2021 年 1 月 24 日

・説教 詩篇119篇1-8節「幸いな人」

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2021.01.24

鴨下 直樹

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 今日から詩篇119篇のみ言葉を丁寧に聞いていきたいと願っています。この詩篇はアルファベットの詩篇となっていまして、アルファベットの頭文字が詩の冒頭に来るように作られています。ヘブル語のアルファベットは22あります。それが八節ずつの区切りで、全部で176節となっている非常に長い詩篇です。

 毎回、アルファベットの一つ、つまり8節ずつを取り上げていきたいと思っていますので、単純にこの詩篇のみ言葉をすべて取り扱うには22週間かかるということになります。

 今、水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」という学びをオンラインで公開しています。そこでは一つの書簡を一回で取り上げていますから、同じようにすれば、一度でこの詩篇119篇を取り扱うこともできます。けれども、とても豊かな内容ですので、ぜひ、この機会に丁寧に、詩篇119篇のみ言葉の豊かさを共に味わいたいと願っています。

 詩篇119篇全体のテーマは「神の言葉への愛」と言っていいと思います。

 神の言葉、神の戒め、律法、色んな言い方ができると思いますが、この詩篇には、この神の言葉である律法のことを、実にさまざまな言葉で言い換えています。
今日の1節から8節の中にも、「道」、「みおしえ」、「さとし」、「戒め」、「仰せ」、「おきて」、「さばき」と七つの言葉で言い換えられていますが、そのすべては、神の言葉、直接的には律法のことを言い換えているのです。これが、この詩篇119篇の特徴です。

 その一つ一つの言葉の意味は、少しずつ触れていきたいと思いますが、今日特に覚えたいのは、この最初の言葉です。

幸いなことよ
全き道を行く人々
主のみおしえに歩む人々。

 この詩篇は、この冒頭の言葉が176節全体の導入になっています。この詩篇が語ろうとしているのは、詩篇冒頭の1篇の一節にも出てくる「幸いなことよ」で始まっている言葉です。直訳するとすれば「幸いな人だ」ということになります。この詩篇にかぎったことではなくて、聖書全体が人の幸いを語っていると言えます。

 こういう人は幸せ者だ! と宣言するのです。それだけ力強く言いうるのは、主は人を幸いにしてくださるお方だからです。主は、私たちに幸せになって欲しいと願っておられるのです。そのお方が私たちの主なる神なのです。

 その後にはこう記されています。「全き道を行く人々」と。この世界に完全な道などどこにあるというのでしょうか。私たちは今週、宣教40周年を迎えました。この40年の道のりは決して平坦な道のりではありませんでした。今尚、困難な道を歩み続けています。

 けれども、私たちは知っています。自分たちが歩んできた道を振り返ることを。その時、険しかったはずの道が、これが正しい道だったのだという事を後になって私たちは気づかされるのです。私たちの歩む道というのは、何度も道が途切れそうになったり、何度も横道にそれそうになったり、右や左に大きく逸れてしまうようなこともしばしばです。そして、これから歩んでいく道のりもそれは同じことです。歩行者天国のように、整えられて、危険なものが入り込まないような道を私たちは歩んで行けるわけではありません。険しい道です。きつい坂道もあるでしょう。けれども、主が私たちに備えられる道には、その道を進むための「地図とコンパス」が与えられているのです。

 それこそが、「主のみおしえ」である神の言葉がもたらすものです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 17 日

・宣教40周年記念礼拝説教 詩篇100篇「感謝の歌を!」

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宣教40周年記念礼拝

2021.01.17

鴨下 直樹

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(礼拝前半)証し:赤塚尚武


 

(礼拝後半)説教:鴨下直樹


 
 芥見キリスト教会の皆さん、宣教40周年おめでとうございます。

 1981年1月18日の礼拝からこの教会の宣教は開始されました。先ほど、芥見教会の最初の受洗者であるAさんが証しをしてくださいましたが、そこでお話しされたように最初の礼拝に集われたのは、Oさん夫妻とAさん夫妻、そして今は高山にみえるIさんご夫妻と学生の7名だったそうです。

 その時から、今週で40年を迎えました。本来でしたら、これまでこの教会で労してくださった先生方をお招きして、特別な記念礼拝をしたいところですが、今はコロナウィルスのために、大きなお祝いをすることもできません。それどころか、先週からこの岐阜県でも緊急事態宣言がだされていまして、この場に集って礼拝をすることを控えておられる方もいるという状況です。

 そう考えてみれば、芥見教会の40年の歩みというのは、荒野の40年であったということができるのかもしれません。30周年の時にもお話ししたのですが、この教会はこれまで、最初の宣教師であるストルツ先生、そして宮園先生、飯沼先生、脊戸先生、浅野先生、後藤先生をお迎えし、私で7人目の牧師ということになります。30年で7人の牧師というのは、かなり多い方です。その間、きっとみなさん色んな思い出や経験がおありになると思います。

 この40年の間、芥見教会は実に豊かな経験を与えられてきました。そして、イスラエルの民が、荒野を40年さまよいながら主に導かれてきたように、この教会も主に導かれてきた40年であったということができます。

 イスラエルの民は40年ですべての世代が入れ替わりました。けれども、本当に幸いなことですが、芥見教会のほとんどの方々が、今日まで代替わりすることもなく、こうして40年のお祝いをすることができるということも、本当に感謝なことです。

 神の民は、主との契約に生きる民です。主は、その民に約束を与えてくださいました。あなたがたを約束の御国に招き入れ、そこで子孫繁栄の約束を頂いたのです。この約束は、今も変わることはありません。

 神の民であるイスラエルは、約束を与え、果たしてくださる主なる神さまに感謝をささげる歌として、この詩篇100篇を賛美してきました。この詩篇には、神の約束に生きる民にとって大切なことが歌われています。

全地よ に向かって喜びの声をあげよ。

 この詩篇は主の御前に感謝をささげる賛美の歌です。その内容は喜びと感謝に満ちています。命令形で書かれていますけれども、この言葉には嫌な響きはありません。主は喜びと感謝を創造してくださる主だからです。

 この詩篇は、冒頭の1節から7つの命令形の言葉が続きます。
「喜びの声をあげよ」
「主に仕えよ」
「御前に来たれ」
「知れ 主こそ神」
「賛美しつつ大庭に入れ」
「感謝せよ」
「御名をほめたたえよ」

 この七つの命令形の言葉の中に、約束に生きる主の民が、何を大切にしてきたのかが、全て語られています。主を喜ぶこと、主に従う事、主の御前で礼拝をささげること、主を知ること、御前で賛美すること、感謝すること、主の御名をほめたたえること。

 この七つの命令形の言葉の主語はすべて「あなたがた」です。つまり、私たちに期待されていることです。

 そして、この七つの言葉はすべて、礼拝と深くかかわっている言葉です。主を礼拝すること。これこそが、主の民の最大の使命であり、私たちの務め、責任なのです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 10 日

・説教 詩篇144篇「わが岩なる主」

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2021.01.10

鴨下 直樹

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 今年も、しばらく詩篇のみ言葉を聴き続けていきたいと願っています。

 今日の詩篇は、「王の詩篇」と呼ばれる詩篇の最後のものです。この詩篇の祈り手は、王さまの立場で記されているのです。またこの詩篇は詩篇の18篇がもとになって書かれました。今どきの言葉で言えば、詩篇18篇をリメイクしたのです。詩篇18篇の王の詩篇に影響を受けて、詩人が自分でも作ってみた。そんな内容です。

 表題には「ダビデによる」と書かれていますが、ダビデ作というのではなくて、「ダビデによせて」というような意味だと思っていただけるとよいと思います。

 ただ、とても興味深いのは、ギリシャ語の七十人訳の方では「ゴリヤテに対して」とか「ゴリヤテと戦う」という意味の言葉が表題に付加されています。この詩篇を作った人は、ダビデがゴリヤテと戦う時のことを思い返しながら、この詩篇を作ったと考えられたようです。

 そんなことを少し心に覚えながらこの詩篇の言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 この詩篇は「わが岩なる主」という呼びかけの言葉ではじまります。

 みなさんは、お祈りをするときに、「わが岩なる主よ」と呼びかけて祈ったことがあるでしょうか? 祈りは、私たちが主をどのように呼びかけるかということが、とても大切です。どういうお方に祈ろうとしているのか、この呼びかけに、私たちの信仰の姿勢や、その後の祈りの内容がすべてかかってきます。この詩篇にならって、私たちもお祈りをするときには、すぐに祈りはじめるのを少し待って、はじめに主をどのように呼びかけたらよいのかを少し考えて祈ってみるとよいかもしれません。

 「岩」というのは、どんなイメージでしょうか。

 私たちの生活の身近に、「岩」はあまりないかもしれませんので、私たちがお祈りするときに、神さまのことを「岩」にたとえるというイメージはなかなか湧いてこないのではないでしょうか。

 「岩」は人が簡単には動かすことができないものです。昔からそこにあり、それを自分たちの都合で取り除くというよりは、その岩があることを前提に考えていかなければなりませんでした。ずっとそこにありつづけるもの。変わらなく存在するもの。それが、岩のイメージです。

 年末に下仁田教会に奉仕に行ったとき、川沿いの道を走っていると、「夫婦岩」という看板がありました。見てみると、それほど大きくはないのですが、二つの岩がそれぞれ寄りかかって支え合っている岩が、川の真ん中にありました。川があふれることがあっても、ずっとそこに有り続けるから、看板まで出してあるのだと思うのです。岩というのは、そのように、いつも変わらず、そこにあるのです。そんな岩のイメージと主なる神のイメージがそこで重なっているのです。

 何があっても変わることなく、周りに惑わされることもなく、いつも変わることのないお方が、私たちの主なのだと祈っているのです。そういうお方に、この祈り手はこれから祈ろうとしているのです。

わが岩なるが ほめたたえられますように。

という言葉の後にはこういう言葉が続きます。

戦いのために私の手を
戦のために私の指を鍛えられる方が。

 岩である主が、私の手と指に戦いを教えてくださるというのです。

 岩と格闘するというのは、普通はあまりイメージできません。ただ、最近はそうでもないのかもしれません。今世間を騒がせている「鬼滅の刃」というアニメがあります。その主人公の竈門炭治郎は、最初の修行で、岩を刀で断ち斬るというところから始めるのですが、もちろんそれは、この聖書がベースになっているわけではないと思います。この漫画の主人公の炭治郎は、その修行で岩を斬ってしまうのですが、普通は斬れません。だから漫画になるわけです。ただ、絶対的に不可能だと思えるものに挑み続けることが、自分を強くしてくれるという表現があそこには込められているのでしょう。

 そう考えれば、岩なる主が私の手や指に戦いを教えてくださるというイメージも理解しやすくなるかもしれません。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 3 日

・説教 ルカの福音書6章36節「憐れみ深く生きよう!」

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2021.01.03

鴨下 直樹

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「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 今年のローズンゲンによる年間聖句は、このルカの福音書の6章36節のみ言葉です。この一年、この御言葉を心に留めて歩みたいと願っています。

 今、まさに世界に求められているのは、この御言葉に尽きるのだと思うのです。昨年、私たちは大変な一年を過ごしました。そして、その大変さは今年一年も続くだろうと考えられています。新型コロナウィルスの拡大は、この冬になってますます広がっています。もう、私たちは「未曽有の危機」とか、「緊急事態」という言葉さえも、あまり危機感を感じないほど、耳慣れしてきています。

 人と人とが顔を合わせて会話するという、この当たり前の人とのコミュニケーションが禁止されているのです。入院している家族との面会も許されていませんし、老人ホームのような施設でも家族の面会が禁止されています。

 人を愛している、大切にしているということを伝える手段が奪われてしまうような、そんな生活を、私たちはなおもし続けていなければならないのだというのです。

 そして、それは、権力を持っている誰かが、禁止しているというのでもないのです。自主的にそうするように要請されているのです。

 そんな中で、私たちはこの御言葉をこの一年の聖句として与えられているのです。

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 私たちが、何よりもまず、心にとめなければならないのは、私たちの父なる神は、「憐れみ深いお方である」という事実です。

 主は、この憐れみ深いというご自身の性質を、主イエスを通して、私たちに示してくださいました。

 ルカの福音書の第6章というのは、マタイの福音書で語られている山上の説教と呼ばれる内容と、似ているのですが、ルカの福音書では6章の17節で「イエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。」と書かれていまして、そこでなさった説教が記されているところです。それで、「平地の説教」と一般に言われているところです。

 そこで、主イエスは弟子たちに、また主の教えを聞きたいと思って集まって来た人々に、説教をされました。特に、この部分は6章26節から36節では「愛すること」が語られています。そこで語られているのは、敵を愛することと、与えることです。

 愛するというのは、観念なのではなくて、具体的な働きとなって示されるのです。敵を赦すこと、そして、与えることが、愛することだと言っているのです。

 主イエスの敵とはいったい誰のことを指しているのでしょう。単刀直入に言えば、それは、私たちのことを指しています。

27節、「憎む者たちに善を行いなさい。」
28節、「あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。」
29節、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」
30節、「求める者には、だれにでも与えなさい。」
31節、「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」

 主イエスが語る、人を愛するというのは、こういうことだと続けざまに語られています。これを、聞いていた人々はにこやかな顔のままでは、この言葉を聞くことはできなかったと思います。私たちにしてもそうでしょう。

「悪には悪で報い、愛には愛で報いる」というのが、私たちの世界の常識です。そして、それは、キリスト者であってもほとんど例外なしに、同じような感覚で生活してしまっていると思うのです。

 しかし、父なる神はそれを、私たちにしたのだというのです。そのことが、私たちに明確に示されたのは、あの、主イエスが十字架にかけられる前のゲツセマネの祈りの姿で、私たちはそのことを心に刻むことができます。敵を愛するということが、どれほど厳しいことなのかが、あの時の主イエスの姿の中に示されています。

 自分の敵のために、自分を傷つけてくる人のために、自分自身を与える、それが愛するということなのだということを、主イエスはあのゲツセマネの祈りを持って、私たちに示してくださったのです。それが、どんなに苦しいことなのか、どれほどつらいことなのか、まさに、愛するといことは、苦痛と困難を祈りによって乗り越えた先にあるものなのだというのです。

 「憐れみ深く生きよう!」という説教題をつけました。

 これが、この一年、主から私たちに託された宿題です。それは、とてつもない困難な課題です。

 そのために、祈るのです。そのために、お互い支え合っていくのです。そして、そのことができるようになるためには、あなたがたの父の憐れみ深さを知ることが何よりも重要です。

 その人のことが好きとか、嫌いとか、私たちの持つ感情に目を向ける時に、それは何に根差しているのかをよく知る必要があります。その判断を下しているのは、自分自身です。そして、そこにあるのは、自分自身の正義という判断が働いているはずです。もちろん、そこにはさまざまな苦い経験があるのかもしれません。これまでに、どれほど犠牲を払ってきたか分からないという部分があるのかもしれません。

 しかし、愛するのは、感情ではないのです。意志です。そして、その意志というのは、神のご意思なのだということです。神がそう願っておられる。そして、その神の意志は、私を愛するということのために費やされた意志でもあるのです。そして、この神の意志の背後には、神の正義があるのです。

 神が、その人を愛したいと願っておられるという、事実が、神の正義が私たちの意志を支えるのです。私も愛そうという思いを支えるのです。

 私たちの主は義なる神です。たとえ敵であったとしても、その人を義としたい、その人をよしとしたい、その神の思いがそこにはあるのです。

 私たちの父なる神は、あわれみ深いお方です。そして、そのお方は、その憐れみを、まず、何よりも私たちに示してくださいました。そして、今度は、私たちから、私たちの周りの人たちに示されることを願っておられます。

 私たちが愛を示すのはもちろん、敵のような人ばかりではありません。家族にも、友人にもそうです。教会の中でもそうです。私たちの周りには、強い人もいるでしょう。弱い人もいます。心寄せる人もいれば、苦手だと思う人もいます。主は、私たちに憐れみ深さを示すことを、その人たちを愛することを求めておられます。

 この主のご意思が、私たちを通して示される一年となることを私たちは祈り求めて生きたいのです。

 お祈りをいたします。

2020 年 12 月 27 日

・説教 イザヤ書41章1-10節「恐れるな、私はあなたとともにいる」山田健長老

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2020.12.27

山田健長老

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2020 年 12 月 24 日

・聖夜燭火礼拝説教 ルカの福音書1章26-38節「お言葉どおりこの身になりますように」

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2020.12.24

鴨下 直樹

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 今日、私たちに語り掛けられている言葉はこういう言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。」

 スマートフォンでインターネットの記事を読んでいると、突然、「おめでとうございます。」という画面になって、よく読んでみると、「アイパッドが、あなたに当選しました。」という画面が突然現れたことがあります。そうすると、私はすぐにその画面を消して、検索をかけます。「アイパッド、当選」と検索しますと、すぐに「当選詐欺」という情報を見つけることができます。

 今から20年も前のことですが、当時はFAXでしたが、シェル石油のゼネラルマネージャーを名乗る人からのFAXでした。私と同じ苗字の、シェルのナンバー2の方が家族で事故にあってしまい、その莫大な遺産、たしか何千億円だったかという金額が書かれていました。そのお金が、もうすぐ政府に没収されてしまいます。そのため、誰かにこの遺産を引き継いでもらいたい。あなたはたまたま同じ苗字なので、あなたにその権利を差し上げたいので、銀行口座と名前、そして、暗証番号をFAXして欲しいという内容のFAXがナイジェリアから届いたことがあります。

 なぜ、暗証番号が必要なのかと思うわけです。不思議なもので、詐欺だとすぐに分かるのですが、少し夢があります。一瞬そんなにお金貰ったらどうしようかなぁなどと考える自分がいます。

 私たちはこの「おめでとう、恵まれた方」という言葉ほど、今日うさん臭い響きの言葉はないということを知っています。

 しかし、私たちはこのクリスマスに改めて、この言葉を聞きたいのです。

「おめでとう、恵まれた方。」これが、クリスマスの出来事の神からの最初のメッセージだったのです。

 今、私たちはそれぞれに、さまざまな異なる状況を抱えて生きています。誰もが、嬉しい思いで毎日生活しているわけではありません。今年、とりわけ今年のクリスマスは、世界中が闇に覆われた年のクリスマスだと言えると思うのです。

 この世界中に爆発的に広がっているウィルスのために、経済が停滞しています。外出自粛がまた叫ばれています。病院はひっ迫し、適切な医療を受けられない方々が沢山います。今、病気の人たちがいます。家族とこの年末年始も会うことができない人もいます。経済的にとても厳しい人たちも少なくありません。将来の姿が描けない中で、私たちは今、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

 そんな中で、何が「めでたい」と聖書は語ろうとしているのでしょう。不安しかない、押しつぶされそうな思いの中で、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

「おめでとう、恵まれた方。」

 何もおめでたくない。そんな言葉を聞くのもつらい、そんな中で、神はこの言葉を私たちに届けようとしているのです。

 何が、「おめでとう」なのでしょうか。クリスマスにはどんな喜びがあるというのでしょうか。

 ひょっとすると、私たちはこうして、教会に集まっては来ますが、本当のところ、クリスマスのめでたさなんていうものを、そもそも期待してここに来ているのでしょうか。

 この知らせを受けたマリアは、この時まだ十代の少女でした。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 
 当時は、スマホなんてありませんから、すぐに検索するというわけにはいきませんので、そうであれば考え込むしかできません。これは、いったいどういうことなのか?

 すると御使いは、こう告げます。

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」

 本人の同意もなしに、一方的に、男の子を産むだろうと言うのです。何かが当たりましたというような知らせでは済まないのです。

 マリアは婚約していました。それなのに、子どもを産むことになるという知らせは、「おめでたい」知らせではありません。はた迷惑な話です。この神からの一方的で、拒否権もない、この知らせのどこに、おめでたさがあるというのでしょう。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 20 日

・説教 ヨハネの手紙第一3章1-3節「御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」

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2020.12.20

鴨下 直樹

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 今日の説教題は、たぶん、私がこれまでつけた説教題の中で一番長い説教題だと思います。この手紙の一節の言葉をそのまま、タイトルにしました。

 今日、私たちが共に聞き取りたいと思っているのは、まさにこの言葉に尽きるのです。かつて、宗教改革者ルターは祈りについて「祈りは短ければ短いほど良い、言葉を補えば補うほど、意味が薄まるからだ」と言う内容の言葉を語りました。そういう意味では説教題も短い方がいいのかもしれませんし、この説教も、長くなればなるほど、意味が薄くなってしまうのかもしれません。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 今日、私たちが心に留めたいのは、この一言に尽きるのです。このことを考えて、私たちが、御父のくださった素晴らしい愛を心に留めることができるなら、それこそが福音そのものです。

 アドヴェントの第四週を迎え、今週クリスマスを迎えます。今年は、恐らく世界中の教会で、自粛ムードの中で祝うクリスマスになるのだと思います。大勢の人が集まることが難しい時ですから、どこの教会も今年はクリスマスのお祝いをする機会が大きく減っているはずです。私たちの教会でもそうです。例年行っているクリスマスの集まりをいくつも取りやめました。イブの燭火礼拝も、今年は外部には案内をしませんでした。また、教会の人もみなが集まってくることが難しい状況です。

 ただ、そんな中ですが、私たちはもう一度クリスマスの意味を思い起こしたいのです。最初のクリスマスは、そもそも大勢の人が祝ったわけではなかったのです。クリスマスは歴史の片隅で起こった小さなできごとでしかなかったのです。

 宿にも泊まることのできない若い夫婦が、子どもの出産だというのに、安全に産む場所も見つけられず、生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かされたのです。誰の心にも留まらないような、本当に小さなできごとでした。けれども、ここに父なる神の私たちへの愛が満ち溢れているのです。

 「飼い葉桶に寝ておられるみどりご」

 これが、クリスマスのシンボルです。神が、全力で私たちを愛してくださった愛の形がここに示されているのです。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 毎年、私たちはクリスマスを祝います。けれども、このことに私たちはどれほど思いを向けているのでしょうか。

 エペソ人への手紙では、この神の愛を「人知をはるかに超えたキリストの愛」(3:19)と表現しました。人の知恵では想像なしえない仕方で、神はこの愛を示してくださったのです。

 先週の火曜日の夜、一本の電話がかかってきました。いつも手話通訳をしていてくださるKさんが、倒れて救急にかかったという電話です。いつもそうですが、すぐにみなさんにお祈りをお願いしました。命の危険はないのですが、しばらく入院されることになりました。

 こういう時、みんなで祈ります。今までもそうでしたし、これからもそうです。そういう時に、私たちが神様に祈ることができるのは、私たちの神は、私たちに愛を示してくださるお方だと知っているので、私たちは望みを持って祈ります。祈ることができます。

 神の愛を信じることができるから、そのことを頼りに私たちは祈ることができるのです。ただ、やみくもに祈るのではないのです。神はこれまでに、この教会の方だけでも何度も何度も、多くの人の病を支えて来てくださったのです。

 私たちの神は、御子を私たちのために与えても良いと思うほどに、私たちを愛してくださいました。それは、私たちを神の子どもとするためです。
 「事実、私たちは神の子どもです。」と、この言葉につづく1節には記されています。

 今、私たちは神の子とされているのです。神様は、私たちを神様の子どもとするために、私たちを神の御子であるイエス・キリストと取り換えるという方法を示してくださいました。それが、父なる神が示した愛だったのです。

 神の御子と、私たちを取り換える。どうやってそんなことが可能となったのでしょうか。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書1章5節「闇の中に輝く光」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:33

2020.12.13

鴨下 直樹

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 12月に入りまして、急に寒くなってきました。もう夕方の5時くらいになりますと暗くなってきます。我が家では犬を飼っているので、夕方、犬の散歩に出かけるのですが、夕方の月というは、時々とても大きくて、明るい光で照らすときがあります。もし、詳しい方がいたら教えて欲しいのですが、そういう時の月というのは、とても明るく感じます。特に、ここ数日は、綺麗な月が見えることが多い気がします。先日は、朝の5時半頃ですが、まだ暗い中で三日月が綺麗に出ているのを見てとても美しいなぁと感じました。幸い、この芥見というところは、教会のすぐ後ろには山ですから、月が映えるわけです。

 そういう夜の月の明かりを見ていますと、時々、あのクリスマスの物語を思い起こします。荒野で夜番をしていた羊飼いたちのもとに天使たちが表れた時の、あの輝きはどれほどだったのだろうかと、想像するとわくわくしてきます。聖書を読んでいますと、御使いが一人現れるだけでも、大きな輝きがあったようですから、御使いの軍勢などという数になれば、それはもうほとんど昼間のような明るさになったのではないかとか、そんなことを想像します。

 今日、私たちに与えられているのは、ヨハネの福音書1章5節のみことばです。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 そのように記されています。新改訳聖書には、この「打ち勝たなかった」というところに、注が書かれていまして、別訳として「これを理解しなかった。」と記されています。この「打ち勝つ」という言葉は「カタランバノー」というギリシャ語で、もともとの意味は「捕らえる」という意味の言葉です。ですから、直訳すると、「闇は光を捕らえきれなかった」ということになります。それで、「理解しなかった」という翻訳もできるということなんですが、やはり、従来の翻訳の「打ち勝たなかった」という翻訳で良いのだと思います。

 闇は、光を捕らえきれないというのです。それは、光の性質からして明らかです。光があるところに、闇は存在できないのです。闇は、光の前に姿を失うことしかできません。

 今は、夕方の5時くらいになりますともう暗くなってきます。太陽が傾いて見えなくなると、闇が覆うようになるのです。

 私たちは、その人生の中で闇を何度も何度も経験することがあると思います。その時には、光がどこかにいってしまっているわけです。ただ、私たちは、夜の闇が迫る時というのは、太陽の光が完全になくなっているわけではないことを知っています。地球の裏側を照らしているので、今ここには光がないだけで、光そのものがなくなってはいないことを知っているのです。

 ところが、私たちは人生の闇が私たちを支配しそうになる時、私たちを照らしていた光が完全になくなってしまったかのような不安に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 小さな話ですが、昨日、教会の方が、車のタイヤを夏用のタイヤから冬用のタイヤに交換してくださいました。その時に、この夏に我が家は車を変えたのですが、夏の安い間にスタッドレスタイヤを買っておこうと思いまして、インターネットのあるサイトから、中古のスタッドレスタイヤを購入しておいたわけです。それで、昨日そのタイヤに付け替えてもらおうと思ったのですが、そこで問題が発生しました。タイヤのサイズは合っているのですが、ホイールの径が違うので、買っておいたスタッドレスタイヤが使い物にならないという事が分かったのです。

 何万円もして購入したわけで、少しでも安くと思って買ったのですが、それが仇になった格好です。仕方がないので別のものに買い替えなくてはなりません。もう、一瞬目の前が「真っ暗に」なるわけです。もちろん、これは些細な例ですが、たとえばこういう金銭的なことというのは、些細なことではなくなってしまう場合もあります。こういうことが積み重なりますと、それがだんだんと効いて来て、あるところで爆発してしまうということが起こり得るのです。

 私たちが、これは人生の闇だと感じることというのは、人によって異なります。それは、そのままその人の弱さという部分があります。自分の弱いところから、闇に呑み込まれてしまうのです。

 ヨハネの福音書はこの闇と光というテーマが3章にも記されています。そこでは、「闇」は「悪の行い」と言い換えられています。そして、「光」は「真理の行い」と言い換えられています。私たちの中にある、神に背を向けたくなる部分、そこが私たちの闇であり、私たちの弱点なのです。ただ、大事なことは、私たちの悪の行いにあるのではないのです。

 大事なのは、闇は光に打ち勝つことができないのだという、この福音の言葉にこそ、力があるということです。ヨハネの福音書3章20節から21節にはこう記されています。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

 悪を行う者は光の方に来ないが、真理を行う者は、光の方に来ると言っているのです。この後半部分がとても大切です。神の真理に生きることを通して、私たちは光の中に身を置くことが出来るというのです。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 6 日

・説教 詩篇138篇「低き者を顧みて」

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2020.12.06

鴨下 直樹

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 今週はアドヴェント第二主日です。アドヴェントクランツの二番目の蝋燭に火を灯しました。アドヴェントの間、こうして毎週一本ずつ、蝋燭の灯を増やしていくことで、主のご降誕を待ち望む習慣が教会にはあります。

 そのためにクランツにする蝋燭は太い蝋燭を選ぶことがほとんどなのですが、日本にはあまり太い蝋燭はポピュラーとはいえません。蝋燭を灯すという習慣があまりないのです。私たちの教会では、いつもYさんが作ってくださる蜜蝋燭を使っています。良い匂いがしますし、使っていてとても気持ちよく使えます。ただ、そうすると問題があります。最初の蝋燭は4週目には短くなりすぎて使えなくなってしまうのです。

 短い蝋燭というのは、それだけ火を灯したということです。蝋燭は、自身を燃やして、消費して明かりを周りにもたらします。この礼拝用の蝋燭は4週の間に長さが少しずつ短くなりますから、バランスがとれなくなるので、適当な短さのものと入れ替えたりしながら、4週目を迎えていくことになります。

 ある時、小さな子どもがそんな短くなった蝋燭を見て、こう言いました。「ちっちゃい蝋燭。これ、僕みたいな蝋燭」と言ったのです。そして、背の高い蝋燭を見て、「これは大人の蝋燭」と言いました。私はそれを見ながら、こう言いました。
「実はねぇ、この長い蝋燭が君の蝋燭で、この短い蝋燭が大人の蝋燭なんだよ。短い蝋燭は、たくさん働いて、少しずつ短くなるから、こっちの蝋燭の方が大人の蝋燭なんだよ」と。

 アドヴェントに蝋燭を灯すのには、そんな意味もあるのだと言えます。毎週短くなっていく蝋燭を見ながら、ご自身を捨てて、小さく、低くなられた主を思うのです。

 今日の詩篇は「感謝の詩篇」と呼ばれる詩篇です。祈り手は、エルサレムの宮に向かってひれ伏しています。神殿まで行って、そこでひれ伏しているのか、それとも、遠くから神殿のことを思いながらそこでひれ伏しているのか、はっきりは書かれていませんが、なんとなく、遠くの地から神殿の方を向いて、ひれ伏し、感謝の祈りを捧げているのではないかというように読める気がします。

 神殿があるということは、ダビデの時代にはまだ神殿はありませんでしたから、直接ダビデの作ということではなさそうです。ダビデに思いを寄せて作られた詩篇なのかもしれません。

 旧約時代にすでにヘブル語からギリシャ語に訳された七十人訳聖書には「ゼカリヤによる」という題がついているものがあるのだそうですから、もしそうだとすれば、捕囚期に作られた詩篇なのかもしれません。あるいは、捕囚が終わって、イスラエルに戻って来たことを感謝しているということなのかもしれません。

 この詩篇の面白いのは、4節のところで、「地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。」と言っています。感謝をささげる理由は何かというと、「彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。」となっています。

 この祈り手が何を感謝したのか、具体的には分かりません。何か、日常のささやかな感謝なのか、あるいは、バビロンに連れていかれて、そこから帰ってくることができた感謝なのか。いずれにしても、自分がささげる感謝の相手は、地のすべての王たちも、感謝をささげる相手なのだと言っているのです。
 
そしてこの5節から読んでいきますと、ここから少しずつ感謝の内容が見えてきます。

彼らは主の道について歌うでしょう。
主の栄光が大きいからです。

 王たちは、主が歩まれた道を知って、その栄光の大きさに歌い出すと言っています。私は、この詩篇がアドヴェントに読まれてきた詩篇なのかどうか、よく分からないのですが、この詩篇はまさにアドヴェントに読まれるべき詩篇だと思っています。 (続きを読む…)

2020 年 11 月 29 日

・説教 詩篇139篇「神の栄光」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:11

2020.11.29

鴨下 直樹

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 昨日の我が家の会話です。娘が体操服を着ていました。それを見て、妻が「なんであんた半ズボンはいているの」と言ったのです。どうも、午後から体操に行くことになっていて、そのために体操服を着ていたのですが、半ズボンでは寒いと妻は言おうとしたのです。
 すると、その会話を聞いていた私が娘に言いました。「自分で考えて判断しなさい」と。寒いんだから半ズボンはダメだということくらい考えろと言いたかったわけです。
 すると、娘がこう言いました。「私なりに考えたの。それで、体操をすると体が熱くなるから、お母さんは半ズボンを出したのかなって。」

 それを聞いて、妻は「あら、私、長ズボンのジャージを出したつもりだったのに、私が間違えて半ズボンをだしたのね、ごめんね」と言いました。それを聞いた私もいいました。「そうか、自分なりに考えてたのね、理不尽なことをいうお母さんとお父さんで大変だね。ごめんね。」と謝ったのです。

 昨日は、私たち夫婦はだいぶ冷静だったので、こういう会話で終わったわけですが、これが平日の朝、学校に行く10分前ならこうはいきません。たぶん、一方的に子どもが叱られて、納得できないまま泣きながら学校に行くというパターンなんだと思います。

 説教の冒頭から我が家の恥をさらして申し訳ないのですが、牧師家庭と言ってもそんなものです。みんな罪人なんです。でも、なぜこんな話をするかというと、私たちは子どもの頃から理不尽さというものと何とか折り合いをつけていかなければならないということを今日はお話ししたいと考えているからです。

 納得できないと前に進めないということがあるわけですが、場合によっては納得できなくても、それを受け入れていかなければならないということが沢山あります。

 なぜあの人はいいのに、自分はダメなのか。というような場面だって日常生活の中にはいくらでもあります。

 今日の詩篇139篇の背景にあるのは、この「理不尽さ」です。ダビデの詩篇と呼ばれる詩篇の中にはいくつか、このテーマの詩篇があります(7、35、37、69篇)。
 自分が無実であるのに、非難を受けるというような状況をうたっているのです。
1節にこうあります。

主よ あなたは私を探り 知っておられます。

 この「探り」という言葉は、「調べ尽くす」という意味です。神が「私のことを調べ尽くして、私が無実だと知っておられるはずです」と、この詩篇は冒頭から自分の無実を語っているのです。自分には非はないはずなのに、なぜこのような事態になっているのでしょうかと言いたいのです。言われもない理不尽さに耐えきれず、主が私のことを知っていてくださるのだと、ここで詩人は訴えているのです。

 この詩篇はとても美しい言葉で表現されていますが、それはまるで組織神学の講義のような内容だと言われています。
 この詩篇は四つのブロックで構成されています。最初の部分は、「神が全知」、神がすべてのことを知っておられるということが言われています。二番目の部分(7節~12節)では「神の遍在」といいますが、どこにでもおられるということが言われています。三番目のブロック(13節~18節)は神が全知であられる理由である「神の創造」が語られています。そして、最後の部分(19節~24節)は詩人の訴えです。

 組織神学なんて言うと、何やら難しい講義でもはじまるのではないかと身構えてしまうかもしれませんが、そういう話はしませんのでご安心ください。ただ、この詩篇はまさに、「神の全知」だとか「遍在」という神学的なテーマを説明するのによく用いられるテキストであることには違いありません。

 そもそも、聖書の中に「全知」という単語は出てきません。けれども、私たちは神のことを「全知全能の神」であると聞いたことがあるはずです。どうしてこういう考え方が生まれて来たのかと言うと、今日のような詩篇の内容から、聖書の時代に生きた信仰者たちが、この詩篇のような言葉を尽くして、神はわたしが座るのも立つのも知っておられるお方で、私が何かを言う前から私の心の中の思いを知っておられるお方だと理解していることが分かるからです。それで、この神のことを短い言葉で言い表すなら、「すべてのことを知っておれる神」つまり「神の全知」というようにまとめられていったわけです。

 あるいは、7節から12節までのところもそうです。神は私がどこに行っても、一緒におられるお方だと告白しています。特に、この部分の表現はとても興味深い言い方をしています。
 たとえば8節~10節です。

たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。/私が暁の翼を駆って/海の果てに住んでも/そこでも あなたの御手が私を導き/あなたの右の手が私を捕らえます。

 天の上にも、地のもっとも下であるよみの世界にも神はおられると言っています。もちろん、見たことはないのですから、想像しているのです。もう一つの表現は、「海の果てに住んでも」とあります。この時代は、今のように地球が丸いなんていうことは知らなかった時代ですから、海にはきっと果てがあると考えていた時代です。その海の果てに思いを寄せながら、そこにもし自分が暁の翼を駆って飛んで行ったとしても、神はそこから私が外におちてしまわないように右の手で捕らえて離さないでいてくださるお方だと信じたのです。

 そのくらい、上も下も、右も左も、どこまで行っても神はそこにおられて、自分を支えてくださるに違いないと信じたのです。理不尽な現実に突き付けられながら、この詩篇の詩人、ダビデでしょうか。この祈り手は、神がどのようなお方であるかに思いを馳せながら美しい言葉を紡ぎだしていきます。そうして、神のことを言い表しながら、自分の祈りを聞いて欲しいと訴えているのです。 (続きを読む…)

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