2018 年 11 月 11 日

・説教 詩篇27篇 「心の歌」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:54

2018.11.11

鴨下 直樹

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 今日は召天者記念礼拝の主の日です。毎年、この時になりますと、天に召された方々のご家族やご友人の方々がこの礼拝にお集いになられて、共に礼拝をおささげしています。その中で、今日は詩篇27篇を一緒に聞きたいと思っています。私の願いは、ぜひ、一度ご自分で声をだして、この詩篇を読んでいただきたいということです。まるで、故人がこの祈りを祈っていたのではないかという気持ちになるのではないかと思います。また、まるで、自分の祈りそのものだという錯覚を覚える方もあるかもしれません。

 今週、私自身、何度も、何度もこの詩篇を読みました。そして、声に出して読むたびに、深い慰めを覚えてきました。私ごとではじめてとても恐縮なのですが、この一週間、私自身自分では抱えきれないほどの問題をいくつも抱え、気がつくとため息ばかりついていました。気分がなかなか晴れない。

 その中で、この詩篇を声にだして読んでみる。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

まるで、私の気持ちを知っているかのような言葉が、ここで祈りの言葉として記されています。この言葉を自分に言い聞かせるように、声に出して読む。そうすると不思議です。言い知れない深い平安が私を包むのです。

 自分を慰める言葉というのは、自分の中からは出てきません。自分で自分を励ますように言い聞かせたとしても、自分を奮い立たせることはできるかもしれませんけれども、いつまでももつものでもありません。また、それは誰かに元気になれるような言葉をかけてもらえればいいということでもありません。それこそ、一杯やりながら同僚と語り合うことも気分転換にはなりますが、自分を支える確かなものにはなり得ません。

 私を支える言葉、それはいつも外からくる言葉です。こう声をかけて欲しいというような自分の望むことではなく、外からくる言葉というのは、権威があり、存在を支えるような言葉です。それが、聖書の言葉だと言っていいと思います。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

「主は私の光」。冒頭から、こういう言葉が出てくる。この詩篇の作者は、「ダビデによる」とあります。ダビデはイスラエルの王です。王には、王の悩みがあったでしょう。ダビデの生涯を見てみると、ほとんどが困難の連続であったと言っていいと思います。聖書でなくてもいいかもしれません。NHKの朝ドラをみる。大河ドラマをみる。こんなに次々にいろんなことが起こるかと思うほど、いろいろなことが起こる。もちろん、ドラマというのは、そういうエピソードだけを切り抜いて、その人物を描き出すわけですから、当然なのかもしれません。さまざまなこと、それこそ予想もできないようなことが、次々と起こる中で、ダビデは自分を支えるのは、光の主なのだと祈りました。闇の中に自分を閉じ込めるようなお方が、私の主なのではない。私の主は光の主。私の救い。そういうダビデの祈りの言葉を聞く時に、私たちもまた、この聖書に記された神が、光の主であることを、救いの神であることを知ることができるのです。 (続きを読む…)

2017 年 6 月 4 日

・説教 詩篇90篇「主は私たちの永遠の住まい」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:41

 

2017.06.04

鴨下 直樹

 
 私事からはじめて恐縮ですけれども、この同盟福音キリスト教会の代表役員に就任して二ヵ月がたちました。これまでは知らなかったのですけれども、これまでやったことのないいろいろな仕事が新しく加わりました。先週、可児教会で午後から行われた役員研修会で説教をするというのもその一つです。あるいは、四教団の理事会に出席することもそうです。けれども、私にとって一番厳しい思いになるのは、人事の話をしなければならないことです。しかも、これまで同盟福音の教会で長く奉仕してくださってこられた先生方と、今後の奉仕について話すことは、とても緊張します。

 先日もこれまで長い間奉仕してくださった先生が、教団規則の年齢に達したために次年度新しい牧師を迎える準備のことで電話をいたしました。実は、とてもドキドキしながら電話をしました。私の中では何か最後通告をしなければならないような気持になっていたからです。電話をする前に、何度も祈りました。失礼なことを言わないように、話す会話の段取りを頭の中で何度もシミュレーションしてから電話をしたのです。辞めるつもりはないと言われたらどうしようか。どうして、自分の時にこんな大任が回って来たのか、いろいろなことを考えながら電話をしました。会話は思い描いていたよりもはるかにスムーズで、肝心の話しを切り出したときも、「分かっていますよ、次の牧師についてもう教会で話し合いを始めているので、一度役員会に来て、一緒に話してほしい」と言われ、私は拍子抜けしてしまいました。40年、50年と牧会をしてこられた牧師が、その職から退くということはすごいことだと思うのです。

 以前も一度お話したことがあるかもしれませんが、私が神学校に入る前に、半年ほど根尾の麓の村で仕事をしながら、神学校に行くまでの間を過ごしたことがあります。その時に、この芥見教会を開拓伝道からつくりあげたストルツ先生ご夫妻が、日本での宣教の働きを終えてドイツに帰国するために、最後の一週間を、根尾山荘で過ごされたのです。そして、ドイツに帰国するという朝、車に荷物を積んでいるストルツ先生に、私は一つの質問をしたことがあります。

「ストルツ先生。どうして、神さまに召されて、宣教師となったのに、人間が作った定年という制度に従って、宣教師を辞めてしまうのですか」と。私がまだ22歳か、23歳の時のことです。今であればもう少し上手に尋ねることもできたかもしれませんが、当時の私は何の配慮もないままに、日本をこれから離れて寂しいであろう宣教師に、残酷な質問をしてしまったと思うのです。けれども、ストルツ先生は、もうその答えを用意しておられたかのように、私にこう答えてくださいました。

「私は今日、ドイツに帰国します。けれども、私は主に仕えることを辞めるつもりはない。日本での、宣教師という働きは確かに今日で終わるけれども、私はドイツでこれからも主に仕え続けるのですよ。」
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2017 年 5 月 28 日

・説教 詩篇46篇「揺れ動く地から主を仰ぐ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:18

 

2017.05.28

鴨下 直樹

 
 先週の火曜日と水曜日に日本自由福音連盟の理事会というのが東京で行われました。この日本自由福音連盟というのは、信仰のルーツを一緒にしている4つの教会、関東地区の日本聖契教団、岡山県を中心とした日本聖約教団、全国にあります日本福音自由協議会、そして、同盟福音キリスト教会とが60年ほど前から交わりを持って来ました。この日本自由福音連盟に130教会ほどがあり、教会堂は180会堂ほどあります。

 そこで、年に二度各教団の役員が集まりまして、お互いの情報を共有し、共に祈る時をもっています。各教団の報告がそこでなされるのですが、今年はどこの教団も祈りの課題にあげていたのが、次世代の担い手のためにという課題でした。この四団体の中で定年制をもうけているのは私たちの同盟福音と聖約教団だけです。ということは、牧師は何歳まででも働くことができるわけです。それにも関わらず教会の働き人がいないために教会を統廃合しなければならなくなっている教会がいくつもあるのです。伝道することが難しい時代を迎えていると言えます。

 けれども、だからと言って、嘆いているのではないのです。教会は主を見上げながら、これからの道のりを祈り求めています。時代がどれほど厳しくても、主の教会の歴史は今日まで力強く進められてきました。そして、その都度、主のみ言葉が語られ続けて来たのです。

 今日は、午後から教団役員研修会という集まりが可児教会で行われます。各教会の役員が一年に一度みな集まるとても大切な時です。私たちの同盟福音でも「次世代への献身」をテーマに、教会が活発に主の使命を果たすことができるようにと祈りながら、今年から宣教ネットワーク制が導入されました。今回の役員研修会では、それぞれのネットワークの教会でどのような協力をしながら、次世代のために、これからの教会のために何ができるのかを話し合っていこうとしています。それにしても、まず先立って私たちが知らなければならないのは、私たちの主はどのようなお方なのかということです。

 この詩篇46篇は揺れ動く世界の混沌が語られています。2節と3節にこうあります。

たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも、たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ。

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2017 年 5 月 14 日

・説教 詩篇33篇「主にあって喜び歌え」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:49

 

2017.05.14

鴨下 直樹

 
 今日は復活節の第五主日「カンターテ」と呼ばれる主の日です。カンターテというのは、「歌え」という意味で、詩篇98篇1節の「新しい歌を主に歌え」という言葉から取られた主の日です。もうすでに詩篇98篇から説教しましたが、この詩篇33篇の3節にも同じ言葉が記されています。

 宗教改革者のルターはこの詩篇33篇3節からこんなことを言っています。「音楽は、神から与えられたもっとも美しくすばらしい贈り物のひとつです。サタンは音楽をきらいます。それは誘惑を追い払う大きな力をもっているからです」と。ルターは当時の教会と信仰の戦いをしていました。その中で自分の信仰が揺らぐような、悪魔の力を感じるようなことが何度となくあったのだと思います。そういうなかでルターは何度も音楽によって悪魔の誘惑を感じるところから助けられた経験があるのだと思います。ルターはさらにこんなことも言っています。「音楽は神学と並んで神の与えられた栄光の贈り物です。わたしはこの世のなにものをもってしても、この音楽という小さな贈り物と交換することをのぞみません」。音楽は、神学とならんで他に代えがきかないほど大切なものだというのです。神に向かって歌を歌うこと、神への賛美の音楽は、この世界に代わるものがないほど大切なものだとルターは言うのです。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。

 冒頭の1節と2節にこのように記されています。この短い言葉のなかですでに色々なことを考える人があるかもしれません。「正しい人たち」とか「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」というような言葉を見つけると、自分は正しくないからダメだとか、心が直ぐではないからダメだと考えてしまうかもしれません。とても大切なことですけれども、この詩篇は、神を褒めたたえるように招いているのであって、誰かを締め出そうとして語っているわけではありません。「正しい者たち」というのは、「礼拝に招かれている者たち」という招きです。「心が直ぐな人」も同じです。神の御前に立つ者よ、主に感謝し、ほめ歌を歌えと招いているのです。 (続きを読む…)

2017 年 5 月 7 日

・説教 詩篇66篇「全地よ、喜び叫べ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:37

 

2017.05.07

鴨下 直樹

 
 このゴールデンウィークの29日に東海聖書神学塾の主催でCS教師研修会が行われました。今年は非常に大勢の参加者が与えられました。今年のテーマははじめてパネルディスカッシヨン形式で行われ、4つの教会の子どもの伝道の働きが紹介されました。私は、この集会の司会をさせていただいたのですが、とても刺激的な研修会であったと思います。いくつものアイデアを知ることが出来ましたし、実際にこれからの教会の子どもの伝道についてとてもよく考えさせられました。

 今ら20年ほど前までは今に比べると比較的、教会に子どもを集めることは難しくありませんでした。けれども、オウム真理教の出来事以来、人々は宗教に対して警戒感を強めるようになりました。それで、子どもだけで教会の集まりに参加させるというようなことが難しくなっているわけです。私たちの教会でもそうですけれども、このパネラーの多治見中央キリスト教会の山本先生は、親と子供を一緒に教会に招くという方法に切り替えたということを話してくださいました。宗教は怖いというイメージを持っている人たちに対して、教会がどのように間口を開いていくかという教会の在り方がそこでは問われていると思います。何をやっても、子どもが来ないということではなくて、どうやったら地域の人たちに教会を信頼してもらえるかということを考えていく必要があるわけです。

 今日はひさしぶりに詩篇のみことばを聞こうとしています。この詩篇66篇は、復活節の第四主日と第六主日に読む聖書の箇所となっています。今日は復活節第四週、「ユビラーテ」と呼ばれる主の日です。「全地よ、喜べ」というこの1節から名づけられた主の復活を全世界で喜ぶようにと招かれている日です。また、最後の20節から「いのれ」、「ロガーテ」と言われる日の聖書箇所となっています。

 今日はこの復活節の個所だけではなくて詩篇66篇全体を見て見たいと思っていますが、実はこの詩篇66篇は大きく内容が二つに分かれています。前半部分は1-12節までです。ここでは主語はつねに「私たち」となっていまして、何度も何度も命令形の言葉が繰り返されていまして、イスラエルの民全体、あるいは、全世界の人々に語りかける壮大な神の御業を讃える詩篇です。ところが、13節から20節では主語は「私」となっていて、個人的な神への祈りです。これは、このように考えてくださればと思うのですが、民全体として神の御前に礼拝を捧げている中で、自分としても神に対する喜びや感謝の祈りをささげているようなイメージをもってくださるとよいと思います。

 この詩篇が今の私たちに問いかけている大切なことは、今の世界というのは、個人のことばかりに目が向かってしまいがちで、民全体、あるいは世界全体の喜びということにまであまり目が向かなくなってしまっているのだということに気づかされるわけです。
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2017 年 4 月 23 日

・説教 詩篇118篇「主の慈しみは永遠に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:03

 

2017.04.23

鴨下 直樹

 
 先週の月曜日から木曜日まで、私たちの教団の牧師研修会が行われました。今年は、数年前から2017年問題と言われていまして、今年の春に教団の4人の牧師が定年を迎えました。そのために、新しい牧師を祈り続けて、今年3名の新任の牧師たちが与えられました。この三人とも、私たちの教団で信仰の歩みをしておられた方々ではありません。そういうこともあって、今回の教役者研修会は「次世代に贈る言葉」というテーマでした。特に、これまで教団の代表役員をされた渡辺先生と小林先生が2回にわたって、これまで自分がどのように教会を牧会してきたかということについて話してくださいました。私にとっても、大変慰めに満ちた時となりました。

 特にその中で、私が考えさせられたのは、beingとdoing という話しでした。日本語にすると、「存在」と「行為」となると思いますが、神さまとの豊かな交わりによって自分を知るということなしに、何かをすることはどんどん難しくなるということです。たとえるなら、ガソリンが入っていない車が走れないようなものです。「しなければいけないこと」にとらわれて、自分がするべきことにいつも気を配っていると、自分の内面がどんどんカラカラに乾いてしまって、気が付くとするべきことができなくなってしまうのです。

 今日の詩篇は詩篇118篇です。この詩篇は宗教改革者ルターが「私の詩篇」と述べたほど大事にした詩篇です。あるいは、ある旧約聖書の学者は、この詩篇は「個人のほめたたえの歌としては完璧」と言いました。それほど、深い神との交わりを表した詩篇なのです。こういう詩篇をいつも心にとめることを通して、私たちは自分の存在が主の御前に確かなものとされて、喜んで生きることができるようになる。言ってみれば、この詩篇はそのお手本のような詩篇だということができるわけです。

 今日は、先ほど、ドイツから6名の神学生たちが来てくださって、賛美をしてくださいました。彼らも、どうしてわざわざドイツから日本にまでやって来たのかというと、神さまとの豊かな交わりに支えられて、その喜びを何とか日本の人にも伝えたいという思いから、日本に来られたのです。そのように、自分と神さまとの豊かな関係が、私たちが喜んで生きる原動力になるのです。 (続きを読む…)

2017 年 4 月 2 日

・説教 詩篇51篇「きよき心を造りたまえ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:13

 

2017.04.02

鴨下 直樹

 
 この詩篇はダビデが大きな罪を犯した後の、悔い改めの詩篇です。しかも、ここで問題とされているのは、人の妻を奪い、その夫を殺害し、それを自分の立場を利用して隠すという極めて重い罪です。しかし、このようなダビデの犯した罪は、その犯した過ちの大きさに目が留まってしまいますが、気づかなくてはならないのは、その罪の本質がどこにあるかということです。私たちは「罪」イコール「悪いことをすること」と考えてしまいがちです。この詩篇は自らの罪に対して、ダビデがどのようにそれを乗り越えようとしたのかが記されています。

 今日は、この詩篇に先立って、第二サムエル記12章を読みました。11章で、ダビデがバテ・シェバと関係を持ってしまってから、どうやってその罪を隠そうとしたのかということが記されています。そして、この12章では、そのダビデに預言者ナタンがたとえ話をしながら、ダビデの罪を指摘するということが記されていました。

 「あなたは罪を犯している」と、その人に面と向かって言うのはとてもエネルギーのいることです。だから、私たちが誰かの罪を目の当りにするときに、それを指摘するのも勇気のいることだし、誰かがきっと忠告するだろうと考えて、見なかったことにするということを選び取ってしまうことも、多くの場合、選択肢の一つに入ってしまいます。しかし、預言者ナタンはそうではありませんでした。ナタンは、神の前に罪が忘れられることはないのだと、ダビデの罪を本人に直接指摘するのです。

 ダビデからすれば、自分で反省して、預言者ナタンに助言を求めたということではなくて、うまく隠し通せたと思っているところで、神の前にその罪が明らかにされたのです。ナタンに指摘された時に、バレたという思いになったのではないかと想像します。心臓が急にドキドキしてきて、普通であればどうやって言い訳をしようかと考えるところです。ダビデがここで犯した過ちを考えてみると、ダビデは、バテ・シェバを自分の妻とするために、十戒の罪をことごとく犯しています。

第十の戒め。「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」。第八戒「盗んではならない」。第六戒、「姦淫してはならない」第五戒「殺してはならない」。

 神の御前に隠されている罪などありません。人は神を侮ることはできません。神はすべてのことを御存じです。たとえそれが、人の目には見えなくても、神はすべてを知っておられます。 (続きを読む…)

2017 年 3 月 26 日

・説教 詩篇130篇「深き淵より主を呼び求める」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:53

 

2017.03.26

鴨下 直樹

 
 受難節の第4主日を迎えました。この詩篇130篇はこの受難節に読まれる詩篇の一つで、七つの悔い改めの詩篇の一つです。ここには直接的な悔い改めの言葉はありませんが、テーマはまさに悔い改めです。

 冒頭の1節。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

とあります。「深い淵」というのは、現代人には少し意味が分かりにくい言葉だと思われます。絶望の穴とでも言ったら良いでしょうか。深くはまり込んでしまって、抜け出せそうにない深い穴に、この詩篇の著者は落ち込んでしまっているのです。

 そういう時に、安易な慰めの言葉は心に届きません。誰からも共感されるとは思えない深い絶望の穴に落ち込んでしまっている人を、簡単に、自分の経験と対比させて慰めることはできないのです。そのような、人からの慰めを拒みたくなるほどの、深い悲しみというのを、人は人生の中で何度も経験するわけではありません。けれども、そうなったときに、どうしたらよいのか。どこに本当の慰めがあるのかと、人は思い患いながら、救いを求めるのです。

 先週の月曜日と火曜日、東海聖書神学塾で教えている教師たちの研修会が行われました。そこで、二人の教師の話を聞く機会がありました。神学塾で教義学といいますけれども、神学を教えてくださっている河野勇一先生は、先日一冊の本を書かれました。『神のかたちの福音』という本です。この本は、聖書が語っている「救い」とは何かということを、非常に分かりやすく解説したものです。先日の発題でも、河野先生が冒頭でこんなことを言われました。教会で「救い」という話しをするけれども、この「救い」という言葉だけを考えてみると、実は中身のない言葉だと言われました。というのは、「救い」という言葉だけでは、その救いの内容について、まるで分らないわけです。病気で苦しんでいる人の救いは、癒されることです。人間関係で悩んでいる方からすれば、その人との関係が修復されることが救いです。経済的に困っている人は、お金の問題を解決することが救いです。一言で、救いと言っても、その内容はそれぞれ異なっているわけです。

 ですから、そういうふうに考えてみると、この詩篇が語っている「深い淵」という言葉も、それを「絶望の穴」と言い換えてみたところで、その内容については、聞く人それぞれで思い描くことは違うわけです。もちろん、この詩篇に、その「深い淵」の内容について丁寧に書かれていなければ、それが何をさしているのかは簡単には分かりません。だから、少し想像してみるわけです。 (続きを読む…)

2017 年 3 月 19 日

・説教 詩篇38篇「私を懲らしめないでください」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:50

 

2017.03.19

鴨下 直樹

 
 みなさんは「私は主に愛されている」と感じる時があるでしょうか。あるいは、その反対に、「私は主に懲らしめられている」と感じてしまうこともあるかもしれません。もちろん、私たちの生活は常にこの二つを繰り返しているわけではないでしょう。そのどちらも感じないで過ごす日常もまた多いと思います。

 けれども、「私は主に愛されている」と思うことのできる時というのは、物事がうまくいっていることが多いのは言うまでもありません。そして、懲らしめられていると感じる時というのは、物事がうまくいかなかった時や、計画していることが進まなかったり、予想外の出来事で苦しむ時なのではないかと思います。

 今日の詩篇はダビデの詩篇です。しかも七つの悔い改めの詩篇の一つです。この詩篇は、伝統的にも、このレント、受難節の時に読まれます。ここでは重たい言葉が連なっています。少し驚くのは、冒頭の表題で「記念のためのダビデの讃歌」と記されていることでしょう。私たちは「記念」というのは、何か良いことを忘れないためにすることと考えますから、この詩篇の内容を考えると、あまりいつまでも覚えておきたいような内容だとは、感じにくいのです。むしろ、「忘れないために」としたほうがしっくりするかもしれません。まして、「讃歌」と書かれていますから、一層不思議な響きがするのです。「讃歌」というのも、「神を褒めたたえる歌」とすぐに頭の中で、意味を切り替えてしまいますから、この内容が果たして「讃歌」と言えるのだろうかという疑問も出てきます。そういう意味では、この詩篇は「讃歌」というにはほど遠く、それほどに重い悲しみを歌った詩篇です。けれども、それもまた「讃歌」であるということを、私たちは心にとめる必要があるのだということです。

 さて、この詩篇の内容はとてもシンプルです。冒頭の1節と、最後の21節と22節は直接的な神への訴えの言葉です。その間に三つのテーマが記されています。第一に記されているのは、神の御怒りによって、重い病に冒されたという嘆きです。それが2節から8節までです。第二は、周りの者が自分を離れてしまい、孤独であるという訴えです。それが9節から16節です。そして最後が罪と痛みからの不安で、それが、17節から20節です。
 先日の祈祷会で、ある方がヨブ記を読んでいるかのようだと言われた方がありますが、ヨブ記のテーマにとても似ていると言っていいと思います。 (続きを読む…)

2017 年 3 月 12 日

・説教 詩篇32篇「主に罪を覆われた人の幸い」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:14

 

2017.03.12

鴨下 直樹

 
 聖書は「幸い」を語ります。この幸いというのは、神が与えてくださる祝福と言い換えることができます。神が祝福してくださる生活は、まさに私たちにとって幸いそのものです。そして、この詩篇はそのような幸いは、主の御前に罪の告白をすることによってもたらされることを語っています。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、その咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

と1節と2節にあります。

 ここに三つの単語がでてきます。「そむき」と、「罪」と、「咎」という言葉です。そむきというのは、神に対する反逆です。罪は目的からずれてしまうことです。咎というのは犯してしまった行為をさします。そういった、人の罪の性質をあらゆる角度で捕えながら、そういう人の弱い性質そのものを、神が悪いことだとみなされない人は、まさに幸せに生きることが出来る人の生活だと言い表しています。

 こういう言葉を、説明してもあまり具体的に考えにくいのではないかと思います。私は、時々、詩篇を読む時に、よく理解できる手助けとして、少し置き換えて読んでみることがあります。たとえば、この詩篇は、前半部分は神へのいのりですが、自分の子どもが、自分に向かって、謝っている状況を想像しながら読み直してみることがあります。

 自分の子どもが親に対してわがままにふるまってしまう。あるいは、親との約束をやぶってしまう。つい遊ぶことに夢中になって大事なものを壊してしまう。そういう時に、なんとなく気まずい思いでいるのだけれども、勇気をもって謝ってくる。それに対して、その子どもの過ちや、失敗をゆるして、子どもを抱きしめてやる。そうすると、子どもが、親に向かって、わたしは本当に幸せだとうったえてくる。そういう場面を少し想像してみるのです。そうすると、子どもの気持ちもある程度想像できますし、父親の気持ちも理解できます。この詩篇はそういうことが書かれている詩篇なのだというのが、祈り手と神との関係で、具体的にイメージすることができます。
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