しを知っていましたから、そのことを語る必要性を覚えていた人です。

 そういう意味でいうと、「次世代」という声掛けで、上の人の造り上げた想像力の枠組みの中で、次世代が育つなんてことはなく、次世代の人は自分の才覚と実力で、その上の世代を乗り越えていくリーダーシップが必要なんだろうと、私は漠然と思うわけです。そして、そうやって出てきた人を、潰すのではなくて、受け入れる備えのようなものが必要になってくるのだと思うのです。

 パウロは、ここで自分に課されているものが何であるかを、明確にしています。13節と14節です。

そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受け止めています。私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。

 パウロはここで自分の役割と使命を語ります。自分は、神の福音を異邦人に語るのが、自分に与えられた働きであると言いながら、その結果、自分の同胞ユダヤ人を悲しませることになり、結果として彼らのねたみを起こさせて神に救われることを願っているというのです。

 同胞のユダヤ人に対するパウロの愛が、ここで明確に告げられています。異邦人が救われるということは、彼らは神から捨てられることになる。けれども、その捨てられたはずのユダヤ人が、そこから立ち返る、それこそが復活の御業であり、神はユダヤ人をも復活させようと思っておられるのだと、ここでかなり大胆な宣言をしているのです。

 このパウロの宣言を裏付けるために、パウロはひとつのたとえ話をします。まず語るのは16節です。これは、神に献げるささげ物を例にしています。穀物のささげ物のことがレビ記2章に記されています。穀物を献げる場合、その穀物の初穂を献げて、その残りの部分は祭司の取り分となります。この祭司の取り分となったものの方を、「最も聖なるもの」と言い方をします。神に献げる物は、聖なるものとなる。これは、神のものとなるということです。献げた物、祭壇で焼かれた物は、聖なるものとして神のものとなるのですが、残り物も聖なるものなのです。代表の部分が聖いと認められれば、その全体は聖いという考え方です。それに続いてパウロは、「根が聖なるものであれば、枝もそうなのです」と語ります。一部分の聖さは、全体の聖さだというのです。そして、これはこの後のたとえの導入になっていきます。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 27 日

・説教 ローマ人への手紙11章1-12節「恵みの選び」

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2022.03.27

鴨下直樹

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 パウロは当時の文化と世界の中心都市であるローマに手紙を書き送っています。この時、パウロはまだローマに行ったことがありません。けれども、パウロから福音を聞いた人々がローマに移って行って、そこで集まりを開くようになったのです。

 そこで、パウロはまだ見ぬローマの教会の人たちに、主イエスが私たちに与えてくださった救いについて、丁寧に書き記していきました。この手紙を読むだけでキリスト教のことが分かって、信仰に入ることができるようになることを願ったのです。

 1章から8章では、信仰の土台となる主イエスが私たちに何をしてくださったのかを書きました。そして、そのあとの9章から11章では、神の約束の民であるユダヤ人たちはどうなるのかということを書き始めたのです。

 ユダヤ人は一体どうなるのかということを、今の私たちはあまり気にしないと思います。ユダヤ人のことは良く分かりませんし、昔の出来事です。大切なことは、やはり自分たちのことです。けれども、この時代、聖書のことを知ろうと思うと、ユダヤ人たちの集まっている「会堂」「シナゴーグ」と呼ばれるところに行くしかありませんでした。そして、キリストの福音について触れた人たちも、自然にこのユダヤ人たちの「会堂」というところに集まるようになっていました。

 そうすると、どうしてもユダヤ人たちと、主イエスを信じるキリスト者とかキリスト教会の人たちと、何がどう違うのかということを説明する必要があったのです。それで、パウロはここで丁寧に、ユダヤ人たちは神様に対して信仰的ではなく、神に逆らって歩んできたことと、それでも、神様はそのユダヤ人のことを大切に思っているということを語っていったわけです。

 先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、使徒の働きを学びました。前回は使徒の働きの2回目で、パウロの宣教の部分が記されている12章から最後の章までを扱いました。

 パウロは、神から使徒として召されて、異邦人の伝道に遣わされます。三回にわたる伝道旅行で、かなり広範囲の地域に福音を宣べ伝えます。ところが、使徒の働きを読むと、異邦人伝道と言いながら、パウロはいつも、「会堂」と呼ばれたユダヤ人たちの築いた信仰と聖書の教育をする場所を伝道の拠点にしたのです。

 ユダヤ人たちはその長い歴史の中で、「ディアスポラ」と言いますが、各地に「離散」してきます。国土を奪われたユダヤ人たちは各地に散らばって、そこでユダヤ人たちの集まりを作っていきます。その中心拠点になったのが、「会堂」とか「シナゴーグ」と呼ばれるところです。
 私たちも良く分かっていることですけれども、この「ユダヤ教」と「キリスト教」には大きな違いがあります。ユダヤ教は「旧約聖書」しか扱いませんが、キリスト教には「新約聖書」があります。ただ、問題はパウロの伝道していた時にはまだ新約聖書はありません。その当時のキリスト教会は、旧約聖書をベースにしながら、主イエスの教えられたことをそれまでのユダヤ教の人たちの考え方とは違う解釈をしていきました。

 それは、異邦人はキリスト者になるためにユダヤ人のように割礼を受ける必要はないし、ユダヤ人たちの生活習慣、おもに食物規定と言われる食べ物に関する戒めを守らなくても良いという考え方です。それで、エルサレムの教会は、パウロが第一回目の伝道旅行から戻ってきた後で、この問題について一つの見解を示しました。それは、異邦人たちにユダヤ人のような戒めを課さないということです。割礼も必要ないし、ユダヤ人の律法を守る義務も課さない。それが、エルサレム会議の結論だとパウロは理解したのです。

 けれども、エルサレム会議は結論の最後に一つの文言をつけ加えます。これまでどの会堂でも大事なこととして扱ってきた食べ物の規定と、みだらな行いは気をつけるようにという一文です。そして、この最後の一文が付いたがために、パウロはその後も、どの町に行ってもユダヤ人キリスト者たちと戦うことになってしまうのです。やはり、パウロのしていることは、教会の主流の考え方ではないとなってしまったのです。

 パウロにとって、このユダヤ人キリスト者たちというのは、ずっと伝道の邪魔をする嫌な存在でしかありませんでした。また、生粋のユダヤ人たちもなかなかパウロが語る福音を受け入れない心の固い人と思って来たはずなのです。

 ユダヤ人たちの立場からしても、自分たちが建てた会堂で、自分たちが教えていることとは異なることをパウロが教えるわけですから、いい迷惑だったに違いないのです

 そのパウロがここで、ではこのユダヤ人たちはどうなるのかという結論を語っていきます。それが、この11章です。

 パウロはまず自分もユダヤ人であるということを、語り始めます。ただのユダヤ人ではありません。「アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です」と語りました。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 20 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「私たちの祈りを聴く神」井上正彦師

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2022.03.20

井上正彦

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礼拝前半


 

礼拝説教から


 

 ただいまご紹介をいただきました私が津島佐織キリスト教会と北名古屋キリスト教会牧師の井上正彦です。

 私がこの芥見キリスト教会へ来始めました頃、丁度同時期ぐらいに同じ歳ぐらいの青年方が何人かすでに集っておられました。そのことを教会の方々は非常に喜んでくださいまして、当時青年だった私たちに「教会に青年が与えられるように祈っていたのですよ!」と満面の笑みで語りかけ喜んでくださいました。当時、信仰的な意味で理解ができていなかった私はその意味が十分に分からずにおりましたが、20年近く前にラジオ放送の「世の光」月間のニュースの巻頭言の原稿を依頼されて祈りつつ、その原稿を書いておりました時にふいに雷に打たれたような衝撃が走りました。

 実は私は教会へ集うようになる前から、朝早く美濃市の実家から名古屋の会社へ行く道中に毎朝ラジオ放送を聴いていました。私は毎朝、旧芥見教会会堂のある国道156号線沿いの「神は愛なり」という芥見教会の小さな電柱の看板を横目で見ていました。その看板を通過するその時間に私は「世の光」のラジオ放送を聴いていました。私は「世の光」のラジオ放送と三浦綾子の本に触れる中で、やがて私は教会へ通うことを決心して、日曜休みのある地元の工作機械の会社に転職し、芥見教会へ毎週通うようになりました。そして芥見キリスト教会は自分が毎日聴いていた「世の光」のスポンサー教会の一つであることを思い出し、私はそこに衝撃が走ったのです。私は自分の意志で教会の門を叩いたはずなのに、教会の方々の、当時見ず知らずの私たちに対するとりなしの祈りの中で、私たち当時の青年が教会に導かれて来たということを改めて感じ入ることができました。それと共に、私にとっては主なる神様にとりなしの祈りをささげることの大切さを痛感したエピソードでした。
 
 さて、本日の聖書のみことばであるルカの福音書第18章1節から8節には、一つの譬え話が出てまいります。登場人物は二人です。一人は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。もう一人はやもめです。この二人の背景についてもう少し詳しくみる必要があると思いますので、説明しますと、この「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は、どうやらユダヤ人の裁判官ではないようです。当時のユダヤの法律では、何かを裁く裁判官は3名いたようです。一人は原告側から選ばれ、もう一人は被告側から選ばれ、三人目は原告、被告とは関係のないところから裁判官が選ばれて、公正な裁定が下されていたといいます。他方、一人の裁判官が裁きを下していたということは、これはユダヤ人による裁判官ではなくおそらく当時のユダヤを支配していたローマ政府の治安裁判官であったと言えます。このような裁判官は公正な裁判をすることは少なかったようで、もし裁判を有利に進めようとすると、コネクション(縁故による人間関係)と賄賂を使うのでなければ、裁判に勝てる見込みはほとんどありませんでした。逆に言えば、裁判官にとってうまい話があれば、社会的正義や通常の道理を押し曲げることぐらいは平気でやるような人たちでありました。その一つとして、主イエスが十字架の刑にかけられるかどうかの裁定を下す際、当時ローマからの総督であったポンティオ・ピラトなどはその典型例と言えます。また、6節では、主イエス自らがこの裁判官のことを「不正な裁判官」とも断定して言われていることからも、十分にこの裁判官が問題に対して、正義や道理に照らし合わせて公正に裁判するような人ではなかったことがご理解いただけるかと思います。

 他方、もう一人の登場人物は、やもめです。聖書でやもめは貧しく弱い者のシンボル(象徴)でした。社会的地位もお金もないわけですから、先の「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」の所へ行って、「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」との願いは普通ならば聞きとどけられることありえませんでした。ところがこのやもめには一つの武器と言えるものがありました。それは「しつこさ」です。先の裁判官は5節でやもめのことを「うるさくて仕方がない」「ひっきりなしにやって来て」と言っているように、このやもめは自分を守るための裁判を行うまでこの裁判官に執拗に食らいつきました。そして最後には、この裁判官は「このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう」と思うようになります。

 ですから、ここでたとえ血も涙もないような不正な裁判官であっても、執拗なやもめの嘆願に対して根負けしたからさばきをするというのです。そうしますと、今日の聖書のメッセージは、神様を不正な裁判官として見立てて、とにかくしつこく祈れば、その祈りは聴かれるということになるのでしょうか。そうではないと、今日のみことばはその後に続いて語られます。6節では、「主は言われた。『不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫びを求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」とあります。

 ここで、不正な裁判官とやもめのやりとりも念頭に置きつつ、それを今度は主なる神と私たちとのやりとりに置き換えて考えてみよ、と言われました。そうした時、不正な裁判官でさえ、やもめのしつような嘆願を聞きとどけるのだから、まして義と愛なる私たちの父なる神は不正な裁判官とは全く異なり、神の民の祈りを常に聞きとどけてくださり、速やかにその解決を与えてくださるというのです。つまり神様の前での私たちの祈りは決して無にはされない、ということです。私たちは日常での信仰生活において、神様が私たちの祈りを聴かれないとか、祈りが本当に聴かれているのだろうかと疑念をいだくことがあるかもしれません。しかし、やもめの執拗な嘆願を不正な裁判官は迷惑しつつも自分の日頃の行いを変えてまで行動するのだから、まして、私たちの主なる神様は私たちのことを決してお忘れにも、お見捨てにもならないと言われるのです。

 私たち福音派の教会は「デボーション」(日々聖書を読み、祈り、神と交わること)ということを入門クラスや日常の信仰生活の中で強調いたします。しかし、そこで、間違ってはならないのは、この「デボーション」を行う時に、「私にとって主なる神様、主イエス様はどのようなお方であるか」という視点です。そこを見落として、聖書を読み、祈っていくと信仰生活が私たちの行動規範の修正に終始し、信仰生活自体が自分を責めるだけのものとなり、重苦しいものとなってしまいます。そうではなくて、聖書を通して、生ける神ご自身が聖書の登場人物を通しての語りかけや手紙などを通して、どのような働きかけや関わりをしてくださり、どのようなお姿で私たちに関わってくださるのかを知る時に私たちは本当の慰めをいただけるのです。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 13 日

・説教 ローマ人への手紙10章14-21節「福音宣教」

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2022.03.13

鴨下直樹

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 聖書を読む。これは、クリスチャンである私たちがとても大切にしていることです。聖書を通してしか、神様のことが分かりません。そして、聖書には、私たちがどう考えていけばいいのか、私たちの生きる意味や、判断の仕方、目標、大切なことがここに記されています。

 今、私たちが耳を傾けているローマ人への手紙の9章から11章まででは、ユダヤ人は救いにあずかることができるのかどうか、というテーマをパウロは語っています。今日のところは、ユダヤ人は聖書を読んできたのに、どうして救われないのかという問いに答えているところです。これは、聖書を大切にしている私たちにとって、素通りすることのできないテーマです。

 ユダヤ人は、子どもの頃から聖書を暗記するように教えられている民族で、聖書と共に歩んできた民と言ってもいいと思います。もちろん、そこでいう聖書というのは旧約聖書のことです。特に、モーセ五書と呼ばれる、神から与えられた律法、神の戒めを記している箇所などは、ことさらに大切にしてきたのです。それなのに、なぜユダヤ人は救われないのか。これは、とても大切なテーマです。

 今日の私たちクリスチャンとは、比べものにならないほど、聖書を大切にし、聖書に親しんできたのが、ユダヤ人です。それなのに、私たちは救われて、聖書を誰よりも熱心に読んできたイスラエルの民が、救われないのだとしたら、いったい自分たちが大切にしてきた聖書とは何か。せっかく時間をかけて読んできても何の役にも立たないもの、ということになる可能性もあるのです。

 それで、パウロはここで、信じるために必要なものは何かということを、語ります。あまりまわりくどい言い方はしないで、信じるために必要なのは、まず「聞く」こと。聞かなければ信じられないと言います。けれども、その福音を「聞く」ためには、「宣べ伝える人」が必要で、宣べ伝えるためには「遣わされる」ということが不可欠だということを順に語っています。

 神様のことを伝える、神から遣わされた「メッセンジャー」が必要なのです。

 今、私たちは大きな戦争のニュースを毎日耳にしています。そこで驚くのは、ロシアの人たちは、隣の国でロシアの軍隊が行っていることを知らないということです。それを聞くと愕然とします。若い、20代、30代の人たちはインターネットで世界中と繋がることができますから、何が今行われているのかよく知っています。けれども、高齢者になるほど、テレビのニュースしか耳に入って来ないので、隣の国で何が行われているのか知らないのです。プーチンの支持率は71パーセントに増えたというニュースが先日報道されたばかりです。もちろん、このニュースも本当なのかどうかさえ分かりません。ただ、そこで私たちが驚くのは、「事実を知ることができない」、大切な知らせを伝える「メッセンジャー」がいないとどうなるのかという恐ろしさです。

 ロシアの外務大臣は「戦争をしていない」とさえ発言しました。あるロシア人は、「ウクライナ人が、自分たちで自分たちの町を破壊している」と言って世界を驚かせました。正しいことを知らせるメッセンジャーがいないのです。

 伝える人がいなければ、信じることができないというこのパウロの言葉は、メッセンジャーの存在の大切さを私たちに改めて思い起こさせます。しかし、一体誰が、その知らせを、メッセージを届けるのでしょうか。一体誰が、メッセンジャーを遣わすのでしょうか。

 旧約聖書は、この神から遣わされたメッセンジャーのことを「預言者」と言いました。神の言葉を預けられて、届ける役目です。

 「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」とパウロはイザヤ書の52章から引用して語りました。

 ここでパウロはメッセンジャーの「足」のことを「美しい」と語ります。大事なのは、顔でも口でも、声でもなくて、「足」だというのです。そこで意図されているのはその預言者の背後にある「遣わす者」の存在です。

 伝えている人の口や声が美しいというのではなくて、その「足」に目を向けさせるのです。イザヤ書40章の9節では、

シオンに良い知らせを伝える者よ、
高い山に登れ

と記されています。

 この言葉の背後には、バビロンによる捕囚が終わりを迎えるという知らせをエルサレムに届けるために、山を越えて、シリアの砂漠と野原を超えて知らせを届けることを語っています。イザヤ書52章の7節にはこういう言葉があります。

良い知らせを伝える人の足は、
山々の上にあって、
なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、
幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」と
シオンに言う人の足は。

 パウロの言葉はここからの引用だということが分かります。伝えるメッセージは、「あなたの神は王であられる」というメッセージなのです。その知らせを伝えるために、バビロンから山を越え、砂漠を超えて、救いの言葉を人々に届ける。そのメッセンジャーの足は美しいというのです。

 それは、このバビロン捕囚というイスラエルの民にとって絶望的な状況にあって、「神が王となられる」というメッセージ、バビロン捕囚が終わるというメッセージを早く伝えたくて、必死に走って来た足なのです。その知らせの、福音の内容のすばらしさを届けたいという、その預言者の持っているメッセ―ジの力に目をとめさせるのです。

 そのような力強いメッセージが届けられたとしても、肝心なことは、そのメッセージを「信じる」ということが必要です。「聞いて、受け入れる」ということがなければ、そのメッセージは意味をなさないのです。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 6 日

・説教 ローマ人への手紙10章1-13節「イエスを主と告白する」

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2022.03.06

鴨下直樹

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 先週行われた教団役員会で、開会説教をされた先生が「グレート・リセット」という言葉を紹介されました。私はこの言葉を知らなかったのですが、少し気になって調べてみました。この言葉が最近になって使われるようになったのは、2021年、世界経済フォーラムが開催するダボス会議のテーマとして「グレート・リセット」が取り上げらたからでした。この「グレート・リセット」というのは、今あるシステム、金融システム、社会経済システムなど、これらのシステムは第二次世界大戦の後に作られたものが多いのですが、これらのシステムをいったん全部リセットして、もう一度やり直そうという考え方です。特に、コロナになって、社会はこのままでは難しいという中で、新しい枠組みを作りなおそうということを考え始めている人たちが出てきているようです。

 私がこどもの頃、当時ファミリーコンピューターというテレビゲームがはやり出しました。このゲーム機には手前に、赤い「リセットボタン」というのが付いていまして、ゲームがうまく進められないと、「リセットボタン」を押して、ゲームを全部最初からやり直すということができました。ゲームがうまくいかないと、何度もこのリセットボタンを押してやり直したものです。

 考え方はこれと同じです。今の社会のシステムがうまくいかなくなったので、一度リセットボタンを押して、全部最初からやり直そうという考えを持つ人たちが出てきたのです。

 そういう世界のシステムをもう一度やり直そうという考え方は、以前からありましたし、このコロナや、ロシアがウクライナに対して始めた今回の戦争で、ますますそういう流れは進んで行くということが考えられます。

 今日の聖書の中に、「律法の目指すものはキリストです」という言葉があります。「この目指すもの」という言葉には、「目標」という意味と、「ゴール」という意味があります。神が、私たちに与えた律法、神の戒めは、キリストに向かっている、キリストによって完成するということです。

 これは、神の言葉は、キリストによって完成すると言い換えることもできると思います。目標をどこに置いているのか、そのゴールはどこか。そのことを見誤ってはならないのです。

 神の願っておられること、その中には当然経済も、政治も、教育も、そのすべてが含まれているはずです。そして、それらの目指すものは一体どこにあるのでしょうか。一部の人の利益につながるものだとすれば、それは争いの源となってしまいます。
 ここで、パウロは祈りをささげています。1節です。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

 ここで、パウロはまず「兄弟たちよ」と語りかけました。あなたがたは私の側にいる友だ、仲間だ、家族の一員なのだ。そのローマに住む、まだ見ぬ家族に対してパウロは願っていることがあるというのです。それは、ユダヤ人たちが救われること。これが、私の心のからの願い、祈りなのですとパウロは語り出すのです。 (続きを読む…)

2022 年 2 月 27 日

・説教 ローマ人への手紙9章24-33節「私たちを造られた主」

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2022.02.27

鴨下直樹

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 東海聖書神学塾が、すでに牧師となった人のための継続教育のための場としてアドヴァンスコースという学びを主催しているのですが、私は昨年の4月から、今年の3月までの一年間、この講師として教えることになっています。

 今は8名ほどの牧師たちが、この講座を受けておられます。そこで、牧師たちと一緒に、説教について一緒に学んでいるのですが、先週の月曜日のことです。

 この月一回の月曜のアドヴァンスコースの昼休みの時間に一人の牧師がこんな話をしました。教会に来られる方は、一週間仕事で疲れて教会にやって来る。多くの人たちが聞きたいと思っているメッセージは、信仰を持って歩んで行けば、神様が支えてくださってうまくいくから安心しなさいというメッセージだと言うのです。でも、そんな安易なことを聖書は語っていないわけで、教会の人が聞きたいと願っていることとは違うことを語らざるを得ない。そこに葛藤があるという話をしました。

 そうすると、そこにいる牧師たちが「分かる―その気持ち」と何人かの牧師たちがその葛藤について話しておられました。
「あなたのやっていること、考えていることで間違いない。神様はあなたの思う様にしてくださる」そういうメッセージをみな聞きたがっていると言うのです。

 みなさんも、この話に同意されるかもしれません。如何でしょうか。

 そういうことでいえば、パウロの手紙ももっと簡単な手紙ですんだのかもしれません。ユダヤ人も救われるし、異邦人もみんなまとめて救っていただけるから、安心してくださいと書くことができれば、こんなに回りくどい手紙は必要ないのです。

 今日、私たちに与えられている聖書は、さまざまな旧約聖書からの引用がなされているところです。この9章で、パウロは創世記から、アブラハムのこと、またその子孫であるヤコブとエサウのことを語ってきました。今度は、ホセア書とイザヤ書を引用しています。

 旧約聖書全体で語っている内容が、イスラエル人だというそれだけの理由で神の選びの民になるわけではないのだと知らせていることを論証しようとしているのです。

 こういういろんなところから、み言葉を取り出してくるというのは、やはり思い違いをしてはいけないので、わざわざ、いろんな箇所からみ言葉を持って来て、あそこにもこう書いてある、ここにもこう書いてあると論証しようということです。

 残念なことですが、なかなか単純な話には、ならないのです。

 今日は、9章24節からはじめました。前回の聖書箇所の最後の部分です。パウロは陶器師の話をしながら、陶器師である神は、自分の作る陶器を、特別なことのために使う陶器にも、普段使いのための陶器にも用いることができ、あまり出来が良くないので壊してしまうこともできる陶器をも、その愛といつくしみのゆえに、壊すことをしないで、大事にしてくださる。それが、あわれみ深い神のなさり方だと語りました。

 その神のあわれみのお姿を、今度はホセア書を引用しながら、語ろうというのです。

 ホセア書というのは、旧約聖書の最後に収められている12ある小預言書のはじめの書です。「ホセア」というのは「救わせた」という意味の名前です。

 このホセアは預言者として、北イスラエルの末期の時代に活躍した預言者です。ホセアは、主から姦淫の女ゴメルを妻に娶るように命じられます。かなり衝撃的なことです。姦淫の女を妻にしろと言うのです。この妻から3人の子どもをもうけます。一人目は「イズレエル」です。日本語の響きからしても「いずれ何かを得る?」という気がしますが、イズレエルというのは地名です。しかも、この後滅ぶことになる北イスラエルの地名を子どもの名前にするように言われるわけで、こうなると「いずれ得る」どころか、もう可能性がないという意味になってしまいます。

 その次に女の子が生まれます。この子ども名前は「ロ・ルハマ」という名前にするよう言われます。今度はなかなか可愛い名前の響きですが、意味は「ルハマ」というのは2章1節にあるように「あわれまれる者」という意味です。その前に「ロ」という言葉がつきます。この「ロ」というのは「否定」という意味で、「あわれまれない者」という意味になります。神にあわれまれることのない者という名前を子どもにつけるというのも、親からすればかなり残念なことです。けれども、ホセアは主の言われるままに、名前をつけます。

 その次にまた男の子が生まれます。今度の子どもは「ロ・アンミ」という名前です。「アンミ」は「わが民、わが身内」という意味ですから、ロがつくと「我が民ではない」「わが身内ではない」という意味になります。

 主は預言者ホセアに自分の子どもにこういう名前をつけることによって、神に背を向け続ける北イスラエルに対して、あなたがたは「あわれまれない者」、「わが民ではない」と呼ばれるということを語らせたのです。 (続きを読む…)

2022 年 2 月 20 日

・説教 ローマ人への手紙9章14-24節「あわれみの神」

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2022.02.20

鴨下直樹

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 今、ローマ人への手紙を順番に説いていく、いわゆる講解説教をしています。そこで、難しいのは、ずっと順番に話を進めていくわけですが、毎回どこかで話を区切らなくてはなりません。時間の関係もありますので、一度の説教で扱える分量を考えながら、切り分けていきます。けれども、そうしますと、魚の切り身でもそうですが、その切り取った部分だけを見ていると、それがどんな魚の、どの部分なのかということが分からなくなってしまうということが起こります。

 しかも、文章の全体で何を言っているのか分かるというものを細かく細かく切り分けてしまうと、いったいこの話はこの前はどんな話で、この後どう繋がるのかということも見えません。

 私も含めて、みなさんもそうだと思うのですが、前回の説教をちゃんと覚えている方はそれほど多くはない気がします。しかも、もう30回以上ローマ書を説いているわけですから、最初の頃のことなど、もうすっかり忘れてしまうというのが普通です。

 全体の話の流れから外れないように意識しながら、毎回短い箇所を選んで、パウロの話の進め方を思い起こしながら、今日の箇所では何が語られているかと分かるようにするというのは、なかなか至難の業と言えます。

 パウロはここで、神に対して不服従であるユダヤ人たちのことを、神はどう見ておられるのか、ユダヤ人は救われるのかどうかということを、語っています。その時に忘れてはならないのは、「人は信仰によって義と認められる」というこの手紙のパウロの主張する中心的な内容と、信仰があるようには思えないユダヤ人のことを、神は選んでいるというが、それは一体どういうことかという、この二つの理屈をここで解き明かそうとしているということです。

 そこで、ユダヤ人、アブラハムの子孫であるというだけで良いのかという問題に対して、神は自動的にオールOKにしているわけではありませんよということを、まず語っています。神からの約束が神の民には与えられています。この神の約束を受け取るという「信仰」の部分があるということをまず解き明かしているのです。

 そうすると次の問題が出てきます。神様は「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という部分が記されているのです。「神の選びには選ぶ神の側に主権というものがあります」ということを、この前のところでは語ったのです。ここまでが前回までの確認です。

 その続きが今日のテーマになるわけですが14節でこう言っています。

それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。

 簡単に言うと、「えこひいきがあるのではないか?」ということです。ヤコブのことを愛して、エサウは憎まれる。これは、旧約聖書を読むと、同じテーマが繰り返されます。アダムとエバの子であるカインとアベルからはじまります。イスラエルの十二人の息子、父親のヤコブ、あとで名前がイスラエルと変わりますが、イスラエルも、ヨセフという末の息子を可愛がりました。ここは不思議なことですけれども、神はこのヨセフをお用いになりますが、神が選ばれたのはヨセフや12番目の息子ベニヤミンではなくて、ユダだったわけです。

 こういう神のえこひいきとしか言えないような一方的な神の主権による選びのことを、この14節では「不正」と言っているわけです。選ぶ神の側に「不正があるのではないか?」と考える人があるかもしれない、それに対して答えようというのです。

 それに対して、パウロはモーセに対して語られた言葉を引用して答えます。15節です。

神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」

 この引用を読むと、パウロは14節で「決してそんなことはありません」と答えていますが、この答えを聞くと「あれ?これ、えこひいきはあるってことだよね?」ということになるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2022 年 2 月 13 日

・説教 ローマ人への手紙9章6-13節「私たちのための神の計画」

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2022.02.13

鴨下直樹

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 今日は、いつもと礼拝の様子がかなり違っています。いつもですと、目の前にみなさんが座っていて、皆さんの顔を見ながら説教をするのですが、今日は私の目の前に誰もいません。

 今回、急遽この礼拝をオンラインだけで行うということにしました。詳しいことはお話しませんけれども、新型コロナウィルスの影響で、今日はそうした方がよいと判断したからです。

 昨日の時点でそう決めておりました。いつも礼拝堂に来られている方は、自分の部屋でモニターを見ながらする礼拝というのに違和感を覚える方もあるかもしれません。あるいは、いつもオンラインの礼拝の参加の方は、zoomの画面に沢山の顔が並んでいるのを嬉しく思われるかもしれません。

 ただ、不思議なものですけれども、昨日今日の礼拝の準備をしながら、誰も教会に来ないのかと思うと、説教の準備になかなか力が入りません。説教を聞く、みなさんの顔を思い浮かべることができないというのは、こういうことなのかと、今さらながら感じています。

 パウロはこの手紙を書くのに、手紙を受け取る人たちの顔を知らないで書いているはずです。そう思うと、私も変な言い訳はできないなと思います。誰が聞いているかも、分からないのに、これだけの内容の手紙を書くことができるというのは、改めて凄いことだと感心します。

 特に、この9章から11章というのは、ユダヤ人たちの救いについて語っているところです。ローマの人たちにあてた手紙で、パウロが自分の同胞であるユダヤ人たちも、神から忘れられているわけではないと語る。どんな思いだったのだろうと考えます。ローマの人たちがどんな顔をして聞くことを想像したのだろうかと思うのです。

 8章までで、パウロは情熱的な思いで神の愛について高らかに宣言しました。この神の愛は、ユダヤ人に対しても、今も向けられ続けているのだということを知らせたい思いがあるのです。それを聞いたローマの人がどう思うかということよりも、神がどのようなお方であるのかを伝えることの方を、重要視したのではないか、と個人的に思います。神は、不従順なユダヤ人であっても捨てられる事はないのだと伝えることが、結果的に神を信じるということの意味を明らかにするからです。

 パウロはここでこれまでユダヤ人と書いてきた言葉を、この9章に入って「イスラエル」と言い換えています。イスラエルというのは、バビロン捕囚までの神の民を指します。捕囚の後は、捕囚の前にすでに北イスラエルと南ユダに分かれますが、帰還の後は北イスラエルは神の歴史からは姿を消していきます。そこからはもっぱらユダヤ人という言い方がなされます。けれども、パウロはここで、わざわざ「イスラエル」という言葉を使って、神の約束の民のことを、もう一度語ろうとしているのです。

 そこでまず、パウロは、「神のことばは無効になったわけではありません」と6節で語っています。神に対して不従順であったイスラエルに与えた約束を、神は無効にしたわけではないのだというのです。

 その後に続く言葉が「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです」と記されているのです。

 パウロがここで語ろうとしているのは、少し説明するのに苦しいところがあります。一方で、イスラエルは神の約束の民なので、イスラエルは神の救いにあずかるということを語りたいわけです。けれども、パウロは先の4章でも語っていますが、アブラハムの子孫だからという理由で救われるのではなくて、「信仰による義」と語っています。 (続きを読む…)

2022 年 2 月 6 日

・説教 ローマ人への手紙9章1-5節「大きな悲しみと痛みを越えて」

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2022.02.06

鴨下直樹

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 ローマ人への手紙も、今日から9章に入ります。この9章から、また新しいテーマで語られています。

 パウロはこの前のところで、神の愛を高らかに宣言しました。神の愛は、主イエスを信じて神の子どもとされ、義と認められた者を絶対に見捨てることはない。これが、神の愛の姿です。パウロが語る福音です。主イエスに贖われ神のものとされている人たちは、神に見捨てられることはない。これが8章の終わりでパウロが語ったことでした。

 ただ、パウロには大きな悲しみがありました。パウロはこの8章の最後の言葉を、痛みを抱えながら宣言したのです。というのは、神の民であるイスラエルのことを、ユダヤ人たちのことを、当然考えなければならないからです。

 パウロは異邦人に福音を語るように神から召しを受けました。パウロはもともと、ユダヤ人です。そして、キリスト者たちを迫害するほど、ユダヤ人たちが律法を大切にして生きるその生き方に誇りを覚えていた者の一人です。そのパウロは、主イエスと出会い、神の御心を知ります。神は、ユダヤ人だけでなく、すべての人を救いたいと願っておられることを知ったのです。そして、そのために神は、御子主イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架につけ、よみがえらせたことを知りました。それで、パウロは異邦人たちに、ユダヤ人を苦しめているローマの人々にさえ、福音を届けて、主イエスを信じるようになって欲しいと願う様になりました。パウロは回心した後、三度にわたって伝道旅行をします。パウロの伝道は成功して各地に教会が生まれます。異邦人たちがどんどん救われる姿をパウロは見て来たのです。

 そのようにして福音がローマにまで届けられて、ローマに教会が誕生します。そのローマの人々に、パウロはこの手紙を通して神の愛を高らかに宣言しました。神は、あなたがたを決して見捨てるようなことはなさらない。神は、あなたがたの味方。どんなことが起ころうとも、神の愛から引き離されることはないと。

 そうすると、その言葉はまるでブーメランのように自分自身に跳ね返ってきます。その言葉は本当か?パウロの同胞であるユダヤ人を見て、本当にそんなことが宣言できるか? 不信仰なユダヤ人、不従順なユダヤ人は神から見捨てられ、バビロンに支配され、アッシリアに侵略され、ギリシャ、ローマに支配されてしまっているのではないか。今や、神の約束の地であるイスラエルの土地すらも、ローマの支配のもとにあり、エルサレムにある教会もローマの顔色を窺っているのではないのか。そんな中で本当に、神はあなたがたを見捨てない、絶対大丈夫なんてことを言えるのか。言って大丈夫なのか。

 神の愛の宣言は、ユダヤ人にとっては痛みを伴う言葉でしかないのです。

 パウロはこのローマ人への手紙の9章から11章までの3章で、ひたすらこのテーマを扱います。テーマは、神の愛は、不従順な者でも本当に見捨てることはないのか、です。神はイスラエル人をどうなさるのか。それが、この3章のパウロのテーマです。

 この9章から11章までは、言ってみればこのローマ書の中で話がそれた、いわゆる脱線したテーマの話といえるかもしれません。ユダヤ人の救いというテーマはローマの人たちが聞きたかったテーマではないともいえます。けれども、この3章で扱っているテーマは、私たちにとっては、すぐに神の御心から離れてしまう弱さを持つ私たちにとっては、必要不可欠な箇所ということができます。

私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

 1節と2節でパウロはこのように語っています。

 パウロはずっとこの悲しみを抱えながら伝道してきたのです。自分の伝道で異邦人が救われていく度に、なぜ自分の同胞であるイスラエル人は回心しないのか。そういう悲しみです。

 この悲しみと同じ思いを多くの親は経験します。自分の子どもがどうして信仰に生きようとしないのか。子どもの頃は教会に行っていたのに。一緒に聖書を読み、お祈りもしたのに。今はまるで教会に行こうともしないし、聖書を開きもしない。息子は、娘は、夫は、妻はこの先どうなるのか。私の兄弟は、家族は、友達はどうなのか。

 不従順に対して、私たちはどう考え、どう祈り備えるのか。パウロと同じように、私たちも言うのです。

私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

 この痛みを知らない者はおそらくいないでしょう。愛を抱くものは、私たちの愛する家族が、愛する者が、神に対して不服従であることを、自らの痛みとするのではないでしょうか。 (続きを読む…)

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