・説教 詩篇118篇「主の慈しみは永遠に」
2017.04.23
鴨下 直樹
先週の月曜日から木曜日まで、私たちの教団の牧師研修会が行われました。今年は、数年前から2017年問題と言われていまして、今年の春に教団の4人の牧師が定年を迎えました。そのために、新しい牧師を祈り続けて、今年3名の新任の牧師たちが与えられました。この三人とも、私たちの教団で信仰の歩みをしておられた方々ではありません。そういうこともあって、今回の教役者研修会は「次世代に贈る言葉」というテーマでした。特に、これまで教団の代表役員をされた渡辺先生と小林先生が2回にわたって、これまで自分がどのように教会を牧会してきたかということについて話してくださいました。私にとっても、大変慰めに満ちた時となりました。
特にその中で、私が考えさせられたのは、beingとdoing という話しでした。日本語にすると、「存在」と「行為」となると思いますが、神さまとの豊かな交わりによって自分を知るということなしに、何かをすることはどんどん難しくなるということです。たとえるなら、ガソリンが入っていない車が走れないようなものです。「しなければいけないこと」にとらわれて、自分がするべきことにいつも気を配っていると、自分の内面がどんどんカラカラに乾いてしまって、気が付くとするべきことができなくなってしまうのです。
今日の詩篇は詩篇118篇です。この詩篇は宗教改革者ルターが「私の詩篇」と述べたほど大事にした詩篇です。あるいは、ある旧約聖書の学者は、この詩篇は「個人のほめたたえの歌としては完璧」と言いました。それほど、深い神との交わりを表した詩篇なのです。こういう詩篇をいつも心にとめることを通して、私たちは自分の存在が主の御前に確かなものとされて、喜んで生きることができるようになる。言ってみれば、この詩篇はそのお手本のような詩篇だということができるわけです。
今日は、先ほど、ドイツから6名の神学生たちが来てくださって、賛美をしてくださいました。彼らも、どうしてわざわざドイツから日本にまでやって来たのかというと、神さまとの豊かな交わりに支えられて、その喜びを何とか日本の人にも伝えたいという思いから、日本に来られたのです。そのように、自分と神さまとの豊かな関係が、私たちが喜んで生きる原動力になるのです。
それでは、少しこの詩篇を見てみたいと思うのですが、この詩篇はハレルの詩篇といわれる詩篇で、詩篇113篇から118篇までつづきます。「ハレル」というのは、「褒めたたえる」という意味です。主に対する深い感謝の思いで、主を賛美する詩篇です。そして、特に、この詩篇は、先ほども少し言いましたけれども、個人の神へのほめたたえのことばが大部分を占しめています。けれども、どうも、この詩篇はそれだけではなくて、典礼歌といいますけれども、礼拝の時に、歌われた歌のようです。たとえば、主イエスが十字架にかけられる直前、最後の晩餐をしてから、ゲツセマネまで弟子たちと歩いた時に、賛美をしたとかかれていますが、この時には、ひょっとするとこの詩篇118篇が歌われたのではないかと言われています。それくらい、人々にも愛された詩篇だったようです。
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
と1節にあります。この言葉は詩篇の中に何度も出て来るフレーズです。何度も、何度も詩篇の中に出て来るということは、このような主をほめたたえる言葉は、多くの人の心からの言葉となったということでもあります。主の慈しみが永遠にあるように。いつも、どんな時でも、主の恵が、主の慈しみが私を取り囲んでいる。だから、私は主に感謝する。こういう言葉を、それこそ、私たちの祈りの生活の中に取り入れてみることです。この一節の言葉だけでも、祈りの中で何度も何度も口にしてみる。そうすることで、この祈りが自分の祈りとなることを味わうことができます。日常のさまざまな場面で、祈ってみるのです。
朝起きて食事をするときに祈る。「主に感謝せよ。主はまことに慈しみ深い。その恵みはとこしえまで。」そうすると、今日の一日が主の慈しみに支えられて、主に感謝する一日になりますようにという祈りとなります。散歩をしている時に祈る。そうすると、散歩中にみた景色から神を思う。色々と頭の中に思い浮かんでくる家庭でのこと、いろんな感情が、散歩する中で整理されていって、神の慈しみを覚えて感謝することになるでしょう。あるいは、一日を終えて、眠りにつく前に祈ると、その一日に起こった出来事の所々に、主の慈しみがあったことに気が付くでしょう。そうして感謝の心と共に眠りにつくことができます。そうやって、この聖書の言葉とともに一日をおくるだけでも、どれほど多くの主の恵、慈しみに支えられているかが分かると思います。そうやって、私のbeing、私という存在が支えられていることを覚えていくのです。
2節、3節、4節の祈りは、そういう中から、イスラエルに主の恵みがあるように、祭司たちに祭司の恵みがあるように、主を畏れるすべての人に、主の恵みがあるようにと、その祈りがどんどん広げられていって、自分一人だけの平安のいのりだけではなくて、一緒に生きている人の平安を祈る心へと広がっていく姿をみることができます。
完璧とさえ言われた主への賛美の言葉は5節以降も繰り返されます。
苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は私に答えて広いところに置かれた。主は私の味方、私は恐れない。人は、私に何ができよう。
ここまでくると、この祈り手は深い確信を与えられています。主が私を守ってくださるから私は大丈夫、人が、私に何ができるだろうか。そう言い切ることができるほどに、主の慈しみ、恵みを味わっているのです。
10節以下でもこの祈り手は、「すべての国々が私を取り囲んだ」と言って、何度も何度も、自分が敵に取り囲まれた辛い経験を記しています。けれども、そこでも、主に助けられたと告白しています。
15節にはこうあります。
喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。
この祈り手は、このように、何度も何度も神に守られて来たことをここで告白しています。そして、心からの喜びを、感謝を表すのです。主との豊かな関係はただ、私たちが主から守られて嬉しいというだけでなく、その喜びを表すこと、感謝すること、こうして神を褒めたたえることを通して、この主との交わりは深められていくのです。
神との関係が深まると、自然と人は神に礼拝を捧げるように導かれます。この詩篇は19節以降では、そのような喜びを礼拝という形で表したことが記されています。もともとはこの詩篇は、イスラエルの人々が特別なお祭りのために神殿に礼拝を捧げに行った時の様子が書かれているものです。特に、注目をしたいのは、27節です。ここにはこう書かれています。
「主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで」。
これは、どうも、このお祭りの際に、神殿に礼拝を捧げるために、列を組んで踊りながら祭壇に近づいたと書かれているのです。
Nさんは、フォークダンスの指導員の資格を持っておられて、そのためにとてつもない数のフォークダンスを覚えるのだそうです。以前、お話してくださったのですが、そのフォークダンスにはイスラエルの曲と言われるものが沢山あるのだそうです。私たちでも、学生時代に、マイム・マイムというようなフォークダンスを踊ったことがある人が多いと思います。あれも、イスラエルの踊りだそうですが、そうやってみんなで列を組んで、踊りながら礼拝をささげたということなのです。
今の礼拝はどうしても、「厳か」というイメージになっている気がしますが、どうも聖書の時代の人たちの礼拝の仕方はもっと自由だったのかもしれません。もちろん、聖書にこう書かれているから芥見でも、Nさんに教えてもらって来週からフォークダンスを取り入れたらいいということになるかもしれませんが、今のところ、その予定はありません。けれども、主の御前で喜びをそのように表現したということは、心にとめておいてよいと思うのです。
そして、今日は、復活節です。主の復活を覚えて礼拝を捧げる時ですが、特にこの時に、22節から24節までを読むという習慣があります。ここにこう書かれています。
家を建てる者たちが捨てた石。これが礎の石となった。
これは、マルコの福音書の12章10節以下で、主イエスがこの詩篇から引用して話されたことがあります。家を建てる時に、この石は使い物にならないと捨てた石が、礎の石となった。「礎の石」というのは建物の基礎の部分に置かれる一番大事な石、その家そのものを支える石のことです。人が見向きもしないものを神はとても大事なものとして、それを土台としてくださる。これは、当時の人々にしてみれば、自分のようなあまり役にも立たない者がと考えていた人には、大きな慰めになった言葉です。そして、今、まさに、主イエスご自身もまた、その捨てられた石のように、十字架につけられて殺されてしまった。けれども、今、この主イエスはよみがえり、多くの人の人生の土台となっているということを、この詩篇は語っていたのだという言葉として、読まれるようになったのです。
主イエスが私たちの人生の土台となる。人はこんなものはいらないと捨ててしまうのかもしれない。けれども、神は人が必要ないと捨てたものであったとしても、それを土台とすることがおできになります。そのことを主イエスの十字架と復活の出来事が物語っています。この主が私たちの人生そのものを支えてくださるのです。だから、私たちはこの主と共に喜んで、どんなことでもすることができるようになるのです。
この主を知るとき、主の慈しみが私たちに注がれていることを知るとき、私たちはこの主を感謝しつつ、喜んで生きることができるのです。
お祈りをいたします。