2010 年 7 月 4 日

・説教 「喜びの中へ」 ルカの福音書15章11-32節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:00

鴨下直樹

 先週の日曜日、私たちは加藤常昭先生をお迎えして伝道礼拝をいたしました。そこでは加藤先生を通して伝道説教を聞きました。キリストを通して救いを受けるという伝道的な言葉を聞きました。それは、本当に私たちにとって幸いな時となりました。本当に多くの方々がこの福音の言葉、伝道の言葉を耳にしたのです。私ごとで恐縮ですけれども、その翌日の月曜から木曜日までの間、名古屋で説教者トレーニングセミナーに参加してまいりました。そこで指導してくださったのも、説教塾という牧師たちの説教のための学びを指導してくださっております加藤常昭先生でした。今回そこで学んだのは伝道説教です。加藤先生の心の中に、日本中の牧師たちがこの伝道の言葉を獲得して欲しいという思いがあるのです。

 私たちは特別伝道礼拝などを計画しますと、先週のように、伝道説教者として成功している牧師などをお招きします。けれども、やはり自分の教会の牧師が伝道説教していくことが何よりも大切なことです。

 先週の日曜日の夜、実は長老をはじめ執事の方々とマレーネ先生、そして私たち夫婦は加藤先生を囲んで食事の時を持ちました。大変楽しい時となりましたけれども、その最後に加藤先生が、「明日から鴨下牧師は説教の学びに参加するから、今度の日曜日の説教を楽しみにするといい。」と役員の方々に言ってしまいました。私としてはプレッシャーをかけられてしまったようなものですけれども、そう言われて引き下がるわけにいきません。それで、いつもマタイの福音書から順に御言葉を聞き続けておりますけれども、今朝は予定を急きょ変更いたしまして、説教セミナーで多くの牧師たちと共に学びました伝道説教の箇所であるこの御言葉に、ともに耳を傾けていきたいと思うのです。 (続きを読む…)

2010 年 6 月 27 日

特別伝道礼拝「あなたの居場所」ピリピ人への手紙3章2-11節

Filed under: 特別説教,礼拝説教 — admin @ 10:30

加藤 常昭

今から二十三年前に「説教塾」というグループが生まれました。今は成長して正式にメンバーとなっている者は二百人を超えます。二十教派を超える説教者たち、牧師、伝道師たちが集まって色々なかたちで説教を学んでいます。明日から名古屋でその学びが四日間あります。ここの教会の鴨下先生も、もうかなり前からこの説教の学びの仲間でありまして、大変親しくさせていただいている若い、頼もしい説教者です。その先生から皆様のこと、この教会のことを何度も伺ってまいりました。今回ようやく導かれて、この日の朝の礼拝をその皆様と共に捧げることができます。
皆様も同じですけど、私は日曜日の朝が来ると、この日曜日はもう二度と戻ってこない、自分の生涯にとってかけがえのない時、その時をこのような礼拝で過ごすことができる。今すでに読まれた聖書の中に「復活に生きる」という言葉がありました。日曜日は主イエス・キリストがよみがえりになったお祝いの日です。その生命(いのち)を祝う時を、今朝は私は皆様と共に過ごすことが出来る。もう二度と帰ってこない。そして恐らく、この教会のこの場所に立って説教することもないかもしれません。その様な思いを込めまして、私は何年か前から、一つの教会の伝統に従いまして説教のはじめに、聖書の言葉によって、説教を聴く方たちに祝福の言葉を贈ることにしています。

今朝、私どもが神の言葉として聴きますのは、伝道者パウロがピリピの教会に書き送った手紙であります。その手紙の中にあります、これはしばしばキリスト教会で祝福の言葉として朗読されるものでありますが、それをここで皆様に贈ります。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。」

アーメン。(ピリピ4:4-7)。

信じること、キリスト者になること。それはどういうことだろう。色々と説明することが出来ます。今朝、司式者によって朗読されましたピリピ人への手紙の第三章の言葉はこの手紙を書いたパウロが、ある意味では珍しいことですけれども、自分の歩みについて、とても簡潔な言葉で自分の生涯を語ってくれているところです。何故、自分がキリスト者になったか。これはとても大きな変化でした。このパウロの言葉の中に、六節に、「その熱心は教会を迫害した程」とあります。パウロ、この人が聖書の中に登場してくるのは、使徒の働きと呼ばれる、教会がどのように最初の歩みを始めたか、ということを語っている書物の最初の方です。教会の指導者の一人でありましたステパノが最初の殉教者になりました。エルサレムで、教会を快く思わない人達によって捕らえられて、石で打ち殺されたのです。血を流して死んだのです。そこでパウロ、その時には「パウロ」という名前でなくて「サウロ」という言葉で、名前で記されていますけれども、サウロはステパノが殺されることに賛成したとはっきり書いてあります。人殺しに賛成したのです。キリスト者を殺すことに賛成した。それどころでないのです。ここに記されているように、その後、教会を迫害して歩いたのです。生まれたばかりのキリスト教会をぶっ潰すというグループの先頭に立ったのです。とっ捕まえて牢に放り込む、キリスト者なんか殺されてしかるべきだと思っていた人です。

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2010 年 6 月 20 日

・説教 「施しの心」 マタイの福音書6章1-4節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:19

鴨下直樹

 今週の月曜日から、長野県の御代田で私たちの教団の牧師の修養会が行われます。今年のテーマは「休息」です。牧師たちが集まり、四日間にわたって「休息」について考えるというのもどうなのかという気がいたしますけれども、その修養会の中で「働きと休息」というテーマで一度聖書からの考察をしてほしいという依頼を受けました。それで、先週はこの説教の準備をするとともに、「休息」ということを考えながら御言葉から聞き続けておりました。そうすると、どうしても考えざるを得ないのは、なぜ「休息」というテーマを選んだのかということです。その一つの大きな意味の一つは間違いなく、牧師たちがゆっくり休むことができないという考えがあるのではないかと思わざるを得ません。

 けれども、ゆっくる休むことができないというのは、牧師たちだけのことではありません。むしろ、様々な仕事をしておられる方々の方が、本当に忙しく働いておられるのではないかと思います。私たちは誰もがそうですけれども、この「忙しい」という言葉を好んで使います。「忙しいから出来ない、無理」というようなことを言うことが、現代の口癖になっていると言っても言い過ぎではありません。そうすると、そこでどうしても「休息」ということともに考えざるを得ないのは、今日の聖書の御言葉です。 (続きを読む…)

2010 年 6 月 13 日

・説教 「神の愛に生きる」 マタイの福音書5章38-48節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:21

鴨下直樹

 先ほど、司式者が読まれた聖書の言葉を皆さんはどのようにお聴きになられたでしょうか。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と、私たちはここでいくつものよく知られた主の言葉を聴きました。しかし、私たちはこのような御言葉を聞くと、自分にはここで語られているようなことはできない、できるはずがない、と読むのが普通であろうと思います。私たちはこの聖書の御言葉を耳にする時、耳をおおいたくなるのです。それほどに、現実離れしているように思える言葉が、ここに続けざまに記されていると思うのです。

 山上の説教はどこの箇所も、このように一見、実行不可能と思えるような言葉が続いて語られています。そして、ここにきて、それが頂点に達したような厳しさで語られていることに私たちは戸惑うのです。そこで今朝は、一度で聞くには内容の多いところではありますけれども、少しづつ順に今日語られている主の言葉に耳を傾けていきたいと思います。 (続きを読む…)

2010 年 6 月 6 日

・説教 「心からの言葉」 マタイの福音書5章33-37節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:53

 

鴨下直樹

 今、マタイの福音書の山上の説教から順に御言葉を聞き続けています。主イエスはここで律法学者やパリサイ人にまさる義とは何かということを六つの視点で語っておられます。そして、今日の箇所はその四番目に当たります。殺してはならない、姦淫してはならない、そして離縁に関する教えを語られ、つづいて「偽りの誓いを立ててはならない」という戒めについて語られます。姦淫と離縁というのは、いずれも誓いをするということと深く結びついています。ですから、これに続いて、主イエスがここで誓いについて話されたのは当然の順序であるといえるかもしれません。

 誓いをするということは、私たちの生活を振り返ってみますと、それほど多くないと感じているかもしれません。スポーツを行う前に選手宣誓などということをいたしますし、裁判の場所で誓約するということがすぐに頭にでてくるかもしれませんが、いずれも日常の生活では多くはないと思います。私自身のことを考えてみますと、誓いというのは、大人になってよりも子どもの頃の方がよくしたのではないかと思えるほどです。「指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指きった。」などという誓いを、子どものころ遊びながらよくさせられました。みなさんもそういう経験がおありになるのではないかと思います。先週の説教でも触れましたけれども、結婚式で誓約をいたします。あるいは牧師が就任するときにも誓約をいたしますし、あるいは、会社に入社する時や、何高額な商品を買う時にも誓約書などというものを交わします。そのように考えてみますと、誓約というのは私たちの生活の様々な場面でしていると言えると思います。

 

 ところが、子どもの頃から今日に至るまでそうかもしれませんけれども、私たちは口で誓約するということをそれほど大切に考えていないと言うことができます。政治家たちがすでにそうです。国会で、証人喚問などという場面で誓約をいたしますけれども、誰も事実を証言しているなど思っていません。そのような時の誓約というのは形式上しているだけのことだとどこかで考えているのです。言ってみれば、建前でしていると考えるのです。それは子どものころからそうです。その場を取り繕って指きりをするのですが、約束した通りできるかどうかはその時になってみなければ分からないと考えているのです。

 

 そもそもなぜ誓約などという儀式が生まれたのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 5 月 30 日

・説教 「情欲と信仰?」 マタイの福音書5章27-32節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:21

鴨下直樹

 椎名麟三というプロテスタントの信仰を持った作家がおりました。最近では、残念ながらこの人の本はあまり読まれなくなってしまいましたが、この作家の作品は沢山の大切なことを私たちの心に問いかけてきます。この椎名麟三の代表的な作品に、「私の聖書物語り」というものがあります。自分が聖書を読みながら、どのようにして信仰を持つようになったのか、その格闘が記されている、言ってみれば信仰の証しとも言える小さな書物です。

 この人は、この本の始めの方で、自分は信仰の門をたたこうとして聖書を読んだ、そして、読めば読むほど、その門の堅さを知るばかりであった。と言って一つの聖書の箇所を取り上げています。それが、この「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」という箇所です。そこに小さなエピソードが記されています。戦争の直前のことです。この人はある会社で事務員として働いていました。そこに、痩せた男まさりの女の上司がいました。特にこの人に異性を感じることはなかったといいます。ところがある日、この女性が椅子にのって天井に近い棚から荷物を降ろそうとしていた時に、椅子が動いたため倒れそうになった。それで、あわててこの人の腕を支えた。その瞬間思いがけなく、この人に女を感じた。この本にはこう記してあります。『どうもなかったですか。』と尋ねた私の心臓は、残念なことにドキドキ音を立てていたのである、と。そして、このような経験からこの作家は語るのです。男にとってある人を女として見るのは、情欲を抱くということと、言葉の深いところでは同じ意味なのだと。だから、ここで主イエスが言われる命令は、人間の限界を超えた要求なのであって、人間をやめろと言われているようなものだ。これが罪だというのであれば、もはや笑うしかないと。そして、こんな説明をしています。それは、「なに、飛べない?そんなら君は地獄行きだ。」と言われているようなものだと、この椎名麟三は思ったと言うのです。そこにさらに、こう書いています。百歩譲って、その罪はどうしても私に責任があるというならば、私を飛べない人間に造った神に責任があるのではないのか。これが、キリスト教の門をくぐろうとした時の、最初の門の堅さであったと書いているのです。

 この椎名麟三の持った問いは、恐らく多くの人々の心の中にある声を雄弁に語っていると言えます。「情欲を抱いて女を見る者は既に姦淫を犯したのだ」と言われても、そんなことできっこないと思うのです。

 けれども、もしそうだとすると、もし、私たちにそのようなことが出来ないと思うのだとしたら、そこで私たちは立ち止まって考えてみなければなりません。なぜ、できもしないと思えることを主イエスはここでこれほど丁寧に語っておられるのかということを。 (続きを読む…)

2010 年 5 月 23 日

・説教 「怒りを捨てて」 マタイの福音書5章21-26節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:36

 

鴨下直樹

 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 (21節)

 律法学者とパリサイ人にまさる義を語るために、主イエスはこの21節から六つのテーマでお語りになります。その最初に記されているのが、「殺してはならない」という戒めです。そして来週は「姦淫してはならない」という戒めについて順に学ぶことになります。つまり、ここでは十戒の後半部分、隣人を愛するという戒めの部分を、主イエスが語りなおしておられることが分かります。

 昨日も古川さんの家庭で家庭集会が行われました。そこで今、十戒を学んでいます。先日は第七の戒めである「姦淫してはならない」という戒めを学びました。ですからちょうどひと月前は、この「殺してはならない」という第六の戒めを学んだのです。その時すでに語ったのですけれども、この殺してはならないという戒めを積極的に言い換えるとするならば、「生きよ」ということです。神は、この戒めを通して人が神に与えられた生活を喜び、生き生きと生きることを願っていてくださるのです。けれども、そのような生活を奪い去ってしまうような、人を殺すということが起こってしまうようになってしまいました。その理由は、色々と考えられると思いますが、その背後にある根本的な理由は怒りです。憤りです。神が生きて欲しいと願っておられるのに、自らの怒りを正当化するあまりに殺人が行われてしまうのです。 (続きを読む…)

2010 年 5 月 16 日

・説教 「神の義が行われる時」 マタイの福音書5章17-20節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:55

鴨下直樹

先日の祈祷会の時のことです。ある方から「神のみこころはどのようにしたら分かるのでしょうか」という質問がありました。これは、信仰に生きる者の多くの方々が持つ問いだと思います。神のみこころを問うというのは、多くの場合がそうですが、自分のする判断が正しいかどうかを確認したいと思う時に持つのではないでしょうか。
私は長い間、私たちの同盟福音基督教会で学生の担当教師をしてきました。毎年のように夏のキャンプの時期になりますと、進路を決めるために学生たちから相談を受けます。その場合に、時折聞かれるのが「私が神さまのみこころの仕事に就きたいので、神さまが私にどのような進路を考えておられるのか知りたい」というものです。ここにおられる方々の中でも、かつてそのように考えられた方がおられるのではないかと思いますし、今でもさまざまな形を変えて同じような問いを持つことがあると思います。この問いは進路のみならず、私たちが大事な決断をする時に、神のみこころに叶うかを知りたいと思うのです。 (続きを読む…)

2010 年 5 月 9 日

・説教 「地の塩、世の光」 マタイの福音書5章13-16節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:54

鴨下直樹

 今年も早いもので、もうゴールデンウィークが終わりました。今朝礼拝に来られたみなさんの顔を見ていますと、少しリフレッシュすることができたのかなと思っています。しかし、休みが終わって、また同じような一週間が始まるというのは、時として少し重たい気持ちになります。けれども、この朝、礼拝に集ってもう一度御言葉を聴いて、新しい思いで出かけていこうと思っておられる方も多いのではないかとおもいます。

 今、礼拝でもマタイの福音書を読み進めておりまして、先日のところで山上の説教の一つの区切りを迎えたと考えることができます。山上の説教の冒頭にある、主イエスが語られた、幸いを告げる言葉の部分が終わったのです。この山上の説教の冒頭で、主イエスは八つ、もしくは九つの幸いをお語りになりました。そして、その幸いの祝福の最初と最後の言葉は「天の御国はその人のものだからです」とお語りになりました。ここで語られているように、主イエスは「天の御国」に人々を招くために宣教を開始されました。ですから、「悔い改めなさい、天の御国は近づいたから」という言葉を、主イエスは宣教の始めに宣言なさったのです。「天の御国」、「神の国」への招きこそが、福音そのものです。

 しかし、「天の御国」、あるいは「天国」という言葉を耳にする時に私たちはすぐに、あちらの世界に生きること、と考えてしまいます。「天国」というのは、まるで死後の世界のような響きがあるからです。けれども、主イエスが語られる「天の御国」、「神の国」というのは、すでに何度も語っていますけれども、そのようなあちら側の世界の事ではありません。 (続きを読む…)

2010 年 5 月 2 日

・説教 「逆境の中にあって」 マタイの福音書5章10-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:27

鴨下直樹

 今日私たちに与えられている御言葉は「迫害されている者は幸いである」という御言葉です。お気づきのように、この幸いを告げる祝福の言葉は、「心の貧しい者は幸いです」から始まって、今日の所まで続いています。ですから、ここが最後の部分にあたるわけです。そして、ここで語られている言葉は次第に厳しいものになってきていることに気づかれているのではないかと思います。

 「迫害」と「幸せ」という言葉ほど相容れないものはありません。「迫害される」というのは厳しいことです。この日本において、これまで様々な迫害の歴史がありました。今日でもキリスト者と呼ばれる人々は少数者です。そして、そのために、さまざまな殉教の歴史が刻まれてきました。特に、このあたりにはキリシタンの史跡と呼ばれる所がいくつもあります。私が神学生の頃のことですけれども、この地域の宣教の歴史を学ぶ「東海宣教学」というこの地域の神学校ならではの授業がありました。この授業の一環で、地域のキリシタンの史跡を訪ねる旅をしたことがあります。この芥見教会でも、同じような旅をかつてしたことがあると聞いていますけれども、例えばお隣の可児市やその隣の御嵩町にマリヤ観音やキリシタンの史跡がいくつも残っておりまして、色々なところを訪ねた最後にそこを訪ねたのです。あまり知られておりませんけれども、この地域には隠れキリシタンの里があったということが最近の研究で知られるようになりました。私たち神学生たちが尋ねたときに、ここを案内して下さった地域の歴史家の方からお聞きした話は、私にとって非常に印象深いものでした。 (続きを読む…)

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