2017 年 4 月 16 日

・説教 マルコの福音書16章1-8節「復活の朝」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:56

 

2017.04.16

鴨下 直樹

 
 「イースターおめでとうございます!」
 今朝は、イースターです。主イエスがよみがえられた日をお祝いする日です。昨年くらいからでしょうか、ショッピングセンターでも頻繁にイースターという言葉を見かけるようになりました。日本では何でも商売にからめて祭りごとにしてしまう風習がありますが、個人的にはイースターが知られることは大歓迎です。一人でも多くの人に、このとても大切な日に関心をもってもらえることは嬉しいことです。
 先ほども、主イエスの十字架から復活までの紙芝居をしていただきました。これで、今日初めてイースターのお祝いに来られた方々にも、少し、この出来事の物語がお分かりいただけたのではないかと思います。

 最初に私は「イースターおめでとうございます」と挨拶しました。けれども、よく考えてみると、不思議な挨拶です。ドイツでは「おめでとう」というよりも、「イースターの喜びがありますように。」とか「イースターの祝福がありますように」という挨拶をします。

 けれども、死んだ人が生き返るというのは、「おめでとう」と言えることなのでしょうか。喜びなのでしょうか。

 先ほどお読みした、マルコの福音書は、主イエスの復活のことを最初に記録した福音書です。このマルコの福音書は、イースターの朝に起こった出来事の最初の記録です。三人の女たちが、十字架で殺されて墓に葬られている主イエスを、それまでの風習に従って、腐敗を防止するための油を塗りに行こうとしたときのことが記されています。墓に行ってみると、墓の大きな石の蓋はどけられ、そこに青年が座っていて、こう言ったのです。6節と7節です。

「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められたところです。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

 人が亡くなって、三日目に墓を訪れる。今のように火葬にするわけではありませんでしたから、遺体とふたたび対面するということは、悲しみをもう一度思い出すわけです。けれども、この三人の女性たちは墓まで訪ねました。主イエスを愛していたからです。ところが、墓に行ってみると、遺体がないのです。そして、みたこともない青年が、イエスはよみがえったと報告します。

 その時、何を思ったのか、どう感じたのか。イースターの朝、起こった出来事の結末は次のようにマルコの福音書には記されているのです。8節です。 (続きを読む…)

2017 年 4 月 2 日

・説教 詩篇51篇「きよき心を造りたまえ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:13

 

2017.04.02

鴨下 直樹

 
 この詩篇はダビデが大きな罪を犯した後の、悔い改めの詩篇です。しかも、ここで問題とされているのは、人の妻を奪い、その夫を殺害し、それを自分の立場を利用して隠すという極めて重い罪です。しかし、このようなダビデの犯した罪は、その犯した過ちの大きさに目が留まってしまいますが、気づかなくてはならないのは、その罪の本質がどこにあるかということです。私たちは「罪」イコール「悪いことをすること」と考えてしまいがちです。この詩篇は自らの罪に対して、ダビデがどのようにそれを乗り越えようとしたのかが記されています。

 今日は、この詩篇に先立って、第二サムエル記12章を読みました。11章で、ダビデがバテ・シェバと関係を持ってしまってから、どうやってその罪を隠そうとしたのかということが記されています。そして、この12章では、そのダビデに預言者ナタンがたとえ話をしながら、ダビデの罪を指摘するということが記されていました。

 「あなたは罪を犯している」と、その人に面と向かって言うのはとてもエネルギーのいることです。だから、私たちが誰かの罪を目の当りにするときに、それを指摘するのも勇気のいることだし、誰かがきっと忠告するだろうと考えて、見なかったことにするということを選び取ってしまうことも、多くの場合、選択肢の一つに入ってしまいます。しかし、預言者ナタンはそうではありませんでした。ナタンは、神の前に罪が忘れられることはないのだと、ダビデの罪を本人に直接指摘するのです。

 ダビデからすれば、自分で反省して、預言者ナタンに助言を求めたということではなくて、うまく隠し通せたと思っているところで、神の前にその罪が明らかにされたのです。ナタンに指摘された時に、バレたという思いになったのではないかと想像します。心臓が急にドキドキしてきて、普通であればどうやって言い訳をしようかと考えるところです。ダビデがここで犯した過ちを考えてみると、ダビデは、バテ・シェバを自分の妻とするために、十戒の罪をことごとく犯しています。

第十の戒め。「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」。第八戒「盗んではならない」。第六戒、「姦淫してはならない」第五戒「殺してはならない」。

 神の御前に隠されている罪などありません。人は神を侮ることはできません。神はすべてのことを御存じです。たとえそれが、人の目には見えなくても、神はすべてを知っておられます。 (続きを読む…)

2017 年 3 月 26 日

・説教 詩篇130篇「深き淵より主を呼び求める」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:53

 

2017.03.26

鴨下 直樹

 
 受難節の第4主日を迎えました。この詩篇130篇はこの受難節に読まれる詩篇の一つで、七つの悔い改めの詩篇の一つです。ここには直接的な悔い改めの言葉はありませんが、テーマはまさに悔い改めです。

 冒頭の1節。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

とあります。「深い淵」というのは、現代人には少し意味が分かりにくい言葉だと思われます。絶望の穴とでも言ったら良いでしょうか。深くはまり込んでしまって、抜け出せそうにない深い穴に、この詩篇の著者は落ち込んでしまっているのです。

 そういう時に、安易な慰めの言葉は心に届きません。誰からも共感されるとは思えない深い絶望の穴に落ち込んでしまっている人を、簡単に、自分の経験と対比させて慰めることはできないのです。そのような、人からの慰めを拒みたくなるほどの、深い悲しみというのを、人は人生の中で何度も経験するわけではありません。けれども、そうなったときに、どうしたらよいのか。どこに本当の慰めがあるのかと、人は思い患いながら、救いを求めるのです。

 先週の月曜日と火曜日、東海聖書神学塾で教えている教師たちの研修会が行われました。そこで、二人の教師の話を聞く機会がありました。神学塾で教義学といいますけれども、神学を教えてくださっている河野勇一先生は、先日一冊の本を書かれました。『神のかたちの福音』という本です。この本は、聖書が語っている「救い」とは何かということを、非常に分かりやすく解説したものです。先日の発題でも、河野先生が冒頭でこんなことを言われました。教会で「救い」という話しをするけれども、この「救い」という言葉だけを考えてみると、実は中身のない言葉だと言われました。というのは、「救い」という言葉だけでは、その救いの内容について、まるで分らないわけです。病気で苦しんでいる人の救いは、癒されることです。人間関係で悩んでいる方からすれば、その人との関係が修復されることが救いです。経済的に困っている人は、お金の問題を解決することが救いです。一言で、救いと言っても、その内容はそれぞれ異なっているわけです。

 ですから、そういうふうに考えてみると、この詩篇が語っている「深い淵」という言葉も、それを「絶望の穴」と言い換えてみたところで、その内容については、聞く人それぞれで思い描くことは違うわけです。もちろん、この詩篇に、その「深い淵」の内容について丁寧に書かれていなければ、それが何をさしているのかは簡単には分かりません。だから、少し想像してみるわけです。 (続きを読む…)

2017 年 3 月 19 日

・説教 詩篇38篇「私を懲らしめないでください」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:50

 

2017.03.19

鴨下 直樹

 
 みなさんは「私は主に愛されている」と感じる時があるでしょうか。あるいは、その反対に、「私は主に懲らしめられている」と感じてしまうこともあるかもしれません。もちろん、私たちの生活は常にこの二つを繰り返しているわけではないでしょう。そのどちらも感じないで過ごす日常もまた多いと思います。

 けれども、「私は主に愛されている」と思うことのできる時というのは、物事がうまくいっていることが多いのは言うまでもありません。そして、懲らしめられていると感じる時というのは、物事がうまくいかなかった時や、計画していることが進まなかったり、予想外の出来事で苦しむ時なのではないかと思います。

 今日の詩篇はダビデの詩篇です。しかも七つの悔い改めの詩篇の一つです。この詩篇は、伝統的にも、このレント、受難節の時に読まれます。ここでは重たい言葉が連なっています。少し驚くのは、冒頭の表題で「記念のためのダビデの讃歌」と記されていることでしょう。私たちは「記念」というのは、何か良いことを忘れないためにすることと考えますから、この詩篇の内容を考えると、あまりいつまでも覚えておきたいような内容だとは、感じにくいのです。むしろ、「忘れないために」としたほうがしっくりするかもしれません。まして、「讃歌」と書かれていますから、一層不思議な響きがするのです。「讃歌」というのも、「神を褒めたたえる歌」とすぐに頭の中で、意味を切り替えてしまいますから、この内容が果たして「讃歌」と言えるのだろうかという疑問も出てきます。そういう意味では、この詩篇は「讃歌」というにはほど遠く、それほどに重い悲しみを歌った詩篇です。けれども、それもまた「讃歌」であるということを、私たちは心にとめる必要があるのだということです。

 さて、この詩篇の内容はとてもシンプルです。冒頭の1節と、最後の21節と22節は直接的な神への訴えの言葉です。その間に三つのテーマが記されています。第一に記されているのは、神の御怒りによって、重い病に冒されたという嘆きです。それが2節から8節までです。第二は、周りの者が自分を離れてしまい、孤独であるという訴えです。それが9節から16節です。そして最後が罪と痛みからの不安で、それが、17節から20節です。
 先日の祈祷会で、ある方がヨブ記を読んでいるかのようだと言われた方がありますが、ヨブ記のテーマにとても似ていると言っていいと思います。 (続きを読む…)

2017 年 3 月 12 日

・説教 詩篇32篇「主に罪を覆われた人の幸い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:14

 

2017.03.12

鴨下 直樹

 
 聖書は「幸い」を語ります。この幸いというのは、神が与えてくださる祝福と言い換えることができます。神が祝福してくださる生活は、まさに私たちにとって幸いそのものです。そして、この詩篇はそのような幸いは、主の御前に罪の告白をすることによってもたらされることを語っています。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、その咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

と1節と2節にあります。

 ここに三つの単語がでてきます。「そむき」と、「罪」と、「咎」という言葉です。そむきというのは、神に対する反逆です。罪は目的からずれてしまうことです。咎というのは犯してしまった行為をさします。そういった、人の罪の性質をあらゆる角度で捕えながら、そういう人の弱い性質そのものを、神が悪いことだとみなされない人は、まさに幸せに生きることが出来る人の生活だと言い表しています。

 こういう言葉を、説明してもあまり具体的に考えにくいのではないかと思います。私は、時々、詩篇を読む時に、よく理解できる手助けとして、少し置き換えて読んでみることがあります。たとえば、この詩篇は、前半部分は神へのいのりですが、自分の子どもが、自分に向かって、謝っている状況を想像しながら読み直してみることがあります。

 自分の子どもが親に対してわがままにふるまってしまう。あるいは、親との約束をやぶってしまう。つい遊ぶことに夢中になって大事なものを壊してしまう。そういう時に、なんとなく気まずい思いでいるのだけれども、勇気をもって謝ってくる。それに対して、その子どもの過ちや、失敗をゆるして、子どもを抱きしめてやる。そうすると、子どもが、親に向かって、わたしは本当に幸せだとうったえてくる。そういう場面を少し想像してみるのです。そうすると、子どもの気持ちもある程度想像できますし、父親の気持ちも理解できます。この詩篇はそういうことが書かれている詩篇なのだというのが、祈り手と神との関係で、具体的にイメージすることができます。
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2017 年 3 月 5 日

・説教 詩篇91篇「全能者の陰に宿る人」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:53

 

2017.03.05

鴨下 直樹

 
 先週の水曜日から教会の暦でレント、受難節を迎えました。主イエスが十字架につけられる40日前からの期間を、受難節と言って、主イエスの苦しみを覚えながら歩むという習慣があります。もちろん、私たちには主イエスが受けられた十字架の苦しみを理解するということはとても難しいことです。主イエスが受けられた苦しみは、私たちの日常の歩みの中で受ける困難さや、苦しみとは、まったく種類の異なるものといっていいと思います。主イエスの受けられた苦しみは、自分がつらい、苦しいというのではなくて、人の苦しみを受け取るという苦しみでした。主イエスは人の罪のために、苦しめられ、十字架につけられたのです。こうして主イエスの受難は、主イエスの愛のしるしとなりました。

 この受難節に、私たちは詩篇のみ言葉からともに聞きたいと願っています。この詩篇91篇は、個人の祈りという性質のものではありません。むしろ、語りかけの詩篇です。この中に、何度も「あなた」という呼びかけの言葉があります。一般的には詩篇で「あなた」と語りかける場合は、主ご自身に対する語りかけですが、この詩篇は、祈りの聞き手である読者に対して語りかけている詩篇です。

 先週の祈祷会の時に、この詩篇をみなさんと一緒に読んだのですが、いつもは詩篇を一緒に学ぶためにプリントを用意するのですが、先週はできませんでした。ですから、まさに、何の備えもなしに、みなさんと共にこの詩篇を味わいました。その時に、マレーネ先生が、この1節がドイツ語の翻訳と日本語訳とではずいぶん異なっているということに気づかせてくれました。

 新改訳聖書で1節はこうなっています。

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

とても、綺麗な言葉です。特に翻訳に問題があるわけではないのですが、ドイツ語や英語の翻訳はこの1節がつづく2節につながるように訳されているのです。そういう人は、自分に語りかける、「わが避け所、わがとりで、私の信頼する神」と。となっていて、3節からでてくる「あなた」は、誰のことを指しているかというと、1節のように生きている人、つまり、全能者の陰に宿る人は、こうなるのだという文章になっているというのです。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 26 日

・説教 詩篇62篇「私の魂は黙って主を待ち望む」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:06

 

2017.02.26

鴨下 直樹

 
 牧師館の裏に小さな庭があります。毎年、春が来るまえに花の苗を植え替えます。日当たりがあまりよくないので、何を植えてもほとんどうまくいきません。雑草さえ生えないような庭です。ところが、その庭にほとんど唯一といってよいのですが毎年花をさかせてくれるのがクリスマスローズです。

 私は、クリスマスローズというのは、クリスマスの季節に咲くということなのかと思っていたのですが、咲き始めるのは冬も終わる頃です。何を植えてもうまくいかないのですが、クリスマスローズだけは綺麗に咲いてくれます。昨年は苗があまりにも大きくなり過ぎたので「株分け」というのを行いました。ところが、今年は、一つだけ花が咲きそうですが、株分けした他の株はほとんど咲きそうにありません。何かがうまくいかなかったのでしょうか。花を咲かせるというのはこんなに難しいことなのかと改めて思わされています。きっとあとは肥料をやって、水やりをして、じっと待つことが大事なのかもしれません。

 今週も詩篇です。詩篇には色々な詩篇があり、花のように、その違いを楽しむことができます。今日の詩篇62篇は、これまで取り扱ってきた詩篇とは少し内容が異なっています。これまで紹介して来た詩篇は、祈り手が祈っても、神は応えてくださらないという、神の沈黙ということが語られている詩篇が多かったように思います。

 最近、カトリック作家遠藤周作の「沈黙」がハリウッドで映画化されました。「サイレンス」というタイトルです。もうご覧になった方もあると思います。この映画の舞台はキリシタンの弾圧がテーマになっています。踏み絵を踏むかどうか。踏み絵を踏むということは信仰を捨てることになる。そういう信仰の危機的な状況の中でも神は沈黙を貫かれたことが一つの背景になっています。詳しい内容は映画を見ていただいたらと思いますのでここではお話しませんが、詩篇の中にもこういう神の沈黙というテーマは何度も記されています。

 しかし、この詩篇は神が沈黙しておられるのではなくて、黙るのは自分の方です。しかも、詩篇の内容を見ても分かりますが、黙ってやり過ごせるような状況にこの祈り手は置かれてはいませんでした。この詩篇は「ダビデの賛歌」と表題があるように、ダビデの生涯のどこかの場面で祈られた祈りということを想定することができます。3節に「おまえたちはいつまでひとりの人を襲うのか」とありますから、多数から追われているような場面を思い描くことができます。ダビデの生涯は、イスラエルの最初の王であったサウルにいのちを狙われ続けていました。晩年には自分の息子アブシャロムからもいのちを狙われて追われることになりました。この詩篇がダビデのいつの時代のことをさしているのか分かりませんが、ダビデの生涯はいつも、多くの人にいのちを狙われるような状況にいたわけです。
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2017 年 2 月 19 日

・説教 詩篇102篇「悩める者の祈り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:03

 

2017.02.19

鴨下 直樹

 
 以前、車で根尾のキャンプ場まで行った時のことです。ふと、いつもと違う道を走ったら近道ができるのではないかと思いつきました。今はカーナビを見ればそんなことは起こりませんが、このまままっすぐ行けば近道なのではないかという勘がときどき働きます。

 みなさんも、そういった経験があるのではないでしょうか。私はその道をどんどん前に前に進んで行ったのですが、どんどん道が狭くなり、林の中に入りこんでしまって、結局行き止まりになってしまいました。途中まではわくわくしながら、新しい発見かと期待をするのですが、結果は散々です。あまりにも道が狭かったために、何百メートルも林の中をバックしなければなりませんでした。途中で間違ったと気づいたら、引き返してもとの道に戻るべきですが、そういう時は、行けるのではないかという思い込みが、健全な判断を鈍らせてしまうのです。

 今日の詩篇102篇は七つの悔い改めの詩篇といわれる詩篇の一つです。けれども、さきほどお聞きになられて分かるように、この詩篇には悔い改めの言葉はありません。「悔い改め」というのは、間違って進んでいた方向を改めて正しい方向に進みだすということです。そういう意味では、この詩篇は途中から正しい方向に向かい始めていますから、確かに悔い改めの詩篇であるということが言えるのだと思います。

 この詩篇も先週の詩篇77篇と構造はとてもよく似ています。内容も似ていると言ってもいいと思います。1節から11節までの前半部分は、祈り手が深い悩みのなかで嘆きの言葉を発する嘆きの詩篇です。後半の12節から最後までの部分は一転して、神への賛美となっています。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 12 日

・説教 詩篇77篇「思い起こせ主の業を」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:09

 

2017.02.12

鴨下 直樹

 
 私たちの教会に「ぶどうの木」という俳句の会があります。この句会で以前、俳句には大きな俳句というものと、小さな俳句というものがあることを聞きました。五七五の短い言葉なのに、大きな俳句と小さな俳句というものに分類されるというのは、私にとってはとても興味深い話しでした。ところが、指導してくださっているMさんに聞いてみると、とてもよく分かるのです。俳句の内容が何を物語っているかといことで大きな俳句とか、小さな俳句という言い方になるというのです。

 この詩篇77篇は、そういう意味でいえば小さな詩篇です。偉大な神を高らかにほめたたえる詩篇というよりは、自己中心的な詩篇といってもいいかもしれません。大きな詩篇というよりは、普通の人の祈りなのです。もっと言うと、私たちが日常する祈りと似ているかもしれません。この詩篇の内容を全体的に見てみますと前半の部分は神に向かって祈りをささげます。ところが、祈りながら嘆きの言葉が繰り返されていくのです。

 1節と2節はこう始まります。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。苦難の日に、私は神を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。

祈りのはじめは神に向かって祈り始めます。けれども、神の慰めを求めて祈ったけれども、神は答えてくださらないので慰めを求めることを諦めてしまいます。そして、3節にはこうあります。

私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。

 ここに「思い起こす」という言葉があります。「思い出す」という意味の言葉です。何を思い出したのでしょうか。この祈り手は「思い起こす」と言いながら、自分の内面を見つめ始めていきます。そして嘆き始めるのです。つづく4節にはこうあります。

「あなたは私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。」

 この祈り手は、あまりにも不安で、不安で眠れなくなっていると言うのです。「神は私を眠らせてくれない、もう疲れ果てて何も言うことができないほどだ」と言っているのです。そうやって、不安の中で神に祈りながら、この祈り手はさらに自分の内面へと向かっていきます。それが、「思い起こす」という言葉にあらわれています。5節。

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。

こうやって祈り手はどんどん自分の内面を見つめつづけていくのです。

 私たちの日ごとの祈りの中で、私たちも何度も、何度もそういう祈りを繰り返すことがあると思います。主に向かって祈り始めたら、だんだん何を祈っていたのかよく分からなくなってしまって、気が付いたら自分のことばかり考えてしまうということがあると思います。立派な祈りをしたいと思いながら祈り始めたのに、気づくと心はどんどん内向きになっているのです。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 5 日

・説教 詩篇138篇「心を尽くして感謝する」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:57

 

2017.02.05

鴨下 直樹

 
 この詩篇は「ダビデによる」というタイトルがついています。この旧約聖書のもっとも古い翻訳で紀元前にすでに作られていた70人訳聖書とよばれるギリシャ語の翻訳の聖書があります。そこには、このタイトルは「ダビデ、ゼカリヤとハガイ」となっています。つまり、ダビデの詩篇がバビロンからの捕囚が終わって帰還してきたときに読まれた詩篇ということになるわけです。
 そうしますと、この詩篇の意味が少し整理することができます。1節にこうあります。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。

 ここに「天使たち」という言葉がでてきます。新改訳聖書は下に注が出ていまして「あるいは『神々』」となっています。かつてのバビロンには都の大通りに「ベル」と「ネボ」という神々の像が置かれていて、やがてそれが荷台に載せられて取り除かれたという記録がイザヤ書46章に書かれています。けれども、今はこのバビロンの都からエルサレムに帰って来て、神殿で礼拝をささげるようになりました。その様子がここで歌われているのです。そして、そのテーマは「感謝」です。まさに、今おかれている自分の状況を思い起こしながら神に感謝をささげているのです。

 この詩篇を正しく理解するために、大切なのはこの2節の部分です。

私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことをあなたの御名に感謝します。

とあります。
 今、この詩人は神の御前で礼拝をささげているのです。この時代の礼拝というのは、神殿でささげものを捧げるという礼拝でした。その大切な部分は神への感謝です。神が、生活の中で守り、支え、導いてくださることに感謝をささげるのです。まさに、礼拝をささげるために神の御前にでるのです。

 私たちも礼拝を捧げにやってまいります。しかし、ひょっとすると私たちの礼拝は、神に感謝をささげ、自分を捧げるということよりも、み言葉を聞いて、神に恵みをいただくためにやってくるということに強調点があるのかもしれません。もちろん、礼拝というのはそのどちらの要素もあるのです。

 この四月から、私は名古屋の東海聖書神学塾で15年ぶりに礼拝学を教えることになりました。礼拝とは何をすることなのかということを学ぶのです。そのために講義のノートを整理しながら改めて気づかされることがいくつかあります。

 特に、旧約聖書で礼拝を表す言葉は3つあります。ひとつは「シャーハー」という言葉で「拝む」とか「地にひれ伏す」という意味の言葉です。もう一つは「アバード」で、これは「仕える」とか「奉仕する」という言葉です。もうひとつは「カーハール」という言葉で「集まる」とか「出会う」という意味の言葉です。どの言葉もそうですが、神に対してどういう態度をとるのかということが言われていることが分かります。礼拝というのは、徹底的に自分本位ではなくて、神を神とする行為をいうわけです。
 この2節の「ひれ伏し」という言葉は「シャーハー」という言葉です。神を恐れ、自分を捧げるために、地にひれ伏すわけです。そうすることによって、神は神であられるということを明らかにしたのです。そこでは、この世にある、ありとあらゆる神々のようではなく、主こそがまことの神であられることを、礼拝の態度で明らかにしたのです。

 興味深いのは、そのように礼拝をささげるとどうなるのかということが3節に書かれています。 (続きを読む…)

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