・説教 ローマ人への手紙11章13-24節「神の慈しみと厳しさ」
2022.04.03
鴨下直樹
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最近、色々なところで「次世代」という言葉を耳にします。その前によく耳にしたのは「ポスト」ということばです。「ポストモダン」とか「ポスト安倍」というように、「その後」という意味で使う言葉です。
若い人を育てないといけないという、社会の焦りが、そういう言葉の中に見え隠れしています。
ここからは私の個人的な感覚なのですが、「次世代」という言葉を使いながら、次のリーダーを育てようという時に、私が感じるのは「本当に次世代に育って欲しいと願っているのかな」という疑問です。自分よりも若い人が、自分を追い抜いてリーダーになっていくことを受け入れる土台があるとは、あまり思えないのです。
今、ニュースで私たちはウクライナの大統領や、他の政府責任者が非常に若いことに驚きを覚えます。あるいは、もっと身近なところでいうと、ドイツのアライアンスミッションの代表になるような人たちも30代や40代で抜擢されることが珍しくありません。
自分たちよりも優秀な人が頭角を顕して来た時に、どうしてもそれを潰して、自分たちが残るということを、特にこの日本では、やっているのではないかという気がするのです。
それは政治家だけでなく、企業でも、教会でも同じような体質が多いという印象を、私は持っているのですがいかがでしょうか。
新しく良いものが出て来ても、それを受け入れていくにはまず周りを見て、様子をうかがって、みんなが受け入れているようなら、そろそろうちでも取り入れようかと検討を始める。追い越されていく方は気が気ではないのです。
ユダヤ人たちにとって、キリスト教とはまさにそういう相手でした。だから、パウロが異邦人に福音を宣べ伝えはじめて、勢いが増すにつれて、ユダヤ人たちはこの教会の勢いを何とか止めたいと思ったのは、よく理解できるのです。
その意味でパウロは、ユダヤ人たちの特質や、ものの考え方、伝統ということをよく知っていました。その上で、主イエスが語る福音の新しさを知り、その魅力にいち早く気付き、それを導入して次世代のリーダーとなった人物に違いないわけです。
しかし、パウロは同時に、自分もユダヤ人であり、ユダヤ人としてのアイデンティティー、誇りも持っていました。神のユダヤ人に対する変わらない愛の眼差しを知っていましたから、そのことを語る必要性を覚えていた人です。
そういう意味でいうと、「次世代」という声掛けで、上の人の造り上げた想像力の枠組みの中で、次世代が育つなんてことはなく、次世代の人は自分の才覚と実力で、その上の世代を乗り越えていくリーダーシップが必要なんだろうと、私は漠然と思うわけです。そして、そうやって出てきた人を、潰すのではなくて、受け入れる備えのようなものが必要になってくるのだと思うのです。
パウロは、ここで自分に課されているものが何であるかを、明確にしています。13節と14節です。
そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受け止めています。私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。
パウロはここで自分の役割と使命を語ります。自分は、神の福音を異邦人に語るのが、自分に与えられた働きであると言いながら、その結果、自分の同胞ユダヤ人を悲しませることになり、結果として彼らのねたみを起こさせて神に救われることを願っているというのです。
同胞のユダヤ人に対するパウロの愛が、ここで明確に告げられています。異邦人が救われるということは、彼らは神から捨てられることになる。けれども、その捨てられたはずのユダヤ人が、そこから立ち返る、それこそが復活の御業であり、神はユダヤ人をも復活させようと思っておられるのだと、ここでかなり大胆な宣言をしているのです。
このパウロの宣言を裏付けるために、パウロはひとつのたとえ話をします。まず語るのは16節です。これは、神に献げるささげ物を例にしています。穀物のささげ物のことがレビ記2章に記されています。穀物を献げる場合、その穀物の初穂を献げて、その残りの部分は祭司の取り分となります。この祭司の取り分となったものの方を、「最も聖なるもの」と言い方をします。神に献げる物は、聖なるものとなる。これは、神のものとなるということです。献げた物、祭壇で焼かれた物は、聖なるものとして神のものとなるのですが、残り物も聖なるものなのです。代表の部分が聖いと認められれば、その全体は聖いという考え方です。それに続いてパウロは、「根が聖なるものであれば、枝もそうなのです」と語ります。一部分の聖さは、全体の聖さだというのです。そして、これはこの後のたとえの導入になっていきます。
パウロはここで、今度はオリーブの枝になぞらえて、たとえ話をしていきます。枝を折られたオリーブの木に、野生の枝を接木する。これが、まさに異邦人のキリスト者の姿だというわけです。もともと、野生であったものが、接ぎ木されてオリーブの実を実らせる。けれども、根も、幹も、それはすでに備えられているのです。
だから、接ぎ木された野生の枝であるキリスト者は、その源であるユダヤ人を軽んじることはできないのだということをパウロはここで明らかに宣言するのです。
先週、私はインターネットで古書を見つけて購入しました。アラン・ウンターマンという人の書いた「ユダヤ人-その信仰と生活」という本です。この本は、ユダヤ人の信仰、その宗教儀礼や慣習、ユダヤ人の宗教行事、ユダヤ人の家族やコミュニティーといったまさにユダヤ人の歴史や伝統や、信仰や習慣を説明してくれる本です。この本の最後の章にユダヤ人とキリスト教との関係のことが書かれていました。西洋のキリスト教社会がどれほどユダヤ人たちを迫害して来たか、その歴史が記されています。
私は普段、キリスト教の側からのものしか読みませんし、私が知っているのは聖書の時代に限定されるのですが、この後の2000年の間、ローマがキリスト教を認めて国教としてからは、ユダヤ人とキリスト者の立場が入れ替わっていきます。そして、西欧のキリスト教社会は、ユダヤ民族のことを「イエス殺し」の犯人として批判し続けていくことになるわけです。私たちは、本や映画などを通して、長い歴史の中でユダヤ人たちがどれほど厳しい迫害を受けて来たかを、少なからず耳にすることがあると思います。ただ、この本のようなユダヤ人の立場から書かれたものを目にすると、キリスト教会がいかにしつこく、ユダヤ人たちを蔑んで来たのかをほとんど知らなかったということに気づかされます。また、どこかで、そこまでひどいことはしていないだろうと思いたい衝動があることに、自分でも気づかされるのです。
パウロは、ここではっきりと語ります。後から接ぎ木されたキリスト教が、その幹であるユダヤ教を、ユダヤ人たちを、ないがしろにすることはできないし、自らを誇ることもできないのだと。
19節20節です。
すると、あなたは『枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。
確かに、私たちは信仰によって立っていますし、ユダヤ人たちはその不信仰によって折られたのです。だとしたら、そこで私たちが抱くのは、自分を誇ること、思い上がることではなく、恐れることだとパウロは言うのです。パウロは、このまだキリスト者とユダヤ人の立場が逆転する前から、まだキリスト者が迫害される側の立場の時から、ユダヤ人たちを見下してはならないと言い続けているのです。
22節。
ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神の慈しみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。
パウロはここで神の慈しみと厳しさを見よ! と投げかけています。私たちはこの言葉の中にある神の両面を知るよう求められています。神の選びの民であるはずのユダヤ人は、まるで枝が折られるようにされるという事実に目をとめる必要があります。そこから私たちに問われるのは、私は大丈夫だとあぐらをかいてはいられないという一面に目をとめるのです。
私たちがそこでまず見るべきは、神の慈しみです。神が、どれほど私たちのことを愛してくださるかということです。この神の愛に触れて、私たちは神の救いに与ったのです。そして、それと同時に、この愛から来る厳しさがあることも、私たちは忘れてはならないと言うのです。親が愛する子に厳しくするのは、そこに愛があるからです。愛していない者に、厳しくはしないものです。愛がないところにあるのは無関心だからです。ここでパウロは、神の愛の厳しさという一面をも、しっかりと見据えて語るのです。
ただ、そうすると、私たちが分からなくなるのはローマ書8章で語られていた、「神の愛から私たちを引き離すことはできません」というあの宣言はどうなってしまうのかということです。8章の非常に強い言葉で、絶対に見捨てない神の愛をパウロは語りました。このような神の愛があるのに、切り捨てられるとはどういうことなのでしょうか。
「聖徒の堅忍」という言葉があります。主の聖徒、主の信仰に生きる者の信仰は堅く守られるという信仰です。これは、宗教改革者カルヴァンから出て来た言葉です。そのカルヴァンはこのところで、こう言っています。「あなたはへりくだって神の憐れみを受け取るのでない限り、この救いを不動のものとして持つことができない。そして、あなたが生きている間、絶えず神の召しを求め、保つようにするのだ。というのは、一度だけ恵みを頂いて、受け入れたというだけでは不十分で、一度主によって照らされたのであれば、常に保つように考えるべきだ」
カルヴァンは、ここでこう言っているのです。一度救われたら、神の救いはその人に永遠に留まっているから大丈夫だなどとは言っていないのです。神が救ってくださったその召しに応答して、追い求める必要があると言っているのです。単純に、一度洗礼を受けたら、もう安心していいですよということを、カルヴァンは語ってはいないのです。
私たちは、神の慈しみと、厳しさを見る必要があります。ただ、私たちはつい、厳しさに目がいってしまいやすいのです。神は、慈しみ深いお方です。神の愛は、私たちから切り離されることはありません。それは、パウロが8章で語っている通りです。
私たちが覚える必要があるのは、「神の厳しさ」というと、神から捨てられたかのように捉えてしまうということです。しかし、切り捨てたのは、果たして神の方からなのかということをもう一度考える必要があります。離れて行くのは、神の方ではなくて、むしろ私たち人間の方からなのです。そして、それは、イスラエルの民も例外ではありませんでした。
そこで、私たちに求められるのは、この神の愛に、自分自身で応答していくということです。自分の信仰で立つことです。そこでは誰かが代わりに、その信仰に生きることはできません。たとえば親が代わりに子どもの信仰に立つことはできないのです。親ができるのは、子どものために必死に祈ることのみです。神の御支配を求め続けるのが親の愛でしょう。自分で、主を知り、主と出会い、主の救いに与る。そして、主の太い幹に接ぎ木されることを私たちは求めるのです。その時、その接ぎ木された私たち、洗礼を受けた私たちは、その根から栄養をいただき、その幹を通って、豊かな養分を頂くことができるのです。
私たちは、ユダヤ人というその神の民の幹の部分があって、今枝として結び付けられているのです。そこに結びつけられたのは、自分が秀でているからではありません。ただ、神の慈しみのゆえです。神の慈しみを知って、私たちはキリストという、神の備えられた太い木に、接ぎ木されたのです。
接ぎ木する。これは洗礼を受けるということです。私たちは神の慈しみを知り、洗礼を受けて、今、この教会に加えられています。ここに加えてくださった神は、私たちのことを、とても愛してくださっています。この神は、今もここに加えられていない、私たちの家族や、友人、まだ神に逆らい続けている人、ユダヤ人にもその慈しみの眼差しを注いでおられるのです。大切なことは、この主の慈しみのまなざしに気づくことです。思い起こすことです。
今から聖餐にあずかります。これは、まさに、オリーブの根から豊かな養分を頂くようなものです。キリストの血潮を頂き、キリストの体を頂くということです。キリストが私たちに与えられていることを、共に喜びたいのです。聖餐は、私たちに神の慈しみを思い起こさせる確かな恵みなのだということを、今日共に覚えたいのです。そして、同時に、神の厳しさに目をとめたいのです。そのために、この人々が、再び接ぎ木されることができるように、共に聖餐に与ることができるようになることを覚えて祈りたいのです。
どうか、十字架とよみがえりのキリストを知ることができますようにと、祈り続けていきたいのです。
お祈りをいたします。