2014 年 2 月 9 日

・説教 出エジプト記20章15節  「盗む心から与える心へ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:12

 

 

2014.2.9

鴨下 直樹

 

 「盗んではならない」とあります。二歳になった娘の慈乃が、週に数回ですが幼稚園に通っています。ご覧になった方も多いと思いますけれども、とても食べるのが好きな子です。幼稚園の給食の時間も人一倍食べ終わるのが早いようで、どうも聞いていますと、隣のまだ食べている子どものお皿に手を伸ばしてしまうことがあるようです。私たちがまだ食べていても、私たちのお皿に手を伸ばしてきますから、そういうこともあるだろうと思うのです。いくら「それは盗みである」と教えても、「まだ食べたいんだから何が悪い」と言わんばかりに泣いて抗議します。もちろん、少しづつ学んでいくことですからそれほど心配しておりません。むしろ、そんなに食べて大丈夫かということのほうが心配なくらいです。しかし、いつかは学ばなくてはなりません。人のものを取ることがどれほど悪い事なのか。自分もそうされてみて気づいていくのでしょうか。

 そのことを考えてみてもそうですけれども、「盗んではならない」という戒めを正しく理解するために必要なことは、想像力を持つことです。奪われた相手がそのことでどれほど悲しい思いをし、悔しい思いをするか、自分に当てはめてみればすぐに分かることです。ところが、なかなかいつまでたっても、新聞やニュースから盗むという事件が姿を消すことがないのです。

 

 「盗み」と一言でいっても、そこには様々なものがあります。 (続きを読む…)

2014 年 2 月 2 日

・説教 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:48

 

本日は舛田友太郞神学生が説教奉仕をしてくださいました。

2014 年 1 月 26 日

・説教 出エジプト記20章15節 「姦淫の罪とは」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:31

 

2014.1.26

鴨下 直樹

 

姦淫してはならない。

これが今朝私たちに与えられている十戒の第七の戒めの言葉です。この短い戒めですけれども、この戒めを通して私たちが本当に考えなければならない問題が、ここにはたくさん潜んでいると言っていいと思います。

 まだ、若い時にこの戒めをめぐってずいぶん悩みました。私たち同盟福音基督教会という教会は、敬虔主義の流れを持っています。敬虔主義の「敬虔」という字は、よく「敬虔なクリスチャン」と言う時に使われる言葉です。信仰の歩みは実生活に証されるべきであるという考え方が、この敬虔主義の考え方の根底に流れています。ですから、たとえば「聖日厳守」とか「禁酒禁煙」というような標語が教会でも掲げられてきました。私の父も牧師をしておりましたけれども、非常に厳格な敬虔な牧師です。毎朝早天祈祷をし、大きな祈りの課題があれば断食をし、暇があればトラクトを配るか、車の上にスピーカーを載せて町に伝道に出かけるという生活です。そういう両親に育てられましたので、聖書の戒めについては厳格に守るように子どもの頃から教えられてきました。そのことについては、私は今となっては本当に感謝しています。そのように教えられなければ、本当に神さまに従うことについて考えてこなかったと思うからです。

 先ほどもお読みしましたけれども、マタイの福音書の山上の説教の中で、主イエスがこの「姦淫してはならない」という戒めをこのように教えられました。五章の二十七節です。

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。

と続きます。以前すでにここから説教しましたので丁寧に解説する時間はありませんが、ここでは「すでに心の中で姦淫を犯した」と言われています。そのために、本当に自分はどうしたらいいんだろうかと思うほどに、毎日のようにこの聖書の言葉に苦しめられました。しかし、今考えても、あのように御言葉に苦しめられるという経験は、本当に聖書を理解していくうえで非常に大事なことだと思います。

 

 少しつづこの戒めについて考えてみたいと思います。 (続きを読む…)

2014 年 1 月 19 日

・説教 マタイ18章20節 「病から学ぶ祈りと御言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:49

 

本日は赤塚尚武兄が礼拝説教で証をして下さいました。

2014 年 1 月 12 日

・説教 出エジプト記20章13節 「共に生きるために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:40

 

2014.1.12

 鴨下 直樹

 

 「殺してはならない」これが第六の戒めです。非常に短い戒めで、ここで言っていることはとても単純なことです。殺してはいけないのです。しかし、誰にでも分かるこの戒めも、角度を変えてもう一度問い直してみると、なかなか単純とはいきません。自分のいのちを断つ自殺、胎児のいのちを奪う中絶、国家が国の利権を守るために行なわれる戦争も、公の殺戮です。また殺人犯などに対する死刑、環境破壊からくる第三国の飢餓死、あげ始めるときりがありません。誰もが人を殺すことはよくないことなのだと分かっているのにも関わらず、私たちの生活の中には実に様々な形で人を殺す行為が行なわれてしまっています。

 

 この説教の準備のためにルターの書いた「大教理問答」を読んでおりました。すると、 (続きを読む…)

2014 年 1 月 5 日

・説教 出エジプト記20章12節 「長く生きるために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:23

 

2013.1.5

 鴨下 直樹

 

 新しい年を迎えました。今年は詩篇七十三篇二十八節の「わたしは、神に近くあることを幸いとします。」(新共同訳)がローズンゲンによる年間聖句として与えられています。元旦礼拝でも、「来る一年にこれからどのようなことがあったとしても、主の近くいる幸いを覚える一年となるように祈ります」と説教いたしました。

 二日の日ですが、私の両親を訪ねました。ところが、まだ兄弟たちが集まる前に、娘の慈乃が膝の上で絵本を読んでやっていますと急に様子がおかしくなってしまいまして、ひきつけているのです。もう二回目のことですので、少しすれば治るはずなのですが、収まるようすもありません。お正月から自分で医者を探すことも難しいので救急車を呼びました。救急車が来てもまだひきつけがおさまりません。20分から30分ほどたったでしょうか、救急車の中で、一度意識が戻って少しほっとしたのですが、病院に到着してからもまたひきつけをおこしてしまいました。しかも、今度は意識が回復しません。入院して様子を見るということになったのですが、お医者さんのはなしでは「脳症」という診断でした。詳しい事はよく分かりませんけれども、最初のひきつけの時間が長すぎたために、脳の機能が回復しないのです。検査をして分かったのは小さな子どもがかかりやすい最近流行しているRSウィルスという菌が原因ということでした。二歳以下の子どもは非常にかかりやすく、特に効く薬もないんだそうです。病院で、様子を見ながら回復を待つということでしたが、五時間たった夕方に、ようやく意識を回復しました。

 私たちの会話が聞こえていたのか、「慈乃、意識、ないないした」と言って看護師さんたちを驚かせました。今は、だいぶ回復しておりますが、まだ何だかぼーっとした状態でいます。もう、何度も何度もひたすらに、「主よ、どうか癒してください、助けてやってください」という祈りとも言えないような叫びを繰り返すだけでした。

 けれども、前日、ここで御言葉を語ったように、本当に、「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあせなのです。」という新改訳の言葉がそのまま私の頭を何度もよぎりました。本当に、親として目の前で病に苦しんでいる娘に対して祈ることしかできないのです。けれども、何もしてやれないのですけれども、祈ることができる。いのちの主にいのることができるということは、何という幸いなことなのだろうかと思わずにはいられませんでした。どうなったとしても、この主がいてくださるのだから大丈夫だという確信があるのです。私自身、今年与えられている御言葉を改めて味わうことのできる時となりました。 (続きを読む…)

2013 年 12 月 29 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-18節 「恵みとまことを実現させるお方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:06

 

2013.12.29

 

 鴨下 直樹

 毎年この季節になると感じることですけれども、お店にまいりますと、もうどこもクリスマスの飾りはかたずけられてすっかり正月の飾りつけに様変わりします。二十五日に買い物に出かけますと、もうすでにクリスマスはいつのことだったのかというほどに、隅に片づけられているのをみて寂しい気持ちになります。

 私たちは今年の年間聖句としてヘブル人への手紙十三章十四節の御言葉をあたえられました。新共同訳聖書では「私たちはこの地上に永続する都を持ってはおらず、来るべき都を探し求めているのです。」となっています。私たちが探し求めているのは、この世で今の一時を楽しむのではなくて、主がもたらしてくださる御国を求めているのだという言葉です。年末になると、本当に、この世が求めているのはいかに、今の幸せを長く感じられるかということに価値を見出していることに驚きます。もちろんそれはお店のことにとどまりません。テレビを見ていてもそうです。政治のあり方もそうです。この世の中の考え方そのものが、今にしか価値を見出していません。それと、同時に、こんなにも目まぐるしく次々に代わっていくさまざまなものを目にしながら、本当の今の世で、人は少しでも長く幸せを感じていたいと思っているのだろうかという矛盾を感じずにはいられません。それほどに、私たちの生活は安定というものとは矛盾するかのように、次々と新しい商品、最先端のファッション、流行りの考え方などを誰よりも先に手にいれることにつきあわされている気がしてなりません。そういう新しいものに追われる毎日の生活の中で、私たちは何が人にとって本当に大切なことなのかを考えないようにさせてしまっているのではないかと考えざるを得ません。そして、人々もまた大切なことを考えることを避けるかのように、次々とでてくる新しいものに身をまかせることに安心を得てしまっているのかもしれません。

 

 ヨハネの福音書を今私たちは学び始めています。今日で、四回目になります。ヨハネはここで、私たちにいのちを与え、わたしたちの光となることばを紹介することで、この福音書を書きはじめました。今日は特に、十四節から十八節を中心にみていきたいと思いますが、ヨハネはこのヨハネの福音書を書きはじめるにあたって、私たちにもっとも必要なものは何かということを書いています。私たちにとってかけがえのないほどに大切なもの、それは、 (続きを読む…)

2013 年 12 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-14節 「人となられた神の言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:24

 

2013.12.22

 

 鴨下 直樹

 私ごとで恐縮ですけれども、私たちがドイツで生活を始めました時に、最初の一年間はドイツの語学学校に毎日通い続けました。ドイツで生活をはじめて一週間くらいたったころでしょうか。朝、学校に行くバスに揺られながらドイツの町並みを眺めておりました。ドイツで生活しているのだという実感を覚えながら、急に何とも言えない恐怖が私を襲いました。ほとんどドイツ語もできないまま、もう三十六歳だったと思いますが、この年で本当にやっていけるのだろうかという心配が私の心をとても暗い気持ちにしたことを今でも忘れることができません。

 言葉が通じないというのは何ともいえない恐怖です。しかも、何年もその地で生活するのです。この先どうなるのかという見通しがまったくつかないのです。言葉が通じるようになるという経験は、それから毎日少しづつ味わうことになります。本当に、一歩、一歩、とても地道な事の繰り返しです。毎日、犬の散歩をする時に単語カードを持って行きまして、一日に十の単語を覚える。覚えたつもりで翌日、前の単語を見て見ると五つ忘れている。そういうことの繰り返しをしながら、何年もかけてやっと片言の言葉が通じるようになっていきました。

 

 ことばの神、主は、この神のことばは人に届かなくなってしまっている現実をどれほど嘆かれたのだろうかと思います。神が意図していること、意思していることが、人にまったく届かない。それどころか、耳を傾けようともしないで、神のことばを無視しつづけるこの世界を、神はどれほど嘆かれたのだろうかと思うのです。それで、大きな決意をして、このことばの神であられる主は、人となることにした。

 十四節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」と記されています。これが、クリスマスの出来事です。これを難しい言葉で、「受肉」と言います。新改訳聖書をお持ちの方は、この十四節の「人」という言葉の横に※印がついておりまして、欄外の注に「別訳『肉』」と書かれているのを見つけることができると思います。ことばが肉体をとったと書かれているのです。ことばが人間となったということです。学校であれば、「これ、テストにでるところです」と言わなければならないほど大切なことです。

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とはどういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 12 月 15 日

・説教 ルカの福音書1章46―56節 「マリヤから学べること」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:15

 

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

2013 年 12 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-8節 「いのちの光」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:33

 

2013.12.8

 

 鴨下 直樹

 先週からヨハネの福音書の御言葉をともに聞き始めました。先週も、ヨハネの説教をするのは覚悟がいるのだということをお話ししました。どんな覚悟が必要になるのかと言いますと、、ヨハネについて書かれた文献は非常にすぐれたものが幾つもあります。そうすると、できるかぎりそれらの本には目を通しておかなければなりません。どれもやさしいものばかりではありません。難解なものもあります。昨日も妻に、まだ読むべきものが全部読めていないと話しましたら、そんな小難しい話をしなくてもいい、と言われてしまいました。そうです。難しいものをずっと読んでおりますと、あの本も素晴らしい、この本も素晴らしいということになって、色々と盛り込んで行くうちに何の話だかすっかり分からなくなってしまうということが起こります。ですから、自分の頭の中には入れておく必要はありますけれども、それらを全部ここでみなさんに聞いてもらおうとすれば大変なことになってしまいます。ですから、そういった数々の本を読むということは覚悟のいることですけれども、同時にとても豊かな時間でもあります。色々な、豊かなことばとの出会いをそこで味わうことができるからです。

 今日の説教の箇所は一節から八節としました。本来であれば一節から十八節とすべきです。十八節までがひとつのまとまりになっています。しかも、この十八節までの部分には実に豊かな内容があるために、どうやって区切ったらいいのかということがすでに大きな問題でもあります。どの学者も、あるいは説教者もそのことで苦心しています。特に、今日のところはヨハネが登場してくるところです。十五節にもこのヨハネの言葉が出て来ますから、当然、十五節についても一緒に取り扱う必要がありますが、今日は主に、八節までに焦点を当てて話したいと思います。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.213 sec. Powered by WordPress ME