2010 年 5 月 2 日

・説教 「逆境の中にあって」 マタイの福音書5章10-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:27

鴨下直樹

 今日私たちに与えられている御言葉は「迫害されている者は幸いである」という御言葉です。お気づきのように、この幸いを告げる祝福の言葉は、「心の貧しい者は幸いです」から始まって、今日の所まで続いています。ですから、ここが最後の部分にあたるわけです。そして、ここで語られている言葉は次第に厳しいものになってきていることに気づかれているのではないかと思います。

 「迫害」と「幸せ」という言葉ほど相容れないものはありません。「迫害される」というのは厳しいことです。この日本において、これまで様々な迫害の歴史がありました。今日でもキリスト者と呼ばれる人々は少数者です。そして、そのために、さまざまな殉教の歴史が刻まれてきました。特に、このあたりにはキリシタンの史跡と呼ばれる所がいくつもあります。私が神学生の頃のことですけれども、この地域の宣教の歴史を学ぶ「東海宣教学」というこの地域の神学校ならではの授業がありました。この授業の一環で、地域のキリシタンの史跡を訪ねる旅をしたことがあります。この芥見教会でも、同じような旅をかつてしたことがあると聞いていますけれども、例えばお隣の可児市やその隣の御嵩町にマリヤ観音やキリシタンの史跡がいくつも残っておりまして、色々なところを訪ねた最後にそこを訪ねたのです。あまり知られておりませんけれども、この地域には隠れキリシタンの里があったということが最近の研究で知られるようになりました。私たち神学生たちが尋ねたときに、ここを案内して下さった地域の歴史家の方からお聞きした話は、私にとって非常に印象深いものでした。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 25 日

・説教 「平和を築き上げよ」 マタイの福音書5章9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:57

鴨下直樹

 「平和をつくる者は幸いです」。今日、主はこの言葉を私たちに語りかけてくださっています。「平和をつくる者」。これは、誰もが願っていることです。誰もが平和でありたいと願っているのです。争いを好む者はおりません。関係を壊したいと思っている者はいないのです。しかし、それならばどうして「平和をつくる」ということはこれほどまでに困難なのでしょう。いつも「不和」で苦しまねばならず、人との関係を築くことで、これほどまでの心を砕かなければならないのはなぜなのでしょう。私たちの中で、誰か一人でも私には争いがないと言える人が果たしているでしょうか。

 

 先ほど私たちは讃美歌21の371番を賛美しました。「このこどもたちが」という讃美歌です。この一節の歌詞の最後に「主よ、守りたまえ、平和を、平和を」とあります。木曜の祈祷会の時のことです。私たちの教会では、この朝の祈祷会の時間、時を同じくして、手話賛美の時間があります。ここでは、次の主の日に歌う讃美歌の内容を確認しながら、この歌詞をどのような手話で表現するのかということを検討するのです。それで、祈祷会の時に、いつも次の礼拝で歌う賛美を歌いますから、この時までは一緒に賛美をしています。そうすると、私たちはそこで、手話の賛美というのを身近で見ることができるわけです。手話というのは、私は詳しくわからないのですけれども、同じ日本語を使いながらも、別の言語であると言えます。この祈祷会の時にも、この「主よ守りたまえ平和を」の「守りたまえ」という言葉を、どのような手話で表現するかが難しいという話になりました。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 18 日

・説教 「神を見る清さ」 マタイの福音書5章8節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:09

鴨下直樹

 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 (5章8節)

 

 今日、私たちに与えられている幸いを語る言葉はこのように語っています。神を見ることは幸いだと。私たちはこれまで、様々な幸いを告げる言葉を聞き続けてきました。今日の言葉で六番目になります。最初に申し上げましたように、この山上の説教は主イエスの弟子達だけではなくて、そこに集まってきていた群衆にも語りかけられました。主イエスの語る幸いに、多くの人々が招かれているのです。

 それで、「心の貧しい人」という問いかけから始まるこの主の教えを聞いた人々は、主イエスが語ろうとしている幸いというものが、次第にこの世界で幸せと言われることとは少し異なっていることに気がついていったのではなかったかと私は思います。そして、ついに、「神を見る」と主イエスはここで宣言されました。この幸いに生きようと思うのであれば、神を見ることが幸いをもたらすのだと語られたのです。

 考えてみて頂きたいのですけれども、これまで様々な人々が幸せとは何かという事を考えてきました。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 11 日

・説教 「キリエ・エレイソン」 マタイの福音書 5章7節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:49

鴨下直樹

 復活節第二主日を迎えました。この日には「クアジ・モド・ゲニティー」という名前が付けられております。ペテロの手紙第一 2章2節の「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」という御言葉がこの日のための言葉として私たちは聴くのです。この「クアジ・モド・ゲニティ」という言葉は、第一ペテロの御言葉の「生まれたばかりの乳飲み子のように」と言う最初の言葉をラテン語にしたものです。イースターによって新しくされたことを祝う者は、乳飲み子のように御言葉を聴くことから始めるということを、教会は暦の中で教えて来たのです。このようなあまりなじみの無い言葉を聴くと、これは一体どのような意味なのだろうかと考えられるのではないかと思いますけれども、そこには大切な意味があるのです。

 

 また、この朝の説教のタイトルもあまりなじみのない言葉であると言えるかもしれません。このタイトルをご覧になって、同じように、この言葉はどういう意味かと考えられる方があるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 4 日

・説教 「義に飢え渇く者の幸い」 マタイの福音書5章6節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:39

  —イースター礼拝説教—

 

鴨下直樹

 イースターおめでとうございます。今日、主イエスがよみがえられた日を祝うこの日に、先ほど洗礼を受けられたNさんと、子どもたちも共にイースターを祝うことができることを本当に嬉しく思います。

 

 今、私はイースターを「祝う」と言いました。礼拝はそもそもこのイースターだけでなく、いつも日曜ごとにお祝いをするために礼拝するのです。この四月から私たちの教会にマレーネ・シュトラスブルガー先生が加わってくださいました。マネーネ先生の国、ドイツでは、礼拝を「祝う」「ファイアーン」という言葉を一般的に使います。私たちは礼拝を「する」とか丁寧な場合は「ささげる」などという言い方をしますけれども、ドイツ語の方が礼拝の性質をよく表わしていると言うことができるかもしれません。なぜ日曜にお祝いするかと言いますと、この日に主イエスがよみがえってくださったからです。死を打ち破られたからです。人間の絶望の源である死を打ち砕かれた。復活なされたことによって、死は終わりではないことを示してくださったのです。

 

 今日私たちに与えられている御言葉は「義に飢え渇いている者は幸いです」という御言葉です。「義」というのは、「正しさ」と言い換えることができるかもしれません。パウロは、コリント人への手紙 第一 15章32節で「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。」と語っています。正しい生活というのは、キリストの復活が無ければ、なりたたないのだ語っているのです。もし、キリストのよみがえりが無いなら、人間は死んで終わりになるのだから、それまで好きなことをして生きればいいということになる。けれどもキリストの復活は、人間は死で終わりではないことを示されました。とすると、誰もが正しく生きざるを得なくなるのです。

 

 では正しく生きるというのはどういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 4 月 2 日

・説教 「主は弱さのうちに」 イザヤ書53章

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:09

 

 —聖金曜日 受難日礼拝説教—

 

鴨下直樹

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。たが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 (イザヤ書53章4節)

 

 この日、主の受難日に、主イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださいました。あの十字架の上で主イエスはこの言葉の通りになされたのです。

 私たちの病、私たちの痛み。それは、私たちに課せられた永遠の苦しみであるはずのものでした。しかし、そのような永遠の苦しみを、主イエスは負ってくださったのです。私たちは、病にしろ、痛みにしろ、そのような苦しみは負いたくないと思います。もし、そのようなものがあったなら、少しでも早くそのような病から、苦しみから解放されることを願います。耐えることはつらいことだからです。苦しむことは耐えがたいことだからです。なぜ、辛いのか、なぜ耐えられないのでしょうか? なぜ、苦しみから少しでも早く解き放たれたいと願うのでしょうか? (続きを読む…)

2010 年 3 月 28 日

・説教 「柔和な者の幸い」 マタイの福音書5章5節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:16

鴨下直樹

 今週から教会の暦で受難週を迎えます。特にこの日曜日は棕櫚の主日と呼ばれる主の日です。なぜ、棕櫚の主日というかと言いますと、この日に主イエスがエルサレムの街に入場なさいました。このところを少し長いところなのですが、聖書をお読みしたいと思います。 マタイの福音書第21章1節から11節ですけれども、7節からをお読みします。

 

 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。(マタイ21:7-11)

 

 この時、主イエスはロバの子に乗られてエルサレムに入場なさいました。この時の主イエスの御姿は人々に非常に強い印象を与えたことでしょう。

「ダビデの子にホサナ」という言葉がここで紹介されていますけれども、この「ホサナ」という言葉は、今で言えば「万歳」という言葉が一番近いなどと言われています。「主よ救い給え」という意味の言葉です。主イエスに向かって、人々は「あなたこそが真の王です。どうぞ、私たちをお救いください」という意味の言葉で、主イエスをエルサレムの街にお迎えしたのです。 (続きを読む…)

2010 年 3 月 21 日

・奨励  「特に私たち、特にあなた方」 歴代誌23章1~5節、25章1~8節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:11

 本日は、芥見キリスト教会員の森岡泰子姉が奨励をして下さいました。

 

「賛美」について、「私・あなた」というシリーズでこれまで2回お話しをしました。

最初は、ダビデの罪とその苦悶の最中から、罪の告白、悔い改めへと導かれ、そして、そこから生まれた賛美についてお話しました。それは、個人的な出来事ではあっても、同じ神を信じ、崇める人々に共有され歌われていきました。また、礼拝において歌われることにより保たれ、また、日常の生活でも追体験されながら覚えられていきます。この唯一なる神を礼拝し、この御方がどういうお方であるか、どんなことをなさったお方かを覚え続けることでもありました。やがて、イエスの時代も会堂・シナゴーグにおいて歌われていました。そして、イエスの十字架と復活の後教会が誕生し、キリスト者によって「詩と賛美と霊の歌」が歌われていきます。これもまた、神への賛美、イエスの御業、祈り、感謝、信仰告白、などが家の教会の礼拝で歌われ、共有され保たれていきます。詩篇が歌われた時代と似ていますね。 

今朝は、「特に私たち・特にあなた方」と題していますが、何が「特に」なのかということを皆さんはすでにお考えになったでしょう。今日、私たちは当たり前に礼拝において賛美の歌をお捧げしています。ある時は、特に”聖歌隊”という集団に歌わせている事があります。そこで、今朝は「聖歌隊」について皆さんとご一緒に考えていきたいと思います。 (続きを読む…)

2010 年 3 月 14 日

・説教 「悲しむ者の幸い」 マタイの福音書5章4節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:50

鴨下直樹

 主イエスは「心の貧しい者は幸いです」という言葉に引き続いて「悲しむ者は幸いです」と語られました。「悲しい者は幸せである」などということはありそうもないことです。幸せなら悲しまないからです。幸せでいたいと思いながらも、幸せでいることができないために人は悲しむのです。どうして、「悲しむ者が幸い」などということが起こり得るのでしょうか。多くの人々が、主イエスがここで語っておられる「悲しみ」とはどのような悲しみだろうかと論議してきました。よく語られるのは、ここで語られている悲しみというのは、キリスト者特有の悲しみなのではないかと考えられます。つまり、主イエスが言われている悲しみというのは、日常の生活においてさまざまな場面で出てくる悲しみがあるけれども、ここで語られている悲しみは、そのような日常の生活とは異なる次元の悲しみなのではないかと。そこで言われるのは、キリスト者であることを前提として「罪に対して悲しんでいる人」という意味ではないかと考えられることがあるのです。

 けれども、この山上の説教は主イエスにつき従った弟子たちだけではなく、病を抱えながら、悩みを抱えながらついて来た人々にも語られているのですから、意味を何かに限定してしまうことはできないのではないかと私は思います。むしろ、ここで主イエスが語っておられる悲しみというのは、あらゆる生活の中で起こる悲しみのことを意味するのではないかと思うのです。そもそも悲しみには、キリスト者の悲しみと、そうでないものの悲しみというような違いがあるとは思えません。高尚な悲しみと、低俗な悲しみというように分けることはできないと思うのです。悲しみは誰にとっても悲しみでしかありません。

 

 今私は、悲しみは誰にとっても悲しみでしかない。高尚な悲しみと低俗な悲しみとに分けることはできないと言いました。本質的に悲しみを分けることはできません。けれども、そうすると同時に考えなければならないことがあります。 (続きを読む…)

2010 年 3 月 7 日

・説教 「心の貧しい者の幸い」 マタイの福音書5章3節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:57

鴨下直樹

 今日の聖書は大変短い箇所です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。という所です。先週より「山上の説教」と呼ばれる箇所から、御言葉を聞いていますけれども、その最初に九つの幸いの言葉が語られています。神の祝福の言葉が連ねられているのです。ところが、この幸いの言葉、祝福の言葉は、聞く私たちを驚かせます。

いきなり「心の貧しい者は幸いです」というからです。私たちが幸せだと思う人というのは、暖かい家族に囲まれている人、経済的に恵まれている人、健康にふるまっている人、沢山の良い友人に恵まれている人のことを見ると、「ああ、この人は幸せそうだ」と考えます。ところが、ここでは、「心の貧しい者は幸い」という。一体どういうことなのだろうかと、考えさせられてしまいます。

 「心の貧しい者」というのは、私たちが一般的に使う場合、例えば「思いやりがない」、とか「心の荒んでいる」、「人に親切にすることができない」というような人を見ると使う場合があります。根っから人に対する心のない人のことを、心の貧しい人と考えるのです。そういう人を私たちは、毎日、様々なテレビのニュースや新聞で見聞きします。しかし、そのような事件を引き起こしてしまうような心の貧しい人を、主イエスは幸せだと言われているとすると、それはどういうことだろうかと考えざるを得なくなります。

 そうすると、わたしたちはここで言われている「心の貧しい者」というのは、特別な意味なのではないかと考えるのです。 (続きを読む…)

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