2022 年 4 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙11章25-32節「賜物と召命」

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2022.04.10

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日から受難週に入ります。七本立てられております蠟燭も、ついにこの一本だけになりました。このレントの期間、私たちは主イエスがご自分のいのちを少しずつ削るようにして、私たちにご自身のいのちを与え尽くしてくださったことを見続けてきました。この蝋燭は主のいのちの尽きていく姿を見える形で表現しているのです。

 そして、まさにこの受難週を迎える今日、私たちはローマ書11章の結びの箇所のみ言葉を聴こうとしています。ここに記されているのは、信仰の奥義だとパウロは言っています。
25節。

兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。

 パウロはここで、ユダヤ人の救いのことを語り続けています。それが、9章から11章まで続いています。ユダヤ人が救われるのかどうか。ユダヤ人は神に逆らい続けたために、神の福音は、ユダヤ人から異邦人へと向けられて、その結果、異邦人たちが信仰に入れられるようになったという現実がありました。ユダヤ人たちが神に不従順であったために、外国人である私たちが、神の救いに与かることができるようになったのです。

 そして、パウロは実はここに、神の奥義が隠されていると言っているのです。

 ここで問われているのは、神に対して不従順な者に対して、神がどうなさるのかということです。普通に考えていけば、神に不従順な者は、神から捨てられて裁かれる。裁きを受けると考えるのが普通です。神様の見ておられるところで悪いことをすれば罰が当たる。これが世の常です。お天道様は見ておられるというわけです。

 ところがパウロは、ここで、ユダヤ人が神に不従順であったために、異邦人が神のあわれみの眼差しにとまって、異邦人が救われるようになった。けれども、神のユダヤ人に対する選びはなくなったのではないのだと語っています。

 それで、29節。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。

と宣言するのです。

 神の「プランA」はユダヤ人を救って、このユダヤ人をモデルにして、世界中に神様のことが分かるようにさせようという計画でした。しかし、この「プランA」はダメになりました。ユダヤ人が神の期待を裏切ったのです。そこで、「プランB」に変更されました。それが、今度は異邦人を救いに導いて、神の人間に対する愛を、世界中に知らせようというものです。普通は、そうなったら、「プランA」はもう破棄されたものと考えるのですが、「神の賜物と召命は取り消されることがない」とここでパウロは言うのです。「プランA」は無くなったわけではないというのです。

 もう少し先を見てみましょう。パウロは30節と31節でこう言っています。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

 ここで言う、「あなたがた」というのは、私たち異邦人のことです。私たちは神に不従順であった。そこからいえば神の目にとまるはずもない存在なのですが、「彼ら」、ユダヤ人が不従順であったために、神のあわれみを受けるようになった。

 ここに「不従順」という言葉と「あわれみ」という言葉が出てきます。実は、この二つの言葉が、パウロが奥義と語っている神の深いお考えの中身の正体なのです。

 「不従順な者をあわれむ」。この言葉は、私たちの日常の生活の中で、まず起こり得ない感情であり、現状です。

 願っていることを行わない。期待に応えてくれない。そこから生まれる私たちの気持ちは一体何でしょう。自分を信頼してくれないのです。自分の思いに応えてくれない。何かを頼んでもやってくれない。期待するだけ無駄。信頼するほど悲しくなるのです。そこで起こるのは、怒り、苛立ち、敵意、あるいは悲しみや、諦めです。

 ところが、神はその時に「あわれむ」というのです。

 32節の最後にこう記されています。

それは、すべての人をあわれむためだったのです。

 これが、神の奥義だとパウロは言うのです。

 はっきり言って、誰にも理解できないことです。というのは、自分のことを完全に横に置いておかなくてはならないからです。傷つくのは、神なのです。裏切られているのは神ご自身なのです。その神を裏切り、神を苦しめている当の張本人を、神はあわれんでくださるというのです。

それは、すべての人をあわれむためだったのです。

 自分のことを横に置いておける。ここに愛があるのです。

 
 先週、一冊の本を頂きました。籠原あきという名前で春秋社から出された小説で『あなたはどこにいるのか』というタイトルの本です。もう、読まれた方があるでしょうか?

 私も読み始めたら、面白くて一気に読みました。すぐに引き込まれて読んでしまいます。言葉の持つ力の素晴らしい小説です。中国、満州からの引き上げの時の話から始まります。その時、母親が、大変苦労をして子どもたちを、日本に連れ帰ってくれたことが、この物語の下敷きとなっています。主人公はその時三歳半の万里子といいます。しかも母親は満州で赤ちゃんを産んだばかりです。そんな中で、ソ連の侵攻が進んで、そのために満州にいた人々は、突如として難民となります。

 周りの人は、自分の子どもを手放して、食べ物に替えていく中、万里子の母親はそれを横目に子どもを守り続けます。兄の病が重くなり、ついには、日本に帰れないとなった時、母親はその土地の老人の妻となって、子どもを生き延びさせようと決断します。その母親の壮絶な姿が描き出されています。

 足手まといの三歳半の万里子に注がれた母親の愛は、まさにこの聖書に記されている不従順な者をあわれむ、奥義とさえ言われている福音の姿と重なります。

 この小説は、まさにこの時の万里子が、その生涯をかけて、その母親の愛を受け止めようとした物語と言っていいと私は思いました。

 不従順な者をあわれむ。それは、人の理解を超えた出来事です。家族の、母親の愛であったとしても、それはその生涯をかけてでも受け止める価値のあるものなのだとしたら、神の、私たちに対する愛を、わたしたちはどのようにして受け止めることができるのでしょう。

 「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです」というこの言葉が、今日のみことばの真ん中に記されています。

 神は、不従順な者であったユダヤ人に、賜物と召命を与えておられたのです。いのちと使命と言い換えてもいいのかもしれません。神は、一度与えたものを、簡単に取り上げたりはされないのです。そして、簡単に諦めたりもされないのです。

 今週、私たちは受難週を迎えます。今週、金曜日には、受難日の礼拝をしようとしています。主イエスが、その生涯で示された受難は、まさにこの神のあわれみの姿そのものでした。主イエスの十字架のお姿は、神の私たちに対するあわれみが、形となって示された時でなくてなんでしょう。

 なぜ、私のために、神は、主イエスはここまでなさる必要があったのか。もう、こいつは役に立たないから途中で捨てて行こうという決断もできるはずなのです。この者のために、ここまでやる価値があるのかと思われても仕方がないほど、私たちは神に対して不従順な存在でしかないはずなのです。

 愛し甲斐がない。神にとってメリットもさほどない。どのくらいその後に役にたつかなどと言い出したら、全くもって当てにはできない人間です。

 いや、私のことを見くびらないでいただきたい、と思われる方もあるかもしれません。私だってやるときはやりますよ、という方もあるでしょうか。もし、そうなら、ぜひ、出来る限り、その後の人生を、神に納得していただけるまで応えてくださればいいと思うのです。私たちが、どのくらい応答するかというのも、完全に私たちに任されています。

 あまりこの先は話さないので、たまにはお話ししようと思うのですが、コリント人への手紙第一、第三章11節から13節にこう書かれています。

だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

 私たちがどのようにこの神の愛に応えたかは、その上に何を建て上げたかで分かる。それはかの日に、明らかになるとあります。

 私たちがどう生きたか、どう応えたかは、私たち自身に託されています。金の家を建てるのか、わらの家を建てるのか。もちろん、やがてそのことが問われるとありますけれども、それは、条件ではありません。それは、私たちの完全に自由な応答です。

 これが、神のなさり方です。言うならば、私たちに対する先行投資です。ただ、これは、今日のテーマではないので、このくらいにしておきたいと思います。

 神は、私たちのすることに先立って、私たちに愛を示してくださるのです。豊かな恵みをお示しくださるのです。不従順なものを憐れむという、まさに奥義を示してくださるのです。これが、主イエスの十字架です。

 私たちは、この主イエスのしてくださった御業が、私たちを救うためであったと受け止める時に、私たちに賜物として信仰が与えられます。それは、聖霊の御業です。そして、私たちに賜物として与えられた信仰に生きることができるよう、私たち一人ひとりに役割を、使命を、与えてくださいます。自分に与えられたところに生きること。神を証しすること。神を喜んで生きること。それが、私たちが土台の上に築き上げる建物となっていくのです。

 私たちに与えられた賜物と召命は、取り消されることはありません。私たちは神に与えられたもので生きるのです。この私たちの応答の歩みこそが、神の憐れみにお応えするただ一つの道なのです。

 お祈りをいたします。

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