2011 年 8 月 14 日

・説教 マタイの福音書14章1-12節 「喜びの食卓の中の悲しみ」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:42

 

 

2011.8.14

 鴨下直樹

 

 今朝、私たちに与えられている聖書の個所は多くの画家たちによって描きだされ、あるいは、戯曲やオペラの映画などのテーマにもなっている良く知られた物語です。そこではこの少女の名前「サロメ」というテーマがつけられることがほとんどです。

 ところが、すでにお気づきの方も多いと思いますけれども、今お聞きになられた聖書の中には、この「サロメ」という名前は一度も出てきておりません。これは、マタイの福音書のみならず、他の福音書にも記されていないのです。けれども、このヘロデヤの娘の名前はサロメであるということは、もはや誰もが知っています。といいますのは、この時代の歴史学者のヨセフォスが、このバプテスマのヨハネの殉教の物語をずいぶん詳しくその歴史書の中で記しているからです。そこに、このヘロデヤの娘の名前がサロメであったということがはっきり記されているのです。

 サロメという名前は、へブル語のシャロームという名前に由来する言葉です。平和という名前なのです。しかも、ここでは少女であると記されています。十代の半ばであっただろうと考えられています。十五、六歳の平和という名前の少女です。そのような名前を持つ少女がここで、「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言ったと言うだけでも確かに人の心をひきつけるものがあるのかもしれません。そして、この考えられないような非日常的な出来事に、多くの人々が想像力を掻き立てたのです。

 そのような想像力は、最後にはまだ少女であったこのサロメがバプテスマのヨハネを愛していたのではなかったかというところまで膨らんで行きます。そして、その愛が叶わないのであれば、首を求めるものによってまでして、自分のものにしようとしたという、女の恐ろしいばかりの愛の執念というモチーフが多くの芸術家のかっこうの題材になったのでした。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 31 日

・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:49

 

 

2011.7.31

 鴨下直樹

 

 

 今日、私たちに与えられている聖書の個所には大変有名な言葉があります。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです。」

 この「預言者は自分の郷里では敬われない」という言葉は色々なところで使われました。例えば牧師が、自分の故郷で伝道すると言う時には、必ずと言ってもいいほど引用されます。「イエス様だってできなかったんだから、自分にできるはずがない」と言うのです。

 

 私が神学生のころに、比較宗教学という授業がありました。その中で、当時世間を騒がせていた宗教団体、無差別殺人を企てるような反社会的な宗教のグループがありまして、その教祖の書いた物をレポートするという課題がありました。それで、その教祖の書いた本を手にとって読んだのですけれども、どうしてこんな稚拙な文章しか書けないような人物のところに、多くの学歴の高い人々が虜になったのか良く分からいくらいでした。

 その本の中にはいくつもの聖書の言葉を引用しています。その中でも特に印象をもったのが、この「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです」という言葉を用いて、自分は自分の故郷にいくと、敬われていないのだと述べて、だから自分はメシヤなのだという論理で書き記しているのです。故郷の人や、家族と言うのは、本当の自分のことを分かってくれないのだ、見抜けないのだというのです。メシヤにはそのような苦しみがあるのだと言っているのです。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 24 日

説教:マタイの福音書13章44-52節 「天国の専門家として」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:36

2011.7.24

鴨下直樹

先週の日曜日、私はマレーネ先生と一緒に青年キャンプの奉仕に行ってまいりました。青年キャンプのテーマは「旅」です。聖書の中には旅を連想させる言葉がいくつもあります。

今、水曜日と木曜日の祈祷会で創世記をずっと学んでおりまして、現在はヤコブのところをもう少しで終わろうとしています。この祈祷会でアブラハムの生涯から順に学びはじめまして、ヤコブのところまで来たのです。私が、聖書の中から「旅」と聞いて直ぐに思い起こすのは、このアブラハムの生涯です。先日も、祈祷会の時に、少しアブラハムの生涯を振り返ってみたのですけれども、アブラハムの旅というのは、大変なものであったと言っていいと思います。まず、神から約束の地に行きなさいと言われて、約束の地、カナンの地に到着するのですけれども、そこには食べ物がなかったのです。到着したという報告もないままに、聖書は「さて、この地にはききんがあったので」と創世記第十二章十節に書かれています。

みなさんでも、そうでしょうけれども、どこかに旅行に出かけて、ついたホテルに食事がなかったなどということになったら、そんな旅行契約を立てた旅行会社に文句を言いたくなるでしょう。神様が旅を計画してくださるのだから、安心して身を預けたらいいということが記されているかと思うと、そんなことは全くないのです。

主イエスもまた、アブラハムと同様、旅の生涯をおくった人と言っていいと思います。ところが、主イエスもまた、天からこの地にお生まれになった時から、泊る宿さえなかったのだと、このマタイの福音書は記しています。神が私たちに与えてくださるこの人生の旅路というものは、どうも、それほど居心地のよいものではなさそうです。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 10 日

説教:マタイの福音書13章24-43節 「よいものと悪いものとの中で」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 21:55

2011.7.10

鴨下直樹

マタイの福音書の第十三章にはいくつもの主イエスがなさったたとえ話があります。有名なたとえ話と、あまり知られていないたとえ話があります。有名な、というのは少し正しくないかもしれません。よく耳にするたとえ話というのがあるのです。それは、なぜかと言うと、ほかの福音書にも同じたとえ話がでてくるからです。けれども、今朝、私たちに与えられているこのたとえ話は、主イエスがなさったたとえ話の中でも、マタイの福音書にしか記していません。ですから、それほど良く知られているたとえではないと言えるかもしれませんけれども、だからと言ってそれが大事の話ではないということにはならいのです。そのたとえ話が二十四節から三十節までに記されている、一般に「毒麦のたとえ」と言われているたとえ話です。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 3 日

説教:マタイの福音書13章1-23節 「天の御国の秘密」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:20

2011.7.3

鴨下直樹

私たちの教会では年に二回、「楽しいキリスト教美術講座」を行なっています。前回は二週間前に行なわれました。講座を開いてくださっているのは、私たちの教会の長老でもあり、岐阜県美術館の館長でもある古川秀昭さんです。特に、今回は20世紀の宗教画家ともいえるジョルジョ・ルオーの絵を紹介してくださいました。

これは大変興味深い講座でして、いつもよりも多くの方々が参加してくださいました。この講座の中で古川さんが、いくつも興味深い話をしてくださいましたが、私の心に特に残ったのは、このルオーが娼婦と道化師を沢山描いているのですが、どれも非常に醜く描いているということでした。あるいは裁判官も描いているのですが、それもやはり非常に醜く描かれているのです。なぜ、そのような人間をルオーが好んで醜く描くのかというと、古川さんはその講座の中で、醜い人間の姿のなかに、現代の人間の闇を捕らえていて、そこに、キリストの光が届くことを願っていた画家であったと言われました。 (続きを読む…)

2011 年 6 月 12 日

説教:マタイの福音書12章38-45節 「届く言葉を与えられ」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 21:40

2011.6.12

鴨下直樹

今朝、私たちはペンテコステの主の日の礼拝を覚えて祝っています。ペンテコステと言うのは、神の霊が、弟子たちの上に与えられて新しい存在へとされたことを覚えて祝う日です。私たちが真の人間として回復される、本当の自分を取り戻すことができることを覚えて祝う日です。ですから、この朝私たちは、この希望を覚えて祝っているのです。

今、私たちはマタイの福音書の十二章を学んでいます。この十二章の大部分の割合をしめていますのは主イエスとパリサイ人たちとの論争です。論争というくらいですから戦いです。勝ち負けがつくのです。もちろんそのように挑んで来ているのはパリサイ人たちです。けれども、そのきっかけは、当時のユダヤ人たちが働いてはならないとしてきた安息日に、主イエスの弟子たちが麦を摘んで食べたことからはじまっています。そして、その後で、まるでこのパリサイ人たちに挑むかのように会堂で癒しの業をなさったのは、主イエスの方からでした。ところがこの癒しを見て、パリサイ人たちは、これは悪魔の頭が悪霊をお追い出しているだけのことと、調子に乗ってその種明かしをしたのです。それに対して主イエスはそんなことは論理的にも起こり得ないことだし、また、その罪は赦されない罪だと言われたのでした。 (続きを読む…)

2011 年 6 月 5 日

説教:マタイの福音書12章22節―37節 「真実の言葉をもって」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 23:09

2011.6.5

鴨下直樹

私たちの教会には、他の教会にないいくつかの特徴がありますが、その一つは何と言っても俳句の句会が行われていることでしょう。毎月新しくこの会に加わってくださる方が起こされていまして。とても賑やかな、楽しいひと時です。

ところが、会がはじまりますと、みんな黙ってまわってきます俳句を次々に書きとめます。良いと思った句を書きとめて行くわけです。それで、最後に自分が選び取った句を詠みあげますと、誰が書いたかという名乗りを上げます。その時まで誰が書いた句であるか分かりません。昨日も中にいくつも面白い句がありました。

「大百足(おおむかで)滅多切りして礼拝へ」

礼拝に来る前に大百足が出たのでしょう、それを切り刻んでから礼拝に来たというのです。私はすぐに教会に来ておられるある男性の顔を思い浮かべながら一人で笑い堪えるのに必死でした。この句は何人かの方が選んだのですけれども、これは教会の執事もしておられて、同人でもある古川昭子さんの句でした。ちょっと意外だったのです。

すると、すぐに疑われた方が、「『人は見かけによらん』と昔から言うではないか」と言って、みなで楽しく笑いました。見かけによらずあの人はずいぶん厳しいことを言うなどということは実際にあるわけで、その意外性にびっくりいたします。俳句の場合はこの意外性がまた面白いところであるのかもしれません。 (続きを読む…)

2011 年 5 月 22 日

説教:マタイの福音書12章9-21節 「傷ついた葦を折ることなく」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 23:38

2011.5.22

鴨下直樹

「栴檀」という、この岐阜にあります俳句の結社があります。私たちの教会員である辻恵美子さんが主宰をしておられます。昨日のことですけれども、この栴檀の十周年記念記念式典に招かれまして出席してまいりました。俳句の世界でも、系譜というものがあるようで、その中でなされた講演の中で系譜というものを大切にするということが語られました。非常に興味深い内容の講演です。

今、私は「俳句でも」と言いましたけれども、教会も系譜というものがあります。私たちの同盟福音という教会は、プロテスタントという流れにあります。また、敬虔主義の流れの中にある福音主義の教会、あるいは、自由教会の流れを持っているということもできます。敬虔主義であるとか、福音主義とか、自由教会などと言っても説明がなければ良く分からないかもしれません。ですから、そのようなことを理解する意味でも、自分たちの流れを学ぶということは大変有意義であると思います。しかし、残念ながら、この朝、このことについて説明をするいとまはありません。けれども、教会というのもまた、歴史の中でさまざまな戦いを通して、いくつもの派に分かれて今日まで来たということができます。

私が教会の歴史の中で起こった分裂を説明する時に、「キリステ教会」という言葉を使うときがあります。その場合、あまり良い意味で説明しているわけではありません。教会の歴史を振り返ってみると良く分かることですけれども、それぞれの主義、主張が異なると一緒にやっていくことができないと考えて、どんどんキリステ(切り捨)ていった、分裂していったという部分があるのです。 (続きを読む…)

2011 年 5 月 15 日

・説教 マタイの福音書12章1-8節 「真の安息を与えてくださる主イエス」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 10:13

 鴨下直樹

2011.05.15

 

 

 先週の水曜日と木曜日の聖書学び会の時に、妻の愛が御言葉を語りました。聖書の個所は出エジプト記第二十章八節から十一節までの「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という十戒のところからです。私が言うのもなんですが、大変良い御言葉の解き明かしでした。スイスの神学者ヴァルター・リュティーが書きました「あなたの日曜日」という小さな書物があります。その本を手掛かりに、ここで語られていることを、自分なりに語りなおしたのです。

 この本については何度か教会でも紹介しております。最初に記されているエッセーは次のような言葉で始まります。

「月曜日の朝の野らで働く丈夫な馬は声高くいななきます。一週間の作業がはじまるこの最初の日には、馬具をつけてもらう間ももどかしげに、せかせかと落ち着きません。やがて、いつもよりさっさと納屋から駆け出すと、ぐいぐい綱を引っ張っていきます。 私たち人間もまた、月曜日の朝はいつもと違うようです。一週間を通して、月曜日の朝ほど、職場への道がつらく感じられる朝はありません。」そんな語り出しです。 (続きを読む…)

2011 年 5 月 1 日

・説教 マタイの福音書11章7-19節 「主の備えを見よ」

Filed under: 礼拝説教 — admin @ 14:26

 

鴨下直樹

2011.5.1

 

 先日の29日に、名古屋の一麦教会で私の関わっております東海聖書神学塾が主催してCS教師研修会が行われました。講演をしてくださっのは、神学塾の塾長であり、説教学の教師でもある河野勇一先生です。テーマは「福音を聴き語るために」というもので、教会学校の教師たちが説教するためにどのように備えるかということをお話くださいました。そして、この講演は本当に素晴らしい講演でした。

 その講演の最初に河野先生がこんな話をなさいました。字のない絵本と言いまして、昔からよく教会でつかわれる福音を語る教材があります。四つの色をつかって福音を語るという昔かある一つの福音の語り方があります。最初に黒色を見せまして、罪の説明から始めるわけです。あなたの心の中に、人を憎む思い、赦せない心がありませんか、そういう思いは罪ですと始まるのです。一般に言われることですけれも、教会に来るとすぐに語られるのが「罪」という言葉です。けれども、私たちが日常に使う罪という言葉は、何か犯罪を犯したという場合に使いますから、罪があるなどと言われても、言いたいことがなかなか伝わりません。聖書というのは、そもそも、イスラエルの民、もしくは教会に向けた書かれたものですから、神の救いを知っている人々を前提に語りかけられていると言われたのです。そうすると、神の救いを知っているにも関わらず、神から離れる、神に背く、そのことが罪であると聖書は語っているので、いきなりあなたは罪びとですよと、語りかけるのは問題ではないかという問題提起をなさいました。そして、神がどのように私たち人間をおつくりになり、どのように生きることを願っておられるかを語ることが重要だという話をなさったのです。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.220 sec. Powered by WordPress ME