2014 年 8 月 10 日

・説教 ヨハネの福音書6章1-15節 「食べて無くなるものと無くならないもの」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:55

2014.8.10

鴨下 直樹

八月に入りました。いつも、この夏休みの期間は信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会は、信徒の方々が担当して証しの時を持っております。今年は教育部の方々が例年のようにではなくて、担当になった方が自分の考えていることなどを問題提起して、それについてみんなでそれぞれ意見を言い合うというような形でしております。私も夏休みをいただいておりましたので、最初の週は出席できませんでしたけれども、今週は出席することができました。とても、豊かな交わりの時になっています。その中で、水曜日の祈祷会の発題を受けて、マレーネ先生がご自分の神学生の時の話をなさいました。マレーネ先生はドイツのシスターたちのための神学校で学ばれました。ドイツのプロテスタント教会にもシスターのいる教会があります。そこの神学校で学ばれたようです。その中ですでに、マレーネ先生は日本に宣教師として行くことがはっきりしていたようですけれども、一つだけ大きな問題がありました。魚が食べられなかったのだそうです。ドイツ人で魚が食べられないというのは、もちろんマレーネ先生だけの事ではありません。ドイツでは魚料理は日本のようにポピュラーではありません。私たちがドイツにいたときに、「のりたま」というふりかけのおにぎりを出したことがあります。そうしたら、「あのおにぎりの中の黒いものは何か?」といぶかしげな顔で聞いてくるのです。「それは海苔だ」と答えますと、特に子供たちなんかは「魚だ!」と大騒ぎをします。私が海苔は魚ではないと一所懸命に説明をしてもだめです。味噌汁も出したことがありますが、やはり「わかめ」の説明をしたとたん吐き出した子供がいましたので、どれくらい海のものが一般的でないかおわかりいただけるのではないかと思います。
マレーネ先生はそのドイツの神学校の食事で魚を出されて食べることを躊躇していると、「あなた、宣教師になるんでしょ、祈って食べなさい」と言われたのだそうです。そして、恐る恐る何とか食べたのだそうです。今では、もちろん、魚は問題なく食べることができますけれども、はじめてのものに挑戦する、それこそ、マレーネ先生にとって魚を食べるということが、宣教師になるための大きな一つのステップであったようです。

そんな話を思い出しながら、今日の説教の箇所を読んでおりますと、思わずおかしな気持ちになってしまいました。五つのパンと二匹の魚を五千人の人が食べたという出来事が記されています。男だけで五千人ですから、女や子供を入れるとその倍の人数はいただろうと考えられます。そんな一万人の中に、何人魚が食べられないと思っていた人がいるんだろうか。そんなことをおかしな気持ちになりながら考えてしまいました。もちろん、そんなことを考えても何も説教の示唆にはならないのですけれども、今日のこの出来事はガリラヤ湖の周辺で起きた出来事だと一節に書かれています。魚のとれる湖の近くに住んでいる人たちですから、おそらく魚は日常的な食べ物だったはずで、まず問題ないのかななどと、私はなぜか納得して安心しました。
もちろん、ヨハネはそんなことを説明する気持ちはないわけですが、この一節にはこのガリラヤ湖が「すなわち、テベリヤの湖」と言い換えられています。何でもないことのようですけれども、こちらはとても大切なことです。新共同訳聖書では「ティベリアスの湖」となっています。「ティベリアス」というのは人の名前です。ローマ皇帝の名前をつけた町が、このガリラヤ湖のほとりに造られていたのです。ヨハネはガリラヤ湖がティベリアスの湖だということのこの福音書の中に三度もわざわざ説明しております。わざわざ書いているのですから何かしらの意図があるのだということは想像できます。
実は、このヨハネの福音書の第六章というのは、とても長いところです。ページをめくって下さると分かりますけれども、七十一節まであります。最後に書かれているのは「イスカリオテのユダがイエスを売ろうとしていた」というところで終わっています。この湖のあたりで起こった大きな奇跡の出来事が、結果として主イエスの弟子が、主イエスから離れることになっていったということを書いているのです。ティベリアスというローマ皇帝の栄光をたたえる名のつけられた町であったここが、この主イエスの物語が6章も越えてさらに先に進んでいくと、最後の21章にも出てまいります。このところでは、主イエスの栄光を表すところと変わっていくのです。そんなことをヨハネはこの福音書全体で意図しているのだということを、ぜひ心に留めておいていただきたいと思うのです。
また、今日の出来事がおこったのは、四節では「ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた」とありますけれども、今日の出来事にはこのことはほとんど何の意味も持っていません。ただ、6章全体としては、この説明がとても大切な役割を持っています。そんなこともこれから6章を聞いていく中で、ぜひ心に留めておいていただきたいと思います。

さて、今日の出来事はどの福音書にも記されている有名な出来事です。五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人の人々が満たされたという出来事です。どの福音書にも書かれていますから、なんとなくもう良く分かっている話のように思ってしまいがちですが、他の福音書と異なる書き方が色々なところに見られます。たとえば、それは5節と6節です。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

そのまま読みますと、ずいぶん主イエスは意地悪な質問をしておられます。ご自分はしようとしていることを知っているのに、ピリポにひっかけ問題をだしておられるような感じです。聖書を読み始めたばかりの人ですと、こういうところにひっかかってしまうようです。
こういう書き方は、聖書の中にでてくる奇跡物語の中に時々でてきます。それは、主イエスはこれから起こることをご存知のお方なのだということをこういう書き方で明らかにしているのだと考えてくださるといいと思います。けっして主イエスが意地悪な質問をしているのだということを意図しているわけではないのです。
しかし、大事なことは、主イエスが問いかけられるということは、そこに大切な意図があるということです。何かに気付かせようとしておられるわけです。そのことに目を留めることが大切です。ここで、ひとつ気付いたことが書かれております。それは、七節です。

「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

言ってみれば、弟子たちに出来た一番簡単な計算です。一デナリは大人の一日の労働賃金と言われています。そうすると、一デナリが一万円と考えますと、200デナリは200万円相当ということになるでしょうか。このとき、この場所にいたのが一万人くらいだとすると、ひとりの食事代として200円は必要だという計算をしたということです。非常に現実的な計算です。しかし、それだけの意味しかありません。そこに、アンデレが一人の少年を連れてきます。9節です。

「ここに少年が大麦のパン五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

アンデレもまた、別の計算をしました。ここに五つのパンと二匹の魚がありますが、それは何の役にもたたないでしょう。そういう計算をいたします。これもまたとても現実的な計算です。そこにも、共通しているのは、主イエスというお方をそこで何の計算にもいれていないということです。

さて、このように計算の成り立たないところで、主イエスは何をなさるのでしょうか。10節で主イエスは「人々をすわらせなさい」とお命じになられました。この「すわらせる」という言葉は「食卓に着かせる」という意味の言葉です。しかし、食卓と言っても、「その場所は草が多かった」とさらに記されています。まるで、ピクニックバスケットでも広げているのであれば、この「食卓に着かせる」という言葉でもいい気もしますけれども、座っても、何かが出てくるような準備をしているようにも見えません。
この時、主イエスのもとにあったのは「大麦のパン五つと小さい魚を二匹」と記されています。実はこれも、この福音書にしか書かれていないことです。しかもこのパンを持ってきたのが少年ということも、この福音書だけが記していることです。しかも、どうも、この少年という言葉は、少年奴隷という意味であったのではないかという説明もあります。また、パンも「大麦」となっていますけれども、一般的なパンは小麦です。大麦のパンというのは貧しい人のためのパンです。魚も立派な魚だったのではなくて、「小さな魚」です。食べ物を持っていた少年も、パンも、魚も本当に粗末なものというものがここで続けて書かれているのです。というのは、本当に小さな、貧しいものでしかない大麦のパンと、小さな魚を、奴隷の少年が持っていた。そういうものであっても、主はそれを通して、人々をやしなわれたということです。

先週、私たちは夏季休暇で長野県の御代田にあるのぞみの村におりました。金曜のことでしたけれども、電話がなり、Mさんが亡くなられたとのことで、急きょ、兵庫県の三木市まで葬儀をするために行ってまいりました。その葬儀で第二コリント12章9節のパウロの言葉、

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

という御言葉から説教を致しました。Mさんのことはみなさんもご存知の方が多いと思いますけれども、今から五年前の夏に東京の病院で病床洗礼を受けました。その時からこの教会で礼拝をすることは残念ながらできませんでした。自分の弱さと戦いながら、病院に入ったり、施設に入ったりする生活でした。本当に、ご家族をはじめとして、周囲の方々は支えるために懸命だったと思います。そんな中、熱中症のために亡くなりました。私は、本当に、Mさんのためにはこの御言葉を語る以外に家族に慰めはないと思いながら語りました。本当に、洗礼を受けて、なんとかしたいと願っていたのです。なんとか変わりたいと願いながら、うまくいかない自分に絶望する毎日だったと思います。けれども、主は、パウロに語りかけられたように、主の恵みは弱さのうちに働かれるのです。
今日の箇所もそうです。弱いもの、小さなもの、価値のないものを主は見出して、そこに、主の恵みを、力をお示しくださるのです。主はここで、弟子たちに、あなたがたには、この恵みが見えるかと問いかけておられるのです。

さきほど、民数記第11章を先立って私たちは聞きました。ここに書かれているのは、出エジプトの時に、イスラエルの人々の食べ物がなくて、その時にはマナが天から毎朝与えられていましたけれども、他の物が食べたい、肉が食べたいと不平を言うところです。そして、神はそれに応えられます。31節以降で、天からうずらが降って来て、まるで1メールほどの雪が降るかのように、これでもかと言わんばかりにうずらが落ちてきます。ところが、そうしてようやく肉が食べられたと思った時、最後の33節で

肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。

と記されています。非常に厳しい主の姿がここに記されています。主は食べ物を与え、人を生かすことも、また、不平不満ばかり言い続ける民を滅ぼすこともなさるお方です。イスラエルの人々には残念ながら、主の恵みが見えませんでした。

そして、このテベリヤ湖での出来事はまさに、かつて神がイスラエルの民にマナとうずらで養われたように、ご自分の民を養われるいのちの主であることが、ここで記されているのだということを、読む人は思い起こすのです。主は、いのちをささえるお方です。それは、旧約の時から、人の計算とはまるで違う仕方で、いのちを支えることを示されているのです。こうして、この時、男だけで五千人の人がほしいだけ分けられ、十分に食べることができたのです。そして、それは余るほど豊かにあったのです。こうして、主は主の恵みの力を人々に見せられたのです。
さらに注意深く見てみると、ヨハネの福音書の6章11節で三つの動詞が記されています。

イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。

いつも聖餐の時に読む、あのコリント人への手紙第一第11章で「パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き」という言葉と同じ言葉がここに並んでいるのです。そうです。聖餐のパンを与えるときのことを、ヨハネはこの出来事の本来の意味なのだということを伝えようとしているのです。主は、この恵みをあなたに届けるために、ご自身の体を差出して、あなたに救いを、恵みを得られるようにしてくださる方なのだと、ヨハネはここで描き出しているのです。主は、ご自分を、その人を生かすいのちとして与えようとしておられる。主イエスこそが、人を生かすお方。そして、それはその人が十分に食べてあまるほどの、豊かなものなのだと伝えているのです。

しかし、目の前のことしか目が留まっていなければなかなかそのことは見えません。いくら十分にその時食べることができたとしても、また、時間がたてばお腹が空いてしまいます。かつてイスラエル人がマナが与えられても、今度は肉が食べたくなってしまうように、私たちは自分のいのちが支えられているということを、食べ物があるということだけではなかなか満足することができません。すぐに、もっと良いものが欲しいという願いが出てきてしまいます。
今日の説教題を「食べて無くなるものと、無くならないもの」としました。無くなるものは、パンです。いくらそのとき余るほど、十分と思えるほど食べることが出来たとしても、それは、忘れられていきます。しかし、無くならないもの、失われないものがあります。失われてはならないものと言ったほうがいいかもしれません。それは、私たちのいのちそのものです。そして、主イエスは、まさにわたしたちにそのいのちそのものを与えようとしておられるのです。
ヨハネの福音書の中に記された奇跡物語のこれは四つ目です。そして、この出来事に続いて、また嵐を沈められる奇跡が記されています。しかし、その結果は、最初に言いましたように、主イエスの弟子であったユダを失望させる結果に終わりました。いや、じつはそれは、この時にすでに始まっていました。というのは、この出来事の後、14節には

人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。

と書かれています。これは先ほど話した出エジプトのモーセのような預言者を思い描いたのでしょう。しかし、それは、このお方は自分たちの役に立つお方だという意味でしかありませんでした。それで、15節では

そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

と記しています。この素晴らしい力を持った人物を自分たちの王としてローマに敵対する旗頭にでもしようとした、とでもいったところでしょうか。人々は、主イエスが何を与えようとしているのか何も理解することができませんでした。人々も、自分勝手な計算をここではじめたのです。この力は役に立つ。自分たちをローマの手から救い出してくれるに違いない。そんな計算をしながら、自分たちに都合の良い王の姿を思い描いたのです。

主イエスが人々に示したいもの、見てほしいと願っているものと、人々が見たいと思っているものはあまりにもかけ離れていました。それほど、人は自分勝手なものを見ようとするのでしょうか。「イエスはピリポをためしてこう言われたのであった」という、あの最初の問いかけは、ピリポだけに向けられているのではありません。あなたには、わたしが弱いもの、小さいもの、価値のないものから豊かな恵みをしめして、喜んで生きることができるようにするものであることが見えるか。主はそう問いかけておられるのです。
主は貧しいもの、小さなもの、とるにたらないものを、何倍にも富ませ、役に立つことができるようにされるお方です。しかし、それは、そのいのちが主のために使われてはじめて役にたつもの、主のものとなることが、失われることのないものを見出すということにほかなりません。主はそのために、私たちの神のために必要なものとなるために、自分自身を喜んで私たちに与えてくださるお方なのです。

お祈りをいたします。

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