・説教 ヨハネの福音書3章16-21節 「永遠のいのちに生きる」
2014.5.11
鴨下 直樹
この四月から担当することになった三好教会で、亡くなられた方の記念会をするために、今日の午後から三好教会に伺うことにしています。そのこともあって、ご家族の方から電話をいただきました。その電話でこんなことを聞かれました。私は最後の挨拶の中で、「天で母と再会できることを楽しみにしています」と言いたいのですが、そう言っても大丈夫でしょうか?というのが、電話での質問でした。なぜそんなことを質問されたのかというと、その方は、以前宣教師から聞いた説教の中で、聖書には、天では娶ることも嫁ぐこともないと書かれていて、天では家族関係に縛られてはいないと聞きました。そうすると、天で、母は私のことを覚えていないのではないかと思ったら、急に、教会でこれまで良く聞いてきた、「天での再開の希望」ということが本当なのかよく分からなくなってきたのです、と言われたのです。
みなさんの中にも、お気づきの方があるかもしれませんが、私は教会で葬儀をしたり、記念会をするときに、天での再開の希望ということを話したことは一度もありません。このことは誤解を受けないように、丁寧に話す必要があると思っています。天での再会ということを、もちろん否定しません。天で再会することはあるでしょうし、天に行ったら、みんな記憶喪失になってしまって、この地上でのことを忘れてしまうというようなことはないと思います。ですから、もちろん家族の方が、天で亡くなった家族と再会することを楽しみにしていると語ることは許されるし、そこに大きな慰めがあると思います。
けれども、信仰をもって天に先立った家族との再会ということを、聖書が福音として語っているわけではありません。それは、もちろん家族にとっては大きな希望であるし、慰めです。しかしそれは、言ってみれば、豊かな福音のおまけのようなものです。主イエスを通して、永遠のいのちを与えられた、喜びの中に含まれているものですが、天での再開の希望が、福音のメインではないのです。教会で葬儀をいたしますと、私が言わなくても、必ず、長老か、執事か、あるいは親しい教会の方が、慰めの言葉として語ってくださいます。私はそのくらいでちょうどいいと思っています。 (続きを読む…)