2016 年 6 月 5 日

・説教 エペソ人への手紙3章1-13節「福音の奥義を知る者として」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:26

 

2016.06.05

鴨下 直樹

 
 みなさんは、自分が何者なのかということについてお考えになったことがあるでしょうか。不思議なことに、この問いは、私たち自身を問う問いですから、日ごとに自分に問いかけるべきものなのだと思うのですが、年を経るごとに問わなくなってしまう傾向があるように思います。自分が確立していない、そのために、何者かになろうとしている時期というのは、自分自身に問いかけるものです。けれども、次第に、諦めとともに、自分のことが分かったつもりになる。あるいはそれは、自分で、自分に期待できなくなるということと同じかもしれないのですが、何かになろうとすることを止めてしまうことによって、自分に対して期待心もなくなってしまうことが多いのです。

 私が言うのも変なことかもしれないのですが、若い、青年を見ていると、そのことを顕著に感じます。私からすれば、まだその人には無限の可能性があるように思えるのですが、中学、高校、大学を卒業し社会に出ると、なんとなく、自分はこのくらいの人間だということを周りを見ながら、納得してしまって、それ以上の自分になることを諦めてしまっている気がするのです。それは、ひょっとすると、私よりも年上の方々は、私くらいの年齢の者についても同様に感じているのかもしれません。私自身、最近、自分の口から、自分についてよく否定的な言葉を使っていることに気が付きます。これまでの牧師としての経験や、通って来た道のりを振り返りながら、まぁ自分はこんな程度だろうと、自分に見切りをつけてしまっているのです。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉は、エペソ人への手紙の第三章です。今日はその1節から13節までのところですが、ここでパウロは少し唐突に、自分のことを語り始めます。自分が何者なのかといことを書いているのです。実は、この箇所はこのエペソ人への手紙の中でも、特に重要な位置を占める箇所です。というのは、ここに書かれている内容で、ある人は、これはパウロの言葉ではないのだといい、ある人は、ここにこそパウロらしさが記されているのだという人もあります。あるいは、パウロと、パウロと一緒にいた仲間たちのことがここから読み取れると考える人もおります。私は、このエペソ人への手紙の説教を始めました時に、この手紙がそういう議論があるけれども、伝統的にパウロが書いたものとして受け止められて来たことを重んじて、パウロが記したものとして語りたいと言いました。このことは、このエペソ人への手紙を理解するうえでとても重要なことです。
(続きを読む…)

2016 年 5 月 29 日

・説教 エペソ人への手紙 2章11-22節「平和の架け橋」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:48

 

2016.05.29

鴨下 直樹

 
 2016年、5月27日金曜日、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れて、歴史的な演説を行いました。原爆のために10万人以上という被害者を出してから、この訪問が実現するのに71年という年月を要しました。「謝罪はしない」ということが、すでに以前からいわれていましたが、この演説は、将来に目を向けた演説となり、人類が乗り越えるべき課題を明らかにしました。この演説の中でオバマ大統領は広島に落とされた原爆によって、一度始まったこの殺戮の連鎖は数年間の後に、六千万人という人々が死ぬこととなったと言いました。私などは改めて被害の大きさを知りました。

 演説の結びの言葉はこうでした。「広島と長崎の将来は、核兵器の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの契機の場として知られるようになるだろう。そうした、未来をわれわれは選び取る」。自分たちが犯した過ちに気づいて、このようなことを再び起こさない未来への架け橋となるように。それは、まさに、平和への呼びかけです。

 人と人とが争いあう時、国家と国家とが争いあうときに、その間には隔ての壁があります。そして、敵意が生じてしまいます。相手を理解できないとして、壁を築き上げ、敵意を膨らまし、人の心はどんどんと頑なになっていくのです。金曜の夜、ニュースを見ながら、広島の人たちがにこやかな笑顔を見せているのがとても印象的でした。原爆の被害者たちも、一様に、これで一区切りついたのだと口々に語っていました。このアメリカの大統領の勇気と愛のある訪問によって、71年間にわたって築き上げられてきた見えない壁が、崩れ落ちたのだということを、誰もが感じたのだと思います。

 この出来事は、今も敵対しつづけ、戦い続けている世界に示された一つの平和のしるしとなりました。そして、今日、私たちはこの教会で、このエペソ人への手紙のみ言葉を聞いているのです。
14~15節。

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 当時、生まれたばかりの教会で、異邦人たちの教会に敵意が生まれていました。それは、ユダヤ人と異邦人たちとの間に生まれた敵意です。エペソをはじめとするこの地域に生まれた小アジアの教会に、多くの異邦人たちが住んでいました。その多くはローマ人と呼ばれる人たちだったと考えられます。当時の世界はローマの支配する世界です。ローマの市民権こそが、誰もが求めるもので、ローマ人であるということが、この時代の人々の誇りでした。ローマの市民権を持つ人々には様々な特権が与えられていたのです。この時代のユダヤ人は実際ローマに支配された小国の民にすぎませんでした。ところが、生まれたばかりの教会にいくと、立場が逆転します。ユダヤ人こそが神の民で、ローマ人は異邦人。そもそも、神のみ救いにあずかれる身分ではなかった。実際に、エルサレムの神殿に行きますと、ユダヤ人の庭と、異邦人の庭とか壁によって仕切られていて、「この壁を超えた者は殺される」という警告文が張り出されていたといいます。教会にキリスト者が増えて行くにつれ、ユダヤ人たちの態度はますます尊大なものとなり、異邦人たちは委縮していくという現象がおこります。気付いてみると、キリストによって救われたという喜びよりも、我が物顔で振舞おうとするユダヤ人たちに対する嫌悪が、教会の中で日増しに大きくなっていったのです。
(続きを読む…)

2016 年 5 月 15 日

・説教 エペソ人への手紙2章1-10節「恵みによって生かされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:58

 

2016.05.15

鴨下 直樹

 
 このエペソ人への手紙というのは、自分で読んでも、朗読されるのを聞いてもそうだと思いますけれども、あまり頭の中にすっきりと入って来ません。この金曜日も名古屋の東海聖書神学塾で、ある神学者の書いたものを神学生たちに読んでもらったのですけれども、あまりに堅い文章で書かれているために、1ページを読むたびに解説をしなければなりませんでした。本当は手紙ですから一気にまとめて読んでしまわないと意味が分からないはずなのですが、一週間ずつ文章を細切れにして読んでいますので、余計頭にはいりにくくなってしまいます。それで、すこしおさらいをしようと思うのですが、パウロはこの手紙の読者に、主イエスを信じた時に与えられるものがどんなに素晴らしいものかを理解できるようにと祈りました。それを、栄光の富と呼んだり、全能の神の力などと言い換えていますけれども、主イエスの復活の力が、教会の中で働いているのですよと、まず書きました。

 今日はその言葉につづく言葉なのですが、読んでみますとまたテーマが変わったように見えます。この2章の1-10節までの部分は、クリスチャンになる前の生活の回想をしているのが、1節から3節までです。つまり洗礼を受けるまでの生活のことを書いておいて、4節から7節では洗礼を受けてどう変わったのかということについて書いています。そして、8節からは、その「恵みによって救われる」というのはどういうことなのかを書いています。こうやってはじめに少し内容を整理しておきますと、何が書かれているかを理解しやすいのではないかと思います。

 さて、パウロはこの2章でキリスト者になる前にどんな生活をしていたのかを思い起こさせようとしながら筆を進めています。

あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって

とまずあります。「あなたがたは死んでいたのだ」という言葉だけでも、何を言っているのか分からなくなってしまう言葉です。これは、聖書の代表的な考え方ですけれども、心臓が動いているという意味での生きているということではなくて、神の前に生きている者とみなされているかどうかを問題にしているわけです。「罪」と「罪過」の中に生きている者は心臓は動いていて生きているように見えていても、神はそれを死んだ存在として見ておられるということを言っています。神を信じる前の生活は、それがこの世界にどれほど意味のある貢献をするような尊い生き方をしていたとしても、神の前では死んだ者、けれども、主イエスを信じることができるようにされた時に、死んでいたものが、まさに1章の最後に書かれているように、復活の神の力によって、神の前で生きている者としてみなされるということ。それこそが、神の全能のお働きなのだということを言っているわけです。 (続きを読む…)

2016 年 5 月 8 日

・説教 エペソ人への手紙 1章15-23節「栄光の富」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:23

 

2016.05.08

鴨下 直樹

 
 私たちの教会では毎月第一週の礼拝後に役員会の時を持っております。長老と執事たちとで教会のさまざまな課題について話し合いながら、主の御心を求めて祈ります。その役員会で昨年からですけれども、役員が順に証しをする時間をもうけております。年間聖句についてでもいいし、それぞれの信仰の歩みの中で味わった主の恵みをともに分かち合うようにしているのです。先週の役員会は、Y長老が証をしてくださいました。Y長老は全日本製造業コマ大戦で優勝して以来、テレビなどでも何度か会社が取り上げられています。見られた方も少なくないと思いますけれども、コマとはいえ侮るなかれ、それぞれの企業の技術の結晶がわずか2センチのコマに託されるわけですから、見る方も興奮します。Y長老の会社は、昨年の秋に行われた大会でも優勝したそうです。

 このY長老 ―この場合はY社長と言った方がいいかもしれませんが― の会社で、「ありがとう」とお互いに声をかけあう運動をしているのだそうです。そして、Y長老自身、この運動をはじめて自分自身がありがとうという言葉をあまり意識して使っていないことに気づかされたと証の中で話してくださいました。その話の中で、聖書には「ありがとう」という言葉がどうなっているのかという話になりました。「ありがとう」という言葉は確かに聖書でみかけることがありません。ありがとうと言う言葉は口語で、書き言葉の場合は「感謝する」という言葉で表記されます。そうしますと、聖書には反対に「感謝」という言葉で満ち溢れていることになります。Y長老は会社だけでなくて、家庭でも、お互いに感謝をいいあう環境が、豊かな生活をつくること会社の人たちに覚えてほしいと思っているということでした。
 
 今日の、このエペソ人への手紙でも、パウロの感謝の言葉が語られています。ヨハネの福音書がようやく先週で終わりました。レントの前にこのエペソ人への手紙から説教をはじめましたので、今日は3か月ぶりでつづきの箇所からということになりますが、ここからが、いよいよパウロの手紙の中身の部分にはいっていきます。そこで、改めて語られているのが、感謝の言葉です。

 「ありがとう」という言葉の方がこの言葉の内容が良く分かるかもしれませんけれども、有り難いことが起こるので、ありがとうという言葉を発します。ですから、そこでは自分に何か有り難いこと、何か得をしたというようないいこと、自分がそのことで嬉しくなるような事態がその言葉の前にあるわけです。さきほどの話しではないのですが、日常の生活の中で感謝を見つけることができるというのは当たり前のことではありません。そこに不満をもっていたらありがとうという言葉は出てこないわけです。 (続きを読む…)

2016 年 5 月 1 日

・説教 ヨハネの福音書21章15-25節「新しい愛の戒めに生きる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:20

 

2016.05.01

鴨下 直樹

 
 先週の金曜日、東海聖書神学塾が主催しております教会学校教師研修会が行われました。この東海地区の教会から130名を超える教会学校の教師が集まりまして、一日研修の時を持ちました。私自身、主催者ということもあって例年は分科会の担当を持っているのですが、今年は分科会の担当がありませんでしたので、「中高生クラスについて考える」という分科会に参加いたしました。講演を担当したのは、古知野教会の岩田直子牧師です。実は、私はまだ神学校に行く前のことですけれども、当時稲沢教会の開拓をしておりましたヘルミーネ・ダルマン宣教師に頼まれまして、この教会で毎週土曜日に行われていた子ども集会の手伝いに行っていました。そこに、まだ小学校1年生だったか2年生だったか、小さな女の子の一人として彼女は参加していました。今から数年前に彼女は牧師になりまして、私が以前牧会しておりました古知野教会で今、牧師をしております。小学生から中学生、高校生、そのあとも教団の学生会で関わりつづけておりましたし、その後も、東海聖書神学塾で学びましたので20年以上、関わりを持ち続けているのですが、今、岩田先生は教団の学生会を担当しています。先日、春の学生キャンプに私が講師で呼ばれた時にも大勢の学生たちが集まっておりました。以前は、私が学生担当の牧師で、彼女は学生でしたけれども、今度は反対に、私自身、岩田先生から学ぶところが沢山あるのではないかと思って分科会に参加したのです。今の、中学生や高校生とどう向き合うことができるのか、特に、私の説教の言葉はどのようにしたらこの世代の人たちの心に届くのだろうかと普段から考えさせられておりますので、期待して参加したのですが、とてもいい話しを聞くことができました。

 この分科会には、各教会で中高生の担当をしておられる教師や、その世代の子どもをもつ親などが参加していたようです。中でも、私がとても心惹かれたのは、教師たちに「自信を持って聖書の言葉を語るように」と、岩田先生がこんな話をしてくれました。「学生たちが抱く悩みは、恋愛の事、これからの進路の事、家族のこと、自分自身のこと、いろんな悩みを抱えています。そして、どうしていいか、どう考えたらいいのか分からないでいます。けれども、私たちの多くは学生たちよりも少し長い人生経験をしています。自分も恋愛をしてきたでしょう。進路のことで悩んできたでしょう。毎日の生活でいろいろ悩みながら、クリスチャンとして生きている中で、聖書から教えられて来たことがあるはずです。それは、この学生たちに語るべき言葉を持っているということなのだから、自分がどうであったのか、どう考えて来たのか、そこから話したらいい。自信をもって話したらいい。きっと、学生たちはそういう話を聞きたいと思っているはずです。」そんなふうに語っておられるのを聞いて、私はこの場にいる教師たちみんなが、きっと励まされたに違いないとある感動をもって聞きました。当たり前のことのようですけれども、私たちは目の前にある状況が変わって来ると、生きている生活スタイルが異なってくると、自分の経験はもう時代に合わないので、そんなことを話しても意味がないのではないかと勝手に思い込んでしまう。自分の方から、諦めてしまって、語るべき大事なことを語れなくなってしまうことがあるのではないかということを、改めて考えさせられました。 (続きを読む…)

2016 年 4 月 30 日

子どもと親のプログラム(5月のご案内)

  • Mama’s cafe
    ...5月24日(火)朝10:00~12:00
    (毎月第4火曜日、参加費:300円…デザート&飲み物)
  • こひつじクラブ (乳幼児と親)
    ...5月10日(火)朝10:30~12:00
    (毎月第2火曜日、参加費:親子で200円)
  • ハレルヤちびっこ (3歳以上~就学前の子どもと親)
    ...5月14日(土)朝10:30~12:00
    (毎月第2土曜日、参加費:親子で200円)
  • サタデージョイ(小学生)
    ...5月14日、21日、28日(土)朝10:00~11:30 参加無料
  • 中高生のクラブ 芥見JC
    ...5月21日(土)夕 18:00
    (毎月第3土曜日、参加費:200円…夕食付)

akutami_kodomo201605_img

2016 年 4 月 24 日

・説教 ヨハネの福音書21章1-14節「153匹の魚と共に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:15

 

2016.04.24

鴨下 直樹

 
 今からちょうど10日前の4月14日、木曜の夜から発生した熊本地震のために今、多くの人々が避難所での生活を強いられています。震度5以上の地震はすでに14回を数えます。今でも9万人を超える人々が避難していますが、これから被害が増える可能性も否定はできません。毎日何度も鳴り響く地震警報のアラート音。次にどのくらいの地震がくるのかも分からないわけですから、その恐怖たるやはかり知れません。私の幼馴染みも金曜からこちらを出まして、この週末にできるかぎり色々な物資を運びたいと熊本に向かいました。連日テレビにくぎ付けになってこの地震の被害の大きさについて考えさせられています。そこでいつもわたし自身考えさせられるのは人のいのちの重さについてです。

 今、私は名古屋にあります東海聖書神学塾で聖書解釈学という授業を教えています。その最初に加藤常昭先生の書かれた「聖書の読み方」という本を一緒に読みます。この本は今からもう50年以上も前に書かれたものですけれども、今なお読み継がれるべき内容の本だと思っています。この本の第1章で、聖書の読み方について書いているのですけれども、その最後のところで、自分のいのちの重みを知ることが聖書を読むことなのだということを書いておられます。つまり、聖書を読むということは、キリストを知ることです。聖書を読んでいくうちに分かってくるのは、この聖書が記しているキリストというお方は、私たちのために自分のいのちを捨ててくださった。そのことが分かるようになると、わたしのいのちの重さは、キリストのいのちの重さと同じなのだということを知ることになるのだと、加藤先生は書いておられるのです。

 マタイの福音書の16章25節と26節にこういう言葉があります。主イエスが弟子たちに語りかけられた言葉です。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

 私が牧師になったばかりの頃のことですが、江南市の教会の牧師として赴任したばかりのころに、東京で一つの葬儀がありました。ちょうど引き継ぎ期間だったということもあって、前任の明田勝利先生が葬儀を行いました。私はほとんどカバン持ちのようにしてついていったのですけれども、その葬儀会場で明田先生が説教をしました。正確にではありませんが、こんな内容の説教でした。
「人のいのちは全世界よりも尊いと言います。私たちはこの世界に生きていながら、一人のいのちの重さはかけがえのないものであるということを知っています。家族であればなおさらです。しかし、そのいのちが失われてしまった時に、それほどにかけがえない価値のあるいのちに対して、私たちは何をすることもできません。しかし、神の御子主イエス・キリストはまさに、この全世界よりも尊いいのちそのものとして私たちに与えられました。この全世界よりも尊いいのちであるイエス・キリストのいのちをもってしか、私たちはこの私たちの尊いいのちを支えることできないと信じているのです。」

 私は、牧師になったばかりでしたけれども、私はキリスト教の葬儀というのはこうやってやるのだということを知りました。この説教にとても感動し、また、自分が牧師であることに誇りを持ちました。私たちの主イエス・キリストは、わたしたちのいのちを尊んでくださる。人のいのちの重さを知っておられるお方です。今、熊本で起こっている大きな災害を通して失われたいのちもまた、主イエスは軽んじてはおられません。だからこそ、私たちもまたこのために祈るのです。 (続きを読む…)

2016 年 4 月 10 日

・説教 ヨハネの福音書20章24-31節「疑いの人トマスの信仰」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:05

 

2016.04.10

鴨下 直樹

 
 ヨハネの福音書の説教をはじめまして二年半がたちました。そして、今日、ようやくこの聖書の箇所にたどり着きました。といいいますのは、私は聖書の中の人物で、もっとも心惹かれるのがこのトマスです。この箇所を読むたびに、私は心から、このトマスがいてくれて良かったと思うのです。
トマスというのは、これまでのヨハネの福音書の中で出て来ましたけれども、率直にものを言う人です。今日のところでもそうですけれども、他の弟子たちはよみがえりの主イエスと出会った。しかし、トマスはその場に居合わせませんでした。25節にはこう書かれています。

それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た。』と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

 よみがえりの主と出会った弟子たちが集まっているところ、それは、もう教会と言ってもいいでしょう。言ってみればできたばかりの教会の中で、「私は決して信じない」という言葉を口にしたのが、主イエスのお選びになられた十二人の弟子たちの中にいたのです。他の弟子たちからしてみれば約三年間、同じ釜の飯を食べてきた信仰の仲間、主イエスの弟子です。その自分たちの言うことが信じられないと言われてしまうのですから心中穏やかではなかったのではないかと想像するのです。けれども、ここに教会の姿があるのだとも思います。

 先週、洗礼入会式を行いました。その前からその方々と信仰入門クラスという学びの時を持っています。今のところ、私は洗礼を受ける人たちのすべての学びをしてきました。信仰の学びをしませんか、聖書のまなびをしませんかと言って、はじめのうちは色々な聖書の疑問について尋ねます。はじめは多くの方がそうですけれども、聖書の色々な言葉に戸惑います。色々な質問が出て来ます。みなさん、同じように「はい、信じます」という具合にはいきません。学びをし、礼拝にお集いになられて、また、持つようになった疑問を投げかけられます。そういう姿は、この最初の時から今に至るまで続いているのです。私はここに、素直に信じられないで、頑として首を縦に振ろうとしなかったトマスがいてくれて本当にありがたいと思うのです。それは、牧師としてそう思うというこころもありますけれども、何よりも、わたし自身の姿がここにあると思うのです。 (続きを読む…)

2016 年 4 月 3 日

・説教 ヨハネの福音書20章19-23節「新しく生きる者とされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 11:55

 

2016.04.03

鴨下 直樹

 
 今日は、説教に先立ちまして、二人の方々の洗礼入会式がとり行われました。洗礼をすでに受けられた方にとっては、洗礼式というのは、洗礼を受けられる方への喜びを感じる時であると同時に、自分の洗礼の時の想いを新たにする時でもあると思います。今日の説教題を「新しく生きる者とされて」としました。

 復活節の第二番目の主の日には名前がつけられていまして「クアジ・モド・ゲニティ」といいます。新しく生まれると書いて日本語では「新生」という日です。まさに、この日に、二人の方が洗礼を受けられて新しく生きる者とされたことを嬉しく思います。洗礼式というのは、まさに、この水の中で古い自分は死んで、新しく生きる者とされたことを明らかにする時です。

 先週、教団の学生キャンプが行われました。そこには50名を超える若い学生の方々が参加していまして、私はとても嬉しい気持ちになりました。教団全体で、「次世代への献身」という課題をもってこの五年間を歩んでいきたいと思っているところで、多くの学生たちがキャンプに参加しているのをみて、嬉しい気持ちでいるのです。そこで、私は最終日に「礼拝」についてメッセージしてほしいということでした。以前、私は教団の学生会担当の牧師でしたので、学生たちといつも向き合ってきましたけれども、教団の学生キャンプに参加したのは、12年ぶりです。ドイツに行くときに学生会の働きを終えて以来でした。いつも、芥見の教会では学生たちに話していますけれども、普段関係を持っていない学生たちに説教をして言葉が届くのか、少し自信がなかったのです。けれども、とても学生たちが喜んで説教を聞いてくれて嬉しく思いました。テーマは「礼拝」です。中学生、高校生の時に、それまでは、親に連れられて何となく教会に行っているわけですけれども、少しづつ大人に近づいていくにつれて、親の信仰ではなくて、自分の信仰の歩みということをどうしても考えるようになります。そこで、実にたくさんの学生たちが礼拝の喜びを見出せなくて、教会から離れてしまうということが起こってしまうわけです。

 私はそこで、「礼拝」というのは何のためにあるのかということについて、まず話をしました。というよりも、人間は礼拝をするために生きているのだということを語りました。人間として生きるということは、礼拝をするということと同じです。礼拝をしないということは、人間をやめるということです。いくつかのキーワードを上げて説教をしたのですが、礼拝という言葉にはいくつかの言葉がありますけれども、その中のひとつに「ラトレイア」というギリシャ語があります。ローマ書12章1節に書かれている「礼拝する」と訳されている言葉です。この言葉はとても面白い言葉で、「ラオス」、「民」という言葉と「エルゴン」、「仕事」という言葉の合成語です。つまり、礼拝というのは、民の仕事、奉仕であるというわけです。神の民は礼拝をするのが仕事なのです。けれども、私たちが安息日に礼拝をするために、神はそれに先だって六日間かかってこの世界をお造りになられて、すべてを備えてくださいました。人間は何も働かないで、最初にしたのが安息日を迎えるということだったのです。神は、私たちがこの世界で生きる前にすべてのものを創造して、整えてくださって、そうして、人間は礼拝をすることによって、人間の業をはじめたのです。 (続きを読む…)

2016 年 3 月 27 日

・説教 ヨハネの福音書 20章1-18節「よみがえりの主とお会いして」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:22

 

2016.03.27 イースターファミリー礼拝

鴨下 直樹

 
 イースターおめでとうございます。今日は、イースター。主イエスの復活をお祝いする日です。昨年くらいからでしょうか、お店など色々なところで、このイースターという言葉を見かけるようになりました。先日も、買い物に行くと、お菓子のコーナーにイースターと書かれた特別包装のパッケージのお菓子が陳列されていて驚きました。お祭り好きな国民性もあるのかもしれませんけれども、イースターが取り上げられることは嬉しい気持ちになります。主イエスがよみがえられたことを、少しでも多くの方の耳に入るのであればそれは、素晴らしいことです。

 先ほど、聖書のおはなしで、このイースターの物語を聞きましたし、今も、このイースターの出来事の聖書を聞きました。イースターの日、ここでは「週の初めの日」という言葉から始まっていますが、この日に起こった出来事が記されています。教会では「週のはじめの日」といえば日曜日だと誰もが分かりますが、最近は、新年のために手帳やカレンダーを買おうと思って文房具屋さんに行っても、ほとんどが月曜始まりになってしまっているので、日曜が週のはじまりの日であるということは、ひょっとすると、もう多くの人はあまり気にしていないのかもしれません。

 この聖書の記されていた当時、特に、ユダヤ人たちにとって休みの日といえば土曜日です。翌日の日曜日はもう仕事がはじまる日でした。けれども、教会の人々は仕事がはじまる前、つまり夜明け前に礼拝をするようになっていたようです。それで、復活の朝の日の出来事を、ごく自然に「週の初めの日に」という言い方で書き記すようになったのです。そして、この言い回しが、いま、私たちが当たり前に日曜日は一週間の始まりの日というようになったのです。世界中で、日曜を週の始まりとするとするように決まったのは、まさに、このイースターの出来事がこの時に起こったからです。

 さて、この朝の物語には男の弟子たちの姿と、女の弟子の姿が描き出されています。とても対照的です。男の弟子たちはこの日、とてもアクティブといいましょうか、活動的です。女の弟子たちは感傷的と言えるかもしれません。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.219 sec. Powered by WordPress ME