「礼拝説教」カテゴリーアーカイブ

・説教 マタイの福音書9章27-34節 「頑なな心と向き合われる主」

鴨下直樹

2011.2.20

このマタイの福音書の八章と九章というのは、主イエスが生き生きと人々の中に入って行かれて伝道をなさった姿がしるされているところです。前回もお話ししましたけれども、ここには全部で十の奇跡が記されています。そのように、数多くの奇跡を行いますと、私たちがそこで想像するのはさまざまな称賛の言葉で終わるのが普通だと考えます。ところが、このマタイの福音書は、数々の奇跡を見たパリサイ人たちの言葉を結びの言葉として、こう言わせています。

「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

そのように三十四節に記されています。一般的な感覚から言えばおかしいのではないかと感じるところですけれども、マタイはそのように描いたのです。主イエスが素晴らしい言葉を語り、素晴らしい奇跡を起こし、人々が驚くにつれ、どんどんと人々が集まってきて、救われるようになった。こうして最初の教会と言うのは大盛況だったのだと、聖書は記しておりません。むしろその逆です。人々の心はますます頑なになり、ついには、このお方を十字架につけて殺してしまったのだと言うのです。そして、事実そのようになったのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書9章27-34節 「頑なな心と向き合われる主」

・説教 マタイの福音書9章18-26節 「絶望に立ち向かわれる主イエス」

鴨下直樹 

2011.2.13

 

先週のことです。いつも教会の掲示板に説教のタイトルを綺麗に習字で書いてくださる方がありますけれども、それを見て、妻が駆け込んできました。あのタイトルは何だというのです。ご存知のように、先週の週報でもそうでしたけれども、「長血の女」と書かれていました。妻が私に言うには、綺麗に墨で「長血の女」と書いてあるのを、街の人が見たらなんと思うかと言うのです。ひとこと、「ホラー映画でもあるまいし」という言葉付け加えてです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書9章18-26節 「絶望に立ち向かわれる主イエス」

・説教 マタイの福音書9章14-17節 「新しい革袋」

 

2011.2.6

 

鴨下直樹

 

 今日の聖書の箇所は先週のパリサイ人との論争に引き続いての出来事です。ですから、本来であれば、先週に引き続いてひとまとめに語ることができればよかったのですけれども、残念ながらその時間はありませんでしたので、こうして二度に分けて御言葉を聴こうとしているわけです。そこで、みなさんに心にとどめておいていただきたいのは、先週お話ししました、この前に記されているパリサイ人の問いである「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」と深く関わりあっているということです。

 それで、ここでパリサイ人に続いて主イエスに問いかけているのが、ヨハネの弟子たちです。このヨハネの弟子たちというのは、主イエスに洗礼をさずけたバプテスマのヨハネの弟子たちのことです。主イエスはこのバプテスマのヨハネから洗礼を受けておられるわけですから、ヨハネの弟子たちとしてみれば、主イエスは当然、自分たちの仲間であると考えていたでしょうし、ひょっとするとイエスというお方は、ヨハネ先生の弟弟子であると考えていたかもしれません。そのように、自分たちと近い関係であるならば、当然自分たちと行動を共にするだろうと考えたのは、私たちにもよく分かることです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書9章14-17節 「新しい革袋」

・説教 マタイの福音書9章9-13節 「罪人を招かれる主イエス」

2011.1.30

 

鴨下直樹

 

「わたしについて来なさい」という主イエスの招きの言葉がここに記されています。主イエスについていくということは、主イエスの姿を見上げ続けるということです。そして、ここに、私たちキリスト者のあり方が語られているということができます。キリスト者とは何か、どのような者であるかと問われたら、私たちは、キリストの後に従う者ということができるのです。

さて、興味深いのはここで主イエスに招かれているのは「収税所に座っているマタイという人」と記されています。もちろん、この福音書を記したマタイのことです。自分で記した主イエスの物語の中に、自分自身のことを書くというのは考えてみると興味深いことです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書9章9-13節 「罪人を招かれる主イエス」

・説教 「罪を癒される主イエス」 マタイの福音書9章1-8節

鴨下直樹

今日、私たちに与えられている聖書のテーマは罪の赦しです。もう、キリスト教会では手垢のついた教理だと言ってもいいほどに、教会に通うようになりますと語られるテーマです。今、手垢のついた、と少し極端な言い方をしましたけれども、大げさだとは言い切れないほどキリスト教会の看板となっていると言っていい言葉だと思うのです。
先週私たちの教会は、宣教を開始してから三十周年を迎える祝いの礼拝を行いました。その間、私で八人目の牧師になるということでしたから、これまで、さまざまな宣教師や牧師から罪の赦しの語りかけを聞いてきたということになります。けれども、同時に今朝、ここで私がみなさんに問いたいことは、罪の赦しが本当に分かっていると言えるかという問いです。私たちは、なかなか罪が赦されるということについても、あるいは人の罪を赦すということについても、いつもさまざまな葛藤があります。悔い改めるということにしても簡単なことではありません。それは、別の言い方からすれば、やはり罪の赦しということがよく分かっていないからなのではないかと思うのです。けれども、私たちにとって罪の赦しがよく分かる時に、私たちは本当にこの地で自由に生きることができるし、また、私たちの伝道も、この罪の赦しがよく分かるところからしか進んでいかないのです。

今日、私たちに与えられている聖書の物語は、「中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んできた」と記されています。この出来事はマルコの福音書にもルカの福音書にも同じように記されていますけれども、他の福音書と読み比べてみますと、マタイの福音書とはかなり異なった印象を持つと思います。他の福音書ではこの病の人を四人の友達が主イエスのみもとまで運んで来るのですが、場所がないために屋根をはがし、つり下ろしたと記されています。私たちはこのように、人の家の屋根をはがして病人をつり下ろすというような出来事は、印象的な出来事ですから良く覚えていると思います。けれども、マタイはそのような出来事は書かないで、むしろ、他のことを良く覚えていたようです。 続きを読む ・説教 「罪を癒される主イエス」 マタイの福音書9章1-8節

・説教 マタイの福音書 「楽譜から読み解く聖書」

赤塚尚武 執事

2011.1.9

 

マタイによる福音書 第5章4節

 

 

 悲しむ者は幸いです。 その人は慰められるからです。 (新改訳版)

 

 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。 新共同訳

 

 Selig sind,  die da Leid tragen,  denn sie sollen getroest werden.

ルター版

 

     Gluecklich zu preisen sind sie,  die trauen; denn sie werden getroestet

     werden.

ジュネーブ版聖書最新版

 

 

 私たちは文字を通して聖書を読み、祈ったり、喜んだり、希望をもったりしています。

 画家たちは聖書の僅かの短い御言葉から、素晴らしい作品を世に残しています。

 では、音楽の世界はどう聖書を表現しているでしょうか? 

 本日は作曲家たちが、聖書をどのように楽譜に表現したのかについて具体的に見てみたいと思います。 続きを読む ・説教 マタイの福音書 「楽譜から読み解く聖書」

・説教 「主の善き業に支えられ」 ローマ人への手紙12章21節

鴨下直樹

2011.1.2

新年礼拝説教

 

 

新年のローンズンゲンによる新年聖句

「悪に負けることなく、善を持って悪に打ち勝ちなさい」新共同訳

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」新改訳

 

 

2011年を迎え、今朝は今年最初の礼拝を共に祝っています。特に、この朝は新年礼拝ということもあって、今年のローズンゲンによる「日々の聖句」の今年の年間聖句から共に御言葉を聴きたいと願っています。

 

 この新しい年に私たちに与えられているのは「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」という御言葉です。 続きを読む ・説教 「主の善き業に支えられ」 ローマ人への手紙12章21節

・説教 「宿もない者となられた主イエス」 マタイの福音書8章18-22節

鴨下直樹

2010.12.26 クリスマス礼拝

 

 

 今朝は十二月の二十六日です。二十六日というと、私たちの周りではクリスマスの騒ぎは終わりまして、すぐさまお正月の準備に移ります。お店なども、大変あわただしく模様替えをしなければなりません。ところが、この芥見教会ではこの日曜日にクリスマス礼拝をしています。一般的な感覚からすれば、まだそんなことをしているのかというような思いを持たれる方も少なくないと思います。

 教会の暦では今日は降誕祭次日と言います。ヨーロッパなどのいわゆるキリスト教国と呼ばれている国ではこの日までが休みです。今日もまたクリスマスの祝いをする日なのです。いや、今日だけではありません。教会の暦では一月の六日をエピファニーといいまして、やはりこの日も休日になったりいたしますけれども、東の国の博士たちが主イエスを礼拝した祝いの日としています。この日までをクリスマスの祝い期間とするのです。

  続きを読む ・説教 「宿もない者となられた主イエス」 マタイの福音書8章18-22節

・説教 「病をいやされる主イエス」 マタイの福音書8章14-17節

鴨下直樹 

2010.12.19

 

 

さきほど、洗礼入会式を行いました。洗礼を受けた、Mさんは子どものころから教会に通っています。親がキリスト者であるということは、子どもにとって、子どもが考えている以上に大きな祝福があります。今日は洗礼入会式のある礼拝ということもあって、子どもたちも一緒に礼拝しておりますけれども、子どもたちにもぜひ覚えてほしいのは、自分もMさんと同じように、親と同じ信仰に生きるということがどれほど幸いなことかということを積極的に考えてほしいと思うのです。

さきほどもMさんの証しを聞きました。Mさんは高校を卒業するころになって病になりました。そのために決まっていた大学も諦めなければならなかったというのは、とてもつらいことです。けれども、そのことがきっかけとなって、聖書の学びをするようになりました。聖書にはたくさんの癒しの出来事が書かれているからです。自分も癒されたいと願ったのです。 続きを読む ・説教 「病をいやされる主イエス」 マタイの福音書8章14-17節

・説教 「われらを救われる主イエス」 マタイの福音書8章1-13節

鴨下直樹

 

 2010.12.12

 

 主イエスのお語りになった山上の説教が終り、主イエスは山を降りられました。山を降りられて、人々の生活の中に入って行かれたのです。そして、そこで、さまざまな困難な状況にある人々と主イエスはお会いになられました。山の下で、多くの人びとは主イエスが自分たちの生活の場所に足を踏み入れてくださるのを心待ちにしていたのです。

このマタイの福音書の八章に記されているのは、奇跡の物語です。もっと言えば癒しの出来事が記されています。人びとはさまざまな病、さまざまな悩みを抱えていました。そして、そのように人々のあらゆる患いの主イエスは入って行かれ、そこで、人びとは主イエスと出会ったのです。 続きを読む ・説教 「われらを救われる主イエス」 マタイの福音書8章1-13節