・クリスマス礼拝説教 マタイの福音書11章2-6節「別の方を待つべきか」
2019.12.22
鴨下 直樹
⇒ 説教音声はこちら
アドヴェントクランツに四本目の灯が灯りました。いよいよクリスマスです。不思議なもので、クリスマスというのは、クリスチャンであろうとなかろうと、何かしらの期待を抱くようで、町中が何かしらの期待に満ちた雰囲気を作り出します。子どもたちはどんなプレゼントをもらえるのかと期待を膨らませます。若い人は何か素敵な出来事が起こるのではないかという淡い期待を持つのでしょうか。何かいいことがあるというような期待は、その後も年齢を重ねたとしても心の中から消えるものではありません。
けれども、それと同時に期待が膨らみすぎるとその後の反動もまた大きなものになります。期待したとおりに事が進まないと心が折れてしまいます。そして、いつしか心が堅くなってしまい、あまり期待しなくなるということも起こってしまうのです。そうしないと、傷ついてしまう自分の心を守ることができません。どこかで期待を持ちながら、でも、そんな期待は無駄であるかのような、そんな思いもまたどこかで感じるのがクリスマスなのかもしれません。
聖書は昔から期待する心を人々の心に育てようとする書物です。憧れとか、期待とか、望みというものを、恵みとか、慈しみとか、信仰という言葉で言い表しているのです。聖書の大切な、そして、中心的なメッセージの一つは待ち望む心を持ち続けることです。
さきほどの「聖書の話」で、妻がクリスマスに起こった一つの出来事を話してくれました。聞いたところ、元ネタがあるのだそうで、昔アメリカかどこかのドラマであんな話を見たことがあることを思い出したのだそうです。ある家族がイブに親戚のところに飛行機で行くはずだったのが、大雪のために空港で一夜を明かさなくてはならなくなってしまったのです。それで、空港でクリスマス・イブを過ごさなければならないという残念な事態に子どもたちは悲しんでいるのですが、その姿を見た父親が、本当のクリスマスはまさにこんな感じだったのではないかと、クリスマスの物語を話して聞かせるのです。
子どもたちが思い描いたクリスマスはこんなはずではなかったのです。けれども、主イエスはまさにそんな日に、お生まれになったのではないか。身重のマリヤはまさか家畜小屋で出産をすることになるなんて思っていなかったはずです。生まれたばかりの赤ちゃんを飼葉桶に寝かせるなんてことを想像もしていなかったはずなのです。クリスマスの物語というのは、はじめから期待外れの出来事であったということができそうです。
今日の聖書の箇所はバプテスマのヨハネが牢に捕らえられていた時に、自分の弟子を通して、主イエスに問い合わせをした言葉がここに書かれています。
「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
「私が期待をしているのはあなたでいいのですか」という問いかけです。バプテスマのヨハネでさえ、そのような疑問を抱いたというのです。ヨハネは来るべきお方の先ぶれとして神から遣わされました。そのヨハネは、この時、総督のヘロデ・アンテパスの罪を指摘したために投獄され、まさに殺されようとしていたのです。
聖書に約束され、イスラエルの人々が長い間待ち望んできた救い主が来られたはずなのに、その期待した主イエスの働きはヨハネがイメージしていたものと大きくかけ離れていたので、がっかりしたのだということを、ここから想像できます。
何とも悲しい響きがここにはあります。
「こんなクリスマスを期待してたんじゃない。」
「こんなはずではなかった。もっとうまく行くはずだったんだ。」
「私が望んでいたものは、もっと別のものだった。」
こんな叫びが私たちの周りではあふれています。そして、その言葉は時として私たちの口からも出てくる言葉です。 (続きを読む…)